打水のここより龍の背骨かな
https://www.hunterslog.net/dragonology/world/china/ShanHaiJing_02/01.html 【『山海経』の竜蛇たち 西山経】より
遍歴する医巫と『山海経』:
中国では諸子百家の時代を通じて医術の整備、記録が進み、漢代までには後の中医学の古典となる資料が揃ってしまう。すなわち前漢代に気穴・針・漢方を総合的に記した『黄帝内経』が成り、後漢末から三国時代には傷寒(簡単には風邪)のメカニズムと療法を論じた『傷寒論』が、また薬石素材を網羅する本草学の基礎となる『神農本草経』が成立している。
リファレンス:水の旅人:『史記』扁鵲列伝のあらすじ:画像使用
伝説的な春秋戦国時代の名医「扁鵲(ヘンジャク)」がすでに「巫を信じて医を信じない者は治らない」と言ったと『史記』にあるが、当時よりすでに術者は疾病を内的なものとして鬼神の影響などとは切り離して考えはじめていたのだろう。もっとも後漢末の名医・華佗でさえ、『三国志』内では「方技伝」に記され、『後漢書』内では「方術伝」に記されている。要は方術使いの扱いだったということだ。況んや扁鵲においてをや、である。まだまだ古代のうちは医巫は同一の術という認識が一般のものだった。中医の祖が神農に帰されるのは下ってのことであり、より古くは「十巫(ジップ)」という巫がその祖とされていた。これはこの『山海経』の「大荒西経」にも見る記述で、「古者、巫彭(フホウ)初めて醫を作す」とも言われる巫彭以下、巫咸、巫即、巫肦……と十人の巫が医の祖なのだ。
病という悪をなすのは鬼神疫神であり、安んずるのは巫である。それが人々に共有されていた「病になる理由」であり「治る道筋」であるなら、医術者がどう思えど、少なくとも見かけは巫として対応せざるを得なかっただろう。
ところで扁鵲も華佗も遍歴する医であった。扁鵲は特に個人というより扁鵲派とでも言うべき集団だったと考えられているが、彼らは大陸各地を旅して回り、各地の村々の様々な問題解決にかかわり糧を得ながら、効能のある薬石素材の探索を続けていたのだろう(これをまとめたのが「本草」)。無論彼らはそれが適していて可能ならば医術により問題を解決しただろうが、後世のように薬石の材料がそこらを流通しているわけでもなく、手持ちのもので基本何とかしなければならなかったはずだ。なければ巫として「カタリ(語り・騙り)」でなんとかせねばならぬ局面は多かったはずである。
また、そのような遍歴の術者に期待されるのは身体の不調の解決ばかりではない。時には医者として、時には拝み屋として、時には弁護士として立ち回らねばならなかっただろう。人々がそれら問題の原因を鬼神のせいだと思っているのなら皆同質の問題なのだ。「カタリ」の重要性は大変高かったはずである。その「カタリ」に使用されるネタ帳のようなものが『山海経』だったのではないか、そう私は思うのだ。言わば本草の正典に対する外典である。
それは各派を通して共有されていた方が良い。各地で「術者に聞いた話」が時と場所を越えて同様する方が説得力が増すからだ。また、術者側にしてみれば、虚構は虚構でまとまっていた方が良いはずである。そうでなければいたずらに「伝説の素材」を追い求める徒労が増えることになってしまう。もちろん部外者にはトップシークレットとされていたはずだ。しかし、それが創作された話ばかりかというとそうではないだろう。勝手な「伝説」をある土地で語って村人に「土地の話と違う」と言われてしまえばそれまでである。術者は赴く土地土地の伝説にも通じていなければならない。『山海経』にはそうして収集された実際の伝承も多く含まれていると思われる。
余談だが、今日本で「民俗学」の記録を重要とする分野に法曹界がある。各地の民俗をまとめた叢書が「第一法規」など法曹関係の資料を出版する所から出ているのを見ても分かるだろう。土地の問題に介入するにはその「土地のしきたり」を知らねば話が進まないことは今でもままあるのだ。このような感覚があるいは近いだろうか。
ともかく、『山海経』本文が、「怪異の紹介」というよりも「その効能」を記すことに重点が置かれている点、明らかに「作った怪異」が(呪物として作るための、とも言える)多くある点、伝説の土地の素材である割に深刻な症状への療法とはなっていない点、などはこの見通しにあっているように思う。
きっと医巫たちが旅をしながらアヤシゲな呪物をとり出し、「これこそは崑崙の麓は西山地方に棲む○○を干したナントカでぇ……」と『山海経』を元に口上を述べて、カタリで問題を解決したり、人々を騙くらかして路銀を稼いだりしていたのだろう。私は『山海経』の向こうに、そんな風景を想像している。
ちなみにこのような古代中国の「遍歴の医巫」を素晴らしい筆致で表現したものとして酒見賢一『陋巷に在り』(新潮社・全13巻)をお勧めしたい(話自体は孔門の亜聖・顔回を主人公としたもの)。南方出身の遍歴の医巫「医鶃」が登場するのは七巻「医の巻」とちょっと遠いが。
「西山経」の竜蛇たち:
では、今回は『山海経』「五蔵山経」の二番目に来る「西山経」を見ていこう。西山の山系は西安(長安)辺りに発すると考えられ、東周代の聖域観のもっとも強い土地だ。周は殷を倒したあと、後の西安の地に都を置いた。故に、『山海経』の骨子がまとめられたと思われる洛陽に遷して後の東周の代から見ると聖なる故地が西になる。これは中国の帝(神)のいる崑崙(黄河の源とされ西に想定される)へ続く山々ともされ、非常に神話的な山系なのだ。
西山想定地附近の山並み
西山想定地附近の山並み
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解説中字義解釈は概ね白川静『字統』『字通』(ともに平凡社)による。また、図版・本文共に高馬三良:訳『山海経』(平凡社ライブラリー)を参照している。なお、『山海経』の図版は先に述べたような遥か古代から伝わったわけではなく(古代においても図録であったのは間違いない、とはされる)、後世本文から想像して書き加えられたもので、どれだけ本来の形を反映しているのかはもはや分からない。だから、図像から考えている部分はすべて「反映されているとしたら」の但書が入るものとして読まれたい。
[ヒイ](肥・虫+遺) [ヒイ](肥・虫+遺)
太華の山(西嶽)といい、(山は)削りあげたようで四角、その高さは五千仞、その広さは十里、鳥獣住むことなし。蛇がいる。名は[ヒイ]、六つの足、四つの翼、これが現れると天下おおいに旱する。
[ヒイ](肥・虫+遺)
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一の巻:太華の山。
虫絵図は竜のようだが「蛇がいる」とある。これは下っての図像ではないかと思われる。「虫+遺」という特殊な字が使われているが、虫の字は蛇など「足無きもの」をいう(「蟲」で昆虫類を指す)。[ヒイ]は蛇であることを強調した「肥遺」ということだろう。
「五蔵山経」には複数の肥遺が語られ、大きく異なる所もあって難しい。この太華の山のすぐあとの英山にも肥遺がいるが、これは鶉(うずら)のような鳥だとあり(図はない)、癩病を癒し蟲(はらのむし)をころすによろし、ということで効能の共通性もない。また、「北山経」渾夕の山、ゴウスイ(川名)にも肥遺がおり、これは一首二胴の怪蛇である。旱になるというのは太華の[ヒイ]に同じだ。さらに北山経の肥水の水中に肥遺の蛇多し、とある。旱になる怪蛇が「多し」では困ると思うのだが、そう書いてある。
肥遺
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遺これはどういうことだろうか。字義を考えてみると「肥」はもとより多肉の意。「遺」は漢代には「亡なり」と今と同じ意である。繋げても意味は通らない。遺のより古い字義は「貝貨を両手でもち、人に遺贈する形」とあり、遺贈が本義のようだ(『字統』)。しかしどのみち字義から意の通る名ではないだろう。さらにウズラだ一首二胴の怪蛇だとなればなおさらである。そうなるとこれは「ヒイ」の音そのものが有意なのだろうと思われる。考えられるのは鳴き声であり、それなら怪蛇でもウズラでも良いだろう。
ところが『山海経』の共通フォーマットとして、鳴き声から名がとられているものは「鳴くときはわが名をよぶ」と記されるのが決まりである。となると鳴き声でもないのか。現状はこれ以上の事は分からない。
鼓(コ) 鼓(コ)
鐘山といい、その(山の神の)子を鼓という。その状は、人面で竜身、この神が欽䲹(キンピ)とともに、葆江(ホウコウ)を昆侖の南で殺したので、帝は二人を鐘山の東、[ヨウガイ]で成敗せられた。すると欽䲹は化して大きな鶚となった。その状は雕(わし)の如くで黒い文(あや)あり、白い首、赤い喙、虎の爪、その声は晨鵠(シンコク・みさごのなかま)のよう。これが現れると大戦がおこる。また鼓も化して鵕(シュン)鳥となった。その状は鴟(とび)の如く、赤い足でまっすぐな喙、黄色い文があって白い首、その声は鵠(はくちょう)のよう。これが現れるとその邑は大いに旱する。
鼓(コ)
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三の巻:鐘山。晨鵠は、「シンコク・みさごのなかま」。
かなり重要な神話が語られていたようなのだが、『山海経』以外に見ない。葆江はまた祖江ともされるが、この話に出てくる鼓・欽䲹ともにこれ以上の記録はない。鼓は同『山海経』の「海外北経」などに見る「燭陰・燭竜」の子であると紹介される(袁珂:著/鈴木博:訳『中国の神話伝説』青土社)。これは燭陰が同名の「鐘山」の麓に住む、とあるからだろう。ただし、海外北経の鐘山と西山経の鐘山が同一の山なのかどうかはよく分からない。鼓が燭陰の子であるという話が現代になって結びつけられたのか、昔から中国でそう考えられてきたのかもよく分からない。
鼓「鼓」は正字を「鼔」に作り、もとより楽器の太鼓を打つ形である。「壴」が太鼓であり、「攴」が木の枝でものを撃つ形。『山海経』「海内東経」の竜身人頭の「雷神」は「その腹をたたく」と記されている。また、黄帝の後を継いだ天帝・顓頊(センギョク)は音楽好きで「猪婆竜を横たわらせて尾で腹をたたかせた(袁珂『中国の神話伝説』)」とあるから竜にはそういった側面があるのかもしれない。
なお、『山海経』「海内経」では、太陽神・炎帝の子孫(曾孫)にまた「鼓」という者がおり、兄弟の延とともに「始めて鐘をつくり、楽曲を制作した」とある。燭陰がまた太陽神の竜蛇と考えられること、「鐘」山に棲むことなど符合する点がある。
夋一方、帝(黄帝)に成敗されて、鼓は鵕という怪鳥に化生するが。「夋」とは『字統』では「耜を頭にした神像の形」とのみしているが、袁珂『中国の神話伝説』では殷系の神王・舜の化身の王に使われた字だとしている。この甲骨文字「夋」は、鳥頭猿身を示しているとされ、あるいは鵕も同系かもしれない。周系の神である黄帝に成敗されていることからも舜−夋との関係が疑われるが、それ以上はよく分からない。
[イ](魚+胃) [イ](魚+胃) ないし[カツ](魚+骨)
楽游(ラクユウ)の山といい、桃水ながれ、西流して稷沢(ショクタク)に注ぐ。ここには白玉多く、水中には[イ]魚多く、その状は蛇のようで四つの足、これは魚を食う。
[イ](魚+胃)
三の巻:楽游の山。
[イ]魚、といい、魚+胃であるから魚という区分のようだ。見かけは四つ足の蛇だが。よく分からない存在。属性も「魚を食う」とだけあり、何の為に掲載されているのか不思議だ。あるいはこの辺が「土地の実際の伝承」なのかもしれない。
胃「胃」の字義は、内臓の胃袋(に食べたものが入った象形)以外の何ものでもない。「謂」のように音として使われることがままあり、[イ](魚+胃)もそうであるのかもしれない。生き物を表す似た構成の漢字に「蝟(イ・はりねずみ)」があるが、これは「蝟集」の語に示されるように針の密集した様という意のようで、[イ]魚も「水中には[イ]魚多く」とあるので、あるいはうじゃうじゃいる、というようなことかもしれない。ともかくよく分からない[イ]魚である。
「西山経」に紹介される異形たちの中で、竜・蛇と解説に入るモノは(大体)以上だ。さらに図もなく、「多い」とだけ記される「衆蛇(シュウダ・未詳・四の巻:諸次の山)」と、これも図がなく「その状は馬の身に鳥の翼をもち、人面で蛇尾、好んで人を抱きあげる」と不思議な記述のある「孰湖(ジュクコ・四の巻:苕水)」に蛇が関係するが、委細不明である。
孰湖に関しては『山海経』には天馬系とでもいうべきモノたちもおり、あるいは何か思いついたら追記するかもしれない。もっとも竜蛇・竜馬という線上に来そうなら、ということだが。西山郷は現在の崑崙山脈の方まで想定域に在り、その西側はもうタジキスタンだ。あるいは中央アジアの流れとの比較でも何か面白い見え方があるかもしれない。そのようなことがあったらそれもまた追記していきたい。