樋上 敏一氏
2018.12.24 08:54
1939年(昭和14)の火星大接近は、最接近が7月28日(衝は7月23日)、距離5799万Km、視直径24.1秒でした。いわゆる大接近の中では、やや条件が悪いものでした。火星の赤緯も-26°あまりと、南天低いやぎ座の中にあったので、シーイングの点でも不利でした。
火星観測のベテランの前田静雄氏や渡邊(後の佐伯)恒夫氏が出征中で不在でしたが、若手を含め27名の観測者が共同観測を行い、合計342枚のスケッチを残しています。その中に、今回ご紹介する樋上敏一氏がいました。樋上氏は、1939年の時点で、京都府立京都第一中学(現、京都府立洛北高等学校)の学生でした。
スケッチ用紙は、東亜天文協会の様式に則っていますが、用紙の裏面の記入方等は京都第一中学オリジナルのものです。京都第一中学は、卒業生が三高(現京都大学)に多数進学した、1870年創立の名門校です。
樋上敏一氏が、とても優秀であったことは理解できますが、いわゆる高校生がこれだけ見事なスケッチと観測記録を残すということに私は驚きました。当時のアマチュア天文家のレベルの高さは凄いとも感じました。(11枚目の手紙は、樋上敏一氏が伊達英太郎氏に出した月面観測の報告。)
樋上敏一氏は、後日、花山天文台で多数の彗星や小惑星の位置推算を手がけられたことでも知られています。
1939年の火星観測は、火星の条件の悪さと初心者の観測者が多かったことから、1924年の大接近の時の中村要氏のすぐれた記録にはるかに及ばなかったと、伊達英太郎氏は述べています。
(資料は、東亜天文協会遊星面課[伊達英太郎氏所有]より)
参考文献:日本アマチュア天文史,日本アマチュア天文史編纂会,恒星社厚生閣,1987