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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 274 (05/12/24) 旧中城間切 北中城村 (06) Ogido Hamlet 荻道集落

2024.12.06 07:24

旧中城間切 北中城村 荻道集落 (おぎどう、ウンジョウ)



11月6日に東京から沖縄に帰ってきた。東京では杉並区の散策を行い、その訪問記の編集に随分と時間がかかり、ようやく終了。今日から沖縄の集落巡りを再開する。北中城村の荻堂 (荻道) を訪問する。一日では予定していた史跡等を全部はみれず、12月10日の再訪となった。



旧中城間切 北中城村 荻道集落 (おぎどう、ウンジョウ)

字荻道は、北中城村の南部の標高130mから140mの台地上に位置し、字大城と隣接しており、二つの字をまとめて荻道・大城 (ウンジョウ・ウフグシク) と呼ばれていた。南側は普天間川の支流ヌーリ川 (ブルミガーラ) を隔てて中城村の登又、西側は安谷屋、北側は喜舎場にそれぞれ接している。荻道は大城村 (現字大城) から分離してできた村で、根所は具志川間切喜屋武仲嶺城主喜屋武按司の子孫の屋号仲元と伝わっている。分村の時期やその理由については不明だが、いろいろな説がある。水戦争で別れたとか、綱引きで喧嘩をして別れたともいう。また、王府の租税徴収の便宜上、人為的に分村したとの説もある。

荻道の主な門中として、根所の仲元、西原間切翁長から来たといわれる大屋、大屋からの分家の西安里と前安里、具志川安慶名からの松根、大城の西仲村渠の分家の仲地などがある。古文書では琉球国高究帳 (17世紀中頃) には 「おぎたう」 と記載され、琉球国由来記 (1713年) には 「荻堂」 とでている。理由は不明だが、明治30年代に「荻堂」 から 「荻道」 に変わっている。

字荻道には小字として、西門原 (イリジョウバル)、西原 (イリバル)、前原 (メーバル)、亀甲原 (カミグーバル)、平田原 (ヒラッタバル)、後原 (クシバル)、樋川原 (ヒージャーバル)、底田原 (スクタバル) で構成されている。集落は大半が西門原に集中しており、北側は崖状の石灰岩が東西に走り、イーヌモーの丘陵地から南側に急な傾斜地から盆地状の底田原に広がり、各家は南向きに建てられていた。

赤田原 (現前原)、サックジャ原 (現前原)、平田原、底田原などの大半が水田だった。1888年 (明治21年) に甘蔗作付制限が撤廃されてから、水田から換金作物となる甘蔗畑への転換が加速して、1903年 (明治36年) には畑が田の15倍になり、戦前には甘蔗が主要な生産物となっている。荻道にはサーターヤー (製糖小屋) が四か所あり、1935年 (昭和10年) 頃嘉手納の沖縄製糖工場のトロッコ軌道が荻道、大城まで敷設され、甘蔗の運搬に利用された。その他に、大豆、空豆なども栽培されていた。

昭和10年頃までは、向上会と称する自治組織があり、その組織のもとでは集落を四つの組に分け、北より一組、 二組、三組、四組となっていた。

住民は、 戦後できたパークサイド住宅地や後原の屋取を除いては、 大半が以前からの人々で、最近でも他所からの転入者はわずかだそうだ。

第二次世界大戦では1944年 (昭和19年) 10月10日に十・十空襲を受けている。8月には日本軍石部隊が荻道•大城に来て、12月まで駐在している。1945年 (昭和20年) 3月からは米軍機が襲来し荻道・大城集落を空爆、機銃射撃を行っている。4月1日に米軍は北谷砂辺に上陸し、4月3日には荻道・大城集落内を突破して日本軍が陣を敷いていた中城グスクに進軍、中城グスクから北上原の日本軍防衛線で激戦となる。

荻道では97人が戦争の犠牲になっている。当時の村人口の29.6%に当たる。村内で亡くなった人は20人、村外での犠牲者は33人で島尻郡での志望者が半分を占めている。荻道の第二次世界大戦での戦没者の特徴は県外戦没者 (44人) が北中城村では最も多い比率になっている。兵隊として出兵した村の青年が外地で散っている (44人中37人)。


荻道集落の拝所と祭祀行事

琉球国由来記には荻道集落としての拝所の記載はなく、大城集落として書かれている、当時はまだ大城集落の一部だったのだろう。現在でも荻道集落の祭祀では大城集落にある御嶽や神屋などを拝んでいる。琉球王国時代には大城ノロによって祭祀行事が執り行われていた。大城ノロは大城 (荻道含む) の他に、和仁屋、熱田、それに現在の中城村の伊舎堂、久場をも管轄していた。

荻道字誌に記載されている荻道集落の祭祀行事、村行事は以下の通り。多くの行事は村としては現在行われておらず、その一部は各門中、各家庭で続けられている。

部落では、正月2日の初ウビーに役員が四つの井泉を拝んでいた。(現在は一月合同祝いの日) 旧暦の六月十四日は、昔から字民の豊年祈願と無病 息災を祈る行事の 「お願」 の綱引きの日になっており、ウフミチ (大道 現在の県道146号線) で、字民総がかりのウフッチュジナ (大人綱) が行われている。ウフッチュジナ (大人綱) に先駆けて、6月に入ると子供達がワラバージナ (童綱) を引き、6月12日頃にはニーセージナ (青年中心の綱引き) も行われていた。

旧暦7月17日はハタスガシが行われ、御神屋や根所仲元の霊前で豊年と字民の無病息災厄払いを祈願し旗揚げを行う。その後、大城集落に向かい、根所喜友名と久知屋、ノロ殿内、最後に前喜友名の前の祠を拝み、近くの広場で大城の有志と酒を酌み交わして親睦を図る。その後、両字の有志はそれぞれの村の旗頭とともに荻道の御神屋に道ジュネ (行列) で向かう。その後、大城との境界で両字の旗頭・字民が出会い酒杯を交わし、兄弟棒を演じ、 それぞれのアシビナー (集落セ ンター前広場) に移り、そこで旗頭を先頭に大人、小人とも「チャイファ チャイファ」と掛声をかけながら手を叩きつつ七回廻った。戦前には、その後に村芝居を催したが、戦後は盆踊りに変わっている。


琉球国由来記等に記載されている拝所は以下の通り。

  • 御嶽: 大城ノ嶽 (在 大城)
  • 殿: 御神屋 (ウカミヤー)
  • 拝所: トゥイウガン、ノロ殿内 (在 大城)、喜友名 (在 大城)、久知屋 (在 大城)、前喜友名 (在 大城)、ミーグスクの火の神 (在 大城)、
  • 井泉: 前ヌ井、樋川井、上ヌ井、西ヌ井、タチガー


サカンケー

今年10月に訪れた安谷屋集落から県道146号線を東に中城グスクに向かって進むと信号のある交差点に出る。ここが安谷屋と荻道との境でサカンケーと呼ばれている場所になる。ここが荻道への入口で西門原 (イリジョウバル) にある。この場所では戦前迄は、荻道、大城の人達が海外や他府県から帰省の際には村人総出で出迎えたという。沖縄戦で出征する村の青年を幟を掲げて歓送激励した場所でもあった。


沖縄ガーデン跡

サカンケーには以前は沖縄ガーデンという農園があったそうで、観葉植物と薬用植物が栽培されていた。この地では大山盛保が3500年前の沖縄鹿などの化石を発見している。現在では沖縄ガーデンはなくなっている。


大道 (ウフミチ)

サカンケーから荻道集落が始まる。県道146号線が主要道路で大道 (ウフミチ) と呼ばれている。県道146号線を荻道集落中心地まで進む。この県道146号線は昔は道幅が狭く不便だった。現在では道幅は広くなったが、昔からあった道で大道 (ウフミチ) と呼ばれ、荻道集落の主要道路だった。

明治末期に荷馬車の運行できる道路を安谷屋の中央道に同字の協力を得て建設したが、荷馬車の運行は依然と極めて不便だった。1915年 (大正4年) に安谷屋の後道 (クシミチ) の幅員拡張を大正天皇御即位記念事業として施行した。この路線もあいかわらず荷馬車の運行には極めて難渋する始末で、砂糖の搬出には安谷屋を通過するまでは2~3回に分けて安谷屋を通過して積み替えをして那覇に搬出していた。1933年 (昭和8年)、国による沖縄の救急事業として土木事業を主体とした助成事業を行った。安谷屋の地主の協力を得て、それまでは主要道路だった後道 (クシミチ) の上に中城村道として役場乃至安谷屋線 (現在県道146号線) が2年計画で施行された。道路の落成後にはトロッコ軌道も敷設された。更に、この道路は終戦後幅員拡張工事が行われ、1951年 (昭和26年) に沖縄群島政府道路に編入され引き続き琉球政府道路となり、現在県道 (146号線) となっている。

荻道集落は西門原 (イリジョウバル) に集中している。大道沿いには、旧家が並んでおり、昔からの石垣が残されている。屋号仲元新屋 (写真左)、屋号西安里 (写真右) が並び、

更にその隣には屋号栄新の屋敷跡がある。

これ以外にも集落内には石垣を残した家が幾つもあった。下の写真はその一部。


荻道のかりゆしシーサー

屋号栄新の屋敷の前、大道から上ヌ井泉への小道への入り口にシーサー群像があった。荻道のかりゆしシーサーと呼ばれ、北中城村文化協会「シーサーで景観を創る会」により14体のシーサーが設置されている。先に訪れた安谷屋にもシーサーのモニュメントがあった。この後に訪れる大城集落にもシーサーのモニュメントがある。昔からのシーサーは見当たらないのだが、北中城村ではこの様なシーサーモニュメントが見られる。沖縄ではシーサーは魔除けの役割だが、それがもっと身近な存在となり、マスコット的な性格も強くなっている。


上ヌ井泉 (イーヌカー) 

荻道のかりゆしシーサーがある県道のすぐ手前の小道を入ると上ヌ井泉 (イーヌカー) がある。東ヌ井 (アガリヌカー) とも呼ばれていた。この上ヌ井泉は荻道集落のにあった四つの共同井泉 (村井 ムラガー) の一つで築造時期は不明だそうだ。水量は以前に比べて少なくなったが、今でも綺麗な水が溜まっている。現在は使用されていない。

1965年 (昭和40年) に水道が布設されるまでは洗濯、野菜洗い、水浴び等の生活用水として貴重な井泉で、この井泉に人が集まり、住民の情報交換、老幼男女の触れあい、憩いの場としても大きな役割を果たしてきた。この事から洗濯井 (センタクガー) とも呼ばれていた。井戸は横に長く、その前は洗い場になっている。かつては、女性たちが「ハンジリ」という木製のたらいを頭に載せて、洗濯をするために集まり、五、六人ほどの女性が並んで洗濯をしていたという。洗濯する女性たちがいなくなる日暮れ時になると、男性たちがテーサージ (手ぬぐい)、ビンダレー (洗面器)、サフン (石鹸) を持って水浴びをしていた。女性の洗濯する時間と男性が水浴びする時間の区分は自然に確立されていたという。女性たちはターグ (桶) でカタミテ (担いで) 運んできた水で、自宅で水浴びをしたという。井泉の後方には香炉が設置され、戦前は旧正月2日、現在は元日に区の役員有志が水の恵みに感謝して初御水 (ハチウビー) の祈願をしている。


樋川井泉 (ヒージャーガー)

上ヌ井泉から県道146号線を少し東に進むともう一つの共同井泉だった樋川井泉 (ヒージャーガー) が造られている。御嶽がある上ヌ毛 (イーヌモー) に連なる石山に向かって60m程の掘られた横穴の導水溝があり、それを伝わってきた清水が樋で集水池に流れ込んで溜めた井戸だった。樋川井泉の築造年代は詳らかでないが、1965年 (昭和40年) 12月に水道が通水されるまで、大半の家庭が、ここの湧水を飲料水として利用していた。この井戸は1924年 (大正13年) に改修されたもので、改修後は、前ヌ井泉 (メーヌカー) に代って産井泉 (ウブガー) として新生児の産水 (ウブミジ) にも利用された。

旧元日の早朝子どもたちが、カーの水を若水 (ワカミジ) として汲んできて、水を火ヌ神 (ヒヌカン) 等に供えたりお茶を沸かして仏壇に供えて新しい年の家運隆昌と健康を祈った。また、死水 (シニミジ) としても使われていた。この戦前は旧正月2日、現在は元日に区の役員有志が水の恵みに感謝して初御水 (ハチウビー) の祈願をしている。


ヒージャガー公園、クムイ跡

樋川井泉周辺は綺麗に整備されたヒージャガー公園となっている。戦前、樋川井泉 (ヒージャーガー) の前には農具などを洗うクムイ (水溜) があり、そこには毎日人が集まり、住民の情報交換の場としての役目も果たしていた。また、クムイでは、製糖期が終わった後に、サーターグルマ (砂糖圧搾機) を分解し、その木製の部品、道具をクムイの泥の中に埋めて来年の製糖期まで保管していた。このクムイの泥は畑に運び、肥料として活用していた。現在では井戸の前のクムイは埋められ、石が敷き詰められた広場が作られ、住民の憩いの場となっている。また、コンクリート屋根の休憩所や手押しポンプによる小さなせせらぎも作られている。井戸の東側にはサガリバナが植えられ、夜になるとライトアップされているそうだ。


前ヌ井泉 (メーヌカー)

上ヌ井泉の南へ1ブロック進んだ十字路の角には前ヌ井泉 (メーヌカー) の標柱が立てられ、その下に井泉が残っている。その歴史は不明だが、荻道集落では最も古い井戸と伝わり、大正時代までは村の最初の産井 (ウブガー) だった。(後に、ヒジャーガーが産井となっている) 三方をフェンスや手摺で囲われている。ここも共同井戸として使用されていた。貯水槽横には給水ポンプが設置されいる。以前はホースで畑に散水していたが、現在では使用されていない。井泉の後方には香炉が置かれ、拝所として拝まれている。


梵字の碑 (シロキエン)

前ヌ井泉の前の道路を東に渡った所には梵字の碑 (シロキエン) が二基残っている。シロキエンは、一髻文殊 (いつけつもんじゅ、一字文殊) ともいい、梵字の一字 (種子) で知恵をつかさどる菩薩を表わす。菩薩の種類によって種子 (梵字) が異なる。一切の邪悪を破り、一遍二遍ないし七遍唱えることで本人、家族、天下の人を守護するとされている。安産求児の効験もあるという。本土では菩薩像や石塔などに刻まれた物が至る所にあるが沖縄では珍しい。この梵字碑の裏面には、ハル石 (印部土手石 シルビドテイン) と同じように原名が刻まれ、土地の境界標識とおまじないを兼ねたように使われていた。

一基は松根 (マーチニー) 門中の腹 (分家) の屋号東松根 (アガリマーチニー) の屋敷石垣の上に十字路に向って建てられている。東松根の屋敷には立派なヒンプンが残っている。

もう一基は伊舎堂安里門中のワカリ (分家) の屋号前安里屋敷跡の角のカーブミラー側に建っている。元々ここにあった物ではなく、この屋敷の人が魔除けの為に戦前に購入した物だそうだ。

荻道集落には三基の梵字碑があったのだが、残りの一つはカミグー原に建てられていたもので、「かめこう原」 と刻まれ、現在は北中城村中央公民館に保管されている。


西ヌ井泉 (イリヌカー)

前ヌ井泉 (メーヌカー、イリンカー) の西へ2ブロックの所の住宅地に西ヌ井泉 (イリヌカー) がある。西ヌ井泉は造築時期は不明だが、これも荻道集落の共同井泉の一つで、1965年 (昭和40年) に水道が布設されるまでは、家に井戸 (チンガー) のない住民が洗濯、野菜洗い、水浴び等で生活用水として使用していた。また、住民の情報交換、老若男女の触れあい、憩いの場としても大きな役割を果たしてきた。現在、井戸は金網で覆われており使われていない。西ヌ井泉の隣には溜池 (クムイ) があったのだが今は埋められている。 戦前は旧正月2日、現在は元日に区の役員有志が初御水 (ハチウビー) の祈願をしている。


トゥイウガン

西ヌ井泉 (イリヌカー) の直ぐ北にはトゥイウガンがある。長方形の広場で現在ではブロックで周囲は囲まれている。トゥイウガンの名称の由来は不明。トゥイとは沖縄方言で酉 (鳥) を意味しており、西の方角を表している。この場所は、現在では部落の西端とは言えないが、本来は西側の入口だった。集落の西を守る場所というのでトゥイウガン (酉御願?) と呼ばれたのだろうか? かつては火ヌ神 (ヒヌカン) が祀られていたといわれ、旧暦10月2日には疫病祓いの御願 (トゥイウガン) が行われていたといわれている。ここでは戦前には、旧暦六月のチナヒチ (綱引き) の前に、イリ(西) の人たちが雌綱を作る場所で、ガジュマルの木の枝に小さな縄をかけて編み、大きな綱に仕上げていく。綱引きが終わるとアカバンタで綱を焼いていた。旧暦二月のシマクサラサー (現在では途絶えている) の時にもトゥイウガンに集まり、左縄を張り豚の骨を下げ、ムラの三カ所 (西端のトゥイウガン、北端のアカバンタ、場所名称不詳だが南端) を回って御願していた。


挽物口説 (ひちむんくどぅち) の歌碑

西ヌ井泉 (イリヌカー) の前の道を南に進む。この道は西門原 (イリジョウバル) と西原 (イリーバル) の境で南に進むと前原 (メーバル) の入り口 (西門原、西原、前原との境) に挽物口説の歌碑が建立されている。挽物口説は、挽物大工が那覇若狭町から中頭の荻道大城の坂を登って具志川の田場天願へ仕事に出掛ける途中に、その道中で見た風物を歌ったもの。主人とお供の津波の二人が掛け合いで歌い、踊るという短い小歌劇。荻道でも祝宴の座興として演じられたそうだ。荻道大城の坂が世間で有名になるきっかけともなった口説でいう。 口説というのは叙事的な長編の歌で、七・五調の歌詞が並べられている。江戸時代に本土で流行し、沖縄に伝えられたといわれている。歌詞にある挽物とは漆器の素地形成技法の一つで、木素地形成技法の一つで木材をろくろで回転させながら鉋 (かんな) を当てて加工する。加工された製品も挽物と呼んでいる。この挽物口説では鍋の修繕をしている。この挽物口説に出てくる荻道大城の坂とは亀甲坂 (カミグービラ) の事で、この歌碑がある場所とは異なる。当初はカミグービラに沿った場所に建立する計画が進められたが、建立場所の確保が困難なため、亀甲坂 (カミグービラ) の見渡せる西門原 (イリジョーバル) の現在地に建立されている。

(津波) あの坂 何んて言ゆる 坂だやべるか [あの坂は何と言う坂ですか]
(主) あれややう津波 津波やう 荻堂大城の坂んて 言ゆんてんと [あれはね、津波获道大城の坂というんだよ]
(津波) あんす高さる坂も あやべさや [こんなに急な坂もあるんですね]


インナーイーモー、荻道農村公園

挽物口説の歌碑の南側は前原 (メーバル) と呼ばれる原で、農村公園が整備されている。この公園の南の高台のムイ (森) はインナーイーモーと呼ばれた場所で、戦前、紡績女工など仕事を求めて本土へ旅立つ娘、息子ら、ハワイなど海外移民する身内や親戚の者たちの航海の安全を願って、小太鼓やドラで調子をとりながら琉球民謡の 「だんじゅ嘉例吉」 を唄って見送った場所だった。インナーイーモーの下には大きなガマがあり、 そこで村芝居や踊りの練習、三味線の練習もしていたそうだ。

高台のチジ (頂) には見晴らし台がありここからは慶良間諸島や那覇、浦添などが遠望できる。

多分ここから旅立ちを見送ったのだろう。沖縄戦では、那覇が空襲受けたときの爆撃 (10・10空襲) の様子やアメリカ軍の艦船が慶良間諸島の沖合いに集結している様子も手にとるように分かったという。


亀甲坂 (カミグービラ) 

挽物口説の歌碑にある亀甲道 (カミグーミチ) とその一部の亀甲坂 (カミグービラ) を見ることにした。亀甲原 (カミグーバル) にあるのでこう呼ばれた。亀甲道 (カミグーミチ) は宜野湾市から野嵩を経て我謝橋を渡って中城村登又へ、そして北中城村荻道に入る道で、荻道と安谷屋との西の境界線に一致している。現在の村道も長い坂道になっているが、当時は、石畳道で、さらに勾配のきつい長い坂だったが、勝連、具志川方面に行くにはこのカミグーミチを通るしかなかった。行商人等にも大いに利用されていたという。亀甲坂 (カミグービラ) は資料によれば戦時中までは石畳の坂で宜野湾に行くには、平田坂、亀甲坂を徒歩で行くしかなかった。亀甲道に一部分の亀甲坂は現在では雑木、雑草に覆われているとあるので通れるかはわからない。(行ってみると石畳に道は木々で覆われて消滅していた。)

我謝橋からの道は中古車の敷地になっており消滅している。

別の道を通り登って行く。中古車の敷地の上側に道が一部残っている。

昔の亀甲道 (カミグーミチ) を通り登ると自動車道路に出る。ここから上が亀甲坂 (カミグービラ) だったのだが、その最も急な坂は木々に覆われて消滅している。

亀甲坂 (カミグービラ) の一部が消滅しているので、自動車道路で登って行き、亀甲坂 (カミグービラ) が残っている所まで進む。昔ほどは急では無いのだが、それでもやはり急坂だ。

安谷屋の袖端 (ソデバナ) の伝承の鬼大城と百度踏揚 (モモトフミアガリ) が勝蓮城を脱出し首里に急いだ道の一つがこの亀甲道 (カミグーミチ) という。鬼大城は百度踏揚を背負い亀甲坂を駆け降り、ブルミ川まで来たがここで追手に追いつかれ、鬼大城は百度踏揚を抱きかかえて川を越えようとした。この時に追手は百度踏揚をつかんだが、鬼大城は強引に引き戻し袖がちぎれたという有名な話。



荻道平松 (ヒラマチュー)

亀甲坂 (カミグービラ) を登り切った所には、かつて、荻道平松 (ヒラマチュー 写真右) と呼ばれた立派な松の木があったのだが1964(昭和39)年に枯れてしまった。ここにいたおじいに聞くと、写真で家が建っている所にあったそうだ。この平松 (ヒラマーチュー) では、亀甲道 (カミグーミチ) を通る行商人がこの場所で商売もしていたという。


パークサイド

亀甲坂 (カミグービラ) を登った平松 (ヒラマチュー) の所でもう一つの道に合流している。資料によってはこの道も亀甲道 (カミグーミチ) と記載されていた。この道も急な坂道で安谷屋方面に下っている。この道に北側にはパークサイドと呼ばれる住宅地になっている。パークサイドは普天間、瑞慶覧の基地に勤務する米軍兵士の家族住宅として建設され、住民は全てアメリカ人だった。基地内に家族住宅が造られて、米人家族はそちらに移動して、1972年の本土復帰以降数年で住宅は民家人に払い下げられて沖縄の人が住むようになった。住宅はほとんどが当時の定型住宅で、今での家の壁にはナンバリングが残っている。


大湾小屋取集落跡

亀甲道 (カミグーミチ) の途中、我謝橋から中古車屋の敷地の上には大湾小屋取集落 (真栄城小屋取集落) があったという。現在では民家はなく、集落の面影も失せてしまっている。記録が残っておらず、いつ頃に存在していた屋取集落かははっきりとはしないのだが、この場所には昭和10年代には6世帯が居住し、砂糖屋 (サーターヤー)  も一ヶ所あった。おそらく明治の廃藩置県 (1880年 明治13年) で職を失った士族が移って来たと推測されている。写真右下はこの大湾小屋取集落を通っていた亀甲道 (カミグーミチ) の石畳。

字荻道に存在していた屋取集落はこの大湾小屋取集落だけで、それほど大きな屋取集落ではなかったようだ。明治36年 (1903年) では荻道の士族は16世帯で、ほとんどはこの大湾小屋取集落の家だろう。1919年 (大正8年) の地図ではこの地に民家は記載されていないのだが、1945年 (昭和20年) の戦前の地図には6世帯が存在している。


福木 (フクギ) 並木

挽物口説の歌碑まで戻り、歌碑を越えて直ぐの道を東に進むと集落中心地になる。この道にはフクギ (福木) で並木道になっている。

この道を進むと先程見学した梵字碑の場所に出る。この道は前ヌ安里 (メーヌアサトゥ) の道又は前ヌ毛 (メーヌモー) 前の道と呼ばれ屋敷の石垣が道沿い続き、立派な屋敷林もあり昔の沖縄の佇まいを感じることができる道になっている。


前ヌ毛 (メーヌモー)

道の南には松林の森が。枯れ落ちた松の葉や松かさは薪として集められ、家庭での煮炊きに使われた。旧暦八月の綱引きになると、アガリ(東)の人たちが松の枝を利用して雄綱 (雌綱はトゥイウガン) を作る。綱を作ることを荻道では「チナウチューン」という。砂場もあり、運動会が近づくと生徒たちが幅跳び、沖縄相撲の練習などが行われた。昔から住民の憩いの場所として利用されている。


村屋跡 (荻道公民館)、アシビナー跡

前ヌ毛の東には荻道集落の行政を行い、住民が集う場所として公民館がある。戦前までは倶楽部と呼ばれていた。沖縄戦後、茅葺きの倶楽部は台風被害もあり、スレート葺の公民館 (写真左下) に建て替えられている。当時は村内にはは茅葺の公民民館が多かったので、スレートの荻道公民館は「近代公民館」と言われ、村中の評判になっていた。公民館に前は広場になっており、かつての隣接してアシビナー (遊び庭 写真右) だった。


次は県道146号線の大道 (ウフミチ) の北側にあった荻道の聖域であるクサティ (腰当) を見ていく。


仲元 (ナカムト 根所 ニードゥクル)

大道 (ウフミチ) から北への小道を入った所に荻道集落の草分けの根所 (ニードゥクル) の仲元の屋敷がある。以前は屋敷内に御神屋 (ウカミヤー) が建てられて根所、門中、仲元家の仏壇があったのだが、1975年に上ヌ毛 (イーヌモー) の現在地に移されている。

伝承によれば、この根所の仲元家の始祖は、具志川間切喜屋武仲嶺村 (旧具志川市・現うるま市) の城主だった喜屋武按司の子孫だという。また、古琉球三山由来記集によれば、仲元の祖先の中には護佐丸の家臣で護佐丸と共に自害した宮里主がおり、その長兄は鬼大城の父親の栄野比大屋子という。阿摩和利の勝連城の戦い (1458年) では鬼大城と共に宮里主の長男荻堂主、次男安里大屋子、三男比嘉大屋子が参戦し、荻堂主と安里大屋子は戦死している。生き残った比嘉大屋子は荻堂村に住し父母兄弟の遺骨を集め一墳墓を築いて安置し、神主は仲元家に祀られている。この事から、15世紀以前から荻堂村が存在していたと思われる。仲元の屋敷の北は上ヌ毛 (イーヌモー) の丘陵近地で荻道集落の聖域 (クサティ 腰当) にあたる。荻道集落は典型的な中世から近世にかけての集落形態をしており、クサティに近い場所に草分けとなった根所の家があり、その直ぐ南に分家 (腹 ハラ、ワカリ) が家を構え、集落が南の傾斜地に広がっている。


御神屋 (ウカミヤー)

荻道集落の根所 (ニードゥクル) の仲元 (ナカムト) の屋敷にあった御神屋 (ウカミヤー) はこの場所に移されている。殿 (トゥン) とも呼ばれている。

御神屋 (ウカミヤー) には荻道集落の守り神が祀られていると伝わり、以前は旧暦1月2日の初御水撫で (ハチウビー) に拝んでいたが、現在では新暦の元日朝、区長や有志が樋川井 (ヒージャーガー)、前ヌ井 (メーヌカー)、上ヌ井 (イーヌカー)、西ヌ井 (イリヌカー) の共同井戸を回って拝む前にこの御神屋 (ウカミヤー) を拝んでいる。また、祖先供養の行事の旧暦3月の清明祭 (シーミー) にも拝まれ、その後に大城の御嶽も拝んでいる。旧暦6月25日のウンサク (神酒) の日にも拝む。旧暦7月7日の七夕、旧盆にも区長や有志が拝み、集落の繁栄、住民の健康、豊作などを祈願している。


荻道遺跡

荻道には古い遺跡がある。仲元の屋敷の北側標高120mの傾斜地では1904年 (明治37年) に荻道遺跡とその北には荻道貝塚が発見されている。荻道遺跡は沖縄の貝塚時代前期 (日本本土の縄文文化後期) にあたる2500年~3500年前の住居跡と思われ、宇佐浜土器とカヤウチバンタ式土器、石器、牙製品が出土している。この地に古代から人が住んでいた事が分かる。


荻堂貝塚

荻道遺跡地の西に荻堂貝塚の石碑が建立されている。国指定史跡の荻堂貝塚は1904年 (明治37年) に発見され、その後1919年 (大正8年) に発掘調査が行われ、昭和47年に国指定にされている。沖縄県では最古の貝塚とされ、沖縄にも縄文時代が存在し、沖縄と本土との交流があった事を証明した貴重な史跡になる。ここが貝塚跡ではないのだが、荻道遺跡にある丘陵の北の崖下にあった。3000年 ~ 3500年前の新石器時代前期の貝塚と考えられているので荻堂遺跡の住居跡より更に古い時代のものになる。貝塚の場所は現在ではゴルフ場になっており、かつての貝塚の中心部は消滅している。塚は標高140メートルの琉球石灰岩丘陵崖下に形成され、遺跡は屏風のような巨岩の下方東西約50メートル、南北約30メートルほどの小さな平坦地にあり、貝層は、もっとも厚いところで厚さ1.2メートルに達し、海水産 淡水産および陸産の貝類、魚骨、じゅごん、いのしし、いぬ等を含む獣骨等とともに、石器、荻堂式土器と命名された土器、骨製品、貝製品が出土している。


アカバンタ

荻道遺跡がある丘陵の西部分はアカバンタと呼ばれ、この場所も荻道集落では重要な祭場の一つで、綱引きの後、カナチヤチが行われていたそうだ。


上ヌ毛 (イーヌモー)

後原 (クシバル) の丘陵の東部分は上ヌ毛 (イーヌモー) と呼ばれ、荻道集落と大城集落共通の大城御嶽がある聖域になる。この上ヌ毛 (イーヌモー) や大城御嶽については、大城集落訪問時に触れる予定。


タチガー

字荻道の最北部の底田原 (スクタバル) にはタチガーと呼ばれる井泉がある。荻道集落から県道146号線のサカンケーで北へ道を進み、アカバンタの北側の道沿いにタチガーへの降り口がある。道を降りて行く。

道の途中の斜面にタチガーがある。タチガーは台地の崖からの湧水で水量が豊富で、水質も良く、かつては飲料水としても使われてきた。このタチガーは水が枯れることがなく、旱魃で荻道集落の村井の水が枯れた際にはここに水を汲みに来ていたという。また、下方の底田原の水田や畑への農業用水として使われてきた。戦後は米軍向けの清浄野菜の栽培には貴重な水だった。タチガー一帯には樹木が生い茂り涼しく、戦後しばらくの間は、下校途中の児童生徒たちの休憩場所の一つで、その冷たい清水を飲んだり、水浴びをしていたそうだ。また、タチガーの下では農耕用の馬を浴びせていた。現在でも畑への灌漑用水として使用されている。

このタチガーから水が溢れて下に流れて落ちている。水路脇には地蔵尊が置かれている。先日も幸せ地蔵を見たのだが、北中城村では二つ目の地蔵尊だ。この地蔵尊の謂れの説明板が立てられている。

平成の名水百選のひとつ、タチガーの清らかな湧き水が未来永劫に残ることを願って祠地蔵尊を建立しました。すべての命の根源である水に感謝し、節度・分別をもって、大切にしましょう。(合掌)

とある。

道を降りた脇道沿いには二つの貯水タンクがあり、タチガーからの水を貯めている。貯水タンクはそれぞれが荻道用、仲順用となっているそうだ。


ひまわり畑 (未訪問)

底田原 (スクタバル) では、緑肥に適しているするひまわりを10万本植えている。農地にひまわりが咲き誇り、1月中旬から2月下旬までが見頃になり、この時期に「ひまわり祭り」が開催されている。萩道の村おこしイベントの一つとなっている。生憎、その時期はとうに過ぎているので、インターネットに投稿されていた写真を拝借した。まだ少し時期が早いので、来年1月か2月に寄ってみようと思っている。



荻窪集落内は住民が美化に努めている様に思えた。道沿いには彫刻などが置かれ、家々には努めて花を栽培している。集落内で目に止まった花を撮影したのが下の写真。沖縄の12月は本土の夏の終わりから初秋ぐらいの気候で、日が照って風がない日は少し暑いぐらいでまだ半袖で過ごせる。

荻道集落から大城に移動し、史跡を散策。大城集落訪問レポートは別途。


参考資料

  • 北中城村史 (1970 安里 永太郎)
  • 北中城村史 第2巻 民俗編 (1996 北中城村史編纂委員会)
  • 北中城村史 第2巻 民俗編 付録 (1996 北中城村史編纂委員会)
  • 北中城村史 第4巻 戦争・論述編 (2010 北中城村史編纂委員会)
  • 荻道字誌 (2010 北中城村荻道自治会)