「聖徒として召される」
コリント人への手紙 第一 1章1-9節
1. 神のみこころによりキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、
2. コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。
3. 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。4. 私は、キリスト・イエスにあってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも私の神に感謝しています。
5. あなたがたはすべての点で、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされました。
6. キリストについての証しが、あなたがたの中で確かなものとなったからです。
7. その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けることがなく、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望むようになっています。
8. 主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。
9. 神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。
礼拝メッセージ
使徒信条シリーズ⑭
2024年7月21日
コリント人への手紙 第一 1章1-9節
「聖徒として召される」
北陸はまだ梅雨明けしていないようですが、連日の厳しい蒸し暑さですね。長い夏休みに入った子どもたちもいます。神様に守られ支えられながら、今年の猛暑も皆で無事に過ごせますように。互いに祈り合いながら、歩んで行きましょう。
礼拝では「使徒信条」の一つひとつの信仰告白から教えられていますが、今朝は、教会についてです。「きよい(聖なる)公同の教会を信じます」。私たちは、この言葉をどのような思いで告白しているでしょうか?
教会は建物でも組織でもありません。私たち一人ひとり、神様によって呼び集められた私たち=この群れが教会です。Ⅰコリント1章2節のみことばは、手紙の宛先である「コリントにある神の教会へ。すなわち、」と始まり、間に説明の言葉があって、教会とはすなわち、「キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ」とつながります。教会とはすなわち聖徒たちのことなんだ。イエス様によって召し出された者たちのことなのです。私たち一人ひとりが福井中央キリスト教会なのです。
教会=私たちは「聖徒」・「聖なる者」と呼ばれています。しかし本当にそうでしょうか? 実態はどうでしょうか?
私自身を見ても、欲望に負けてしまう弱さがあり、怠惰なところ、いい加減なところも多く、そして罪が依然としてあります。「聖なる者…です」などと言えない存在です。昨晩も子どもに理不尽なしかり方をしてしまい、子どもの心を傷つけてしまった、どうしようもない人間です。
また教会だけは、「いつも聖らかで、この世とは違う平安や秩序」があってほしいと願います。この世にはない損得を度外視した支え合いやささげものがあり、愛や優しさもあります。しかし、それでもこの世の教会は不完全な人間の集まりです。ですから時に傷つくことや人間関係でつまずくことや、がっかりすることもあります。
2000年間のキリスト教会の歴史を見ても、そこには絶えず争いがあり、分裂分派も数知れず、人間的でこの世的な事柄も多く、恥ずかしいこともあります。
聖書の中にも様々な教会が登場しますが、このコリント教会は、私たちには想像もつかないほど、大変な教会、乱れきっている教会でした。礼拝をささげようとしても、この世の貧富の差がもろに出てしまい、一緒に礼拝が出来なかったり、「私は誰々先生に付く」と言い争って、教会の中に分裂分派が起きていたり、性的な乱れ、不道徳がはびこっているような滅茶苦茶な教会でした。
パウロ先生は、コリント教会をゼロから立ち上げ、その基礎を作った牧師でした。コリントから別の場所に移っても、いつもコリントのクリスチャンたちのことを気にかけていました。パウロ先生は、「あのコリント教会は本当にひどい有様だから、もう『神の教会』、『聖徒たち』と呼ぶのはやめよう」とは言いませんでした。「悪の巣窟(そうくつ)だ」などと呼びませんでした。
書き送った手紙の冒頭部分で、彼らを「神の教会」、「聖徒たち」、「聖なるもの」と呼んだのです。社交辞令で、お世辞で、そう言ったのではありません。パウロ先生は信仰をもってこう語りました。いいえ、こう語らずにはおれなかったのです。神様が必ず聖くしてくださる。コリント教会も必ず神様の前に立ち返り、赦され、聖められて、もう一度、立ち上がってくれるはずだ。神様は必ずそうしてくださると信じて、こう語ったのだと思います。
コリント教会の信徒たちしかり、私たちも、どうして「聖徒として召された者」、「聖なるものとされた者」などと呼ばれるのでしょうか? そんな風に呼ばれていいのでしょうか?
私たちが聖徒とされている。それは第一に、
聖なるお方が、私たちを選び出してくださるからです。そしてイエス・キリストの十字架の赦しゆえに、神様が私たちを聖なるものと見てくださるからです。
私はいつも4色ボールペン(黒・赤・青・緑のインクがある)を手元においています。すぐに忘れやすい年齢になって来ましたので、何かあればメモを取るようにしています。以前は書店の文房具コーナーで良い4色ボールペンを何百円かの値段で購入していました。しかし、よく無くしてしまいますので、最近は100円ショップのものを使っています。さほど品質に違いはないように思います。
そんな税込み110円のボールペンですが、私の手元にある限り、たいした値打ちはありません。しかし、もしもこのペンを使って、ノーベル文学賞とか芥川賞・直木賞をとるような作家や、ミリオンセラーを出すような作詞家がこのペンを使ったとしたら、そして、このペンで後世まで語り継がれる偉大な作品が生まれたとしたら、100円ショップのボールペンも、後にオークションで100億円の値段が付くかもしれません。
どんなものでも価値あるお方が、偉大なお方が選んで手元においてくだされば、そのお方の手に握られるならば、そのものは価値あるもの、偉大なものになるのではないでしょうか。聖なる神様に選んで頂いて、その御手に握って頂けるがゆえに、私たちは聖なる者と呼んで頂けるのです。
Ⅰコリント1章2節の「聖徒として召された」の「召された」という単語は、「呼び出される」、「招待される」といった意味もあります。1章1節の「キリスト・イエスの使徒として召されたパウロ」の「召された」も同じ単語です。
パウロ自身のことを考えてみますと、もともとは大のキリスト教嫌い、イエス・キリストを拒絶し、クリスチャンを弾圧していた張本人でした。そのパウロがイエス様に触れられ、救い出され、キリストのために生きるものと変えられたのです。
招かれるにふさわしくない者、選ばれる資格も価値もない者が、神様の一方的な選びによって、ただただ神様の恵みと憐れみによって、選んでいただいたのです。同じように、罪多く至らないことだらけのこの私を、神様は愛し、永遠のいのちを与えてくださっています。
神様の「選び」を考える時、イスラエルの民が選ばれたということを思い出します。なぜイスラエル人が選ばれたのか、先ほど交読した旧約聖書の申命記7章6-9節には、こう記されていました。
6. あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。7. 主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。8. しかし、主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。9. あなたは、あなたの神、主だけが神であることをよく知らなければならない。主は信頼すべき神であり、ご自分を愛し、ご自分の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる。
立派だったから、品行方正だったから、数が多く強かったから選ばれたのではありません。それとは正反対の欠けだらけで、罪も犯し、弱い私たちを神様は選び、呼び寄せてくださったのです。神様の愛ゆえに、神様の誠実さゆえに、神様の聖さゆえに、イスラエルの民も私たちも選ばれ、導かれて、ここにいるのです。
そんな一方的な選びを体験したことがあるでしょうか? 子どもの頃、私はものを集めるのが好きでした。プロ野球選手のカードや切手なども集めて、ファイルにしまって眺めていました。コインも収集していました。記念コインや昔の珍しいコインと共に「昭和54年」と刻まれた普通の1円玉や5円玉を見付けては、宝箱にしまっていました。
なぜ昭和54年かと言いますと、私が生まれた年だったからです。他の人から見れば、普通のコインです。スーパーで買い物をして、お釣りにもらうただのコインでしょう。しかし当時の私にとって、そのコインは宝物でした。
神様が私たちを選んでくださっている。その選びは神様の一方的な愛です。恵みです。憐れみです。そして御子イエス様の大きな犠牲ゆえなのです。
今、私たちが神の家族の一員として聖徒とされている。それは神様の一方的な恵み・神様の選びによってです。そのことに私たちはただただ感動し、感謝し、喜ぶ以外、何もありません。
私たちが聖徒とされている理由。それは第二に、
聖なる神様が、私たちを聖なる者として聖なる働きに用いてくださるからです。
「聖なるものとされる」とは、私たちが神様のものとされることです。神様がご自身のお働きのために、あなたを用いようと、選び分けていてくださるのです。Ⅰコリント1:2に「キリスト・イエスにあって聖なるものとされ」とあるように、イエス様によって救われ、生かされている私たちは、イエス様の聖さにあずかっていきます。聖なるキリストに似たものに日々、造り変えられていくのです。
Ⅰコリント1:9「神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。」
先ほどのボールペンのたとえにまた戻りますが、職人さんの手に握られて、日々、仕事で用いられていく道具は、次第にその職人さんの手になじみ、道具自体も職人さんの手に合っていくのではないでしょうか。私たちも主イエス様に選ばれ、いつもその御手の中に置いて頂けるなら、イエス様の御姿に似せられていくのです。
イエス様につなげられ、イエス様との親しい交わりに入れていただいた私たちは、イエス様のことばを心に蓄え、イエス様の思いを知らされ、イエス様のしてくださったことに倣っていきます。イエス様のように聖い者として、イエス様のように愛の人として、私たちは用いて頂けるのです。
エペソ人への手紙 2章10節「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」
私たち教会が、教会の一員である私たちが、イエス様の道具として用いて頂ける。イエス様のお働きに参与させて頂ける。なんとうれしいこと、なんと感謝なこと、なんと名誉なことでしょうか!心から精一杯、仕えさせて頂きましょう。
そして教会は、究極的・最終的には一つであること。公同(普遍的)であることを目指す群れです。
私たちは今、キリスト教のプロテスタント。その中の福音派の日本同盟基督教団・北陸飛騨宣教区の福井中央キリスト教会の一員です。
しかし、福井市内にも福井県内にも、また日本・世界を見回しても、多種多様なキリスト教会が存在します。同じキリスト教・同じクリスチャンと言っても、プロテスタントとカトリックと正教会(ロシア正教・ギリシャ正教など)に分かれています。同じプロテスタントにも、主流派と呼ばれるグループ(日本基督教団など)や、福音派と聖霊派などの教派が存在し、教団もたくさんあります。さらに同じ日本同盟基督教団に所属していても、教会の成立の背景や、牧師のカラー(神学)、置かれた地域によって、また教会の構成メンバーによって、教会の特色は多様です。
パウロも教会を「キリストのからだ」にたとえ、私たちはそれぞれ頭なるキリストにつながる目や手や足だと教えています(Ⅰコリント12:12~)。教会には多様な人たちが集まります。それでも各地域教会は一つなのです。また教会と教会は、すべてのクリスチャンたちは一つなのです。
Ⅰコリント12章12,13節ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。
聖書のどこの教えを強調するのか、何を大事にするのかなどを巡って、地上の教会は多様に分かれています。地域ごとの特色もあるでしょう。それでも、どの教会もイエス・キリストを救い主、まことの神と信じ従う群れです。そして、やがて私たちは必ず一つとされるのです。天国の公同の教会、神の子羊イエス様のみもとに一つに呼び集められます。
ヨハネの黙示録7章9,10節、その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。彼らは大声で叫んだ。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」
いにしえの神学者は、「イエス・キリストが在したもうところ、そこに公同教会がある。」という言葉を残しました。神様が必ずそうしてくださると信じて、「きよい(聖なる)公同の教会を信じます」と告白し続けていきましょう。
コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。
祈ります。