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Okinawa 沖縄 #2 Day 276 (19/12/24) 旧中城間切 北中城村 (08) Kishaba Hamlet 喜舎場集落

2024.12.20 10:06

旧中城間切 北中城村 喜舎場集落 (チサバ、きしゃば)



旧中城間切 北中城村 喜舎場集落 (チサバ、きしゃば)

喜舎場 (チサバ、きしゃば) は、北中城村の中央部にあり、東は仲順、北は屋宜原、西は瑞慶覧の米軍用施設、南は安谷屋・荻道に接している。喜舎場の地名は 「おもろさうし」 に見られる。喜舎場村の創建については、「球陽」 の外巻 「遺老説伝」 に「往昔、喜舎場公ナル者有り、此ノ邑ヲ創建ス。因リテ喜舎場村ト名ヅク。是レ故二今二至ルマデ毎年二月、村長皆其ノ墓ヲ祭ル。墓八本村後岩二在り」 とあり、村の創建者として喜舎場公なる人物と公の墓の所在を記してある。更に、喜舎場公の子孫 (喜舎場子) が津堅島に渡り、その島で繁栄をしたとある。

喜舎場は、喜舎場原 (キシャババル)、東原 (アガリバル)、東前原 (アガリメーバル)、西前原 (イリメーバル)、赤田原 (アカタバル)、西原 (イリバル)、根原 (ニイバル)、嶽根原 (タキンニーバル)、甲斐川原 (ケイガーバル)、上原 (イーバル) の9つの小字で構成されている。

この中の小字喜舎場原が喜舎場の中心地で北の高台の南斜面に集落が形成され人口もこの地域に集中している。喜舎場原には集落発祥の地とされる喜舎場御嶽一帯に拝所、遺跡が集中している。

東前原は戦前には大部分が農地だったが、現在では農地は少なく、住宅地となり、そこには郵便局、銀行、商店、学校がある。西前原、赤田原は戦前はほとんどが農地、西原は森林地帯だったが、そこは米軍基地に接収されたままになっている。

戦前にはもう一つ小字の喜舎場後原を含んでいた。喜舎場の首里系居住人の屋取だった屋宜原屋取集落は1916年 (大正6年) に、屋宜原として行政上分離独立 (現在は中城村) している。

1903年 (明治36年) 当時の士族と平民の人口が下のグラフだが、喜舎場集落には34世帯 (184人) が士族だった。集落全体 (225世帯 1022人) の15%にあたる。まだ、屋宜原が分離独立する前なので、この34世帯のほとんどが屋宜原屋取集落の住民と思われる。

昭和の初期まで、那覇へは、宜野湾村の普天間に出て客馬車に乗るか、宜野湾村の大山から軽便鉄道に乗るか、北谷村の北谷から軽便鉄道に乗らなければならなかった。昭和10年代になると、現在の宜野湾北中城線を新垣バスが那覇泡瀬間を運行が始まり交通の便がよくなった。喜舎場住民は、普天間か泡瀬に買い物に行っていた。

集落内には東前組、東後組、西前組、西後組の四組に組織され、製糖小屋、葬式、組行事一切は組単位で行われていた。戦前の喜舎場では農業が主要産業で農作物は甘蔗と甘藷だった。製糖小屋 (サーターヤー) は、各組一棟の外に東後組と西後組がせんごさらに一棟所有し、釜造り、車 (しぼり機) の組立てを共同で行っていた。戦後は農地の殆どが米軍基地に接収された事で、専業農業はなく、農業は衰退している。喜舎場の西半分は米軍基地として接収され、現在でも返還されていないのだが、元々集落があった地域は軍用地接収からははずれ、この元集落を中心として民家が拡大している。

喜舎場集落は琉球王国時代から明治時代には北中城村の中では比較的人口が多い地域で、熱田、安谷屋に次いで三番目に人口の多い集落だった。現在では島袋、安谷屋に次いで三番目に人口の多い地域になっている。明治時代には屋宜原も含んでいたので、当時の喜舎場地域で比較すると明治時代から人口は3.7倍に増加して二番目に多い地域になる。

沖縄戦で村民の23%にあたる161名が犠牲となったが、戦後数年で元の人口レベルまで戻り、その後も人口は増加し、特に1972年の本土復帰後1980年頃までは戦い人口増加率が続いていた。1980年以降は増加率が鈍化するも、2000年までは増加が維持されていた。2000年以降は増減を凝り返し、近年は横ばい状態となっている。


喜舎場集落の拝所と主な祭祀行事

戦前までに行われていた行事は下の表になる。他の集落とも共通するのだが、かつては農業に関連する行事が多かったのだが、農業が衰退したことにより、継続されていない行事が多くなっている。

ウマチーなどの重要な祭祀行事は明治半ばごろまでは端慶覧ノロによって執り行われていた。

琉球国由来記等に記載されている拝所は以下の通り。

  • 御嶽: 喜舎場御嶽
  • 殿: 掟根所 (所在地不明)、安慶名根所 (所在地不明) 
  • 拝所: 仲間神屋、火ヌ神
  • 井泉: ビンタガー、大井泉、イラブガー、サラガー (端慶覧基地内)


北中城村役場

先日訪れた安谷屋の若松公園の西の県道81号線 (宜野湾北中城線) を北に進み高速道路を越えた所に北中城村役場が建っている。この場所は戦前の喜舎場集落の南縁にあたる。戦後、中城村は久場崎から安谷屋の後方 (亀甲原) 迄は米軍に接収され軍施設が置かれ、中城村の南部と北部は交通も遮断され分断状態となり、中城村としての統一行政は極めて困難な状況だった。この事から分村が協議され、沖縄民政政府により1946年 (昭和21年) 5月に分村が決定され、仲順の大田病院 (写真左下) に仮役所が設けられ、1948年 (昭和23年) に仲順東原にあった米軍ユニバーシティーが移動することになり、コンセット三棟を払い下げで取得し、現役場敷地に村役場を村民総動員で建て、庁舎として移動した。1972年 (昭和47年) に新しく役場 (写真右下) が建てられ、その後、老朽化で2021年 (令和3年) 1月に建て替えられている。

2004年 (平成16年) に平成の大合併の際に中城村と北中城村を合併し、中城市とする協議が開始されたが、早くも翌年には合併協議は廃止されている。民意形成ができていない、財政健全化を最優先にすべき、合併に消極的な新村長の就任を理由としているが、それ以上に掘り下げた説明は見当たらなかった。中城村を訪れた際に、住民から聞いた話は、潤っている北中城村は中城村をお荷物になると考えて合併を拒否したという。これが一番の理由かはわからないが、各地で起こった合併協議ではそれぞれの市町村であった課題だ。平成の大合併は政府の優秀(?) な官僚が補助金をぶら下げて各行政を煽ったもので、合併後もうまく行っていない行政も多い。


大田為淳頌徳碑

役場前には大田為淳頌徳碑と北中城村の歌碑が置かれていた。大田為淳は1897年 (明治30年)から1908年 (明治41年) まで初代中城間切長、それに引き続き中城村になった際に初代村長を1908年 (明治41年) から1912年 (明治45年) を務めている。琉球王国時代の官有地だった杣山 (ソマヤマ) の払い下げが一部旧支配階級や知事腹心の部下などに不当に行われ、中城村でも松山御殿 (尚順) が払い下げ申請をしており、これに対して中城間切への払い下げ申請で対抗して、一部を除き、中城間切が確保した。その他にも片髷髪を改め、他村に嫁ぐ者の馬手間(身代金)などを廃止し、村民の風俗改善にも努力を払った。また、敬老会の組織など、産業、教育の振興、海外移民の奨励などの功績を残し、1911年 (明治44年) には教育功労者として文部大臣並に沖縄県知事から表彰されている。


北中城小学校 (喜舎場国民学校跡)、北中城中学校、アシビナー跡、アシビナーガ-跡、ウマィー (馬場) 跡

役場のすぐ東隣には北中城小学校、県道81号線の南には北中城中学校があり、北中城村の中心地となっている。この北中城小学校は1894年 (明治27年) に中城小学校喜舎場分校として始まった。1902年 (明治35年) に独立し喜舎場小学校となっている。その後、喜舎場高等小学校を経て、1941年 (昭和16年) に喜舎場国民学校と移行している。沖縄戦直前まではここに駐留した日本軍が使用し、学童は村内の倶楽部や民家で授業を受けていた。沖縄戦で校舎一部を残し焼け落ち、戦後、1945年 (昭和20年) 12月に安谷屋小学校として教育を再開している。1946年 (昭和21年) に喜舎場校を本校として北中城初等小学校となった。1947年 (昭和22年) に大城後原に移転。1948年 (昭和23年) の学制改革により、北中城小学校となり、北中城中学校も創立された。1954年 (昭和29年) に大城後原から喜舎場の現在地に小学校と中学校が移転し現在に至っている。北中城小学校は約800名の特別支援学校の約50名の生徒が通い、各学級は4~5クラスで授業を行っている。

小学校のグラウンドは戦前にはアシビナー (遊び庭) で水泳プールの入り口辺りにはアシビナーガーがあったのだが、1929年 (昭和4年) に運動場拡張で、喜舎場公民館前に移設されて、更に、1954年 (昭和29年) の殿毛 (トゥヌモー) 整備で、喜舎場公園に移された。

また、かつてのアシビナー北西縁はウマィー (馬場) だった。かつてはこの馬場で、西仲村渠と東仲村渠に分かれて綱引きが行われていた。

中学校建設に際しては複雑な経緯がある。1948年 (昭和23年) の学制改革で、旧喜舎場国民学校跡に北中城小学校と北中城中学校が併設された。その後、生徒数の増加で、1958年 (昭和33年)に 学校敷地を北西の集落民家地域への拡張をして中学校の敷地とする計画が出された。喜舎場住民は過去の土地接収の苦い経験から、他の敷地での中学校建設を主張して反対運動を展開し、教育委員会との協議は並行線だった。この事より教育委員会は強制収用を通告。これに対し、喜舎場住民は北中城村全土に反対運動を広げて行った。その後、教育委員会からの反応も無く、申請を取り下げている。住民の粘り強い運動の勝利だった。この結果、北中城中学校は現在の広い敷地に建てられ、現在に至っている。教育委員会の計画ではこれ程の環境の中学校は実現出来なかった事から、喜舎場住民の先見性のある論理展開での反対運動が支持されたと思える。


北中城郵便局 (喜舎場郵便局跡)

北中城小学校がある丘の下、県道81号線沿いに北中城郵便局がある。1934年 (昭和9年) に喜舎場郵便取扱所がこの場所に設置され、1937年 (昭和12年) に喜舎場郵便局に昇格。第二次世界戦争で業務停止していたが、1946年 (昭和21年) に再建されて北中城郵便局と改称されて現在に至っている。訪問すると、現在は改修工事が行われていた。


ビンダガー

北中城村役場の北側から喜舎場集落が北に伸びている。北中城小学校の校門の手前の路地を北に進むと、道路から下への下り口がある。この先にビンダガーがある。築造時期は不明だが、戦前にはこの西側にサーターヤー (製糖小屋) があり、この井戸からの水を使用していた。農繁期には井戸周辺の住民が飲み水や洗濯などの生活用水としても使用されていた。

ビンダガーの西がサーターヤー (製糖小屋) があった場所で、その北の道はビンタ道が通り、戦前にはサーターヤーの隅にはビンタマチューと呼ばれた松が生え、そこにはビンタグムイ (溜池) があり、また、この後に見るのだが、1983年 (昭和58年) に喜舎場公園に移設された石獅子も置かれていた。


喜舎場公民館

サーターヤーの西のビンタグ道は大きくカーブして集落中心に通じている。この道を進むと喜舎場公民館に出る。戦前は倶楽部と呼ばれていた。沖縄戦では村民が供出した食料が保管されていた。公民館前には酸素ボンベの釣鐘が保存されている。


喜舎場のおもろの碑

喜舎場公民館のすぐ南にある児童公園 (喜舎場ウフカー公苑) 内に「喜舎場のおもろの碑」が置かれている。

歌碑には

一 きしゃは つくりきよ きしゃは おなりしや ゑけ はひ
 (喜舎場つくり子は 喜舎場おなり子は あれ まあ)
又 よへ みちやるいめの まよなかのいめの
 (昨夜見た夢の真夜中の夢の)
又 いめや あとなもの いめや うせなもの
(夢は跡なく消えるもの夢は失せてなくなるもの)
又 おなり たちへともて つくり たちへともて
(おなりを抱いたと思ったのに つくりを抱いたと思ったのに)

と記されており「喜舎場の美しいツクリ(人名)を抱いたと思ったものの、それは昨夜見た夢であったよ、夢はたよりないものよ」という狂言的な歌になっている。


喜舎場大井泉 (ウフカー)、洗濯ガー、カーグムイ (井戸溜池)

喜舎場公民館のすぐ西に大井泉 (ウフカー) がある。北中城村で一番大きな井泉で喜舎場集落の共同井戸で飲料水等の生活用水として利用されていた。このウフカーの水汲みには瓶かひしゃく以外は用いてはならないルールがあったそうだ。また正月の若水 (ワカミジ) や新生児の産水 (ウブミジ) を汲む産井泉 (ウブガー) としても使われ、旧暦5月のウマチー (収穫祭) に住民により拝まれていた。

敷地にはその他に衣料等の洗濯に使われた洗濯ガー (写真上) と畑の帰りに手足を洗うために利用されたカーグムイ (井戸溜池 写真下) が残っている。


栄田フグギ

喜舎場公民館から1ブロック東の所に仲順安里門中の腹 (分家) で旧家の屋号栄田の屋敷がある。立派な石垣の塀が残っており、敷地内、道沿いには防風林として使われていた樹齢300年を越えるフクギが並木の様に生息している。


喜屋武家住宅

喜舎場公民館から1ブロック北に立派な石垣に囲われた瓦屋根の屋敷がある。100年程前に大工の棟梁だったこの屋敷の当主が建て、沖縄戦の戦禍を免れ残っている。沖縄伝統の平屋様式で、チャーギ (イヌマキ) の木造本瓦葺、ヒンプンや石垣も昔のままに残っている。


仲間神屋

喜屋武家住宅から道を東に1ブロック進み、左折して喜舎場公園への坂道を登る。公園入口手前に琉球赤瓦屋根の仲間神屋がある。仲間神屋は1964年 (昭和39年) に建てられていたのだが、老朽化で2008年 (平成20年) に建て替えられている。この仲間家は喜舎場村を創建した喜舎場公の直系にあたり、喜舎場の根所 (ニードゥクル) と伝えられている。集落の重要なウガンジュ (拝所) となっており、喜舎場公の墓などを遥拝する場所ともなっており、喜舎場公例祭や様々な祭事で拝まれている重要な場所になる。琉球王由来記では、掟根所 (ウィッチニードゥクル) と安慶名根所 (アギナーニードゥクル) の2カ所の根所の記載があるのだが、所在地不明で、仲間神屋はそのいずれでもない様だ。屋敷跡にはチンガー (釣瓶井戸 写真右下) が残っていた。喜舎場では明治中期までは個人宅に井戸はなく、村井 (ムラガー、共同井戸) を利用していたが、明治30年代に大旱魃が起こり、村井も枯れ、集落から500m離れたサラガー (現在は米軍基地内) の泉から水を運んだという。この教訓から、屋敷ごとに井戸掘りが始まり、ほとんどの屋敷内に深井戸が掘られている。ここの井戸もその時に掘られたものだろう。その後、1958年 ~ 63年(昭和33 ~ 38年) 沖縄は、大旱魃に見舞われ、喜舎場でも屋敷内の多数の深井戸や村井 (ムラガー) までが干し上がってしまい、給水運搬車で借り瑞慶覧東後原のソージガーから数週間にわたり水 を汲み上げ、喜舎場、熱田、安谷屋、荻道、大城に水を供給した。この事で、その後、ソージガーから水を喜舎場、仲順、屋宜原の三字に給水する簡易水道事業を策定し、米国民政府高等弁務官資金の事業補助金の交付を受けて工事に着手した。ソージガーの水を、米軍基地フェンス沿いに水道管を埋設し、嶽根原 (現在のあやかりの杜敷地) まで大型ポンプで水を揚げ、濾過池で濾過し、水を低地の集落に流す仕組みを完成させた。ここまでは補助金により賄ったが、集落内の給水工事は喜舎場、仲順、屋宜原の三字で簡易水道組合を作り、各字で工事を実施、資金不足分の水道管の埋設工事は、各住民が労役を提供したそうだ。この様にして、全世帯まで水道が敷設された。多くの字での簡易水道は第一段階では、集落内の共同水タンクまでの敷設だったが、この地域では各家庭まで敷設している。集落のリーダーシップと住民の団結力は評価に値するだろう。


火ヌ神 (ヒヌカン) 

仲間神屋敷地南側を通る小道を西へ進むと火ヌ神 (ヒヌカン) があり、喜舎場集落の住民の無病息災、幸福と安寧、繁栄を見守っている。石垣に囲まれた火ヌ神には魔除けの石柱も一緒に設置されている。


喜舎場公園

仲間神屋から道を登り喜舎場集落を出たところが1978年 (昭和53年) に整備された喜舎場公園となっている。公園にはゲートボール場や昭和戦後に作られたのだろうコンクリート製の滑り台があった。


喜舎場の石獅子

喜舎場公園内に喜舎場の石獅子が置かれている。この石獅子は元々は、先に訪れたビンタガーのサーターヤー脇にあったのだが、1983年 (昭和58年) に、公園内に移設されている。隣村の安谷屋集落にあるカニサンと呼ばれる巨岩に向いていた。喜舎場住民はカニサンは喜舎場に災いをもたらすフィーザン (火山) と信じており、その返し (ケーシ) として石獅子を設置したという。沖縄島尻地方では殆どの村で石獅子を見かけるのだが、この中部地方では見かけることが少ない。


喜舎場の殿 (トゥン、上門之殿)

石獅子の近くに神アサギが置かれている。この辺りは殿ヌ毛 (トゥヌモー) と呼ばれ、この神アサギは喜舎場の殿 (トゥン) にあたる。神アサギ内の祭壇には霊石が祀られている。琉球国由来記にある上門之殿 (ウィージョーヌトゥン) とされ、「稲二祭之時 (ウマチー)、花米九合完、五水六合完、五水六合完、神酒 (ウンサク) 一完、(喜舎場地頭) 五水四合完、神酒四完 (二米、二芋) シロマシニ器 (同村百姓中) 供之。瑞慶覧巫ニテ祭祀也。」と記載されている。

喜舎場の殿の後方丘陵の中腹一帯は、グスク時代の喜舎場御嶽遺物散布地で、グスク土器や青磁が採集されている。


戦没者慰霊之塔

殿の西側に戦没者慰霊之塔が置かれている。戦後、1954年 (昭和29年) に建立 (写真中) され、2004年 (平成16年) に再建され、喜舎場住民の157柱が合祀されている。村では毎年慰霊祭を行っている。

喜舎場集落の沖縄戦での戦没者詳細は以下の通りで、北中城村の中では戦没者率は23.2%と低い地域だった。低いとは言え、村人の4人に一人は無くなっているので、決して低いわけではく、やはり悲劇だったことは間違いない。

1945年 (昭和20年) 4月1日に北谷の海岸に上陸した米軍は、日本軍石部隊と交戦となるが、石部隊は圧倒され、その日のうちに首里方面に敗走。この日本軍敗走で4月2日にはこの辺りには日本軍はおらず、米軍の侵攻は難なく行われた。まずは瑞慶覧・屋宜原・安谷屋・石平を占領、ついで北側にある島袋・比嘉、続いて中間にある喜舎場・仲順、東側にある渡口・和仁屋・ 熱田、南側にある荻道・大城が2日から3日にかけて米軍に掌握され、村に留まっていた住民が捕虜になっている。北中城村では村内での戦没者が比較的少ない。住民が避難していたガマには日本兵がいなかった事やハワイ帰りで英語が通じる住民がいた事で、住民の投降がすんなりと行われた。日本軍が移動して行った島尻方面に避難する住民もいたが、米軍の侵攻は早く、島尻への道は米軍に占領され、その前で捕虜になった住民も多くあった。何らかの方法で島尻に逃げた人たちは、多くが逃避行の途中で亡くなっている。捕虜となった住民 (1500 人) は4月4日に開設された島袋の収容所に送られ、5日には6千人、13日には1万3千人に増えている。沖縄戦が南部戦線に移り、南部で捕虜になった住民が多数運ばれたため、島袋や野嵩収容所では収容不可能となり、喜舎場 (~7月28日 11,700人)・安谷屋 (~ 7月28日 7,075人) にも収容所が設置された。7月11日には米軍の作戦変更により島袋収容所が閉鎖され、喜舎場、安谷屋の捕虜も含め福山などの収容所に移っている。後に北部の漢那・中川・古知屋の収容所にも移動している。

戦後、1945年 (昭和20年) 10月に捕虜収容所にいた喜舎場、仲順、熱田、和仁屋、渡口住民は喜舎場、仲順地区への帰還許可がおり、先発隊が住民帰還準備を始め、1946年 (昭和21年) 2月に住民帰還が実現した。しかし、1947年 (昭和27年) の夏には喜舎場の一部の家庭に米軍より軍用地とする旨が通達され補償も無く強制的に立ち退きが行われた。更に、朝鮮戦争 (1950年6月 ~ 1953年7月) の影響もあり、基地拡大の目的で、1950年6月に米軍から口頭で喜舎場地域の全面立退勧告が出された。(当時は米軍は公的手続きも無く、勝手に軍用地を整備していた。喜舎場もこのように西側は米軍兵士住宅地となっている。地域の25%にあたる。) 住民は勧告撤回運動を強力に続け、その努力の結果、1952年5月に喜舎場地域の軍用地指定が口頭にて解除された。この様に、沖縄の戦後は占領地の立場で、日本政府には頼ることもできず、琉球政府は米軍の傀儡組織だったため、米軍に翻弄され、住民は、自分達で生活を守らざるを得ない状態だった。現在でも喜舎場の西半分はキャンプ瑞慶覧として米軍に接収されたままになっている。2024年度以降に現在の施設がハンセン基地に移設された後に返還予定とあるのだが、キャンプ内では新しい学校の建設工事が行われており、返還を予定しているような雰囲気は感じられない。


喜舎場御嶽

喜舎場公園の奥に小高い丘の森がある。そこ全体が喜舎場の聖域で喜友名御嶽と呼ばれている。


喜舎場公の墓

丘への上り口入り口には喜舎場公と記された鳥居が建っている。戦後に建てられた鳥居で、そこから上への長い石段がある。石段を昇り切ると岩に挟まれた通路があり、喜舎場公の墓への岩門となっている。

岩門を潜った先が喜舎場公の墓で、琉球石灰岩の岩の上に宝珠が載った石祠が建てられている。「昭和十二年八月建設」とある。喜舎場公は、13世紀初頭に喜舎場村を創建した人物と伝わっている。「球陽」外巻「遺老説伝」には「往昔、喜舎場公ナル者有リ、此ノ邑ヲ創建ス。因リテ喜舎場村ト名ヅク。是レ故ニ今ニ至ルマデ毎年二月、村長皆其ノ墓ヲ祭ル。墓ハ本村後岩ニ在リ」と記されている。1936年 (昭和11年) に喜舎場公の墓を探しあて、遺骨を収集して翌年に喜舎場御嶽の頂上に建立したのがこの墓になる。かつては二月に祭祀を行っていたが、現在は、旧9月18日に例祭が行われている。


喜舎場公之子孫上代之墓

喜舎場公の墓の入口横に上る石段があり、先ほどの岩門の上に架けられた石橋を渡ると喜舎場公之子孫上代之墓が置かれれいる。元々はイラブーガーの近くにあった仲間の祖先の墓なのだが、1968年 (昭和43年) にイラブーガーの斜面で地滑りがあり、墓も危ないという事で1970年 (昭和45年) 頃に、ここの横穴の墓に遺骨を移動し埋葬している。


喜舎場村祖先御墓 (アーマンチューの墓)

喜舎場公の墓から下に降りて行く急な石段があり、その石段途中、喜舎場公の墓がある巨岩の岩根に喜舎場村祖先御墓 (アーマンチューの墓) がある。戦後、1955年 (昭和30年) にイーヌカー周辺に野ざらしになっていたアーマンチューと呼ばれた遺骨を収集して埋葬したもので、現在では旧暦9月18日に例祭が執り行われており、ムラシーミー (村清明祭) で拝まれている。


上ヌ井戸 (イーヌカー)

アーマンチューの墓から石段を降ると森の中へ入っていく道があり、その奥の琉球石灰岩の巨岩の下に上ヌ井戸 (イーヌカー) が残っている。この上ヌ井戸はハチウビー (旧正月) やウマチー (旧2月15日、旧5月15日、旧6月15日) の豊穣祈願と収穫祭に集落の住民により拝まれている。


イラブガー

上ヌ井戸 (イーヌカー) の岩場の場所にイラブガーへの道案内板が置かれていたので、道を西に進む。道は途中で途切れ、その先は木々で覆われている。道の延長線を鎌で草を刈りながら進むがそれらしき物は見当たらなかった。後で、公民館で場所を確認すると、以前は村で拝んでいたのだが、井戸は私有地にあり、アクセスに問題があるのでここ数年は訪れておらず、それ以降は大井泉 (ウフカー)から遥拝 (ウトゥーシ) していると言っていた。資料によると、イラブガーは岩の付け根を掘り込み、周りを琉球石灰岩を積み上げた井戸になる。井戸の側には1875年 (明治8年) の香炉が置かれているそうだ。ここは甲斐川原 (ケイガーバル) 内で、この辺りは喜舎場の村立てが行われた古島だったという。その後、いつの時代かに、現在の集落の場所に移動したという。古島時代には先程の上ヌ井戸 (イーヌカー) と同様に住民が利用していたと思われる。現在では喜舎場集落にある大井 (ウフカー) が産井 (ンブガー) だが、昔は、このイラブガーが井戸が産井 (ンブガー) だった。イラブーガーの語義は、イラブは「選ぶ」の意味で、村人たちによって選びに選び抜かれた、由緒あるカーと考えられる。イラブーガーは、喜舎場の村建てのころのンブガー(産井戸)で、集落もその周辺にあったと考えられる。ハチウビー (旧正月)、ウマチー (旧2月15日、旧5月15日、旧6月15日) に遥拝されている。かつては喜舎場上原一帯は仲順集落発祥の地と伝わっており、戦前には仲順集落でもこの井戸を旧9月に拝んでいたそうだ。資料にあった井戸の写真も載せておく。


EMウェルネス 暮らしの発酵ライフスタイルリゾート

イラブガーを探しながら森の中を進むと、山の上に出てしまった。喜舎場公園の上部で、 「EMウェルネス 暮らしの発酵ライフスタイルリゾート」 というホテルが建っている。このホテル敷地一帯はグスク時代の甲斐川原遺跡だった。ホテルや道路建設によって跡形もなく破壊されてしまったが、この遺跡からはグスク土器や貝殻が見つかっている。

現在のホテルは喜舎場に本社を置くEM研究機構 (EM菌を活用した農業製品や、発酵飲料などの開発・製造を行う企業) が運営する健康をコンセプトとして運営されている。ここには元々はヒルトンホテルが建てられていた。1968年に米軍土木請負会社が喜舎場地主約120名から土地を借りて、工事が始まったが、工事途中に地滑りが起こり、家屋、墓、農地に被害が出て、その補償協議は裁判まで持ち込まれ決着するといった事件はあったが、その後地盤補強して工事を再開、1970年 (昭和45年) にホテルが完成し、沖縄ヒルトンホテルが開業した。10年後には沖縄シェラトンホテルに移行している。この期間には賃料不払いで訴訟にまで発展している。1990年代に北海道の不動産会社がホテルを買収し大型改修工事を始めたが、融資銀行の倒産で経営不振、賃料不払いでホテルは閉鎖された。2004年にEM研究機構がホテルを買収し、不払い金を地主に支払い、改修工事を再開し、2006年にEMウェルネス 暮らしの発酵ライフスタイルリゾートとして再開し、現在に至っている。このEM研究機構に対しては色々な評判はあるが、地代も滞りなく払われ、ホテルも20年近く順調に経営しているので地元民にとってはありがたい存在。

この高台から喜舎場周良 (写真の左部分) とその西側のキャンプ瑞慶覧が望める 。


あやかりの杜

EMウェルネスホテルから喜舎場集落への道を降りて行く。道の途中には2019年に建てられたパラッツォステラという高級マンションがあった。

更に道を降りて行くと三叉路になっており、その奥、高速道路のトンネルの東側の嶽根原 (タキヌニーバル) の高台にあやかりの杜がある。図書館になっているので、調べ物もあるのでよって見る。ここには図書館だけでは無く、生涯学習の総合施設になっており、体験学習のコース、宿泊施設もある研修所や野外キャンプ場も併設されている。

元々、この目的で造られたのでは無く、1969年 (昭和44年) に、この土地を借りてレストランパラダイスガーデン (下の写真) が建設された。当初は繁盛していたが、次第に客足は遠のき、経営は悪化し、借地代も延滞し、建物収去土地明渡しの裁判沙汰までなった。1991年 (平成3年) に地主会の勝訴にはなったが、明け渡しには至らず地主会が和解金を払いで決着となった。この和解金支払いのため、土地を更地にして売却の運びとなったが、売却交渉は上手くいかず、2002年 (平成14年) に国の基地関連補助事業として北中城村が文化施設のあやかりの杜建設計画のためにこの土地を購入したという経緯がある。


後原 (クシバル) 道

あやかりの杜の三叉路から喜舎場集落方面に降りる道はクシバル道と呼ばれている。喜舎場から喜舎場後原 (キシャバクシバル) への道だが、後原は現在の小字の屋宜原の事で、かつては喜舎場域だった。屋宜原 は、1916年 (大正6年) に行政上分離独立している。クシバル道沿いの崖斜面には幾つかの古墓も残っている。


喜舎場集落二戻り、次は喜舎場集落の西側に移動する。


龕屋 (ガンヤー)

喜舎場集落の西の端のはずれに墓地があり、その入口に龕屋 (ガンヤー) 跡がある。喜舎場では、大戦後しばらくの間、龕を使用していたそうだ。龕屋二枚の石を組み合わせたアーチ型で、外壁はあいかた積みでつまれ、内側は布積みとあいかた積みが混用されている。


砂糖小屋 (サーターヤー) 跡

龕屋 (ガンヤー) の前にはかつてはサーターヤーがあった場所になる。喜舎場集落内には東前組、東後組、西前組、西後組の四組に組織され、組単位で製糖小屋 (サーターヤー) があった。ここのサーターヤーは西後組のものだったと思う。戦前の喜舎場では農業が主要産業で農作物は甘蔗と甘藷だったが、戦後は農地の殆どが米軍基地に接収された事で、専業農業はなく、農業は衰退している。


ヒニグスク

沖縄自動車道の喜舎場トンネルの真上に嶽根原 (タキヌニーバル) と呼ばれる石灰岩丘陵に1962年に約3000平方メートル規模の連郭式のヒニグスクが発見されている。あやかりの森の野外施設にヒニグスクへの入り口がある。伝承では、昔からヒニグスクと称され、貧乏按司が住まっていて、牛を飼っていたという。ただ、この場所がヒニグスクだったとは地元の住民も知らなかったそうだ。文献・伝承もなく、築城者も不明で、以前は城門や石垣が残っていたが、1960年 (昭和35年) から5年に渡る採石のため大部分が破壊を受け、拝所らしきところは見つかっていない。現在では頂上部に僅かに野面石積みの一部が残るのみになってしまった。グスク土器 (フェンサ城式土器)、古銭 (熈寧元宝)、青磁、南蛮陶器、須恵器、石斧、石器、玉、貝骨製品などの出土品から12世紀頃の古城跡と推測されている。発掘調査に当った嵩元政秀氏はは、出土した遺物からヒニグスクは貝塚との見解を示しており、按司の居城というよりは集落跡と解釈している。

沖縄自動車道路 (1987年開通) の計画ではこの場所は開削されることになっていたが、このヒニグスク保存のためにトンネルに変更された経緯がある。


喜舎場集落の散策は終了。まだ少しだけ時間があるので、隣の瑞慶覧集落を訪れることにした。


参考資料

  • 北中城村史 (1970 安里 永太郎)
  • 北中城村史 第2巻 民俗編 (1996 北中城村史編纂委員会)
  • 北中城村史 第2巻 民俗編 付録 (1996 北中城村史編纂委員会)
  • 北中城村史 第4巻 戦争・論述編 (2010 北中城村史編纂委員会)
  • 喜舎場誌 (2013 喜舎場自治会)