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【メンバーインタビュー】no.19 逸見 俊太

2024.07.14 22:07

こんにちは!

NPO法人ボウタカの逸見俊太です。


NPO法人ボウタカでは主にシェアポール事業「みんなのポール」、出張ボウタカチャンネルでの指導に携わっています。

今回は自身の記録と思い出を簡単に振り返っていきたいと思います。



~棒高跳との出会い~

棒高跳を始めたのは高校からになります。

進学した高校にマットがあり、顧問の先生に勧められたのがきっかけでした。


陸上競技は小学生のころからやっており、駅伝や走幅跳などをしていましたが、体格は小さく特に目立った戦績はありません。

ただ体を動かすことは大好きでした。


高校からスタートした棒高跳では出る試合ほとんどがベスト記録だった記憶があります。



<高校編>

1年生(3m90)

初めての試合2m80 → シーズン最終3m90

棒高跳にどんどんのめり込んだ。


2年生(4m30)

人生で初めて近畿大会出場

予選通過記録が4m30、当時の自己記録は4m20で挑み4m30をクリアし決勝へ。

(決勝は記録なし)


3年生(4m80)

気合の入る最終学年、シーズン初めは上手くいかなかったが5月に4m50をマーク。

近畿大会では自己記録を20㎝更新して4m70で3位、インターハイの切符を手に入れた。

最初で最後のインターハイは予選落ち、3日後に記録会出場し4m80をクリア(インターハイで跳べよ・・・)、国体でリベンジと挑むが入賞できず。


<大学編>

大学1年(5m00)

環境が変化し、まわりには実力者揃いで非常にレベルが高かった。

日本ジュニアで5m00を跳び4位。(はじめての全国入賞)


2年生(5m00)

肩の故障で思うように練習ができず、棒高跳を始めて自己記録を更新できない年となった。


3年(5m10)

腰の故障で出場した試合は5回ほど、シーズン終盤で5m10を跳びインカレへの道が少し見えた。


4年(5m35)

5月に5m20をマークし6月に5m32、7月の京都選手権にて5m35(当時の京都記録)をマーク、全日本インカレでは5m30で2位。


インカレで入賞できたことはもちろん、目標としていた県記録を更新できた。

国体は入賞できずに終わってしまったが充実した学生のラストシーズンでした。


<社会人編>

1年目(5m20)

ご縁があり仕事と練習をさせてもらえる環境へ。

はじめての日本選手権は惨敗、、、


2年目(5m40)

日本選手権標切りをしなければならない状態でのシーズンスタート、何とか間に合い5m40で自己記録更新。

日本選手権は5m30で9位


3年目(5m50 PB)

珍しく初戦から調子がよく日本選手権前に5m50をクリア。

日本選手権は焦りすぎて思うようにいかず5m20で8位。


4年目(5m30)

前シーズンほどのキレがなかった、日本選手権は脚を攣って棄権。

思い切って助走をセットスタートに!

何とか5m30をクリア。


5年目(5m10)

コロナウイルスが広まり練習も試合も出来なくなってしまった。

時期変更で行われた日本選手権にて5m10をマーク。


6年目(5m20)

仕事を退職し大学院へ進学。

練習や技術についてよく考えるようになった。

シーズン終わりに疲労骨折が発覚。(1年前くらいから痛かった)


7年目(4m70)

怪我が原因でトレーニング不足。


8年目(5m00)

少し回復したが2年間充分にトレーニングできてない事を非常に感じる、、、


9年目

現在に至る。



棒高跳を初めて16年という月日が経ちますが、意外とその当時の記録や使用していたポール、思い出などは記憶しています。

それほど棒高跳が人生の一部になっているのかもしれません。


~今後について~

自己記録は社会人3年目の5m50から止まっており、日本選手権にチャレンジすることもできていません。


ただ燃え尽きたわけでもなく、「またもう一度あの舞台に立ちたい」という思いを胸に、少しずつトレーニングをしています。


また、今年から高校の教諭として働いており、陸上競技部で指導をしています。

いつか自分の記録を抜いてくれる選手や、全国・世界で活躍してくれる選手を輩出できればと思っています。