物我一智
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/hpohta/fl-bashou/basho-motuga.htm 【物我一智】より
芭蕉の俳諧は「物我一致」という禅の体験からきている。物(=対象、客観)と自己がひとつであるという自覚があると、すべて(他人も物も)が自己と一体、すべてが自己の心である、との自覚が生じる。そこから自然に自分がない、誇るべき自己はない、名利をもつべき自己もない、恨むを留める自他もなし、と無の境涯に生きる。しかし、虚無ではなく、すべてが自己という新しい自己、他人とひとつという自己(=他者)の喜びにために働く。それも見返りを求めない無心で。芭蕉の境涯は禅から来ていると思われる。
物我一智
元禄七年(五十一歳)芭蕉は、弟子にあてた書簡で、「物我一智」の境涯に至ることの大切さを説いている。自分がそうでなければ、他の人にすすめるはずがなく、これを見ても芭蕉が悟りを得ていたことは疑いない。「物我一智」とは禅でいうことである。正念でいて、分別ない時、ものと自分はひとつである。人間の自己とは、主体(我)と客体(もの)がひとつであるから、これを哲学者、西田幾多郎は「絶対矛盾的自己同一」といったのである。
「物我一智」と「物我一致」のどちらでも、ほぼ同じである。体験の事実としては、「物我一致」であるが、その体験から得る真実も見る眼は智慧であり、「物我一」を知る智慧、「物我一」に生きる智慧と見れば、「物我一智」である。
「ただ小道小枝に分別動きそうろうて、世上の是非やむ時なく、自智物をくらます処、日々より月々年々の修行ならでは物我一智の場所へ至るまじくぞんじそうろう。」(元禄 7年怒誰あて書簡)
(枝葉末節のことに分別を働かせて、自我の眼を絶対正しい、として、世俗の是非善悪の念をふりまわしていると、自己の光明の知恵がくらまされる。分別を働かせている時は目がみえなくなっており、本来の自分の知恵が、くらまされている。毎日、長い間こつこつと修行しなければ、物と我が一つという境涯には至ることができないと思います。)
このように、芭蕉は、他者に向上をすすめていたが、自分でも悟道の後も、さらに「物我一智」の人間の真事実から離れないようにつとめていたであろう。それは、「禅の心で生きた芭蕉」にて、検証できる。
心が色、物と成る
芭蕉の言葉を弟子の土芳が『三冊子』に書き留めているが、その中にも、「心が物になる」という言葉がある。無分別の時、自分はないので、自分が物である。道元禅師は「身心脱落」という。「身心」は「自分」である。自分が脱落すれば、客観(もの)のみである。それが禅であるが、俳句もそうだというのである。
「常風雅にゐるものは、おもふ心の色、物と成りて句姿定まるものなれば、取物自然にして子細なし。」(土芳『三冊子』)
(常に風雅を実践していれば、心が色、物になる。そうすれば自然と句ができる。)
私意を離れよ
禅の修行においては、師匠の指導に従うことを要求される。その時特に強調されるのは、自分の我見を捨てよということである。芭蕉も俳諧の指導において、そう言った。師の意図を実に受け止めてくれる弟子は少なく、師の教えがわかったといいいふらして、師を貶める者がいる。後世の人によって、道元禅師もずいぶん浅いものにおとしめられてしまった。
「師のおもふ筋に我心をひとつになさずして、私意に師の道をよろこびて、その門を行と心得がほにして私の道を行く事あり。門人よく己を押直すべき所なり。松の事は松に習へ、竹の事は竹に習えと、師の詞のありしも私意を離れよといふ事なり。この習へといふ所をおのがままにとりて終に習はざるなり。習へといふは物に入てその微の顕(あら)れて情感じるなり、句となる所なり。」(土芳『三冊子』)
(師匠のいうことはわかったといいながら、自分勝手な分別で修行している。そんなことでは道は得られない。自我私意を捨てて本当に師匠のいうとおり、実践しなければだめだ。)
芭蕉の生き様と、その俳句に、「物我一智」がある。
https://www.cari.ne.jp/candana/2022/07/15/565/ 【「明日への提言」今、〈共感〉について考える】より
宮本 要太郎(関西大学教授)
1.共感にツカレル(疲れる)
この原稿を執筆しているのは2022年6月の初頭だが、2月24日に始まったロシアによるウクライナ侵攻は、開始から100日を経過しても終息がいっこうに見えてこない。この間、テレビでは連日現地からの報道がなされてきている。一般市民を含む多くの犠牲者が、こうして執筆している間にも次々に生み出されていることは、沈痛な思いを引き起こしてやまない。それゆえに、刻々と伝えられる現地の状況に強い関心を抱きながらも、それに触れるのが次第に苦痛に思えてくる。
かかる感覚は、東日本大震災後にかなりの期間にわたって感じたものとよく似ているが、このように、他者の苦難に対して継続的に「共感」することによって自分自身が不安や苦痛を感じることを、心理学や看護学などでは、「共感疲労(compassion fatigue)」と呼んでいる。この概念自体は、1992年にカーラ・ジョインソンが、救急医療に従事する看護師たちの間に、しばしば集中力の減退、知覚の麻痺や無力感、怒りっぽさ、自己満足の欠如などが見られることに関して名づけたもので、「二次受傷」と訳されることもある。
医療や看護をはじめ、一般に支援にかかわる仕事に携わる人々の間で他者への共感に伴ってこのような症状がしばしば見られることは実は古くから知られていて、「燃え尽き症候群」などと呼ばれることもあったが、最近では、この「共感疲労」という用語が徐々に広まっているようである。
もっとも、かかる症状は、対人支援関係の仕事を専門としている人たちだけでなく、報道番組やドキュメンタリー番組を見て強い感動を覚えたり、涙が止まらなくなったりするような、いわば共感能力の高い人々にも同じことが言える。現代ではさらに、テレビだけでなく、誰でも動画を投稿できるYouTubeやTikTokなどのSNS(ソーシャルネットワー
キングサービス)が普及して、悲惨な現地のリアルな情報が際限なくリツイート(再生産)されていくなかで、「共感疲労」はもはや常態化しつつあるのかもしれない(あるいは「共感のインフレーション」)。
2.「共感」とは
この「共感疲労」からは、逃れることはできないのだろうか。諸研究によると、過剰な共感が次第に共感者の心に負担となっていくだけでなく、共感の対象者に対して自分が何もしてあげられないという無力感が、より疲労感を促進するらしい。そのことがストレスとなってうつ状態を引き起こしたり、悲惨な状況にある人たちに共感を示さない人に対して怒りを覚えたりすることも生じてくる。
ところで、そもそも「共感」とはどのようなことを言うのだろうか。私たちが何かに「共感」しているという場合、どのような動きが心身に生じているのだろうか。あるいは「同情」という言葉もあるが、どう違うのだろうか。さらに、「憐み」や「思いやり」などの言葉もある。
私たちが誰か(何か)に「共感する」という場合、実はその内容は一様ではない。たとえば、広い意味での「共感」に類する英語の言葉として、pity、sympathy、empathy、compassionがあり、心理学ではもっぱら、それぞれ「哀れみ」、「同情」、「共感」、「思いやり」と訳されている。いずれも、他者の苦しみや不幸に接した時に生じる心の状態を指すのだが、「哀れみ」では、相手を見下すような気持ちが含まれ、自分を同じような立場において考えることは想定しない。「同情」は、相手のつらさや悲しさを(自分なりに)理解し、気に掛けることを意味するが、「共感」は、自分が同様の経験をしているかのように想像すること(感情移入)で、相手の立場に立つことをより志向している。さらに、「思いやり」は、単に相手の苦しみを自分のものとして受けとめるだけでなく、さらにそれを和らげようとすることを指す。
このように、他者の〈痛み〉に接した時に私たちの心に生じるものには幅がある。これらの違いを考慮すれば、「哀れみ」→「同情」→「共感」→「思いやり」へと、対象に対する思い入れが強まっていることが分かる。
また、「同情」の一般的な特徴として、それを生じさせる対象が限定的であるということと、自然に生じるものであるということの、二つの点が挙げられる。すなわち、私たちが誰かに同情するとき、それに「値する」(と感じられる)ものだけに対して同情するのであり、それは自分の意図と関係なく、内発的に生じてくるものなのである。「同情」にあたる英語のsympathyの語源は、sym(ともに、同時に)+ pathos(パトス=感情)であって、「同じ感情を共有すること」から来ている。このことは、相手によって同情が喚起される度合いが大きく左右されることを意味している。
それに対して「共感」は、対象が抱えている痛みや苦しみを、できるだけ正確に感じ取ろうとする意志によって生み出されるものであり、その気になれば、どのような対象に対しても向けることができる。「共感」にあたるempathy は、em(in =中に)+ pathos(感情)、すなわち文字通り「感情移入」であって、相手が置かれた状況を踏まえた上でその相手の感情や思考の「中に」入っていこうとする意図的な動きであり、したがってこちらはむしろ能力やスキルの一種である。
さらに言えば、「エンパシー(共感)」にも、大きく分けてエモーショナル(感情的)・エンパシーとコグニティヴ(認知的)・エンパシーがあることが認められている。前者は基本的に「他者と同じ感情を感じること」であり、他者の感情や考えに自然に入り込んでいく(同一化しようとする)傾向を含むので、シンパシー(同情)に近い。それに対して後者は、「意図的に自分と他者の違いを担保しながら、他者の視点を取り、自分以外の人間の考え方や感情を推し量る能力」(ブレイディみかこ『他者の靴を履く』)である。エモーショナル・エンパシーが感情に訴える「共感」であるとすれば、コグニティヴ・エンパシーは理性に訴える「共感」と言えるかもしれない。
ただし、実際には、私たちは意識的に「同情」と「共感」を使い分けてはいない。しかし、本当にそれでよいのだろうか。
3.共感にツカレル(憑かれる)
インターネット上では、SNS の広がりもあって、現地の状況を伝える無数の動画や画像があふれているが、それらの中には少なからぬ偽情報やフェイクニュースが含まれているらしい。報道機関は通常、このような情報を使用する前に十分な確認作業を行う(はずだ)が、SNS 上では、早く拡散しようとして、その作業を怠って「共有」ボタンを押してしまう人が後を絶たないという。
このような事態は、ウクライナ情勢に限らず、新型コロナウィルス感染症に関しても、散見された。たとえば、「ワクチンを打つと遺伝子に変化が生じる」「ワクチンにはマイクロチップが入っている」「ワクチンは一部の人間が仕組んだ陰謀である」など、信憑性がかなり疑わしいにも関わらず、広く発信されて共有された情報は少なくない。この、SNS における情報の真偽問題は、それはそれでとても重要だが、本稿では、別の問題に目を向けてみたい。それは、本来あるべき〈共感〉についてである。
春先からこのかた、日本の報道機関は、ロシアがウクライナに一方的に攻め込み、罪のない民間人が多数虐殺され、家を焼かれ、故郷を追われたというストーリーを繰り返し伝えている。それと合わせて、ロシア軍部隊がいかに残虐であり、ウクライナ軍兵士がいかに勇敢であるかが強調され、悲惨な状況に置かれたウクライナ市民への同情を否応なく喚起する。
他方、NATO がウクライナに武器を供与し、それによってロシア軍が苦戦を強いられていることや、国際的な制裁がロシア国内で人々の生活に悪影響を及ぼしていることなどは、淡々と(あるいは冷ややかに)伝えられる。
これらの報道に日夜接していれば、おのずとウクライナ贔屓になるのは必然であろう。もちろん、市民の犠牲が出ていることは疑いようがないし、その犠牲者に対しては、本当に気の毒に思う。日本国内でも、各地で、ウクライナ難民を受け入れる動きが見られ、そのような活動の意義は大きいと感じる。
それでも何だか同調しにくいと感じるのは、勧善懲悪的な枠組みを用いて、軍事的にも経済的にもウクライナを支援し、ロシアに制裁を課すことが、「正義」(道義的)であるかのような前提が、それらの報道に暗黙の裡に共有されているように見えるからである。たとえば、日本の首相は今回の事態について、「国際秩序の根幹を揺るがすものであって断じて容認しがたい」、さらに「(自分に都合の悪いことではすぐに拒否権を行使するロシアや中国を外した)新しい国際秩序の枠組みが必要」などと、繰り返し発言している。「正義」は常に「悪なる者」と「善なる者=被害者」を弁別しようとする。そして、前者に共感することそれ自体が「正義」にもとる行為とされていく。
確かに、戦禍にあえぐ人々のリアルな姿を見れば、そしてそれが無邪気な子どもたちのものであればなおさら、それを見る者は心を動かされ、何とかしてあげたいと思うだろう。そのような思い自体は崇高なものであり、このような心情があればこそ、人間がお互いに助け合って共存していけるのは間違いないだろう。しかし、気をつけたいことは、そのような心の動きが、与えられた情報に対する単なる受動的な反応だけにとどまっているのではないかということ、さらにそのような情報が、誰かによって意図的に操作されている可能性を常に想定しておく必要があるということである。私たちは「気の毒な」人たちの悲惨なシーンを繰り返し見せられることで、そのような「共感」(というよりはむしろ「同情」)に憑りつかれてしまいがちなのである。
そのようにして、自分の感情を自分でうまく制御できない状態が生じる。そうなると、「世間」で通用している「正義」なるものに「同調」して、許しがたいものに対する怒りが生じる。その怒りには、相手に対して「共感」する余地はすでに残されていない。あるいは守るべきものに対して無条件の同情を示す。しかし、それはそれ以外の対象に向けられることはない。同情は常に相手を選ぶが、その選択はたいてい無意識になされるのであって自分の意志でなされているわけではないことを忘れてはならない。自分が「同情」や「哀れみ」や「不正義に対する許しがたい怒り」などにツカレテ(憑かれて)いるかもしれないと気付くことが、認知的共感の出発点であり、そこから生じる感情的共感こそが、自分自身の主体的な感情であるともいえよう。
4.「共感」からコンパッションへ
そのようにして私たちは、感情を自分自身に取り戻すことができる。それは、「共感疲労」を防ぐためにも不可欠である。
ところで、そもそも困っている人や悲しんでいる人に対し、私たちはなぜ心が動かされるのだろうか。自分の接する他者がどのようなことを思っているのか、どのように感じているのかを推し量る能力(エンパシー)は、社会的存在としてのヒト(すなわち人「間」)に本能的に備わっているものであろう。しかし、ただ単に推し量るだけでは、より良い社会を形成するにいたらない。状況を改善するための行動が必要である。その起動力となるのがコンパッションである。
心理学ではもっぱら「思いやり」と訳されることが多いコンパッションだが、ジョアン・ハリファックスは、「コンパッションとは、自分であろうと他者であろうと、その悩みや苦しみを深く理解し、そこから解放されるよう役に立とうとする純粋な思いである」と論じ、また、自分自身や相手と「共にいる力」とも表現している(ジョアン・ハリファックス『Compassion』)。
近年、欧米を中心にコンパッションをめぐる議論が盛んになってきている。とりわけ2001年の同時多発テロ事件以降は、グローバリゼーションの中で改めて宗教におけるコンパッションの普遍的意味が問い直されているのである。もともとコンパッションは、「共に」を意味するcomと「苦しむこと」を意味するpassion から成る概念で「共苦」を意味する。それは他者と「共に苦しむ」ことであり、「他者の痛みを自己のものとする」ことでもある。このようなニュアンスを表現するのに、「思いやり」という訳語では不十分であることは明らかであろう。
むしろ仏教的に言えば、「衆生の困難や苦を見て、何とかしてそれを取り除かんとする強い意志を育む心の態度」であり、「慈悲」ないし「悲」という言葉で表されてきたものである。たとえば『岩波仏教辞典』では「慈悲」について、「仏がすべての衆生に対し、これを生死輪廻の苦から解脱させようとする憐愍(れんみん)の心。智慧と並んで仏教が基本とする徳目。〈慈悲〉は元来、他者に利益や安楽を与える(与楽)いつくしみを意味する〈慈〉と、他者の苦に同情し、これを抜済しようとする(抜苦)思いやりを表す〈悲〉の両語を併挙したもの」と解説する。
重要なことは、他者の苦しみに寄り添い、理解し、共感して、そこからの解放のために努力しようとする態度が、実は他者と同時に、その他者の苦しみを共有する自分自身の救いにも通じるという点である。この意味で、コンパッション(慈悲)こそがエンパシーを正しく方向づけることができるものであり、過剰な共感から生じる「共感疲労」を防ぐものでもある。むしろ「慈悲」は決して過剰となることがない(ハリファックスも、compassionfatigue という表現は不適切であると指摘している)。
「共感疲労」が生じるのは、目の前の苦しむ他者を前にして「私は何をすれば良いのか」を求め過ぎ、同時にそれに思うように応えられない自分の姿に苦しむからであろう。周りのすべての人の苦しみを解消しようとすれば、当然、おのれの無力感に苛まれ、疲弊せざるを得ない。しかしコンパッションは、共苦を通して「私はどう変われば良いか」を問いかけてくる。私たちは無限に変わることができる。その意味で共苦はむしろチャンスでもあるのだ(おそらく菩薩に近づくための)。
◆プロフィール◆
宮本 要太郎(みやもと ようたろう)
宮崎県生まれ。広島大学大学院教育学研究科を経て、筑波大学大学院哲学・思想研究科宗教学・比較思想学専攻博士課程単位取得後退学(在学中シカゴ大学神学校大学院に留学)。博士(文学・筑波大学)、文学修士(筑波大学)、教育学修士(広島大学)。
現在、関西大学文学部総合人文学科比較宗教学専修教授、支縁のまちネットワーク共同代表、関西光澍館運営協議会代表。専攻は宗教学。
著作には「日本宗教における「信心」」(『宗教と倫理』別冊第9号、2021年)、「公共宗教論から公共宗教学へ」(井上克人教授退職記念論文集刊行委員会編『井上克人教授退職記念論文集』、2020年)、「宗教的ケアの理念と現実―「臨床宗教師」の制度化へ―」(木岡伸夫編著『〈縁〉と〈出会い〉の空間へ―都市の風土学12講―』萌書房、2019年)、『闇と光―金光教の信仰から見た現代―』金光教徒社、2018年、「無縁社会における「共苦」「共悲」)のネットワークについて」『関西大学人権問題研究室紀要』第71号、2016年。ほか論文・著書多数。
https://www.cari.ne.jp/candana/2022/10/15/572/ 【「明日への提言」よく生きるための「対話」と「思考」――ロジャーズの「深い傾聴」「内臓感覚的思考」に学ぶ】より
諸富 祥彦(明治大学文学部教授)
1.はじめに
私は、「対話」に関心がある。その対話を通して、思考が深まり、人が、よりよく、より自分らしく生きることができるような「対話」に、関心を注いでいる。
そして、自分のしているカウンセリングとか、心理療法といったものが、「思考」が深まり、「自分」が深まっていくような「対話」の典型的なものであると考えている。
一言で、「対話」と言っても、さまざまな種類、さまざまなレベルのものがある。
たとえば、テレビの討論会や、学会でのシンポジウムの対話の多くは、あまり質の良くない対話の代表例である。相手の話を聴いているうちに、自分の中からただ条件反射的に思い浮かんだことを口にしているだけだ。
一方、より質の高い対話も、たしかにある。
その人と話をしているうちに、普段はぼんやりしている自分の考えが明らかになってくる。自分が何をほんとうは考えていて、何をどうしたいのか、話をしているうちに、わかってくる。なんだかその人と話をしていると、一歩前に進めた、停滞していたプロセスが一つ先に展開した、という実感がある。
それが、「ほんものの対話」である。
話そうと思ってあらかじめ準備していたことを理解してもらえた、というだけではない。その人と話をしていると、ひとりでいるときよりも、自分の思考の核心により近づくことができた、という実感がある。ほんとうにわかってもらえていると、人は、自分自身の本質により近づいていくことができるのである。
このような、その対話において、対話参加者ひとりひとりの、自分自身との対話が深まっていくような対話、より深くものを考えることができるようになり、よりよく生きていくことができるような対話、そんな対話の一つのモデルとなりうるのが、現代カウンセリングの礎を築いたカール・ロジャーズのカウンセリングである。
2.ロジャーズ「傾聴」という「対話」の本質
ロジャーズがカウンセリングの必須の条件として説いた「受容」「共感」「自己一致」という考え、その方法である「傾聴」は、カウンセリングや心理療法の枠を超えて、教育、産業、医療、福祉、介護など、さまざまな分野の中心的な方法論となっている。
ロジャーズの説いた「共感」「受容」は、一見わかりやすいがために、「人間としてのあたたかさ」のように、曖昧に理解されるにとどまっている。表現の平易さがあだとなって、かえって本質的な理解が妨げられてしまうケースがしばしばあるがロジャーズはその典型的なケースである。
ロジャーズの思想と方法の本質の一端は、そのラディカルさ(徹底性/過激さ)にある。ロジャーズは、治療者と治療される者との関係をひっくり返し、教師と生徒の関係をひっくり返し、夫婦関係や恋人関係をこれまでとはまったく異質のものに転換しようとした。さまざまな人間関係についてまわる、こりかたまった常識や通念から、人間を解放した。ロジャーズが一部の人から「永遠の非行少年」と呼ばれるゆえんである。
ロジャーズは、一人ひとりが自分の「内臓感覚=内なる実感」に即して、自由に生きることを徹底的に尊重した。社会の通念に染まり、「自動機械」のようになって、パターン化された思考を自動反復しつつ生きるのは、「人間」として生きていると言うに値しない。
そこに貫かれているのは徹底した自由である。自由であること、自分らしくあることをやめるくらいなら、狂気であることをすらロジャーズは厭わないだろう。
では何が必要なのか。
「相手の声に耳を傾ける」――これが、「すべての人がより自分らしく生きることができる世界」をつくっていくための最初の一歩である。
「相手の話を心から聴こうとする」――これが、その対話が、対話参加者の一人ひとりがより自分らしく、より深く、より自由にものを考えていける対話の第一条件である。
ロジャーズは「静かなる革命家」と言われていた。一人ひとりが、より深く、より自由に、より自分らしくものを考えていくことができる、そうした社会づくりのための「変革のツールとしての対話」を、呈示した人物である。その意味で「革命家」である。そしてその「変革のツールとしての対話」方法が、「傾聴」、相手の話を心から聴こうとする姿勢なのである。相手を論理的に説得することでも、議論で打ち負かすことでもない。データで説得することでも、ましてや巧妙なディベートの技術でもない。「傾聴すること」こそ、人を変え、社会を変えていくための最大のツールなのである。
3.ロジャーズが「発見」したもの
ロジャーズがカウンセリングの実践やそれに基づくリサーチの中で「発見」したのは、次のようなことであった。
カウンセリングの場で、悩める人のこころの声に深く耳を傾けて受け止め、傾聴していくにしたがって、人は、おのずと、周囲の期待に応えるのをやめていく。その社会の、定型的な思考を自動機械のようにおこなっていくのをやめる。自動機械のようにパターン化された思考を繰り返していた人が、立ち止まり、「ええっ。うーーん、、、、、」と、自分の内側に入り、内側の暗黙の感覚、思考の辺縁に触れ、自分の言葉で語るようになっていった。この「観察事実」をロジャーズは「発見」したのである。
ロジャーズのカウンセリングで、深く耳を傾けられていると、人はおのずと、それまでとは「違う仕方」「異なる様式」でものを考えるようになっていった。「思考の様式」「思考の仕方」が変化していった。その社会に属していると自ずと身につく定型的な思考を自動機械のように反復するのをやめていった。そうした「〈社会内的なあり方〉」(社会内的思考様式)から「離脱」していった。
同時にゆっくりと、自分の内側に深く入っていき、「からだの内側での実感」(いわば「内身体的実感」)に即して言葉を探すようになっていった。「あー、あの、、、、何って言ったら、いいか」「うーん、、、」と、「からだの内側での実感」「内臓感覚」から絞り出すように言葉を発していった。「そこに何か、大切なことがあることはわかっているけれど、まだ言葉にならない何か」、その暗黙知にふれながら、何とか言葉にしようと絞り出していった。まだ言葉にならないけれども大切なことがわかっている、という暗黙知は、「内臓覚知」として、一人一人の内側に与えられている。自分自身の言葉を取り戻す時、人はそのようにして自分の内臓感覚から言葉を発するようになる。(〈内臓感覚的思考様式〉)。
4. 相手に「なりきる」傾聴が、「思考の辺縁」にとどまるのを支える
ロジャーズの傾聴の「対話」としての特色は、①聴き手が、自分を消して、相手に「なりきる」こと、相手の「内的なフレーム」の内側から、その内的世界のエッセンスを理解すること、②それにより、話し手は「自分の内側の暗黙の側面(ジ・インプリシット)に浸りながら思考すること。暗黙の側面に浸り、それと共に、思考し続けていくことが可能になること」にある。
これはひとり、カウンセリングの場面にだけ当てはまるものではない。たとえば、私が大学の教師として大学院生の論文指導をする際にも、論文のテーマについて、学生が、真剣に考えるとき、その思考の辺縁、暗黙の側面に浸って考える。よき指導者は、その学生の内側の世界に立ち、学生になりきって、その内的思考のエッセンスを理解する。すると、学生は、自分の思考の辺縁、暗黙の側面に浸り、それと共に居続けながら、ゆっくり、じっくり考えることができる。そして、しばらくその「ジ・インプリシット」「思考の辺縁」にとどまり、あぁでもない、こうでもない、と悶々としていると、ふと「こう考えてみよう」というアイディアが浮かんでくるのである。論文作成の最大の援助法は、論文執筆者自身の内側の視点に立っての「論文執筆者自身の立場に立ち、論文執筆者自身になりきっての」傾聴である。論文執筆者自身の「ジ・インプリシット」「思考の辺縁」にともに浸り、そこから何かが出てくるのを「待つ」姿勢である。
「内臓感覚」というロジャーズの概念は、最大の後継者、ジェンドリンによってより洗練された形で引き継がれた。ロジャーズが「内臓感覚」と呼びジェンドリンが「フェルトセンス」=「ジ・インプリシット」と呼ぶこの「何か」こそ、そこで思考が立ち止まる「思考の辺縁(エッジ)」である。ジェンドリンはこのことに着目し、思考の辺縁にとどまっての、創造的な思考の訓練方法を編み出した。TAE(Thinking At the Edge)(「思考の辺縁で思考する」)と命名し定式化した。
5.「哲学対話」「探究の対話」とロジャーズの対話
「対話のやりとりの活発化」を目的とせず、対話参加者一人ひとりの「思考の深まり」を目的とする対話に、「哲学対話」「探究の対話」などと呼ばれている対話法がある。哲学を一部の学者のものとせず、市民のものにしようとする運動の中で世界的な広がりを見せている。
「哲学対話」は、対話参加者ひとりひとりの「思考を深める」ためにおこなわれる。一定の「答え」にたどり着くことが目的ではない。対話を通して「考えること」「考え続ける」こと自体が、目的である。答えがない問いについての探求にはゴールがない。「対話」のあとには、モヤモヤが残り、このモヤモヤ(違和感)があるから人は考え続ける。
セーフティ、「安全性」である。頭に浮かんできた考えを躊躇なく、言葉にして言うことができるためには、何を言ってもバカにされない、大切に聴いてもらえる、という安心感、安全感が重要である。
対話のファシリテーターにとって最も重要なのは、「待つ」姿勢である。いつも活発なやりとりがおこなわれている「対話」がよい対話ではない。「対話」の目的は、対話参加者が、より深く考え、よりよく生きることができるようになることである。
そして、より深く考える時、人は、沈黙する。完全にテーマに関心がなくなったがゆえの沈黙は無意味だが、自己内対話が深まっている時の沈黙は、たいへん大きな意味がある。深く考えるとは、自己と深く対話することであり、自己との対話は沈黙のうちにおこなわれる。「待つ」ことは、対話ファシリテーターにとってもっとも重要な姿勢である。
ロジャーズの「傾聴」の対話になじんできた私から見ると、哲学対話は、いささか拡散的である。思考が深まる場合も深まらない場合も、自由に任されている。対話としての「密度」「濃度」は何によって決まるのであろうか。
対話が「密度」「濃度」の高い対話であるために、必要なものは何であろうか。
対話参加者は、カウンセリングのクライアントのように、あるいは、修士論文作成者のように、切羽詰まったテーマを抱えているわけではない。
またロジャーズの方法のように、相手になりきって聴くわけではない。どちらかと言うと「聞き流し」が基本である。すると、話し手が、自分の内側の「暗黙の側面」「思考の辺縁」にとどまりながら考え続けることができるかどうかは、ただ、その話し手の力にゆだねられることになる。また、自由を重んじるために、対話の拡がりはどちらかと言えば、拡散的である。
哲学対話に、ロジャーズ的な傾聴の要素が加わったら、どうだろう。つまり、①全員で集中できる押し迫った問題を共有する、②話し手の話を、聞き手は聞き流すことなく、話し手になりきって、深く傾聴する、この二つの条件を付しておこなうならば、いかがだろうか。①対話参加者の一人一人は、その切羽詰まった問題について、より集中して思考し、②みずからの思考の辺縁、そのまだ言葉にならない暗黙の側面に浸り、それに触れながら考える、ということが促進されるのではないだろうか。
おわりに
昨今、「対話」がブームである。私がかかわっている教育現場でも、産業界でも、「対話」に大きな期待が寄せられている。
しかし同時に見られるのが「対話疲れ」とも言うべき現象である。
「対話のための対話」になり、「対話が自己目的化」して、「とにかく対話が大事なのだ」となって、「対話をするために、対話している」となる。その対話によって、思考が深まり、互いに相互影響しあうことで、かけがえのないつながりを見出し、そのつながりにおいて、さらに個の思考が深まっていくのが真の対話であるはずなのに、思考の深まりも、相互のつながりも実感できない。形だけ、対話を続けることになってしまう。また本来は対話によって生産的な議論がなされ、そこで見出されたことにコミットして実現することに価値があるはずなのに、いつまでも「対話のための対話」に終始することになりかねない。
コロナ禍における自粛警察に典型的に示されるように現代社会は、「きちんとする」こと、「ちゃんとする」ことが強く求められる社会である(千葉2022)。それは「秩序化」「単純化」に向かう文化であり、秩序から外れるもの、だらしないもの、逸脱を取り締まって、ルール通りにきれいに社会が動くことをよしとする文化である。「きちんとするのは当然だ」という無言の圧力のもと、「ほんとうにそうか」と、深くものを考えることを排除する文化であると言ってもいいだろう。
こうした社会的風潮の中で、ひとりで「ものを考え続ける」のは困難である。
対話参加者の一人ひとりが、より深く考え、よりよく生きることを刺激しあえる「ほんものの対話」が求められている。その「対話の質」の向上のために、ロジャーズの「傾聴」は大きな示唆と具体的な方法論的手掛かりを与えてくれる。
参考文献
千葉雅也 2022『現代思想入門』講談社現代新書
諸富祥彦 2021『カール・ロジャーズ カウンセリングの原点』角川選書
土屋陽介 2019『僕らの世界を作りかえる哲学の授業』青春新書インテリジェンス
◆プロフィール◆
諸富 祥彦(もろとみ よしひこ)
福岡県生まれ。1986年筑波大学人間学類、1992年同大学院博士課程修了。英国イースト・アングリア大学、米国トランスパーソナル心理学研究所客員研究員、千葉大学教育学部講師、助教授(11年)を経て、現在、明治大学文学部教授。教育学博士。臨床心理士。公認心理師。
日本トランスパーソナル学会会長、日本カウンセリング学会認定カウンセラー会理事、日本生徒指導学会理事。
著作としては、『知の教科書 フランクル』(講談社選書メチエ)、『魂のミッション―あなたが生まれてきた意味』(こう書房)、『哲学的探究における自己変容の八段階―「主体的経験の現象学」による“エゴイズム”とその克服過程に関する考察』(コスモライブラリー)、『カール・ロジャーズカウンセリングの原点』(角川選書)、『いい教師の条件』(SB新書)ほか多数。
また、「あさイチ」(NHK)、「中居正広のミになる図書館」(テレビ朝日)、「解決!ナイナイアンサー」(日テレ)、「私の何がイケないの?」(TBS)、「ザ!世界仰天ニュース」(日テレ)など、テレビ、ラジオにも多数出演。一般の方も参加できる「気づきと学びの心理学研究会〈アウエアネス〉」を主宰し、体験的な心理学の学びの場(ワークショップ)を提供している。(ホームページ:https://morotomi.net/)
https://plaza.rakuten.co.jp/asihrupa/diary/202312080000/ 【読レポ第1148号 カール・ロジャーズ 「内臓感覚」で思考する/「内臓感覚」で生きる】より
カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦 発行:㈱KADOKWA
第1章 ロジャーズを理解するための5つのキーワード
「内臓感覚」で思考する/「内臓感覚」で生きる
ロジャーズのカウンセリングで深く耳を傾けていると、人はおのずと、他者の期待に応えるのをやめ、その社会に属していると自然と身につくティピカル(定型的)な思考を自動機械のように反複するのやめていく。すなわち、そうした「〈社会内的な在り方〉」から「離脱」していく(〈社会内的定型的存在様式〉からの離脱)。これはもちろん、定型的な思考パターンでしかものを考えられなっくている自分からの離脱である。
すると、同時に人ははゆっくりと、自分の内側に深く入っていく。「内側の、言葉にならない、大切な何か」に即して言葉を探すようになっていく。「あー、あの……なんて言ったらいいか……」「うーん……」と、そこから絞り出すように言葉を発していく。「そこに何か、大切なことがあることはわかっているけど、まだ言葉にならない何か」、その「何か」、言葉にならない暗黙知に触れながら、それを何のか言葉にしようと絞り出していく。この暗黙知は、「内臓感覚知」として、一人一人の内側に与えられる。自分自身の言葉を取り戻す時、人はそのようにして自分の内臓感覚から言葉を発するようになるのだ。
このことをロジャーズは、「五感と内臓感覚での体験(sensory and visceral experiences)」という独特の言葉で表現した。この「内臓感覚」という言葉は、現代人が新たなよりどころを探すキーワードの一つになりうると私は思う。
ロジャーズのカウンセリングにおいて、人が、より自分らしい自分を模索して生きる時、〈社会内の定型的な思考パターン〉に従ってものを考えるのをやめる。その代わりに、みずからの「内臓感覚」に従ってものを考え、判断して、生きるようになるのである(〈内臓感覚的存在様式〉)。みずからの「内臓感覚」に照らし合わせて言葉を選び、ものを考え、これからどうするかを選び取っていくようになるのである。それは、そのほうが、はるかにより懸命に生きることができるようになるからである。つまり「内臓感覚」は貴重な情報をもたらす「知の源泉」の一つである。それは一つの「身体知」であるが、ロジャーズの含意を尊重して、「内臓感覚知」とでも呼ぶのがいいだろう。
「内臓感覚知」は豊かであり、また確固としていて、定かである。私たちが今のままでは何か違いと思う時、あるいは、人生の大事な岐路において何か謝った選択をしそうになっている時、それは、確かな「内臓感覚的違和感」をもって軌道修正を迫ってくる(「なんか、違う感じ……」)。その時点では、それが何であるのか、どのような理由でそうしてはならないかわからないいのだが、たしかに重要なことであるということはあるということはよくわかり(暗黙の知implicitlyknowing)、しばらく時間が経った後ではじめて、それが何であったのかわかるのだ。
このように多くの場合、内臓感覚で生きていくことは、人がより深く、賢明に生きることを可能にする。「内臓感覚知」は、論理的思考だけよりもはるかに精緻で、的確な判断を可能にする。
内臓感覚で考える、というのは、知性や理性、言葉を捨てて、「野生に帰れ」「自然に帰れ」といったルソー的な命題とは異なる。「考えるな。感じろ」といった反知性的な生き方のことでももちろんない。ロジャーズの言う「十分に機能する人間」がそうであるように、内臓感覚を大切な思考の手がかりとして生きる人は、それまでに獲得した多様な経験や知識など、ありとあらゆるデータをフルに活用してより賢明にものごとを判断していくようになるのである。
ロジャーズのカウンセリングに共通する変化の方向は、一言で言えば〈社会内的定型的存在様式〉→〈内臓感覚的存在様式〉と定式化しうるものである。
多くの人は、今〈社会内的定型的存在様式〉でがんじれめになっている。その社会で堤とされた定型的な思考パターンの外に出ることができず、その内側でぐるぐると反複し続けている。そんな不自由さを抱え、自分でもどうしていいのかわからず、苦しみ、もがいている。頭だけでの思考は、どれほど自分で考えたつもりでいても、いつの間にか自然とその社会の定型的な思考パターンに搦め捕られてしまうからだ。
内臓感覚は、「定型的思考パターンをずらし、その外に出る」ことを可能にしてくれる。カウンセリングにおいて無条件に受容されていると、人は次第にとらわれが緩んでいき、内臓感覚にアクセスし始める。「社会内的定型的存在様式から離脱」と「内臓感覚知へのダイレクト・アクセス」、それによる「内臓感覚定型的存在様式へ転換」―それは、ひとりロジャーズのみならず、多くの心理療法において共有されているものである。
「内臓感覚」というロジャーズの概念は後継者の一人、ジェンドリンによって「フェルトセンス(felt sense)」概念としてより洗練された形で引き継がれていく。「内臓感覚知」は、「ジ・インプリシット(the implicit:暗黙なるもの)」による思考として精緻化されていく。人がみずから内側で直接アクセスすることができる、暗黙の知恵を含んだ曖昧な身体的実感、「フェルトセンス」=「ジ・インプリシット」は形式的な概念や論理的思考と相互作用することによって、特定の社会や文化における概知の「パターンを超えた思考(thinking beyond pattern)」を可能にしていく。
ジェンドリンはさまざまな学問、芸術、スポーツなどにおいて領域横断的に、何事か、すでに存在した定型的なパターンを超えるクリエイティブな何かが生み出される時には必ず、ロジャーズが「内臓感覚」と呼びジェンドリンが「フェルトセンス」=「ジ・インプリシット」と呼ぶこの身体知が活用されことに着目した。ロジャーズが「内臓感覚」と呼びジェンドリンが「フェルトセンス」=「ジ・インプリシット」と呼ぶこと「何か」こそ、私たちの用いるあらゆる概念や論理的思考が立ち行かなくなり、そこで立ち止まる「思考の辺縁(エッジ)」である。それに着目した創造的な思考の訓練方法はTAH(Thinking At the Edge:思考の辺縁=エッジで思考する、まだ言葉にならない暗黙知での思考)と命名され定式科されている。
と著者は述べています。
確かに、 ロジャーズの言っているように深く耳を傾けていると、人はおのずと、他者の期待に応えるのをやめて、自ら徐々に「内臓感覚」で思考していく。つまり、自分の内側にある感じたことでの思考をする。
まさしく私、昨日その現場に立ち会った。始めに言ったことが、深く耳を傾けていくうちに徐々に本人の内側におのずとアクセスしていき、変わっていった。
ここで言っているように、一言で言えば〈社会内的定型的存在様式〉→〈内臓感覚的存在様式〉と変わっていたのです。
社会内的定型的存在様式とは、社会に属していると自然と身についた定型的な思考の自動機械のように反複思考です。既成概念に囚われた思い込みがある思考だと思います。
内臓感覚的存在様式とは、みずから内側で直接アクセスすることで、暗黙の知恵を含んだ曖昧な身体的実感思考である。自分の感じた、感じることでの既成概念に囚われないで自分の感じた事を信じての思考だと思います。
人は、深く耳を傾けていくと、自分の内側に意識がフォーカスしていき、徐々にですが、自分らしい生き方になっていくのです。