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竜の骨

2024.09.26 07:57

https://www.geobiology.jp/research/saurian-fall.html 【竜骨群集】より

死んで海底に沈んだクジラの遺骸は深海底にオアシスをつくる.

その巨大な有機物は腐敗するが,その腐肉を食べる生物たちが群がる.

それだけではない!

腐敗過程で生じた硫化水素をエネルギー源とする生物も養われるのだ.こういった鯨類遺骸の腐敗過程に形成される生物群集を「鯨骨群集」と呼ぶ.

硫化水素と言えばメタン湧水や熱水といった深海の超極限環境である.クジラの遺骸の腐敗が作る環境は,そのような極限環境と類似の環境なのだ.

それだけではない.熱水生物などの深海極限環境に生息する生物の進化史を編んでみると,実はクジラの腐敗環境への進出が深海に進出する鍵だったようなのだ.

鯨類が海洋に進出したのは約5000万年前の古第三紀始新世だ.では,それ以前はどうだったのか?実は,爬虫類の遺骸が鯨骨の代わりをしていたことがわかってきた.竜骨群集である.

巻貝からなる竜骨群集

図.北海道羽幌町の白亜系コニアシアン階から産出した首長竜化石の近傍から化学合成巻貝(腹足類)が多数産出した.青点が巻貝.図はKaim et al. (2008)を改変.

首長竜の骨に生えたバクテリアマットを摂食する巻貝(ハイカブリニナの仲間とシンカイサンショウガイの仲間).

私の大学院時代の棚部先生(東京大学名誉教授)が,白亜紀に生息していた首長竜の胃内容物の調査に北海道大学の標本を観察したとき,骨化石の周囲に多数の腹足類(巻貝のこと)化石があることを発見した.これは首長竜がこの巻貝を食べていたことを示すわけではない.仮に食べられたとすると,貝殻は胃酸などで溶けてしまうため,化石に残らない.ではいったい何か?

よくよく巻貝を観察してみると,北海道小平町や中川町の白亜紀メタン湧水堆積物から産出するハイカブリニナ科の巻貝とそっくりです.ハイカブリニナ科と言えば,現在のメタン湧水でバクテリアをパクパク食べている巻貝だ.同じグループには共生細菌を持つアルビンガイなどもいる.

我々は骨の切片などを切って顕微鏡で観察したところ,骨には直径μm,長さ100μmに達する虫食い痕が無数に残されていることを見つけた.我々はこれらの微小な虫食い痕がバクテリアによるものだと考えている.ハイカブリニナ科の巻貝は,このような首長竜の骨に生えたバクテリアマットを食べていたと推定した.これが,世界ではじめての首長竜遺骸からの化学合成群集の発見である.

ここまでの成果はKaim et al. (2008; Acta Paleontologica Polonica)にまとめてある.

竜骨群集に化学合成共生生物はいたのか?

竜骨群集の復元画(全体).骨にはバクテリアマットがたなびいている.バクテリアマットを摂食していたと考えられる巻貝と酸化還元境界を好むキヌタレガイとハナシガイが遺骸周囲の堆積物中に生息していただろう.

首長竜遺骸の周囲に形成された酸化還元境界付近に好んで生息していたと考えられるキヌタレガイとハナシガイの仲間.

上記の竜骨群集として報告したハイカブリニナ科の巻貝は,バクテリアを体内に共生していないと我々は推定した.では,シロウリガイやキヌタレガイのような化学合成細菌(イオウ酸化細菌など)を細胞内に共生させた生物はいなかったのだろうか?

その後,いくつか追加事例が出てきてハナシガイやキヌタレガイの仲間などの細胞内に化学合成細菌を共生させていたものが産出しているとの情報(3例)がもたらされた.首長竜化石をクリーニングしているときに産出したというのだ.化学合成共生生物も竜骨群集のメンバーだったのだ.

ちなみに,一連の復元画は「東大古生物学-化石からみる生命史-」(東海大学出版会)に掲載した図の最新版だ.

ひとつ疑問がある.首長竜が白亜紀末期(約6600万年前)に絶滅してから鯨類が海洋に進出(約5000万年前)するまでの約1600万年間のギャップである.この間,竜骨群集に類似の群集は存在しなかったのだろうか.よくよく考えてみれば,メタンや硫化水素が生成されればどんな生物の遺骸でも良いはずなので,基本的には脊椎動物遺骸であればすべての生物が,竜骨群集や鯨骨群集を養うことができるだろう.私がもっとも可能性が高いと睨んでいるのはウミガメである.ウミガメは白亜紀末の大量絶滅を超えて生き延びており,このギャップをつなぐ代表的な遺骸のソースだったと思う.

情報提供のお願い

竜骨群集の研究はまだまだはじまったばかりだ.首長竜に限らず,海に流れ込んだ恐竜の遺骸にも竜骨群集が成立するかもしれない.ぜひ,骨や骨の周囲についた軟体動物(軟体動物以外でも環形動物や節足動物など,不思議に思ったらご連絡ください)の化石を発見したらご一報いただきたい.ギ酸に浸けこんだり(殻が溶ける),貝をゴミだと思って削ってしまわないように注意されたし.一緒に竜骨の死後の世界を研究しましょう!


https://note.com/kamecome/n/n4f881f86d555 【鯨の下の竜の骨】


https://web-mu.jp/history/34574/ 【近江の「龍の骨」は皇室に献上され、博物館に収蔵された!? 奇妙な化石を巡る信仰と伝説の現在地/鹿角崇彦】より

文=鹿角隆彦

江戸時代の琵琶湖畔で、幻の生物・龍の骨が発掘されていた! その骨は現存し、今でも博物館で保管されているという。

皇室に献上された龍の骨があった!

 お正月にはひっぱりだこの「今年の干支」も、1か月もすると微妙に忘れられがち。あらためて確認すると2024年は辰年、今年の干支は龍だ。

 龍は十二支のなかでは唯一の実在しない幻の生き物だが、意外にも龍が出現したという伝承や目撃談は数多く残されている。なかには江戸時代の“実話怪談”かと思えるような奇妙な龍との接近事例もあるのだが(こちらの記事を参照)、そんな目撃情報とはまた別に、古くから「龍の骨」といわれるものも少なからず世間に流通していた。

 東洋では、龍の骨には不老長寿の薬効があるといわれて漢方の原料にも用いられてきたのだが、なかでもとびきりおもしろい来歴をもった「龍の骨」がある。なんとそれは明治時代に旧大名家から皇室に献上されたもので、いま現在も東京上野の国立科学博物館に保管されているというのだ。

 皇室献上の龍の骨!

 世にも稀なるその逸品は、いったいどんな経緯でこの世に現れたものなのだろう。

田んぼから掘り出された「五色の龍の骨」

 今から200年ほど前、文化元年(1804)の近江国(現在の滋賀県)伊香立村南庄(いかたちむら みなみしょう)でのこと。ここに新しい農地の開墾にはげむ市郎兵衛さんという農民がいた。

 市郎兵衛さんは牛をつかって土地を耕していたのだが、なぜか一か所だけ、そこにくると牛の足がとまってしまうという場所があった。せきたててもどうしても前に進まないということが何度も続き、仕方なく市郎兵衛さんはそこだけは自分で耕すことにした。すると、その土のなかから、見慣れない奇妙な石のようなものがごろごろと姿を現したのだ。

 石は全体的には白っぽいが黒や赤など五色を有していて、どうも巨大な骨のようにもみえる。その量はかます(わら袋)8杯分にもなり、市郎兵衛が珍しいものを掘り出したという噂は早々に広がって近隣から見物人が押し寄せるようになる。どうしたものかと方々相談した結果、市郎兵衛さんは代官所に申し出たうえで、その奇妙な石を当地のお殿様である膳所藩主本多康完(ほんだやすさだ)に献上することにしたのだ。

 お城に運ばれた石のような骨のような物体は当時の学者たちによって調査され、その結果「龍の骨である」との鑑定結果がしめされる。領内から瑞獣である龍の骨が出現するとはなんという吉兆、ということで、お殿様は発見者である市郎兵衛に米10俵とともに「龍」の苗字を授け、さらに土地の年貢を免除するというお沙汰をくだした。市郎兵衛さん、龍の骨を発掘したおかげでたいへんな幸運を手にしたのである。

 お殿様はさらに、龍にちなんでこの土地の名前を「龍谷」と改めさせるのだが、市郎兵衛は龍谷となったこの発掘現場に「伏龍祠」というちいさな社を建て、龍の祟りなどがないように丁重に祀っている。

 献上された龍の骨は翌年には城下の民にも見物が許され、その後は長く本多家の宝として秘蔵されることになった。毎年正月三が日だけ城下の民に公開するのが膳所藩の新年恒例行事になっていた、ともいう。また献上されず地元に残された一部の龍骨は、肩や歯など体の悪いところをさすると不思議とよくなる宝物として珍重されたそうだ。

 まるでおとぎ話のような話だが、これはすべて文書なども残されたれっきとした史実。龍の骨は調査の過程で絵師らによる記録画も残されていて、現在までに模写をふくめて数種類の「龍骨図」が知られている。次の絵はそんなもののうちのひとつ。これが当時の人々を驚かせた龍骨だ!

これが「龍の骨」だ!(国立公文書館デジタルアーカイブ)

 バラバラに掘り出されたの龍骨を組み上げて「復元」したものと思われるが、その姿は、頭部に2本の角、大きく開いた口部に下あごなど、牙こそみえないが肉付けしたらたしかに龍の顔ができあがりそうなビジュアル。この図には頭部の写ししかないが、現在博物館などに所蔵されている絵巻には腕骨なども描かれている。やはりこれは本物の龍の骨なのか……。

龍骨がたどった数奇な運命

 土のなかでの眠りから目覚め、本多家の宝として秘蔵されることになった龍の骨は、明治維新をむかえるとふたたび激動の運命をたどることになる。

 明治7年、最後の膳所藩主から一華族へと立場をかえた本多康穣(ほんだやすしげ)は、伝来の龍骨を皇室に献上。龍骨は帝室博物館の所蔵となり、変遷をへて国立科学博物館に保管されることになった。世にも稀な「大名家の家宝から皇室献上品に」という異色の経歴をもつ龍の骨は、こうして誕生したのだ。

 さて、となると今でも国立科学博物館で「龍の骨」が見られるはずだが、残念ながらいくら探しても、恐竜はいても「龍」の展示はでてこない。

 存在を秘匿されているのか……?

 というわけではなく、現在、その龍の骨は「ゾウの化石」として管理されているのだ。

 龍骨が献上されたのは明治7年だが、その翌年、明治8年にドイツからひとりの地質学者が日本に招聘されている。いわゆる「お雇い外国人」として東京大学の教授となった、ハインリヒ・ナウマン。ナウマンゾウの名前の由来でもある、日本近代地質学の祖となった人物だ。来日後、ナウマンは古代日本列島にゾウが生息していたことを調査研究し、その成果を論文に発表している。このとき調査につかわれた化石のひとつが、帝室博物館に保管されていた近江産の化石、つまり市郎兵衛さんが掘り出した龍骨だったのだ。

 化石に詳しい人ならば先ほどの「龍骨図」でもこれはと思ったかもしれないが、龍の下あごとされているあたりの形状は、まさにゾウの臼歯そのもの。明治以前、サメの歯の化石が天狗の爪といわれる例があったように、ゾウなど大型生物の化石は龍の骨とされることが多かったのだ。南庄の龍骨は明治7年に本多家から博物館に移されていたからこそナウマンによる調査が可能になったわけで、市郎兵衛さんの発見とお殿様の決断はめぐりめぐって日本の科学史にも大きな影響を与えたといえるかもしれない。

この部分がゾウの歯そのもの。

アジアゾウの歯を描いたスケッチとくらべてみよう(画像=ウェルカムコレクション)

江戸時代の本草図鑑に描かれた龍骨にも、ゾウの臼歯や象牙とおぼしきものが混じっている(国立国会図書館デジタルコレクション)

今も残る、龍を祀る祠「伏龍祠」

 さて、伊香立村南庄で発掘された龍の骨=ゾウ化石は国立科学博物館に収蔵されたほか、一部は市郎兵衛の子孫である龍家に遺されていて、後に地元の博物館へ寄贈されている。歴史的遺物であることは間違いない。

 では、龍が掘り出された現場である南庄の龍谷に建てられたという「伏龍祠」はどうなっているのだろう。なんと、こちらも現存しているのだ。

 近江国伊香立村南庄は現在の滋賀県大津市伊香立南庄町。琵琶湖の西部、琵琶湖大橋から西に5キロほどの場所にある。JR堅田駅から現場を目指して進んでいくと、やがて「南庄」の表示板がみえてくる。

南庄まで0.5km。

 田んぼの広がる風景をながめながらさらに進むと……

 のどかな景色のなかに姿を現すのが……

 伏龍祠だ!

 祠は台風などで倒壊し何度か建て直されているそうで、現在のものは石製となっている。この場所から出土した「龍の骨」が、半世紀以上ものちにはるばる東京まで運ばれ、科学史にも足跡を残すことになった……とその来歴を想像しながら眺めると、あらためてそのユニークな運命に興味が尽きない。

伏龍祠。付近の地下にはまだ未発掘の骨が眠っているのだろうか。

「龍の骨」出土地の「龍退治」伝説

 ところで、龍骨が出土した伊香立には、龍にまつわるおもしろい伝説がある。概要を紹介しよう。

ーー奈良時代、聖武天皇の御代に近江国の山中に一匹の龍が住んでいた。勅使がこれを退治にむかったところ、八幡神から2本の矢が与えられる。白鷺に導かれた勅使は岩の上から龍の目を射抜き、剣で龍をまっぷたつに切り裂きみごとに退治。その後龍の上半身と下半身を別々の場所に埋め、首を埋めた場所を「伊香龍」と名付けた。龍骨が出土した伊香立とは、この伊香龍(いかたつ)が変化した地名ではないかーー

 というもの。まるで神話のようなRPGのような、そして伊香立から龍骨が出土することは必然だったとでもいうかのような話だ。やはりあの骨はゾウではなく、龍だったのか?

ヤマタノオロチを退治するスサノオ。奈良時代の近江国でもこんな龍退治がおこなわれていたのか……?(国立公文書館デジタルアーカイブ)

 ……とも思いたいのだが、ひとつ注意が必要。この伝説は龍骨の調査をまとめるのにあたり平群政隆(へぐりまさたか)という人物により記されたものなのだが、平群政隆は別名を椿井政隆(つばいまさたか)という。知る人ぞ知る偽文書作者、あの「椿井文書」の椿井政隆だ。たったひとりで膨大な、それも巧妙な偽文書(それらをまとめて「椿井文書」と呼ぶ)を書き残したため近畿地方の歴史研究を混乱に陥れているというほどの椿井だが、その偽文書作成が本格化したのが、まさにこの龍骨の文書を手がけた時期なのだという。

 じつは伊香立の“伝説”では、龍を退治した勅使は椿井政隆のご先祖さまだったということになっている。龍骨出土という瑞兆にちゃっかり先祖の活躍をさしこんで創作するあたり、偽文書クリエイターの真髄が見え隠れしている、とも感じられる。

いまも残る「伊香立」の地名。龍を埋めたから伊香龍(いかたつ)だった……という話はどうも創作の気配が濃厚。

 話はそれてしまったが、伝説、信仰、科学、偽書……と、あまりに多くの虚実が輻輳する、南庄の龍骨。龍骨そのものが虚実の結節点になっているようでもあり、やはり龍の骨には人間を翻弄するふしぎな力が宿っているのかもしれない。

参考文献

『近江の竜骨―湖国に象を追ってー』松岡長一郎著、サンライズ印刷出版部

『化石風土記 わたくしたちの化石』西沢勇、岩島幾芳著、樹石社

「大衆文芸」46巻8号「伏龍骨発掘」徳永真一郎(新鷹社)

『太平洋に於ける民族文化の交流』清野謙次著、創元社

「地学研究 = Journal of geoscience」Vol.28 No.7-9 「堅田町伊香立南庄の伏竜祠再建」荻原新一(益富地学会館)

『椿井文書―日本最大級の偽文書』馬部隆弘著、中公新書