今、バチボコに中指を立てまくって存在を粉微塵にしてやりたい案件を複数めっためたに抱えていて、その内いくつかはそろそろ賽の河原過ぎて「もう私なんか何の価値もないんでしょ」って身を滅ぼしそうになるんだけど、考えることを放棄するのは私の細胞の死を意味するからそれは絶対やりたくないので屍だろうが骨しかなかろうが本当の本当の真の真に朽ち果てねばならない瞬間までずっと足掻き続け続け続けたいのよね。そんな私に対して、本当はとるべき利があるのに、もたらされるべきものがあるのに、それ一旦置いたって「えりざさんの話を聞くほうが大事」「というかそれはもはや一番大事」と親身に支えてくれる人が居る。一人、一人、かけがえのない全く違う栄養を私に補給してくれている。夢をくれる人、希望をくれる人、やすらぎ、よろこび、共感、立身、そして愛。さらにさまざまなもの。人から人にしか渡せない生命の繋がり。血に染み渡るような何かが、この数日、ずっとある。
こんなに愛をもらっているのは私が私だからだと言う。
なのに、私は、私が私の価値を信じていないから、ずっと不安になっていた。疑いたくないと言いながら、事実はただ疑って、バグって、あわあわして、より責任を感じて、自分を追い込む。私がいる。
その姿を見て眉を下げるあなた方は、私に失望していたんじゃなかったんだね?
私、わかっていなかった……
あぐらをかきたくなかった、愛に。
だけど、高潔さは時に目を潰す。
昔、小さい頃、とても大切にしていて、あんた何でそんな本を、と家族に不思議がられた本のタイトルのように、愛されていることに気づくべき私が居た。
何歳になったって気がついて構わないんだ。
自分が何を美しいと思うのか。
自分が何を守りたいのか。
自分は誰にとっての、私でありたいのか。
はずみで七週間、時間旅行だし、
道標の枝をくわえて
きみは私の前にそっと置いたし、
地獄は変わらずどこにも存在するし、
己の未熟さや、至らなさは確かにあるし、
愛されるばかりが能でもないし、
明日他人同士になっても、
愚かさに苛まれていても、
誰しもが必死に、
己の美学を追い求めてるから、
わかる人には、わかる。
私にはあなたの優しさがわかる。
それは愛だと名付けたいし、
誰にも知られなくたって、
窓辺でずっと大切にしていたい。
この嬉しさが勇気というものになり、
繋がりが社会をつくるんだよな。
誰のことばにも惑わされずに、自分でデザインした、何かに似た私なりのオリジナルが人生だ。
やるべきこと、向き合うこと、ままならないこと、なんなら家族のでっかい病気等等、悲しい現実がいろいろ増えていく。
でも、気付いたことがあるから、
これ、「気付いて満足」「気付いて終わり」には
しない。
活かさなきゃ、もらった意味がない。
次に繋げたい。
好きだから。
そう、生きることが。
私は。