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留学生の俳句

2024.09.29 07:04

https://tourikadan.sakura.ne.jp/tetugaku/furuike1.htm 【交換留学生と芭蕉を語る】より

 1998年4月より、縁あって、半年ほど留学生を相手に「日本の哲学と文化」の講義と演習をしました。AIKOM(Abroad in Komaba)という企画です。駒場には短期交換留学生が22名いますが、その中12名が受講しました。国籍は、アメリカ、イギリス、オーストラリア、チリ、フィリッピン、 中国、韓国と実に様々です。殆どの学生は日本語が出来ませんので授業は、共通語として英語で講義をします。

学生のレポートの課題として、芭蕉の「古池や」の句を採り上げました。 芭蕉についても俳諧についても予備知識は全くない学生が殆どでしたが、とにかく率直に感想を述べて貰いましたので、それをここで紹介しましょう。(レポートの原文は英語ですが その抄訳を載せます) 

ハリ・プラボーヴァ君( 23才男子学生、カジャマダ大学出身)

古池や蛙飛び込む水の音

The old pond ah! A frog jumps in; The water's sound!

6ヶ月前に最初に日本にやってきたとき、俳句については何も知りませんでした。 いまでも良く理解できたとは思いません。ですから、文学も詩もどちらも勉強したことのない素人として、私は俳句を知的に分析するのではなく、ただ芭蕉のこの句を理解しようと自分なりに努力した、その結果を印象記として報告します。

 日本人の友人によると、俳句には独自の様式と性格があって、一つの俳句が実に多様な解釈を許容するのだそうです。 しかし、私には、芭蕉のこの句は、インスピレーションないし新しい着想を探し求めるプロセスを示しているような印象を受けました。

どんな人も-学生もサラリーマンも主婦も子供も-人生において多くの「問題」に直面しなければなりません。「問題」は、ここでは非常に広い意味にとって下さい。この世で生きることはもはや価値がないと感ずる人に生ずる「問題」もあれば、宿題をしなければならない小学生に生じる問題もあります。問題に直面すれば、人は精神を集中してそれを解決しようと務めねばなりません。

この瞬間に必要なものは、沈黙と孤独であって、それがあって初めて集中できます。 もっとも、そんなとき、緊張したり真面目であったりする必要はありません。それとは反対に、リラックスして日常の些事からしばらくの間逃れる必要があります。

最後に解答を発見したとき、私たちは、あたかも、古池の静寂と孤独のうちに佇み、蛙の飛び込む音が聞こえた詩人のように感じるでしょう。

古代の有名な科学者アルキメデスは、風呂に入ってリラックスしたときに、有名な彼の定理を発見したと言います。「分かったぞ(Eureka)!」と叫んだとき、アルキメデスには蛙の飛び込む水音が聞こえたのです。

誰しも人生で多くの問題に直面しますから、 誰にもインスピレーションが必要です。 しかし、多くの人は、インスピレーションは平和なリラックスした気分の中に訪れるということを忘れているように思います。

そこで、私が薦めたいのは、インスピレーションが必要なときあまり緊張せずに、ただ楽な気分でいなさいということ、そうすれば、ものをよく考えることができて、たぶんあなたにも蛙の飛び込む水音が聞こえてくるだろうということです。

 

P.I.A君 (24才男子学生、チリ、カトリック大学出身)

鈴木大拙のエッセイを読む前は、 私は芭蕉の俳句を単に文学作品として

-含蓄豊かな深いイメージを簡潔な言葉に盛る一種の詩として-理解していました。 俳句を読むとき、この二つの点、イメージの豊かさと表現の簡潔さが注意を惹きます。

この二つの特性の故に、俳句は日本の非常に特殊な詩型と見られていますし、さらに様式の純粋さと清澄さを付加すれば、俳句は究極の所、日本の精神を内に孕んでいるように見えます。

日本の精神は禅の精神でしょうか? 

この問いに答えるのは、今の私には難しいのですが 鈴木大拙のエッセーを読んだ後では、俳句は、芭蕉以後においては、禅の一表現であり得たと思います。

 禅の哲学に深く動かされた芭蕉は、その作品の中で禅的なメッセージ

を吐露しています。 鈴木大拙は俳句を作る正しい方法について、どのよう

なイメージと観念と直観を呼び起こさねばならないかについて実に明晰に

書いています。鈴木は俳句を読む単純かつ軽率な仕方を戒め、俳句をそれに相応しく読む手掛かりを与えています。

「伝えられる意味を読みとる訓練が出来ていない人」には、俳句のイメージは完全には分かりません。彼らは、ありふれた日常的な対象が枚挙されるだけだと感じて、それ以上の深い意味を理解する訓練が出来ていないのです。

 さて、問題は、俳句の良き読み手となるにはどうすればよいかということです。鈴木のテキストから、俳句の良き読み手となるための手掛かりが得られます。たとえば、良き読み手は、「日常的な対象の枚挙」の彼方に更に進んで集合的な無意識のうちにその深き意味を尋ねなければならないといったところです。

 「古池や」の句を最初に読んだとき、単に永遠の静寂、静けさの観念のみが私の心を占め ましたが、この句を繰り返し読むたびごとに、新しいことが分かってきました。

まず、永遠の静寂ではなく、永遠そのものの観念が私の注意を惹きます。

何時からあるのか分からなくとも、「もの」は真理と同じく、そこに堅固な具体的な姿で存在しています。蛙も水音も束の間の過ぎ去る現象で、出現するやいなや消え去り、時に、永遠なるものの安定を破るように見えても、すぐに万物は正しい秩序に復します。

時を越えて、あらゆるものがイメージとなり、直観となり、集合的無意識の一部となる「時間なき時間」の側に行く円環です。

自我が集合的無意識の一部となる瞬間です。実在を観想し俳句(そして禅)の最奥の意味を捉えることが出来ても、意識的に考えたり直観したり出来ないものを言葉で如何に表現するかという問題が残ります。

おそらく、俳句は論理的に説明されたり分析されるために書かれるものではなく、無意識のレベルで受けとめられ、消化されてはじめて、真実のメッセージを伝えることが出来るようになるでしょう。

(絵馬注:文中で言及される鈴木大拙のエッセーとは、『禅と日本文化』所収の大拙の俳句論です)

長くなるので、留学生のレポートをすべて紹介するわけにいきませんので、二つを選んで紹介しました。皆様が、これを読んでどんな感想を持たれたか、国際交流にもなりますので、お聞かせ戴ければ幸甚です。

http://www.dekirunihongo.jp/?p=627 【(俳句)「留学生の俳句ー伝える思い 初めての日本の秋―」】より

「留学生の俳句ー伝える思い 初めての日本の秋―」   森 節子

私の勤務先のイーストウエスト日本語学校で、今年も秋の俳句作りがありました。

今年の留学生達の「日本の秋」はどんな俳句になって現れるんだろう…と私自身もワクワクしながら、俳句の授業に臨みました。

「皆さん、俳句というのは何か知っていますか」と問いかけると、知っているという返事はゼロ。そこで、俳句のリズムを手拍子で感じてもらおうと、みんなで「タタタタタ・タタタタタタタ・タタタタタ」と言いながら手を叩くことから始めました。「この『タタタタタ』にひらがなを一つずつ入れて、世界でいちばん短い詩を作ります」と言うと、「えっ?詩?詩は苦手です。できません」と言っていた人も、「それだけならできるんじゃないかな」という表情に変わっていきました。

俳句作りを始めてみると、「自分の国に秋はない」と言っていた人も「秋」がわからないという反応ではなく、「日本の秋」を自分なりに頭の中に描いていたことが分かってきました。

「先生、今はすごく寒いですから、もう冬ですね。今年は夏の次にもう冬が来ましたか」

「紅葉はいつですか」

「どこへ行ったら見ることができますか」

など、次々に質問が飛んできます。質問をよく聞いていると、「日本の秋は涼しくて、紅葉が美しい」というイメースマホを持つ留学生ジが共通していました。虫の声や、ススキ、月、赤とんぼ、などの季語も紹介すると、それを初めて見聞きした人もいましたが、みんなの持っている秋のイメージが膨らんでいったように思います。

今年のA1クラスの俳句を紹介させていただきます。このクラスの学習者は全部で18名、4月に初級1課から始め、俳句を作り始めた時点では『できる日本語 初中級』終了直前というレベルです。

※学習者の出身国・地域:

中国=6名、ベトナム=5名、

スリランカ=2名、台湾=2名

モンゴル=1名、ミャンマー=1名、バングラデシュ=1名

1 秋の山 写真を撮って 笑い声

2 一人だけ 誰も来ません 秋の風

3 りょうしんが 帰ってひとり 秋の雨

4 恋人が 離れていった 秋の風

5 虫の声 よく聞こえます 山の道

6 秋の風 学校休み いいきもち

7 ひとりだけ いわし雲見て 国思う

8 あきのかぜ かぞくをおもう はなしたい

9 月を見て 母に会いたい つぶやいた

10 朝の風 町を歩いて もみじ見る

11 同じ月 あなたも見てる 向こうから

12 物思う 赤い葉っぱが ゆれている

13 朝早く 富士の初雪 ひとり見た

14 朝早く 学校へ行く 柿を見る

15 虫の声 夜のささやき なつかしい

16 まどの月 父母見てる 何してる

17 秋の月 ひとりで見てる さびしいな

18 秋のとき 景色見られる すばらしい

句会当日、句会が始まるぎりぎりまで、自分が作る俳句にどんなことばを入れたら言いたいことが伝わるのか考え抜いて、質問のときにもその気持ちを伝えようと教師に一生懸命に説明してくれました。いくつか例を挙げてみます。

「今、両親が国へ帰ってすごく寂しいです。この気持はどんな言葉にしたらいいですか」

「先生、『いろんなことをたくさんたくさん考えている』って言いたいです。短いことばでどう言ったらいいですか。5つです。タタタタタ」

「『お母さんに会いたい』は一人で言いました。友達といっしょじゃありません。どう言ったらいいですか」

さて、いよいよ句会です。クラスメイトが作った俳句を教室のホワイトボードに貼り出して、それぞれの句に番号をつけ、自分の好きな俳句の番号を書いて投票しました。蓋を開けてみると、最多数でも4票。学生たちが「いい」と思った句は大きく分かれました。

クラス代表句は4番の句になりました。この4番の俳句を選んだ人にどうしてその句を選んだのか聞いてみると、「私もベトナムの恋人と別れて、日本に来ましたから、作った人の気持ちがとてもよくわかりました」と話してくれました。他の人からも「私も……」という声があがって、ちょっと教室が静かになってから、この句を作った人に話を聞くと、「この間11月11日でした。11月11日は国では『独身の日』です。私は恋人がいません。独身の日だからこんな俳句はおもしろいと思って作りました」と言う答えが……。「ええ~~っ?!」とクラスは笑い声に包まれました。

他にも、6番の俳句では選句者が「学校が休みの日に、散歩するのは気持ちがいいです。自由にいろんなことができます」と言ったのに対して、俳句を作った人は「学校が休みで、家にいて何にもしないで寝るのはいい気持だと思って作りました」というので、また笑い声。「2番とか4番の『秋の風』と6番の『秋の風』は全然違います」など、句会でいろいろな感じ方や思いを伝えあうことができました。

今回の俳句作りを通して、来日して半年の留学生がそれぞれの思いを俳句という形で表すことができたことに大きな感動を覚えました。そして、その俳句を詠んだ思いをお互いに伝えあうことで、寂しさ、楽しさなどの思いを情景とともに共有できることの素晴らしさを感じました。担当した教師間でもその思いは共通で、学生達にも感じたことを正直に伝えました。後日、みんなで短冊に俳句を書いて記念写真を撮ったのですが、クラス全員の表情が明るく誇らしげで、とてもいい写真になりました。