ZIPANG-9 TOKIO 2020人道の港 敦賀ムゼウム 企画展【緒方貞子展】を開催!緒方貞子の生き方・言葉を通して考える、現在そして未来
令和6年1月1日午後4時10分頃発生した、能登半島地震で被害を受けた皆さに、
心よりお見舞い申し上げます。(編集局)
人道の港 敦賀ムゼウム
<ムゼウムとはポーランド語で「資料館」という意味があります>
緒方貞子の生き方・言葉を通して考える
現在そして未来
ⒸUNHCR/Susan Hopper
ⒸUNHCR/Anneliese Hollmann
緒方貞子 プロフィール
1927年東京生まれ。聖心女子大学、ジョージタウン大学卒、カリフォルニア州立大学バークレー校大学院博士課程修了。日本人女性初の国連公使、特命全権公使。上智大学教授を経て、国連人権委員会日本政府代表、1991年第8代国連難民高等弁務官就任。2003年国際協力機構(JICA)理事長就任。2019年10月没(享年92歳)
日本人初の国連難民高等弁務官として約10年間難民援助活動を通して人道支援の最前線で人の命を護ることに尽力し、その後、国際協力機構(JICA※)理事長として復興支援や開発協力の現場で数多くの難しい局面を乗り越え、リーダーとして国際社会から評価されるとともに日本の国際協力分野を牽引された緒方貞子さん。
緒方さんは、何より人の命、人間らしさを大切にし、人びとが理解し合って共に生きることの重要性を国際社会に訴え続けました。
本企画展では、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)、国際協力機構(JICA)及び聖心女子大学グローバル共生研究所の協力のもと、パネルや映像により緒方さんの生き方や、現代を生きる私たちの指針となるような数々の言葉を紹介するだけでなく、今も世界各地で起こっている紛争や迫害に伴う難民問題等についても取り上げます。
展示を通して、来場された方々に当館のコンセプトとしている「命の大切さと平和の尊さ」について再認識していただくとともに、今、私たちにできることは何かについて考えていただくきっかけとなるような展示としています。
緒方貞子氏にとって無垢な子供たちとの交流こそ生涯忘れ得ぬ宝であったのでは・・・合掌
※JICAについて
独立行政法人国際協力機構(JICA/ジャイカ(注))は、日本の政府開発援助(ODA)を一元的に行う実施機関として、開発途上国への国際協力を行っています。
※JICA/ジャイカはJapan International Cooperation Agencyの略称です。
敦賀市「人道の港 敦賀ムゼウム」 建築の色彩や様式は国際平和の象徴の一つだと想う…
赤十字ゆかりの地紹介
~福井県敦賀市「人道の港 敦賀ムゼウム」~
明治から昭和初期にかけて、ヨーロッパ各都市と日本を結ぶ国際港としての役割を担った
敦賀港。
1920年7月、この港にロシア革命の動乱などによりシベリアで家族を失ったポーランドの子どもたちが上陸し、日本赤十字社が受け入れました。
外務省の要請を受けた日本赤十字社は、1920年に東京で375人、1922年に大阪で390人の子どもたちを支援し、無事、全員をポーランドに帰還させることができました。
「人道の港 敦賀ムゼウム」は、このとき支援したいわゆる「ポーランド孤児」や第二次大戦の際に杉原千畝氏の発行した「命のビザ」を携えたユダヤ人難民を受け入れた史実を伝えるために開館した資料館で、館内では孤児や難民を敦賀の町の人々が温かく迎え入れた様子が紹介されています。
会期
2024年7月20日(土)~2024年10月1日(火)
開催時間
午前9時から午後5時まで
※最終入館は30分前まで
会場
人道の港 敦賀ムゼウム 企画展示室
〒914-0072 福井県敦賀市金ケ崎町23-1
電話:0770-37-1035
主催
人道の港 敦賀ムゼウム
特別協力
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)
国際協力機構(JICA)
聖心女子大学グローバル共生研究所
◎企画展のほかにも限定企画があります!
夏休み限定‼
北陸新幹線と敦賀の風景で記念撮影!
期間:7/20(土)~ 8/31(土)
北陸新幹線や美しい敦賀の風景を背景に記念撮影ができます!
撮った動画や画像は、スマートフォンに保存することができ、家族や友人と楽しめます。
絵本で世界を学ぼう!
会場:TSURUGA BOOKS & COMMONS ちえなみき
世界には色んな人が生きている。ひろい世界に目を向けてみよう!
世界の地図や国旗、言葉や暮らしの絵本を集めたコーナーを書店内に設置します。
敦賀市街(冬) やがて春が・・・
本州の日本海側沿岸のほぼ中央に位置する福井県敦賀市は、天然の良港・敦賀港を擁し、古くから大陸との交流拠点として栄えてきました。
敦賀市と国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)との関係について
1950年に設立された国連の難民支援機関として、紛争や迫害で故郷を追われた人々の命を守り、人権を擁護するとともに生活の再建を支援、無国籍の根絶にも取り組んでいる国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)。敦賀市は、2022年11月にUNHCRと自治体との連携強化を目指すグローバルキャンペーン「難民を支える自治体ネットワーク」に、日本で8番目の自治体として署名しています。
令和2年に移転新築したムゼウム
人道の港 敦賀ムゼウムについて
明治から昭和初期にかけて、ヨーロッパとの交通の拠点となった敦賀港は、1920年代にポーランド孤児、1940年代に「命のビザ」を携えたユダヤ難民が上陸した日本で唯一の港です。
当時の建物を復元した資料館「人道の港 敦賀ムゼウム」では、シアターを備え、展示資料とアニメーション、映像を組み合わせて、敦賀港のあゆみとともに、孤児と難民が上陸した歴史的背景や、彼らに手を差しのべた人々、市民の証言やエピソードを含め、敦賀港で起こった史実をわかりやすく紹介し、「命の大切さ」と「平和の尊さ」を発信しています。
沿革
2008(平成20)年3月 金ヶ崎緑地休憩所に初代・人道の港敦賀ムゼウム開館
2008(平成20)年7月 岐阜県八百津町との相互交流協定締結
2015(平成27)年10月 ユダヤ難民等の写真を収めた「大迫アルバム」が敦賀市に寄贈される
2017(平成29)年5月 金ヶ崎周辺整備計画策定委員会にてムゼウムの移転拡充の検討始まる
2018(平成30)年6月 金ヶ崎周辺施設整備基本計画策定、ムゼウムの移転拡充案が示される
2019(平成31)年3月 新たなムゼウムの建設が始まる
2019(令和元)年11月 ポーランド孤児の日記など関連資料200点以上が敦賀市に寄贈される
2020(令和2)年8月 移転のため初代ムゼウム閉館
2020(令和2)年11月 人道の港敦賀ムゼウムリニューアルオープン
昭和の記憶
敦賀に滞在していたのは、昭和の何年頃だったか⁇まだ高速道路は影も形もなかった…当時蒲生郡西老蘇を発ち長浜を経由して敦賀に行くためには大渋滞の難所があった。
そこは琵琶湖の眺めも良く、どの車もついつい見惚れゆっくりゆっくりと走ってしまう、ましてや観光バスが駐車しようものならさらに渋滞はひどくなった。
(賤ケ岳から眺める琵琶湖の景色こそ今も名高い琵琶湖八景※の一つであった。)
そこを無事抜ければ敦賀はもう目と鼻の先にあったのだが…(冬の湖北は雪が深かった)
朧げな記憶であるが当時、敦賀は北陸の他県や市・町・村と比較すると、冬あまり雪が積もった記憶はないが⁉、底冷えするのか雪が降った翌日の道路は滋賀県の水口・甲賀から信楽へ抜ける坂道や長野県松本駅前を通る県道23号線のように常にアイスバーン状態だった。
馴れとは恐ろしいもので、何時しか知人たちからチェーン取付けの名人?(迷人)と祭り上げられた小生は、生来の調子の良さも手伝って、いい気になりホットコーヒー一杯でお役を引き受けたものだった。
ところが、若気の至りとはこのことか⁉一日に10杯も飲んだ日には流石に眠れなかった…
名実ともに苦い想い出でだ、欲を掻くとろくなことにならないことを敦賀で習った😞
※「琵琶湖八景」とは
「暁霧」海津大崎の岩礁
「涼風」雄松崎の白汀
「煙雨」比叡の樹林
「夕陽」瀬田石山の清流
「新雪」賤ヶ岳の大観
「深緑」竹生島の沈影
「月明」彦根の古城
「春色」安土八幡の水郷
続く・・・
鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(敬称略)
紅山子(こうざんし)
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アーカイブ リンク記事をご覧ください。
〜本物の未来は日本の田舎にある〜
中津川市内は伝統的な環境がとても豊かにある
消滅可能性自治体744市町村一挙公開の無責任への提案
消滅が始まった日本の心を、伝統のデザイン・色彩が救う
世界平和と人類の幸せな近未来の手本は日本にあると言う
日本の「新たな心の文明」は、限界集落、消滅可能性自治体にこそ希望の光がある。小さな村から、全国の故郷を展開している地域、自治体の活躍実績展開を、身近なところから再見したい。
年一に行く、限界集落と自負し努力する小川村お焼きの里は、限界集落を卒業したようだ。全国の無数の消滅可能性自治体が取り組みたいことは、存在するそれぞれの特徴を活かすこと、少子高齢化のことも近隣地域との機能的その他の連携で、一つの圏域として考える対策を。自治体と住民が融ずうむげに向こう三軒両隣の共有意識で、機能的に分担する他との共同が、互いに生きる方法である。
日本の消滅可能性自治体の本質を知ろう
先日消滅可能性自治体が一挙公開されたが、責任は政府だけではなく国民の政治へ無関心と無知を解消することにある。
今政府の叫ぶ憲法改正さえ、最も根本的な米国の間接支配の縛りから議論せず、経済の発展の表層での再軍備の増強を目的にするのでは、憲法改悪を次世代に残すことになる。
この平和ボケの日本の未来が、人類の在り方として評価されるのには忸怩たるものがある。
日本は捨てたものでもない、と思う嬉しくなる活動に出会う
少子化は事実大都市にあっても日々空き家空き地化が、かなりのスピードで進んでいる。
戦後のゼロから発展の復興とは異なり、ゼロへ向かう重大な転換期であることは間違いない。
近未来がどう変貌するかに具体的な政策もない政府も、都市計画、建築、その他インフラのあり方も議論されないまま、大プロジェクトも個々のものごとも、ビジネスも仕事も、従来の延長の惰性で進められている。
だが未来像を描けず国や知識人の他人事のような鈍い反応を尻目に、変貌する現状に危機感を察知し、冷静に穏やかに独自の判断で未来予測に対応している意識ある人達、自治体の良い事例はすでに全国に数多くある。これこそが廃れゆく物質文明の経済・産業技術の日本の現状を救う「心の文明」なのである。
現在日本人は大きな伝統的屋敷などが取り壊され、マンションや、小割にされ住宅が建つ、あるいはコンビニなどに、人の暮らす環境や風景の変貌に無意識に慣れつつ生きている。
これも自然な変化として見過ごしていくしかないと、目先の経済活動に流され、他の意識の高い自治体やグループのようすを見て、なんとかなると楽観的に日々を送っている。
こんな状況の中で全国どこにでもそれぞれの問題に取り組んでいる少数の人たちが存在することはとても心強く思う。
日本の恩人二人の西欧人から学ぶ
このような日本の現実に、泰然自若として物事を考える参考となる人物、二人の西欧人から学ぶ。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-8 TOKIO 2020 人が微笑む 「心の文明」 2−6 〜本物の未来は日本の田舎にある〜 【寄稿文】一舟・光秀
https://tokyo2020-8.themedia.jp/posts/53429212
追憶~昭和の時代へ~
本川(当時は太田川)と元安川の分岐点に冷たい川を見下ろすように建つ原爆ドーム
私こと色紐子の小5~6年生時代に通った本川小学校は、この原爆ドームの側を流れる本川(当時は太田川)の川向うに対面するように建っていた。(勿論、原爆投下の中心地だった。) ここで学んだ諸先輩たちの消息は誰も知らない。 合掌。
昭和生まれは、パンデミックを超えるための試練の時代だった。
私ども昭和の戦中生まれの世代から見ると、明治生まれの先輩たちに対しては、失礼ながら遥か昔の人種という距離感があった。
ある種の頑迷さと封建制度の名残を確りと受け継ぎ気軽な話が通じない方々。それは、尊崇感と同時に、離れ座敷に住まう方々と捉えていた感がある。
同様に…平成生まれの若い方々から見れば、昭和生まれの人種を見るとき、同様な感覚を以て位置づけているのだろうか?
とはいえ、昭和生まれの最後は1989年12月31日生まれであるけれど、翌日1990年1月1日 (平成元年に入って一番に生まれた人)とは一日遅れの違いだけだから、十把一絡げにはいかない。ある時代を語るとき、大抵は、その時代の大雑把な共通認識によって会話が成立しているようだ。
単純に時代の比較は難しい。例えば明治年間とは
天皇の在位期間で決まるので、その長短によって、印象は大いに異なる筈である。期間が長いほど、大きな出来事の遭遇率は高くなる。
因みに、明治時代は明治天皇の即位式から退位までの期間 (1867年2 月13日〜1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日)となり、在位期間は45年間に及んだ。
特徴は当に武家社会と決別しての開国と西洋崇拝であり、建築や風俗に見る和魂洋才の時代であった。