「キリストにある交わり」
ヨハネの手紙 第一 1章1-10節
1. 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
2. このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。3. 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
4. これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。
5. 私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。
6. もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。
7. もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
8. もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。
9. もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
10. もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。
礼拝メッセージ
使徒信条シリーズ⑮
2024年7月28日
ヨハネの手紙 第一 1章1-10節
「キリストにある交わり」
ある年の夏、私はバイブルキャンプで奉仕をしていました。すると教会から電話があり、「誰々さんが亡くられた。息子さんが教会で早くお葬式をと願っている。早く帰って来てほしい」との緊急連絡がありました。キャンプ場のスタッフに事情を説明し、帰らせて頂くことにし、電車に飛び乗って、最寄り駅まで着きました。路線バスの発車時刻まで、かなり待たなければなりませんでした。その日の夕方には、もうすぐに納棺式・前夜式と迫っていましたので、「少しでも早く帰ろう」と、めったに乗ることのないタクシー乗り場へ向かいました。
並んでいた先頭の車に乗って、「〇〇教会までお願いします。」とお願いしたところ、運転手さんは教会の場所を正確に知っておられ、さらに「昔、〇〇教会はどこそこにありましたよね。あの教会の宣教師は別の教会を始められたんですよね」と詳しい事情をご存知でした。
私が「牧師です」と明かしますと、運転手さんは「イスラエル12部族についてとか、第一サムエル記17章でダビデがゴリアテを倒した時に使った石投げって、どんなものだったのでしょうね?」などと、やたら聖書に詳しい質問をして来られました。
「運転手さん、もしかしてどこかの教会に通っておられるんですか?」とお聞きしたところ、「セブンスデー・アドベンチスト教会に通っているものです」と言われました。セブンスデーは、旧約聖書の戒めを大事にし、安息日は土曜日のままということを守っている教会です。礼拝は日曜日ではなくて土曜日にされているんですが、運転手さんは「金曜の夜はいつも夜勤なんですよね。徹夜で働いて、そして土曜朝の礼拝に出席する。目を開けているだけで必死なんですよ。でも前の職場の時には、礼拝にも出席できなかったら、今は礼拝に行けるだけでうれしいんですよね。牧師さんも頑張ってくださいね」
そんな会話を交わしました。この運転手さんに出会えて、何だか神様から「さあ、葬儀をがんばれよ」と背中を叩かれたような気持ちがしました。駅前に並んでいるたくさんのタクシーの中から、ちょうどぴったりクリスチャンの運転手さんの車に乗ることが出来た!すごい確率です!!まさに神様がそうしてくださったとしか言いようがありません。
この運転手さんとの出会いを通して、「聖徒の交わり」という言葉が迫って来ました。使徒信条からのメッセージを続けていますが、今日は「聖徒の交わりを信じます」という信仰告白です。まったくの他人のように思われる私とタクシーの運転手さん。それが同じ信仰・同じイエス・キリストによってつなげられ、深いつながりを覚えることができたのです。
先ほど読みましたみことば、Ⅰヨハネ1:3には、「交わり」ということについて、このように書かれています。
私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
1. 教会の交わり・神の家族の兄弟姉妹の交わり。その出発点は、父なる神様また御子イエス様との交わりです。
まず三位一体の神様=父なる神様・御子イエス様・聖霊様の完全にひとつであられるつながり・交わりあります。親密で、いつもともにある交わりです。そこに罪赦された私たちが・イエス様の十字架によって赦された私たちが、三位一体の神様の愛の交わりに入れていただけるのです。
最初に神様と私の交わり・天と地の縦の交わりを回復して頂き、そこから横の交わり・教会の兄弟姉妹とのつながりが深められていきます。
ですから日曜日、まず私たちはともに同じ神様を見上げ、礼拝をおささげし、みことばに示されます。それから礼拝の後、教会の神の家族と交わりを始めます。互いのために祈ります。一緒に楽しく語り合うお茶会をします。
イエス様の中にある交わり。イエス様によって生まれるつながりを私たちは今、体験しています。教会に来るまでは、まったくの他人であったあの人・この人が、今ではキリストを通じて仲間になっています。スーパーや街中で会ったら挨拶を交わす友だちになっています。教会のメンバー同士で、一緒にご飯を食べに行ったり、相互に家を訪問し合ったり、どこかに遊びに行くこともあるでしょう。そうした交わりを通して、クリスチャンであることの喜びを、イエス様とともにあるつながりを私たちは覚えています。
聖書の中での「交わり」という単語、もともとは「コイノニア」という言葉です。財産・資産を共有する。宝物を一緒に分け合う、分かち合うという意味です。私たちは畑の野菜や果物を分かち合ったり、お土産を分かち合ったりもします。またそれぞれの家庭のこと、ご自身の喜びも悲しみも分かち合います。それらも素晴らしいこと、楽しく豊かなことですが、それ以上に、本物の宝であるイエス様を・イエス様によるまことのいのちに感動し、その喜びを共有する。イエス様のみ教え、みことばのすばらしさを分かち合うのが教会の交わりではないでしょうか。
以前、妻にこんな質問をしました。「クリスチャンでいて良かったとどんな時に感じる? クリスチャンの仲間がいて良かったって、どんな時に感じる?」 妻は「2011年の3月11日、東日本大震災が起こった後、クリスチャンの仲間がいることの素晴らしさを、ひしひしと感じたよ」と言ってくれました。
恐れと不安のただ中にあったあの時、一緒に心合わせて祈ってくれる信仰の友が、すぐ近くにいてくれたこと。あの時、つながりのあるアメリカの教会からすぐに震災被災地へと向かってくれた兄弟姉妹がいたこと。世界中のクリスチャンたち・諸教会から支援の手、祈りが届いたこと。何かあれば、すぐに助けてくれる友が私たちには与えられているのです。
Ⅰヨハネ1:4に「これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです」とあります。神様との親密な交わり、そして兄弟姉妹との温かな交わりを通して、私たちは満ちあふれる喜びを体験していきたいと思います。
2. 互いにの交わり、赦されている者としての交わり
1:7 もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
- 互いに交わりを持つ。
新約聖書には「互い」にという単語が100回近く登場します。良い意味だけではなく、「互いに裏切り合い」など悪い意味で使われているケースも少しあります、ほとんどが良い意味で、私たちの交わりについて教えてくれています。
「互いに愛し合いなさい」、
「互いに足を洗い合いなさい」、
「互いに受け入れなさい。」、
「互いに訓戒し合うことができるように」、
「互いにいたわり合うように」、
「愛をもって互いに仕えなさい。」、
「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」などと教えています。
聖徒の交わりは一方通行ではなく、双方向の互いにの交わりです。仕えるだけではなく仕えてもらう関係。助けるだけではなく助けてもらえる関係。祈るだけではなく祈ってもらう関係。赦すだけではなくイエス様によって赦される関係。そんな交わりを築いていきたいのです。
- 罪赦され続けていく者としての交わり
1:8-10もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。
最後にAAという働きを紹介したいと思います。
神の十二ステップグループ 特定宗派に属さず、専任のスタッフももたずに、毎週何百万人もの熱心な会員を引きつけている「教会」を訪ねたことがある。それはアルコホリック・アノニマス(訳注=アルコール依存症者自主治療協会。略してAA)という名で知られている。飲酒の問題を抱えていることを告白してくれた友人がいて、彼の招待でそこへ行った。「来いよ」とその友人は言った。「そうすれば初代教会がどんなふうだったかが、ちらっとわかると思うよ。」
月曜の夜12時に、今にも倒れそうな家に入った。その日、そこではすでに6回の集会がもたれた後だった。むっとするようなたばこの煙が催涙ガスのように充満していて、目を刺してきた。友人がなぜAAを初代教会になぞらえたのか、その理由はすぐにわかった。
よく知られた政治家や有名な資産家が、失業中の貧しい人や腕に注射針の跡を残している子どもたちの中に打ち解けて交ざっていた。自己紹介はこんなふうに行われた。「やあ、ぼくはトムです。アルコール依存症で麻薬常用者です。」即座に、みんなが温かな声で叫んだ。「やあ、トム」
「分かち合いの時間」は小グループに分かれて行われた。同情をもって耳を傾け、温かく受け答えをし、幾度も肩を抱き合って、その時間は進んでいった。出席者それぞれが依存症とどう戦っているのかの経過報告をした。私たちは笑い、そして泣いた。会員は、真正面から顔を合わせられる人々に囲まれて喜んでいるように見えた。正直いればそれでよかったのである。そこにいる人はみんな、同じ問題を抱えている仲間だった。
初代教会とAAには類似点が多く見られるが、それは単なる歴史的偶然ではない。AAの創設者にはクリスチャンたちだったが。彼らは、神への依存をこのプログラムの重要な要素とした。私が出席した晩、部屋にいた人たちは皆、赦しと力を求めて神に全くより頼むことを表明する12のステップを復唱した。私の友人にとって、AAとの深い関わりは、文字通り大きな救いだった。少しでも足を踏み外せば死が待っているかもしれない。いや、間違いなく待っていると、彼にはわかっていた。AAAの仲間は幾度か午前4時に彼からの電話を受けて、終夜営業のレストランに駆けつけ、そこに屈みこんでいる彼を見つけた。叱られ罰を受けている学校の生徒のように、彼は「神様あと5分で構いません。助けてください」とノートに書き続けていたという。
私は心に深い印象を受けて、その「深夜の教会」をあとにした。だが、地域の教会ではなし得ない方法で、少なくとも私の友人に対してはなし得なかった方法で、AAが人々の差し迫った必要に応えているという事実に私は考え込んでしまった。私は友人に尋ねた。AAにはあって、地域の教会にないものは何かと。彼は、コーヒーの入ったコップを長い間見つめていた。コーヒーは冷めていった。愛とか受容。自分への理解あるいは反組織主義といった言葉が出てくるのではないかと、私は想像していた。けれども予想に反し、彼が静かにひとことつぶやいたのは「依存」ということばだった。
ぼくたちはだれひとり自分の力だけではやっていけないんだ。だからこそ、イエス様が来てくださったんじゃないのかい? でも、教会の大多数の人たちは、自分たちは敬虔で優れているというふうな自己満足の雰囲気をかもしだしている気がする。ぼくには、その人たちが本当に神様やお互いにより頼もうとしているようには感じられないんだ。その人たちの人生は順調に見える。アルコール依存症の者がそんな教会に行くと、自分は欠点だらけの落ちこぼれだとしか思えないんだ。それからしばらくの間黙って座っていたが、やがてにっこりと笑みを浮かべて言った。「おかしなことだね。自分の最も嫌なところ、つまりアルコール依存症ということを用いて。神様はぼくをみもとに連れ戻してくださったんだ。アルコール依存症だからこそ、ぼくは神様なしで生きていけないと分かるんだよ。一日一日を生きるために神様により頼まなければならないんだ。
教会は「 私は罪を犯す必要はない。私に必要なのはもう一つの罪人だ」と躊躇せずに言うことができる場所である。互いに責任を持って助け合いながら、共に歩んでいける所なのだ。
フィリップ・ヤンシー著、宮川経範 訳・ 宮川道子訳、『教会 なぜそれほどまでに大切なのか』、(2000年、いのちのことば社)、54-59ページより抜粋。