書かれた乙女(scripta puella)
Maria Wyke, 'Written Women: Propertius' scripta puella'という論文を読んだ。scripta puellaというラテン語表現(詳細は後述)はこれまであちこちで見聞きし、その具体的意味がずっと気になっていた。Wykeの論文は、この表現を業界に広めた意義深い研究だ。発表されたのは今から30年ほど前の1987年。著者のWykeはいまやラテン文学の大御所だ。
プロペルティウスは、全四巻から成る自身の作品のなかで、キュンティアなる女性を恋の相手にしているわけだが、その前半部にひとつの問題がみえるとWykeは言う。いわく、第1巻をみると、この女性の歴史的実在性が認められそうなのにたいし、次の第2巻に移ると、それは困難となり、彼女の虚構性が感知されるというのだ。このズレが議論の出発点となる。
ここでWykeが注目するのが、プロペルティウスの第2巻第10歌だ。これは、プロペルティウスのいわば「転向」を示す歌で、彼は、それまで没頭してきた恋愛詩を放棄し、別ジャンルである叙事詩をつくる旨宣言する。以下に一部を引用しよう。
だが、他の踊りでヘリコーンをめぐり歩く時だ。/今こそハエモニアの馬に活躍の場を与える時だ。/今こそ戦に強い軍隊を語り、/わが将軍のローマ陣を詠もうと欲する。/たとえ力不足でも、大胆さは少なくとも賞讃されよう。/偉大なことに関しては、欲するだけでも十分だ。/人生の初めは恋を、終りは動乱を歌うべきだ。/戦争を歌おう、私の乙女のことは書き終えたから(bella canam, quando scripta puella mea est)。
(プロペルティウス第2巻第10歌1~8行(中山訳を一部改変))
Wykeが焦点を当てるのは、本記事のテーマでもあるscripta puellaという表現だ。これは直訳すると「書かれた乙女」となる。そしてこの表現が、上述した第2巻におけるキュンティアの虚構性の議論とつながってくる。すなわち、第2巻の「乙女puella」(=キュンティア)は、あくまで「書かれたscripta」存在なのであり、その歴史的実在性は認められない、というのだ。Wykeは、この存在について、a female fictionという表現を用いている(p. 60)。
Wyke自身が主張しているわけではないが、のちの(とりわけラテン文学の)研究者たちは、このscripta puellaを、プロペルティウス以外の作家にも適用し、ジェンダー論的に解釈しているようだ。つまり、古代ローマの文学世界において、男性は「書く」、そして女性は「書かれる」、ということだ。じじつ、プロペルティウス作品の場合でも、「書く」プロペルティウスは男性であり、「書かれる」キュンティアは女性である。
Wykeが主題としたscripta puellaは、したがって、広い学問的射程をもつ概念とみなせる。たとえば(以前別の記事で触れた)Jenkinsという研究者は、ル=グウィンの『ラーウィーニア』のラーウィーニアは、自身がscripta puellaであることを自覚している、ととらえているようだ(Jenkins (2015), 187)。これは面白い議論で、この小説に興味をもっている僕もあれこれ言いたくなるが、長くなりそうなので今回はここで止めておく。
【参考文献】
Thomas E. Jenkins, Antiquity Now: The Classical World in the Contemporary American Imagination, Cambridge, 2015.
Maria Wyke, 'Written Women: Propertius' scripta puella', JRS 77 (1987), 47-61.
中山恒夫(編訳)『ローマ恋愛詩人集』国文社、1985年。