不易流転
https://note.com/kyomu_vp_2/n/nbeb3cdbc862f【「諸行無常」をめぐる言葉の解釈】より
仏教用語の、「諸行無常」。世のすべてのものは移り変わる。また、人生は儚く虚しいものである。…というのが一般的に知られている意味でしょう。
この言葉に関して、先日ハッとさせられる一文に出会いました。
もし物事が移ろわなければ、子どもの成長も、病気や怪我の治癒も叶いません。
月刊誌『致知』にて、理論物理学者の佐治晴夫さんが『宇宙の摂理と人間の生き方』を語った記事に現れたこの一文。万物の存在は常に揺れ動いていることによって保障されている。
そのため宇宙は絶対停止の状態では存在できない、という宇宙の原理。
そして、諸行無常という言葉が現れる『平家物語』の有名な一節。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵におなじ
人生の虚しさや儚さが綴られているこの一節も、見方を変えると実は宇宙の摂理が見えているような気がする、と佐治氏は言います。
そして、次のように述べています。
もし物事が移ろわなければ、子どもの成長も、病気や怪我の治癒も叶いません。世の中は諸行無常だからこそ意味があるのではないでしょうか。
儚さや虚しさなど「負」の感覚を抱く元々の意味に対して、別角度から捉えた、前向きであたたかな解釈です。
調べてみたところ、経営の神様と言われる松下幸之助も諸行無常について次のように述べています。
“諸行”とは“万物”ということであり、“無常”とは“流転”というようにも考えられますから、諸行無常とは、すなわち万物流転であり、生成発展ということであると解釈したらどうかと思うのです。
言葉には、もちろん本来の意味があります。
しかし、その本来の意味に囚われず、思い込みを一旦捨てて違う角度から捉えることで、言葉の意味・印象がガラリと変わる。
私たちは、解釈によって言葉の意味を「変える」ことが出来る。
それは、言葉を扱う人間だからこそ出来る、生きる力の一つだと思います。
言葉だって、時代によって移り変わる。
諸行無常を受け入れて、言葉と伴に流れるように生きていきたいですね。
https://konosuke-matsushita.com/column/cat71/post-59.php 【諸行無常は生成発展――松下幸之助のことば〈46〉】より
その昔、お釈迦さまは、“諸行無常”ということを説かれました。この教えは、一般には“世ははかないものだ”という意に解釈されているようです。そこには深い意味はあるとは思いますが、そのような解釈をすることによって、現世を否定するようになり、生きるはり合いをなくしてしまうようであれば、これはお互いの益にならないでしょう。私はそのように解釈するよりもむしろ、“諸行”とは“万物”ということであり、“無常”とは“流転”というようにも考えられますから、諸行無常とは、すなわち万物流転であり、生成発展ということであると解釈したらどうかと思うのです。いいかえますとお釈迦さまは、日に新たでなければならないぞ、ということを教えられたのだということです。
『人間としての成功』(1989)
解説
松下幸之助がいうように、諸行無常とは世のはかなさをいっていると多くの日本人が認識しているようですが、仏教用語の辞典などを見ても、そのような語義は明確化されていません。ならばお釈迦さまの本意とは、実際どうだったのでしょう。
お釈迦さま、すなわちゴータマ・シッダールタは、釈迦族の王子として生まれ、幼少期に何不自由なく育つ中、世間の荒廃を見、次第に人生の苦に悩むようになり、ついには出家の道を選んで、苦行のすえ悟りを得る……というのが一般的な理解です。その偉大な足跡を生半可な知識で解釈することは避けるべきかもしれません。ただ幸之助のように、人の道に役立つよう、先人・偉人の知恵を善なる方向に生かすべく、自分なりに解釈することは、それもまたよし、としていいのではないでしょうか。
考えてみれば、王族のお釈迦さまとは格段の差があるとはいえ、幸之助も富裕の家に生まれつきました。しかし、物心つくころには、父の米相場での失敗により家が没落してしまい、どん底から人生をスタートすることになります。“商売人として身を立てよ”という父の言葉を一生の支えとして生きることを宿命づけられた幸之助は、食べるために、まず仕事をしなければなりませんでした。
商売、事業に成功してからも、苦難は襲いかかりました。太平洋戦争敗戦という国難にあたり、幸之助自身、身内、さらには親族同様に深い絆で結ばれた社員とその家族の生活を背負って、上を向いて歩いていかねばなりませんでした。そうした運命に素直に従って生きた人間だからこそ、お釈迦さまの教えを尊重したうえで、悲観的ではなく、楽観的にとらえた。それはごく自然な業だったといえましょう。
FacebookJAN トクナガ さん投稿記事 【不易流転】(ふえきるてん)
こんにちはしゃちようの徳永です「不易流転」・・・この言葉は、15年前ほどに私の父である先代の社長が作った言葉です。
私が、社内マニュアルを作った際に父から「経営理念」として差し出された言葉です。
意味としては・・・時代の流れに乗りながらも不変的な人と人との繋がり、信頼関係、愛を
大切にする仕事の在り方ということです。
で、最近・・・江戸時代の経済学者 石田梅岩の本を読みましたがその中に似た言葉を見つけました。
「不易流行」
時代の要請に応じて変えるべきは変えて守るべき伝統は残す・・・という意味です。
父は勉強熱心で歴史にも詳しかったのでおそらく「不易流行」という言葉も知っていただろうな〜と思うのですが
「あのさ、あの不易流転って不易流行のパクリでしょ?」と聞いてみたいもんです。
今度、墓前で問いかけてみます(笑まあ、かなり私はこの「不易流転」を気に入ってますが・・・
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/20/00034/121800001/ 【「道徳と経済の両立」の理念を初めて広めた、石田梅岩とは何者か】より
石田梅岩編(1)
渋沢栄一の「論語と算盤(そろばん)」、松下幸之助の「社会貢献が使命、その報酬が利益」……。多くの名経営者が掲げる「道徳と経済の両立」の理念を、江戸時代中期、日本で初めて全国に広めた思想家がいた。商人出身の石田梅岩(ばいがん)。彼を開祖とする石門心学を教える心学講舎は、1700年代半ばから幕末までの100年余で45カ国、173カ所に設立され、商人をはじめ町人・農民から武士・大名に至るまで幅広くその教えを学んだ。
先人たちに持続可能な経営の理念を見る「江戸のSDGs」連載の初回は、「道徳と経済の両立」によって家や社会を末永く継続・発展させていくことを説き、持続可能な経営の先駆けとなった梅岩を取り上げる。後に米国の社会学者から「徳川時代の宗教」と評されるほど普及した石門心学は、現代日本人の生き方にも大きな影響を残している。石田梅岩とはどのような人物だったのか、研究者である大阪学院大学経済学部教授の森田健司氏に聞いた。
「道徳と経済の両立」を説いた梅岩の思想とは、どのようなものだったのでしょうか。
森田健司氏(以下、森田氏):梅岩は1739年に出版した『都鄙問答(とひもんどう)』の中で次のように述べています。
「商人で道を知らない者は、ただ貪ることだけをして家を滅ぼす。商人の道を知れば、欲心から離れ、仁心で努力するので、道にかなって栄えることができるだろう。これが学問の徳というものである。」
商人の生きるべき道を説いたのです。十分に勉強し、欲心から離れ、人を思いやる心(仁心)を持つのが商人である、という教えは、一見、厳しい要求に思えます。しかし梅岩は、正しく学ぶことで自分の仕事に正しく向かい合うことができ、それは労働の質を向上させると考えていました。
石田梅岩(1685~1744年)。現・京都府亀岡市の農家の次男として生まれ、8歳から京都の商家へ丁稚(でっち)奉公に出る。1727年に商家を辞し、1729年、45歳で自宅に講席を設け、生涯を講義や施行(せぎょう)にささげた。著書に『都鄙問答』(1739年)、『斉家論』(1744年)(森田健司氏提供)
当時、経済活動に最も関わっているのが商人でしたので、梅岩の経済論の多くは商人を例に語られています。しかし商人だけでなく、あらゆる職業の人に、同じ姿勢を要求しました。
梅岩は人間の本性について、徹底的に考え抜いた思想家でもあります。彼は「性」という言葉を使っていますが、本性と言い換えていいでしょう。学問によって様々な雑念を取り払い、本性に至ることは、個を超越し、利己主義を放棄することにつながるはず。自己の利益に心がとらわれている間は、道徳的に稚拙な段階だとみなしました。
「自らの精神で利己主義を抑え、常に天下、公の福利を願い、その実現につながる行いに励むことが人間の本性である」と考えたのです。すべての人が同じ道徳を持つべきだと梅岩は教えました。
ご著書『なぜ名経営者は石田梅岩に学ぶのか?』の中で、日本人の勤勉さ、正直さという特質や、明治の近代化・戦後の復興をいち早く成し遂げた理由も、石田梅岩の思想を知らずには理解できないと指摘されています。
森田氏:米国の社会学者、ロバート・N・ベラーは、1957年の著書『徳川時代の宗教』の中で、明治時代に日本が急速な近代化を果たすことができた要因として、石門心学の存在を挙げています。石門心学は前述した生き方を実現するために、勤勉、倹約、正直を重んじました。これが、日常の仕事に対して規律を持って持続的に取り組む人々を育むのに重要だったという分析です。「勤勉・倹約・正直」は、現代に薄れてきたとはいえ、日本人を代表する気質と言えるでしょう。
梅岩は倹約について「自分のために物事を節約することではない。世界のために、従来は三つ必要だったものを二つで済ませるようにすることを倹約と言うのである」(『石田先生語録』)と述べています。単にケチをして、ものやお金をためこむのではありません。資源に限りがあるとすれば、2つで済ませることで3つ目は公共のものとなり、ほかの誰か、あるいは社会の役に立つ、と考えればいいでしょう。
また正直については、様々なところで手厳しい指摘をしています。「人は正直だから生きていられるのであって、正直を曲げて生きている者は、幸運にも災いを免れた者にすぎない」という孔子の言葉を引用した後、「不正直に生きている者は、生きてはいても死人と同じなのだ」(『斉家論』)とまで言っています。
識字率の低かった当時、心学講舎では口述によって、身分、男女の差なく、誰でも無料で石門心学を学ぶことができました。それまで学問というのは一部の上流階級のものであり、これだけ民衆に広く伝わった思想は日本の歴史上初めてです。明治以降は衰退しましたが、日本人の心に深く根付いているのは間違いないと思います。
森田 健司(もりた・けんじ)
1974年神戸市生まれ。京都大学経済学部卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(人間・環境学)。現在、大阪学院大学経済学部教授。専門は社会思想史。特に江戸時代の庶民文化・思想の研究に注力している。著書に『江戸暮らしの内側』(中公新書ラクレ)、『かわら版で読み解く江戸の大事件』(彩図社)、『なぜ名経営者は石田梅岩に学ぶのか?』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)など多数(写真:山本さとる)
ストイックな生き方を求める梅岩の思想が、商家や武士などのマネジメント層から、一般民衆に至るまで、広い層に受け入れられたのはなぜでしょうか。
森田氏:これだけ梅岩の思想が広まったのは、時代背景と大きな関係があります。
今日を生きるのに精いっぱいで、5年後、10年後のことを考えて何かをするということができない戦国時代が終わり、江戸時代に入りました。60~70年ほどたって社会が安定し、ようやく将来を考えながら仕事をすることが普通になりました。ちょっと変な言い方をすると、今日よりも明日の価値の方が高くなった時代が来た。それが元禄時代です。
貨幣経済も隆盛し、将来を見据えた商売ができるようになった。現時点ではもうからなくても、将来的に利潤が出ればいい、あるいは自分の商家が長く続いていけるのならそれでいいという考え方も出てきました。
一方で、江戸時代の“国教”であった儒学は、商業に対して否定的でした。今、考えると稚拙な内容ですが、高名な学者から「商人は物を作らないし、自分の欲望の通りに、お金が欲しかったら高い価格を付けるといったことをしている。物価を下げたければ商人を怒ればいい」という意見があったほどです。
「士農工商」という言葉が職業の地位を表すものではなく、様々な職業があることを表すものだということが近年の研究で明らかになっています。「商」が最後だから一番地位が低かった、という昭和の頃の議論はもはや通用しません。しかし「商業は欲望に基づいているもので、尊敬できない仕事である」という、“賤商観”が常識として社会に定着していたのは確かです。
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江戸のSDGs
世界中の経営者から注目され、取り組む企業が増えている「サステナブル経営(持続可能な経営)」。貨幣…
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その中で、梅岩は商人の道を説くのと同時に、商人が利を得る行為を強く肯定しています。
『都鄙問答』の中で、「物を売ることで利を得るのは商人の道である。 ~中略~ 商人が売買で得る利は、武士の禄(ろく)と同じである。売買の利益がないというのは、武士に給料がないのと同じなのだ」と評しています。
賤商観の中で、「何とかして自分たちの存在価値を見いだしたい」という思いが商人たちの間にありました。梅岩の思想が受け入れられたのは、時代の要請だったわけです。梅岩の直弟子たちの多くが商家出身であったことからもそれは裏付けられます。
前述のように、「勤勉・倹約・正直」という条件がこれに加わるわけですが、商売の正当性を説いた梅岩の思想に、商人たちが飛びついたのは当然のことだったでしょう。
商人が自分たちの存在を支えてくれる理論を欲していたのですね。
森田氏:もう1つ重要なのは、平和になって、次の世代にその商家を継いでいけるという現実が生まれたことです。子や孫に家を譲ったときに、誇りを持って仕事をしてもらいたいという思いが強くなった。その裏付けとなるのが梅岩の思想でした。
その先には、100年後、200年後と自分の家が続いてほしいという思いがあります。現代とは感覚がだいぶ違うと思いますが、当時の人々が一番に願ったのは家の存続です。家はもちろん血縁関係が中心ですが、継ぐのが養子であっても問題はありません。家をいかにして継続させていくか、これはもう信仰に近いもので、「人生で一番うれしいこと、自分の価値観の一番上にくるのは、家が永遠に続いていくこと」という感覚でした。
「そんなことをすれば家が続かないですよ」「こういう素晴らしい主人がいる家はずっと続くでしょう」ということを梅岩も著書の中で何度も書いています。現代人の我々にはあまり響かない言葉ではあるのですが、当時はそれが一種の宗教的な安心感を与えるものでした。
心学講舎の様子。身分や男女を問わず、無料で講義を聴くことができた(森田健司氏提供)
梅岩の教えを学んだ民衆にとっても、家の存続は大きな意味を持っていたのでしょうか。
森田氏:それももちろんありますが、もっと大きかったのは、「自分がこの仕事をする意味」を梅岩が与えてくれたことだと思います。
平和になって皆が自分の存在意義を考えるようになったのは、商人の場合と一緒です。
梅岩の言葉に「形によるの心」というものがあります。分かりにくいのですが、「形があるものは、形がそのまま心である」、そして人の形とは「自分の職分」であるという解釈につながります。あるいは「自分の置かれた状況」と言い換えればいいでしょうか。
「自分が置かれた状況で励むことが、自分の本性を知るための修養になる」「どんな状況であっても、それに不満を言わず、適切な行動を実践することで心を磨いていくことができる」と梅岩は教えました。目の前の仕事に勤勉に取り組むことが、本性に近づくことにつながるのです。客観的に見れば、これは勤勉な労働者を大量に生み出すことにつながりました。一方、一人ひとりの心の内を見れば、修養を積むことで自分の本性に近づいているという満足感・幸福感を得て、日常の仕事に取り組む意欲が湧いたでしょう。
戦災・天災にあってもただ嘆いたり、不満を言ったりせず、復興に向けて一歩ずつ努力する日本人の気質は、梅岩の思想と無意識のうちにつながっているのではないでしょうか。