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Rear-ended LovePanic

『お姉さん』

2024.08.01 10:38

小学生の明智がお姉さんに誘拐されて過ごす話

モブ♀+明智(全年齢向け)です





 七月のその日、学校は夏休み目前の短縮授業で、三時間目を終えたぼくはのらりくらりと家路を歩いていた。両手にアサガオの鉢を持ち、宿題のドリルと持ち帰りの教科書でランドセルはずしりと重い。けれど気が重い理由は別にある。


 夏休みはきらいだ。一年前、小学一年の夏はさんざんだった。叔母さんは三食ぼくと従兄弟の食事を世話しないといけないからいつも不機嫌で、従兄弟がさわがしくするので叔父さんはいつも疲れてイヤそうな顔をしてた。ぼくはといえば、家にいるとめんどうな思いをするので、昼間はなるべく図書館へ行っていた。

「あら、吾郎くんおはよう、毎日えらいのね」

 司書のお姉さんとはさすがに顔見知りになって、ときどきナイショで飴やグミをもらった。あるとき彼女がぼくのことを「かわいそうな子」と呼んでいるのを廊下の影できいて、それから彼女と本の貸し借り以外の話はしていない。

 月曜は図書館が休みだ。外はうだるように暑くて涼しいところで過ごそうにも小遣いはろくろくない。しかたがないからぼくは居間の隅でちいさく体育座りをして、従兄弟が友だちとはしゃぐ横で読書をしていた。ときどき子どもたちが乱暴に投げつけた自動車や電車のおもちゃが当たるから落ちついて本は読めなかった。


 今年もまたあんな日々が始まるのだ。そう思うとお下がりのボロけたスニーカーはどうにも前に進まなくて、ぼくはとぼとぼと歩道橋を歩いていた。そのときだ。


 ぼくは、お姉さんに出会った。

「ねえ、キミ、◯◯医院て病院知らないかな?」

「え」

 第一印象は「きれいなひと」だった。純白のワンピースから伸びた手足が折れそうに細い。腰まである黒髪はサラサラと夏風にそよいでいた。肌色は白いというより青白いに近い。

 レースの日傘をさした彼女ははかなげで、ぼくはおもわず、「どこかが悪いんですか」とたずねた。ハンカチで汗をぬぐった彼女はうすく笑って、自分の胸を指でさす。

(心臓、ってことかな?)

 そのときのぼくはそう思って、来た道をくるりと引き返した。

「あっち。案内してあげる」

「あら、いいの?」

「うん」

 荷物は重いがまだ家には帰りたくない気分だった。歩道橋をカンカンと降り、しずかな住宅街の路地に入る。

「ボク、四小の子?」

 ぼくの黄色い帽子に入った校章を見下ろしたお姉さんがきいた。ぼくはうんとうなずく。

「うん、四小の二年生」

「そうなんだ、えーと……二年二組、明智、吾郎くん。カッコいい名前だね」

 ぼくの右胸の名札を読み上げお姉さんはにこりとほほえんだ。大人にしては背が低いせいか、笑うとすこし幼い印象になる。いつもめいわくそうな叔母の声に名を呼ばれていたぼくはすこしだけ誇らしい気分で胸を張って、アサガオの鉢を持ちなおして裏道を歩いた。


 お姉さんの目指す医院は細い道を入ったところにある小さな病院だ。変わったおじさん先生がひとりでやっているらしく、奇妙なかたちのオブジェが置かれているのが目立ってこの辺では有名だった。

「あ、あった。あそこですよ、ほら、サルみたいな像が置かれてる」

「あぁ、ありがとう。とっても助かったわ」

「いえ、それじゃ、ぼくはこれッ……でっ……!?」

 なにが起きたのかわからなかった。口もとにお姉さんのハンカチがあてられていて、けれどそれは先ほど見たシルクのそれじゃない。黒い布地にはなにかが染みこんでいたのかぼくの視界は一瞬で揺らいで、アサガオの鉢が落ちる音がとおくにきこえた。ぼくはぐらりと、意識を手放した。



 次に目がさめたとき、ぼくがはじめに見たのは眼前に迫る天井だった。どうやらここは押し入れで、ぼくは下の段にむりやり押しこんだ子ども用のベッドに寝かされていた。

「う……え……えっ?」

 起き上がると体の節々に痛みが走り、ぼくは怖くなった。自分の体を見下ろすと、先ほど倒れたときに打った手足が痛んでいるようだ。半ズボンから突き出たひざ小僧にはかわいいキャラクターの絆創膏が貼られている。寝ているあいだに危害を加えられたようすはない。しかし右の足首のカチャリという違和感に気がつく。

(これ、……手錠?)

 足につけられてるから足かせというべきか、とにかくぼくの片足は一メートルほどの鎖でベッドの柱にむすばれていた。「監禁」ってやつだ。ドラマや小説で見たことある。そこまで理解が追いついたところでお姉さんの声がした。

「あら、吾郎くん起きたのね、よく眠れたかしら?」

「ッ!!」

 ふすまを開けとなりの部屋からやって来たお姉さんはこの場にそぐわぬ朗らかな声色で、ぼくは逆にそれが無性に怖かった。反射的にぼくが肩を震わせると、ぼくの青い顔を見たお姉さんは心配そうに細い眉をよせる。

「ごめんね、ベッド、硬かったかしら。なるべくいいのを買ったんだけれど」

「っ……な、なんで、」

「? だって、寝苦しいとつらいでしょう?」

「そっ、そうじゃなくて! なんで、ぼくに、こんなこと……ッ!」

 お姉さんはふしぎそうに首をかしげて、それから思い出したみたいに畳にしゃがみこんだ。手にしていた小さな盆からプラスチックの透明なコップを持ち上げぼくに差し出してみせる。

「ココア入れたのよ、冷たいものがいいかと思って。はい、どうぞ」

「ひッ……! え、ぇ……ッ!?」

 意味がわからなかった。ぼくを監禁しておいて、お客さんみたいにあつかう意味がわからない。氷の入ったコップの中では茶色い液体が揺れていて、鼻先に近づけられるとふわりと甘い匂いがした。

 先ほどの黒いハンカチが脳裏をよぎり、ぼくは手でパッとそれを払いのける。なにが入っているかわかったものではなかったからだ。コップの中身はビシャリと飛び散ってお姉さんのワンピースと日に焼けた畳を汚した。四角い氷がむなしくコロコロころがってゆく。


 お姉さんは一拍間をおいて、それからワンワン泣き出した。

「うぇっ、うっ、なんでっ、なんでぇ、こんなことするのぉ……ッ!」

 うるさいよ。泣きたいのはぼくのほうだ。頭のおかしい女に捕まってこんなところに閉じこめられてるんだぞ。


 けれどそれでもお姉さんは泣き止まなくて、ぼくはだんだん、自分が悪いことをしたような気分になってきた。

 半ズボンのポケットからタオルのハンカチを取り出しておそるおそるお姉さんに向けてみる。お姉さんはすこしおどろいた顔をして、それからくしゃくしゃに笑ってそれを受けとった。涙をふき、さっきまで泣いてたのがウソみたいにパアッと明るくなる。

「はぁ、吾郎くん、やさしいんだ、思ってたとおりだわ」

「思ってたとおりって……お姉さん、ぼくのこと前から知ってたの?」

 彼女は素直にうなずいた。学校に通う姿をたびたび見かけてぼくを好きになったのだという。ぼくは不可解な気持ちで彼女にたずねた。

「お姉さん、……お姉さんは、小さい子どもが好きなひとなの?」

「子ども……? 関係ないよ、吾郎くんは吾郎くんでしょう。わたしたち恋人になるのよ、ね、そうでしょう」


 お姉さんの言うことはときどきよくわからなかった。ただ、監禁されその部屋で数日過ごしていくつかわかったことがある。

 お姉さんはぼくが嫌がるようなことをひとつもしなかった。どころか従順な「しもべ」のように、ぼくが眉ひとつ持ち上げるとごめんなさいごめんなさいとあわてて機嫌をとろうとするのだ。少なくとも殺されたり殴られたりする心配はなかった。


 お姉さんはひどく丁寧にぼくをあつかった。身なりのいい服を着せて好きな本を与え、欲しいものがあったらなんでも買ってきてくれた。

 食事は不器用ながらもきちんとしたものが三食出る。お姉さんは料理が下手だった。それでも一応、味噌汁や肉じゃが、がんばった日にはオムライスなんかを作ってくれた。もちろんおやつも日替わりだ。


「吾郎くん、シュークリーム、好き?」

「うーん、普通かなぁ。あんまり甘すぎるのはニガテなんだ」

「そ、そうなの? ごめんね、好きかと思って、買ってきちゃった」

「ううん、このくらいなら食べられるよ。お姉さんは?」

「え?」

「シュークリーム、好き?」

「……ああ、わたし。うん、好きだよ。皮がふわふわしてるのが好き」

「そうなんだ。じゃあ、のこりの半分お姉さんにあげる」

「えっ? でも、吾郎くんに買ってきたのよ」

「ううん、お姉さんに食べてほしい」

 お姉さんははにかんで笑って、うれしそうに食べかけのそれをかじって唇の端についた白いクリームをぺろりと舐めた。


 足につけられた鎖はよく計算された長さで、となりの部屋に行ってトイレのドアを閉めるにはちょうどよく、けれどその先の玄関を開けるには数センチ足りなかった。ぼくが逃げないようお姉さんがあらかじめ測ったのだろう。

 けれど僕は監禁から数日目にして、ほとんどここから逃げ出す気持ちはなくなっていた。親戚の家に帰ればここより窮屈な思いをするだけだ。

 学校はちょうど夏休みに入っていたし、勉強が遅れる心配もない。お姉さんはすこしどこかがヘンだけど、それ以外はきわめて快適な、落ちついた平穏な暮らしだ。


 安そうなアパートは古くて外の階段をだれかが通るたびギシギシと音がしたけれど部屋の中はきれいに掃除されていたし、室内は白とピンクの清楚な家具で統一されていて、いつも花みたいないい匂いがした。ぼくに本気で逃げる気配がないのがわかるとお風呂に入るときは鎖も外してもらえた。

 一日中うるさい子どものさわぎ声や叔母の不機嫌オーラにさらされることもなく、好きな本を読んでおやつを食べて、飽きたら昼寝してときどき宿題をする。ぼくが国語や算数のドリルをスラスラ解いていると、お姉さんはすごいすごいとそれをほめた。


「吾郎くんとっても頭がいいのね、かっこいい」

「ふつうだよ、小二の問題なんて、かんたんだもの」


 それでもすごいとお姉さんはうれしげだった。ぼくはさっさとドリルを終わらせて、数日おきにアサガオの観察日記を書いた。アサガオの鉢は和室の窓辺に置かれてお姉さんがせっせと世話をしている。

 きみどり色のツルはすくすく伸びて、一週間もすると最初の花が咲いた。紫色のきれいな花だ。ぼくはその根本を手折ってお姉さんにわたした。


「お姉さんにあげる」

「えっ? でも、日記を描いているでしょう?」

「いい。どうせこっちもこっちも咲くし、世話してるのお姉さんだし」


 お姉さんはアサガオを受けとると、胸にあてたり、髪につけたりしてよろこんでみせた。あおじろい横顔に明るい紫が似合っていた。

 日々の暮らしに大きな不満はなかったけれど、ただ、お姉さんはときどき変になった。落ちこんでずうっと泣いていて、布団にくるまって出てこなくなるのだ。しかたないから僕がご飯を炊いておにぎりを作ってあげるとお姉さんはびっくりして、ありがとうありがとうって言いながらそれ食べて泣いてた。

「前にも恋人がいたの」

「でもいなくなっちゃった」

「吾郎くんどこにも行かないで」

 お姉さんはそんなような話をくりかえして泣いていた。ぼくの前にいた子はココアが好きで、たまたま目を離した隙に逃げてしまったらしかった。


 いつか自分の父親に復讐することを思うとぼくだっていつまでもこの部屋にいるわけにはいかなかったけれど、さりとて今すぐ逃げるほどの理由もない。ぼくらはエアコンの効いた部屋でだらだらとひと夏を過ごした。

 自由研究にミニチュアの木の家を作ったり、一緒にアイスを食べたり、お姉さんの調子がいい日はアパートの駐車場で深夜にこっそり花火をやったりもした。

 楽しかった。親戚の家で身を小さくしてるよりもずっと。ぼくたちは二人でそれなりに上手くやっていた。お姉さんは夜寂しくなるとぼくの手をぎゅうっと握って泣いて、ぼくはお姉さんのまっすぐな黒髪を彼女が眠るまでなでてあげた。お姉さんは弱いひとだったのだと思う。弱いからひとりではいられなくて、支えがなければ生きられなかったのだと思う。



 終わりの日はしかし突然に、あまりにあっけなくぼくらにやってきた。

 その日の朝、アパートの階段はいつになく大勢の足音でギシギシ言って、インターホンが鳴った。おそるおそるのぞき穴を見たお姉さんは血相を変えてぼくを押入れに隠して、なにがあっても出てきたらだめだと言った。警察が来たんだ。本能的にぼくは察した。

 祈るような強さで押し入れが閉められ、お姉さんが玄関のドアをあける音がした。男のひとの声が知らない名前を告げ、お姉さんが偽名を使っていたことをぼくははじめて知った。二、三の問答の末、警察は部屋に押し入ってぼくの名を呼んだ。

「吾郎くん、吾郎くんいますか、吾郎くん、吾郎くん」

 ぼくはすこし迷った。お姉さんのことをあわれに感じる気持ちが多少はあったからだ。でもちょっと考えて、お姉さんが捕まったら自分はヒーローになれるって思った。

 お姉さんが以前にもおなじことをしていたのは気づいていた。話を聞いているうちにその被害者の住むエリアにもおおよその当たりがついていた。ぼくがその話をすればきっと、ぼくはお姉さんの余罪をみつけるのに協力した子どもになれるだろう。大人にも認めてもらえるかもしれないし、そうしたら今よりももっとたくさんの人に愛してもらえるかもしれない。


 ぼくは押し入れをあけた。警官に取り押さえられたお姉さんは絶望的な目で、涙も流せずぼくをみてた。目を見ひらいてまっすぐぼくだけを見てた。ぼくは自分の足を指でさして、自分がここに監禁されていたことを制服のおじさんたちに告げた。

「怖かっただろう」

「もう大丈夫だからね」

「かわいそうに、歩けるかい?」

 ぼくの足かせはすぐに外され、ぼくは久々に鬱陶しいほどの八月の朝日に触れた。背後でお姉さんがなにかを叫んでいる。ぼくは後ろ手に小さく手を振った。

 バイバイお姉さん、けっこう、楽しかったよ。