香落渓夜話(三)
「只今戻りました。・・・遅くなりました」
「ああ、お帰り。・・・遠くまでご苦労だったな。秦のじーさんはどうだった?」
夜も遅くなった頃、黒田へ使いにやった長柄が香落渓の家に戻ってきた。葵や風祭は赤目を去ったとはいえ、赤目に隠された秘密の重要性が低くなった訳ではない。今後、どのようにこの秘密を守っていくか、赤目を守る人々にとって、今回の騒動は十分過ぎるほどの教訓となったはずだ。
その件に関する長老たる秦の意向を知ることは、将来甲賀の忍を率いる立場の者として、赤目の忍家との今後の関わりを判断する上でも必要なことだった。
「実は先客がいらっしゃいまして」
「先客?」
「明日香の瀧矢北斗殿です」
その人物の名前は狭霧も知っていた。本人は学者肌で忍びの使い手ではないが、赤目の忍び連中はその人物によって束ねられているのだと以前秦から聞いていた。今回、風祭に監禁された場所から逃げ出した雪也を保護したのも瀧矢のはずだ。
「秦殿は、まだ例のものを学校へ戻すかどうか明言はされませんでした。ただ、お二人の会話から察するに、瀧上高の体制をより強化することをお考えのようでした。ということは、今後も赤目で保管するおつもりなのかと。・・・現在の保管場所については一定の信頼を置ける場所であるという以上のことはお話になりません」
「当然だな。そもそも、俺達甲賀者にとって、赤目の謎は関わりがないし、知る必要もない。ただ、俺が赤目にいる以上、協力できることは協力したい。その件についてはじーさんは何て言ってた?」
「狭霧さまのよろしいように、と。また、このお話は同席された瀧谷殿のお耳にも入ることになった訳なのですが、瀧矢殿は狭霧さまのお気持ちを喜ばれ、是非とも一度明日香へ訪ねてきてほしいとのご伝言を賜りました」
「・・・そうか」
ならば、矢島や篠北が赤目を去った後、微力ではあっても自分が何らかの役割を果たせるだろう。何より、この関西には雨宮の拠点がある。赤目の人々との協力関係を継続することは、いつか、再び奴と対決しなくてはならなくなったときのための貴重な布石となる筈だ。
考えに沈んだ狭霧に、長柄はじっとその横顔に視線を注いだまま、傍らに控えていた。
やがて、物思いから覚めた狭霧が言った。
「・・・ああ、悪い。つい、考えこんじまって・・・瀧矢さんのお誘いは、後日ありがたくお受けすることとして、今日はもういいからお前も早く休めよ」
「はっ、ありがとうございます・・・千乃介くんが留まっていらっしゃるので?」
隣の部屋を横目で見ながら長柄が聞いてきた。
「ああ。身体が痛くて動けないんだとさ。・・・その割りにはよく食ったけどな。・・・何か訳わかんないことまくしたててたし」
「訳わかんないこと・・・でございますか?」
長柄に問い返されて、一瞬、狭霧は困ったような顔をした。
「あ、いや、大したことじゃないよ・・・多分、2日も寝てりゃ箱根に帰れるだろ。そしたら、煩いのがいなくなってせいせいする」
狭霧の言葉に長柄が目をぱちくりとさせた。狭霧がそんな言い方をする相手は、長柄の知る限り初めてだった。
「どうした?」
「いえ、狭霧さまの仰られようが意外だったものですから・・・」
「そうか?」
「はい・・・」
狭霧は、千乃介が寝ている隣の部屋との仕切りにある襖を眺めた。箱根でひょんなことから知り合った奴。相性が悪くて、甲賀へ戻った後は、もう二度と会うことはあるまいと思っていた。
でも、そんな奴が、今、仮住まいとはいえ自分の家の、襖一枚を隔てた隣で安心しきって眠ってやがる・・・
長柄は狭霧の笑みに気が付いた。
「狭霧さま、どうなされたのですか?」
「いや、何でもない」
狭霧は自分が笑っていることに気が付いて驚いた。
確かにおかしいことだ。だけど、もし、俺が甲賀の里を逃げ出さなかったら、あいつと会うこともなかったんだな。あいつだけじゃない。一乃介さんとも、隼人や多岐川、坂口のおっさん、そう、桜華台の勝取や中村とだって・・・
何でもないといいながら、笑い続ける狭霧を長柄は不思議そうに見つめた。
どこか、せいせいしたような、珍しく晴れやかなその笑いを狭霧はずいぶんと長い間浮べていた。 (了)