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日本国に掛かる枕詞

2024.07.17 13:22

https://ootunomiko.blog.fc2.com/blog-entry-596.html 【 日本国に掛かる枕詞(1)】 

 万葉集歌に「大和の国」という言葉は、17個見つかります。全て長歌(反歌を含む)の中です。20巻中巻13の歌に6個、巻19に3個、巻1と20に各2個、巻3,5、6、9に各1個という内訳です。ダントツで巻13の歌に多い。この17個の「大和の国」には、2個を除いた皆に枕詞が付いていました。「そらみつ」「あきつしま」「しきしまの」の3種類の枕詞です。各巻の歌番と修飾句(枕詞)、歌の作者を一覧にすると次の通りです。

(巻―歌番)  「修飾句」           (作者)

 ① 1-1    「そらみつ大和の国」      雄略天皇

 ② 1-2    「あきつしま大和の国」     舒明天皇

 ③ 3-319   「日の本の大和の国」      高橋虫麻呂  

 ④ 5-894   「そらみつ大和の国」      山上憶良

 ⑤ 6-1047  「高敷かす大和の国」      田辺福麻呂歌集

 ⑥ 9-1787  「しきしまの大和の国」      笹朝臣金村

 ⑦19-4245  「そらみつ大和の国」       大伴家持収集歌

 ⑧19-4254  「あきつしま大和の国」      大伴家持       

 ⑨19-4264  「そらみつ大和の国」       高麗朝臣福信   

 ⑩20-4465  「あきつしま大和の国」      大伴家持

 ⑪20-4466  「しきしまの大和の国」       大伴家持

(作者不詳歌)

 ⑫13-3236  「そらみつ大和の国」       不詳(男性歌)

 ⑬13-3248  「しきしまの大和の国」      不詳(女性歌)

 ⑭13-3249  「しきしまの大和の国」      不詳(女性歌)

 ⑮13-3250  「あきつしま大和の国」      不詳(女性歌)

 ⑯13-3254  「しきしまの大和の国」      人麻呂歌集の歌

 ⑰13-3326  「しきしまの大和の国」      不詳(女性歌)

 「しきしまの」は集中で7個使用例がありますが、上記で6個、残る1個の一例は、巻19の大伴家持の収集歌(19-4280)で「しきしまの人」とあります。「そらみつ」は集中で6個使用例がありますが、上記で5個、残る1個の一例は、巻1の人麻呂「近江荒都」(1-29)の左注にある「そらみつ大和を」です。また、「あきつしま」は集中で5個使用例がありますが、上記で4個、残る1個の一例は、巻13の歌(13-3333)中に「あきつしま大和を過ぎて」とあります。 つまり、これら3種の枕詞は、全て上記の巻や作者の範疇内で使用されている。と言えると思います。

  過去にインターネットから私立中学校受験用「枕詞一覧(30個)」を引用したことがあります。その時に、「神風の」「しきしまの」「そらみつ」「あきつしま」が、万葉集では6~7個しか使用されていない枕詞なのに、どうして今の時代の枕詞で重要視されるのだろうと不思議でした。今回、「大和の国」に掛かる修飾句を調べて氷解しました。我が国(日本国の旧名)に掛かる枕詞ではありませんか。日本に掛かる枕詞、明治日本で再構築された皇国日本の枕詞だったのです。戦前の学校教育で、一度大切にされた言葉でした。 「しきしまの」「そらみつ」「あきつしま」は、「大和の国」に掛かる枕詞でした。単なる地名に掛かる枕詞ではなかったのです。

 そんな国魂のこもった大切な歌言葉(枕詞)ならば、万葉集から調べて見れば新しく見えてくるものがあるかも知れません。上記一覧の長歌の作者や歌内容、作歌時代等を見て行けば、何か面白い発見ができそうです。それを次に述べて見たいと思います。


https://ootunomiko.blog.fc2.com/blog-entry-597.html 【日本国に掛かる枕詞(2)】より

 「そらみつ」「あきつしま」の2つの枕詞は記紀歌謡にも使用されていました。 「しきしまの」という枕詞も、「崇神天皇代にトヨスキイリヒメ命(みこと)が、倭(やまと)の笠縫村に「磯城(しき)の神籬(ひもろぎ)」を立てて祀った。」という日本書紀の逸話と因縁が感じられました。その当時の都も磯城だったのです。

 古事記は、712年に太安万侶が元明天皇に献上したものです。日本書紀は、720年に舎人親王が元正天皇に奏上しました。両書物は、天武天皇代(681年)に着手したとも言われていますが、具体的に進められたのは持統天皇代と見られています。記紀に記載された3つの枕詞(しきしまは類似語)は、万葉集の雄略天皇の時代と同じかそれよりも古い年代です。

 記紀の編纂時期と万葉集の編纂時期の比較ならば、間違いなく記紀編纂時期が古いのです。例えば、万葉集には記紀の引用が見られるからです。また、万葉集の「左注」の手法(「一云」「旧本云」「或云」等)は、明らかに書紀の手法を模倣しているからです。編纂時期の開始と終了の事ならば、折口信夫が100年以上の開きを強調しています。もちろん万葉集編纂が後代だと言うのです。

 しかし、私が問題としているのは編纂時期ではありません。着目するのは、記紀の成立年代(712年)以前に、万葉集歌があったかどうかという点です。言い換えれば、3つの枕詞が712年以前の万葉集歌で使用されていたかという点です。幸い、「大和の国」を使用した17個の事例には、それぞれ題詞や左注があり、作者と作歌年代がわかります。また、その歌には無くても、周囲の歌に記された年代から推量できます。その結果を下記の通り挙げて見ます。

 (巻―歌番)   (作者)     (作歌年代)

① 1-1      雄略天皇    470年頃

② 1-2      舒明天皇    630年頃

③ 3-319     高橋虫麻呂  神亀年間(724年以降)

④ 5-894     山上憶良    天平5年(733年)

⑤ 6-1047    田辺福麻呂歌集 天平16年(744年)以降

⑥ 9-1787    笹朝臣金村   天平元年(729年)

⑦19-4245    大伴家持収集歌 744年に天平5年の歌を収集したもの

⑧19-4254    大伴家持      天平勝宝3年(744年)      

⑨19-4264    高麗朝臣福信   天平勝宝4年(745年)

⑩20-4465(長歌) 大伴家持    天平勝宝8年(749年)

⑪20-4466(反歌) 大伴家持    同上

(作者不詳歌)

⑫13-3236    不詳(男性歌)

⑬13-3248    不詳(女性歌)

⑭13-3249    不詳(女性歌)

⑮13-3250    不詳(女性歌)

⑯13-3254    人麻呂歌集の歌 :701年の遣唐使送別歌とも言われる。

⑰13-3326    不詳(女性歌)

 これを見ると、作歌年代判明歌の全て(巻1の2首を除く)が、奈良時代中期以降に作られたものです。記紀成立以降に作られた歌ばかりだったのです。巻1の2首、雄略天皇と舒明天皇の歌はどうでしょうか。巻頭歌である雄略天皇の御制歌は、あまりにも古代すぎます。通釈でも後人の仮託歌と見られているので、ここでは問題外とします。次にある舒明天皇歌はどうでしょうか。万葉集の実体的な歌は、舒明天皇代からと言われています。その歌に続いて、同時代の中皇命や軍王の長歌が続きます。天皇自作を強調する解釈は見当たりませんが、万葉集歌の黎明(れいめい)期にふさわしい歌として位置づけられています。

 けれど、私には、漢詩の手法である対句「国原に煙立ち……海原はかもめ立ち立つ」のような優れた表現から見ても、万葉歌の黎明期に詠われた歌とは思えません。それにこの歌は、古事記にある「仁徳天皇の国見」が想起されます。「国内の民家から煙が立っていないのは、国が貧しいからだ」と、3年間租税や賦役を免じて、煙が立つようにさせた(国を豊かにした)という仁徳天皇の逸話です。このように類推すると、舒明天皇歌も記紀成立の後に作られた歌に思えるのです。

 そうだとすれば、万葉集の3つの枕詞は、記紀の成立後に使用されたものなのでしょうか。記紀の歌謡や逸話を踏まえて、「大和の国」に掛かる国魂のこもった枕詞として使用された……だから「万葉集の歌聖」である人麻呂も登場しない。などと、とても分かりやすい見方ができます。

 でも、巻13に6個の使用例があるのです。この何もかもが不明な歌の作歌年代が重要です。重要性は、3つの枕詞を使用しているという点にもあります。「そらみつ」「あきつしま」「しきしまの」の枕詞を全て網羅しているのは、巻13だけなのです。全て網羅している人には、大伴家持がいます。3つの枕詞を自作歌に使用してはいないけれど、収集歌を載せているからには、承知していたはずだからです。そのような家持は、万葉集の最終歌の作者でもあります。「うつせみ」と「うつそみ」で述べたような関係が、ここでも生じるのです。つまり、「そらみつ」「あきつしま」「しきしまの」の3つ枕詞を知っている万葉集編纂者と言う存在です。今は、巻13の歌の作歌年代の問題です。その点を次に考えていきます。


https://ootunomiko.blog.fc2.com/blog-entry-599.html【日本国に掛かる枕詞(3)】より

  「大和の国」という用語とその国に掛かる「そらみつ」「あきつしま」「しきしまの」の3種の枕詞について、万葉集の作者判明歌を見てきました。その結果、使用された時期は奈良時代(聖武天皇即位後)と推定されました。古事記や日本書紀が成立した後の時代です。日本書紀が官人の必読書だったとすれば、奈良時代の歌人は記紀の歌謡や逸話を知っていたはずです。ならば、先に出来た記紀の歌謡や逸話が、万葉集の歌に影響を与えたのです。つまり、従来の研究者が解釈しているように、出典根拠を記紀に求めてよいのです。私が、作者も作歌年代も不詳な巻13の歌に出典根拠求めるのは、屁理屈みたなものだと一笑されそうです。このまま巻13の歌も奈良時代の作歌ならば、私の主張は消失します。つまり、従来の解釈の通り、記紀の逸話や歌謡が万葉歌よりも先にあったのです。「そらみつ」や「あきつしま」等の枕詞は、記紀歌謡に起源があり、記紀の逸話に由来があるのです。私の無駄骨ということです。

 しかし、「大和の国」という言葉や「そらみつ」「あきつしま」「しきしまの」の3種の枕詞も、全て長歌の中で使用されたのです。短歌ではありません。山上憶良や山部赤人、笹金村、大伴家持等一流の万葉歌人が、いずれも奈良時代に長歌をもって表した言葉であり枕詞だった。長歌の第一人者である柿本人麻呂は登場しません。結びつくのは、巻13の歌なのです。何か変ではありませんか。「歌聖人麻呂」を飛ばして、「大和の国」に掛かる枕詞が奈良時代の歌人に直結してしまうのです。

 おかしいと思う点を明確にするため、万葉集研究第一人者である中西氏の説をお借りします。万葉集歌は次の4期に時代区分(全訳注)されます。

 「万葉集歌の時代区分」

 (1)初期万葉(大化の改新から壬申の乱頃まで)

 (2)白鳳万葉(壬申の乱から持統天皇の死まで)

 (3)平城万葉(文武天皇から聖武天皇即位後まで)

 (4)天平万葉(天平元年から759年まで)

     注:759年は、万葉集搭載の最後の歌を家持が作歌した年。

 この区分に当てはめると、「大和の国」という用語は、時代区分の最後に登場したことになるのです。最も大切であろう国魂のこもった枕詞と国名が、万葉集歌の時代区分では、最後になって詠われたことになります。こんなことは、万葉集を古代国家の国民歌謡と見なすならば、容認できることではありません。絶対に変ではありませんか。

 私たちが学習した「大和の国」は、奈良時代以前の飛鳥時代をイメージしています。なのに「大和の国」は奈良時代に登場し、「日本の国」を指して詠われていたとは。そんなに新しい概念なのかとびっくりです。確かに「倭国」→「大倭国」→「大和国」と変えて、「大和」としたのかも知れない元明天皇代の詔があったと言う解説を、どこかで読んだ気がします。理屈はそんなことで通るかなと思いながらも、違和感を禁じ得ません。その違和感にこだわりたい。

 繰り返し強調しますが、私は、記紀と万葉集の編纂時期を問題にして論じている訳ではありません。編纂時期ならば、開始と終期で100年も開いていると、折口信夫がすでに指摘しています。彼の場合は、記紀歌謡と逸話の古さを強調し、万葉集の歌の新しさを言わんとしたのです。私は、それと逆を言おうとしています。万葉集の歌が記紀歌謡にあるとしたら、万葉集の歌が古いのです。なぜならば、万葉集の歌は詩だからです。一定の水準に達した文字詩を、選別して編纂したのが20巻に及ぶ万葉集なのです。文字詩とウタでは違うのです。例えて言えば、古事記の允恭天皇代に「読み歌」(90番)があります。この歌は万葉集巻13にある長歌(3263番)と同一歌です。どちらが模倣した(パクった)のかと判定するならば、私は即座に「読み歌」がまねた方だと主張します。逸話も「読み歌」も、万葉集巻13の長歌が最初の元であると。古事記も認めているように、歌謡90番はウタではなく「読み歌」です。訳の分からないことをほざいていますが、このようなスタンスでこれからも論じて行きます。