パライソヘ行こうぞ
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*【#歴史】「ルイス・アルメイダ – 日本人を愛した南蛮医」
... アルメイダは、16世紀に来日したイエズス会の宣教師の一人であった。
アルメイダは、当時のポルトガル国王、ジョアン三世から外科医免許状を与えられた医師でもあった。このアルメイダは、「新キリスト教徒」とか「マラーノ」と呼ばれる、改宗したユダヤ系のポルトガル人であった。「マラーノ」とは、ユダヤ教の教義では禁忌の動物である「豚」の意である。それが、強制的に改宗させられたユダヤ人をイベリア半島で示す呼称となり、ユダヤ教を偽装棄教して表面上キリスト教徒になったユダヤ人を指す蔑称となっていた。
アルメイダは、当初商人として成功した。インドのゴアからモルッカ諸島に着いたアルメイダたち「ポルトガル商人は、現地人をだましたり、すかしたりして、労せずして莫大なグローブ丁字を獲得し、それを数十倍の高値でモルッカ諸島の商人に売りつけて」暴利をむさぼり、「日ごと夜ごと贅沢、豪遊三昧の限りを尽くし」て、「夜毎に中天に輝く南十字星を眺めては、この世の極楽島だと、有頂天になっていた」。しかし、アルメイダはいくら贅沢を尽くしても満たされることはなく、「何故か心の中は空しく、強い罪悪感のようなものがうごめいて」いたという。
◆ 巨万の富を得ても心は満たされなかった
「そんなある日、突然インドの俗僧のように黒衣をまとい、腰布も長衣もつけていないみすぼらしい人がこの島に現れ」、現地の人々の民政のために献身するようになった。それは、日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルらの一行であった。アルメイダが心にうごめく「強い罪悪感」を告白すると、ザビエルは、「あなたがほんとうに救われたいならどうしたらいいか。富んでいる者が天国に入ることはむずかしいことである。それは駱駝が針の穴を通るよりももっとむずかしいことである」と説き、アルメイダは「そのことばにおののい」た。
アルメイダは、「フランシスコに接した最初の瞬間、全身を指す『愛の矢』のような不思議なものを感」じ、日本におけるザビエルの宣教事業を引き継いだコスメ・デ・トーレス師(Cosme de Torres, 1510-1570)と、山口において運命的な出会いをとげる。貿易で巨万との富を得て世俗的成功を極めていたアルメイダは、トーレス師の感化によって全財産を放棄。その後中国・九州地方で「『愛』に相当することば Taixet(大切)」を実践し、 「Taixetni moyuru(大切に燃ゆる)」生涯を送り、故郷に一度も帰ることなく、日本の土となる。
ザビエルがモルッカ諸島に滞在したのは、1546年から1547年まであり、アルメイダの道行は、「スファラディ」と呼ばれたイベリア半島を追放されたユダヤ人たちが、まずポルトガルに逃れ、さらにポルトガルの「海の帝国」の貿易の担い手になっていたことがよくわかるだろう。
北方に逃れたスファラディたちは、比較的宗教的に寛容だったオランダに逃れ、アムステルダムに「北のエルサレム」と呼ばれるユダヤ人共同体をつくり、イベリア半島のコンベルソとの親族関係や国際商業に不可欠なスペイン・ポルトガル語の知識を駆使して、新興オランダの東インド会社の仕事にも携わるようになる。
アルメイダは、キリシタン大名として有名な大友宗麟(1530-1587)と親交を結ぶ一方、孤児院を作り、身につけた医業を生かして、当時業病として忌み嫌われた癩病(ハンセン病)患者を献身的に介護した。また外科手術を施し、パウロ・キヨゼンなど日本人の医療者を育成。当時最先端の西洋医学の成果を伝えて戦国時代の日本人を驚嘆させ、またその親しみの持てる人柄から、身分の上下を問わず日本人から敬愛された。
◆「大切に燃ゆる」生涯
1557 年、領主の了解と自らの富でハンセン病棟と一般病棟からなる病院を府内に創設。アルメイダ自ら、外科を担当して臨床的に外科医術を指導するかたわら、薬草の調査・研究を行っている。内科は主として日本人医師が担当し、漢方医学を伝授した。この病院は評判となり、遠く関東からも患者が訪れたという。当時、駐在していたアイレス・サンシェス修道士の報告によれば、病院には毎日治療を受けに来る人々のほかに、100名以上の患者を収容していた。
1558年、アルメイダの献身的な医療活動を中断させる、衝撃的な決定がなされる。ローマのイエズス会本部で行われた最高宗門会議において、「聖職者の地位にあるものは、人間の生命に直接かかわる医療施術、生死の判決にかかわる法律家の職についてはならない」という特命が下されたのである。そして、この医療従事の禁令とともに、アルメイダを始めとするイエズス会士たちは、府内病院から一切手を引き、後事を日本人医療者に託すことになる。
しかし、ここで驚くべきことが起こる。アルメイダはこの医療禁令を承知しているにもかかわらず、日本人の病者たちの治療を続けるのでる。1561年10月1日付のアルメイダ書簡には、以下のような治療記録が見られる。
「多数の病人を治療し、その中に二人の重傷者がいました。一人は頭痛がひどく数回自殺を試みた者で、十三日間で健康を回復し、あとの一人は全身癩に侵された青年でしたが、この病にきく薬を持参していなかったので簡易な薬を試みね後は見違えるほど清潔になっていましたこれらのキリシタンに対しては、薬によって癒したのではなく主が彼を癒し給うたのであると話しました」
上長への絶対服従を会則とする当時のイエズス会にあって、これはあり得べからざる逸脱行為であった。
しかし、目の前で病苦に苦しむ日本人を見て、アルメイダはそれを見捨てることはできなかった。
◆「パライソヘ行こうぞ ...」
戦国時代から今日まで続く、アルメイダに対する土地の人々の傾倒ぶりがどれほどのものであるかは、現在の大分県医師会病院が、英語名では「アルメイダ・メモリアル・ホスピタル」と呼ばれることからもわかるだろう。
1583年、島原、天草などで熱心な布教活動を行った後に天草の川内浦で逝去した。
島原の乱で幕府の強大な軍隊の投降勧告にも屈しなかった島原の百姓たちの胸には、命がけで日本人を愛したアルメイダが撒いた〈愛の記憶〉があった。
反乱軍の武士や百姓たちは、幕府に屈して奴隷として生きるよりは、「大切に燃ゆる」生涯を送ったアルメイダらがいるパライソに行くことを願った。
幕府軍は、頑強な抵抗を続けるキリシタンに手を焼き、通商関係にオランダ戦によって原城を砲撃し、鎮圧軍は、「勝ち目のない戦で命を落とすより降伏せよ」と矢文を放った。すると、「おまえたちは、れっきとした日本の武将なのに、外国人の手を借りてまでわれわれを攻撃した。それで恥ずかしくないか。武士なら自分の手で正々堂々と戦え」と幕府軍の腰抜け振りを嘲笑する返答が返って来た。
このときオランダが戦闘に加わったのには重大に意味があった。植民地争奪とヨーロッパの宗教戦争がアジアに飛び火していたのである。徳川幕府は、オランダや英国などプロテスタントの漂流民を世界情勢を読み解く顧問にし、欧州勢の策動を理解しようとしていおり、幕府は通商と布教を分離するプロテスタントにより行為を持っていた。
他方、原城に立てこもったキリシタンたちは、キリシタン大名だった小西行長などの旧家臣らを指導者にして禁教令が出され、ママコフは迫害されてマカオへ追放されることになったママコフ神父がします「25年後、16才の神童が現れ、パライゾ(天国)が実現するであろう」という遺言を堅く信じ、16才の益田四郎時貞の周囲に結集した。その数三万七千人。
江戸幕府は、原城の陥落後、キリシタン(カトリック)を根絶やしにしようとしたが、九州から岐阜、さらに東北地方にまで潜伏したキリシタンたちは、決して信仰を捨てず、「7代後に黒船がやって来て、禁教が解ける」という修道士バスチャン(おそらく「セバスティアン」の頭韻消失)の予言を心に拠り所にし、「おらしょ」と呼ばれる祈りを伝承し続け、幕末の信仰復活を迎えた。
長﨑の信徒発見のニュースは、パリ外国宣教会のプチジャン神父から横浜、さらにローマに伝わり、ヨーロッパ中を感動させた。キリシタンたちは、幕府に従い栄達するより、たとえ離島や山間僻地に住んでも信仰を守ることを選んだのである。
https://www.almeida-hospital.com/almeida-history.html 【アルメイダの歴史】より
理念・基本方針アルメイダの歴史病院の概要院長あいさつ
名称の由来
日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコザビエルが、豊後(大分)を訪れたのは1551年のことでした。
当時の府内、現在の大分市には貧しい人々や病人が多く、府内にやってきた宣教師たちは、こうした人々の救済に力をつくし、1557年にはポルトガル宣教師で、医師でもあったルイス・デ・アルメイダが府内に始めての洋式病院を建てました。
病院では、日本で最初の外科手術が盛んに行われたほか、食事療法の生活指導や巡回治療も行われ、その噂は九州はもとより遠く各地に広まり、多くの患者が訪れていたと当時の記録は伝えています。
また、病院には、日本最初の医学校も併設されていました。アルメイダは、この病院を建てる2年前に私財を投じて育児院も開設しており、2頭の雌牛を飼って貧しい子供たちに牛乳を飲ませて育てたといわれています。
アルメイダ病院は、「ルイス・デ・アルメイダ」を顕彰して名付けられたものです。
https://oratio.jp/p_column/goto-hinan 【五島の信徒は長崎へ避難した!?】より
アルメイダの布教によりキリスト教が栄えた五島
しかし、その後は厳しい弾圧が行われた
五島宣教の様子を描いた記念碑(堂崎教会堂)
江戸時代、福江城下では、ポルトガル人修道士のアルメイダと日本人修道士のロレンソが布教活動を行い、18代領主・宇久純定すみさだが受洗したことで信者が増加し、一時は福江島や久賀島などを合わせ、信者の数は2,000人に及んだ。しかし、19代純堯すみたかが亡くなり、20代純玄すみはるの代となると、叔父である玄雅はるまさ(受洗後背教)の影響でキリシタンへの強い迫害と弾圧を始めた。
この迫害を逃れるため、ジョアン五島(のちのヨハネ五島、日本二十六聖人の一人として殉教し、聖骨は堂崎教会堂に安置)の家族をはじめとする多くのキリシタンが長崎に逃れたといわれている。この時に避難した人たちによって長崎に「五島町」がつくられた。