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魂の一行詩

2024.08.03 04:52

https://dokusho-culture.or.jp/book/09/ 【一冊入魂】より

双葉社 酒井正浩

魂の一行詩

小・中学生時代は野球少年で「一球入魂」、高校・大学時代は格闘技にハマり「押忍・大和魂」。

22歳で出版営業に携わり四半世紀。精神論、気合い、根性、体力だけで生きてきてしまった私が選ぶこの1冊は、「魂の一行詩」(角川春樹:著 文学の森 刊)

子供のころから定期講読していた漫画雑誌や格闘技雑誌、たくさんの小説やコミックスと出会ってきたが、初めて俳句集を購入したのは社会人になってから。

1ページに2行!?

衝撃的な出逢いだったが、その奥の深さを少しずつ知ることになる。

初めて句集を購入してから数年後の2006年、縁あって尾道大学客員教授に就任された、角川春樹さんの講義を受ける機会を頂いた。

(角川春樹さんは俳句界でも、とても凄い御方なのです!)

テーマは「魂の一行詩」

「生涯不良」を公言している方の講義で、学生たちが皆不良になってしまわないか不安だったが、経営者、映画監督・プロデューサー、そして俳人としての熱い講義が1年間続いた。

角川春樹さんは、「『魂の一行詩』とは「いのち」と「たましひ」を詠う一行の現代抒情詩のことである。季語のないものも受け入れ、エネルギーを溢れさせ、正岡子規以来の俳句革新運動を提唱する。」と言い、ただ、俳句を否定しているわけではなく、「秀れた俳句は秀れた一行詩でもある」とも言っている。

ちょっと話は逸れるが、そんな春樹さんがプロデュースする、シリーズ<にほんの詩集>(全12冊)が順次刊行されるらしい。昭和40年代に「日本の詩集」という全集を大ヒットさせた春樹さんが、令和の世に放つ詩集シリーズ!全巻発売になったら、11月1日の「本の日」にでも娘たちにプレゼントしようと思っている。

さて話を戻そう。

講義を受け一行詩の創作にかかるが、これがまた難しい・・・(私だけ!?笑)

文章を書く方が楽かもしれないと思うほどだった。

私が詠んだ句など恥ずかしすぎて出せないが、私が大好きな句に、十数年前、角川春樹さんが書店経営者親子に贈った句がある。

当時の社長に、尾道にひとりの漢(おとこ)花得たり

息子さんの社長就任に、 まっすぐにまっすぐに翔べ秋の鷹

私と同年代のこの書店経営者は難局の時代、この句の通り、まっすぐに突き進んでおられる。

「魂の一行詩は短詩型の『異種格闘技戦』であるから、詩、短歌、俳句、川柳、作家、それぞれの分野の方々、そして一般読者の方々も是非一緒のステージに上がられることを望む」 「一行詩は作者の魂と読者の魂が共振れすることが最も重要なこと」と講義は続く。

私たちは、作家の方々が「魂を込めて書き上げた小説や漫画」を「魂を込めて読む、共振れする」、出版社としては「魂を込めて読者へお届けする」ということに繋がる。

作家の先生方が書き上げた1冊、1頁、1行、1文字1文字に魂が込められている。

それを忘れてはいけないと、角川春樹さんには教えられた。

今勤めている双葉社の社長が、昔から事あるごとに常々言う言葉は「一冊入魂」である。


https://blog.goo.ne.jp/shikido_510/e/4ad6212a9cee6af2fde1cc9059985387/?cid=ebbe880ff6da4c6ea3bfb8ed9ed0ed23&st=1 【両爬詩歌(23)】より

 亀鳴くや のっぴきならぬ 一行詩 (角川春樹:1942- )

 昨日の読売新聞(H17.11.10東京版夕刊)に角川春樹さんのインタビュー記事が載っていた。何でも「魂の一行詩」を提唱しているという。

 “そりゃカメが鳴くくらいのっぴきならんだろう”というわけで、さっそく角川春樹事務所のHPをのぞいてみた。すると、こんな文章が…

私は今「魂の一行詩」運動を展開することで俳壇に革命を起すことを決意した。魂の一行詩とは日本詩歌の根底にある「いのち」と「たましひ」を詠う現代叙情詩である。芭蕉の発句から二五〇年、子規の俳句から一〇〇年、私はここに「魂の一行詩」を宣言する。一行詩の根本は文字通り一行の詩でなければならない…

…つまり「俳句」ではなく「魂の一行詩」と呼ぶと。

へぇ。 じゃあ、「魂」ってナニ?

 新聞記事から引用すると…

「それがわからなかったら文学は語れない。日本では古来、山川草木に霊が宿るとしてきた。人間を含めてあらゆる自然の中にいのちと魂を見いだしてきた。日本文化の伝統を見直そうとしているんです」

…とのこと。この方は、歳月を経てますます手がつけられないのだろうな。

 ちなみに私は角川文庫や角川映画が一世を風靡していた頃から、この方の発する言葉・文・俳句に好意を持っていた(あまりにもぶっ飛んでいるんで常人である私には理解不能な面もあるが)。

 特に件p選奨文部大臣新人賞・第六回俳人協会新人を受賞することになった句集、『信長の首』には衝撃を受けた向きも多いと思う。

 向日葵や 信長の首 切り落とす

 句集のタイトルになった作品だが、これっぽっちの言葉数でありながら何と視覚的で、何と斬新だろう。

 あかあかと あかあかあかと まんじゆさげ

 これなども大好きな作品だ。

 「魂の一行詩」。ちょっと目が離せないかも。


http://ocha.g1.xrea.com/dokusho/dokusho_2014/698_hangyakuno.html【反逆の十七文字   】 より抜粋    角川春樹著   思潮社 

        ーー 魂の一行詩ーー

 図書館で見つけて読んで見た。こういう人もいると嬉しくなった。

春樹氏は父・源義氏が創刊した俳誌『河』の主宰を引き継いでいる。以下本書より抜粋を記す。

【宣言】  私は今、新たに次なる運動を提唱し、展開することを決意した。 ーー「魂の一行詩」--である。

 魂の一行詩とは、日本文学の根源にある、「いのち」と「たましひ」を詠う現代抒情詩のことである。

古来から山川草木、人間も含めあらゆる自然の中に見出してきた”魂”というものを詠うことである。

 一行詩の根本は、文字通り一行の詩でなければならない。

 俳句にとって季語が最重要な課題であるが、季語に甘えた、あるいはもたれかかった作品は詩ではない。芭蕉にも蛇笏にも季語のない一行詩は存在するのだ。私にも季語のない一行詩がある。

   《老人がヴァイオリンを弾く橋の上》  〈海鼠の日〉

   《泣きながら大和の兵が立つてゐる》  〈JAPAN〉

 ただ、詩といっても五七五の定型に変わりはない。五七五で充分に小説や映画に劣らない世界が詠めるからである。

 また、秀れた俳句は秀れた一行詩でもある。

 従って、俳句を否定しているわけではない。本意は「俳句的俳句」、「物」に託す「もの説」、事柄に託す「こと説」、あるいは技術論ばかりの小さな「盆栽俳句」にまみれている俳壇と訣別することだからである。

 今、私は「俳句」という子規以来の言葉の呪縛から解き放たれ、 独立した。私の美意識は俳句よりも「魂の一行詩」を選択したのだ。

 俳句は「いのち」も「魂」もつぎ込む価値のある器。自らの生き方、生きざまを描くものである。つまり魂に訴えていくものなのである。訴える力さえあるならば、また、心と魂(頭ではなく)で詠めば、定型という枠を自ら破壊するエネルギーをもった一行詩が生まれるであろう。

 ”魂の一行詩”という名称を提唱するのも、俳壇外のより多くの人にアピールするためである。詩眼を持つ若い世代にも門を開きたいと思う。

 この運動は短詩型の「異種格闘技戦」であるから、詩、短歌、俳句、川柳、それぞれの出身のかたがたにも是非、「魂の一行詩」のステージに上がられることを望む。

 この運動は文学運動である。

 自分の人生を詩そのものとして生きる私の魂を賭けた運動である。

 百年前の正岡子規以来の俳句革新運動であるーーそのことをここで宣言する。

       《亀鳴くやのつぴきならぬ一行詩》

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◆『反逆の十七文字』ー魂の一行詩ー(角川春樹著)には

氏が主宰する『河』に載った俳句(一行詩)がたくさん出ていたがので、私が気に入った詩を拾ってみた。

 《詩の器もちて 高きに登りけり》 (丸亀敏邦)

  《今夜だけあなたの海になる 人形》 (山田友美)

   《スカートを短めにして 貸ボート》 ( 同 )

    《ボジョレー・ヌーボー 掟破りの恋であり》 (藤田美和子)

    《コスモスや くやしいけれど君が好き》 (中川原甚平)

 《セーターを脱ぎつつ 嘘のすらすらと》 (田井三重子)

  《女人高野 ショールに鬼を陰らせて》 (大森理恵子)

   《貞操とエロス ふたつのイヴ明ける》 (藤田美和子)

    《風光る 乳房未だし少女(ヲトメ)どち》 (楠本憲吉)

     《バレンタインデー 裸婦の乳房のぴんと張る》 (西村蘭子)

 《春光や つまさきあげしバレリーナ》 (鎌田 俊)

  《入口の見えないホテル 春の雪》 (松永富士見)

   《初春や 少女たちが爪に花咲かす》 (たぅち)

     《雛ぼんぼり 灰になるまで女です》 (林 祐子)

       《朧夜の 裸身になりて屈まりぬ》 (吉野さくら)

 《竜天に登る 私も連れてって》 (小田中雄子)

  《紅さして彼待つ夜の 花の雨》 (栗山庸子)

   《そなさんと知っての 雪の礫かな》 (沢田はぎ女)

     《曼寿沙華 噛み殺したいほど妻が好き》 (杉村秀穂)

       《春愁の 少女に羽化のはじまりぬ》 (角川春樹)

こんな句もあった。  《麦秋の 子がちんぽこを可愛がる》 (森 澄雄)

氏は後書きに『言葉が自由であることは、魂の一行詩にとって、最も大事なことである。言葉を飾らず心で詠うこと』と述べている。

この本は約7年前に発行されたが、「魂の一行詩」という言葉は世間であまり聞かない。氏の目論見は不発に終わったのだろうか?

     (写真の絵はギリシャ神話から『ダナエ』(マビュウス描16世紀)。

角川氏の提唱する「魂の一行詩」の行方を注目したい。


https://blog.goo.ne.jp/mitunori_n/e/46d20c0064e2e579f223e51164be7745 【菅野隆明句集『トンカラリン』跋文】より

   魂の一行詩に向かって

                           永田満徳

 『トンカラリン』は菅野隆明氏の第一句集である。全てで四六二句を数え、菅野氏渾身の句集である。どの句にも心が通っていて、読み応えのある句群である。

 菅野氏とは句会を友としている関係で、句会の折に心を留めた句があり、旧知にあった気がする。

   春羅漢さまざまの貌なつかしき

   蝸牛の道のなかばで行き暮れて

   目瞑れば闇の花咲く西行忌

 「羅漢」に親しみを持ったり、「蝸牛」に心を寄せたり、「西行」に思いを寄せたりしていて、句集という一纏まりで読むと、菅野俳句の真骨頂を味わうことができる。

 菅野俳句は郷土に深く根差している。

阿蘇は世界最大級のカルデラや勇壮な五岳、広大な草原など、地球の素顔ともいえるスケールの大きな地である。

   大阿蘇の神々目覚む大初日

阿蘇は何よりも神の山である。阿蘇火山の活動は農作物に大きな被害を与えることから、人々は古来より火山を神として敬ってきた。

さらに、阿蘇は伏流水が多く、泉が湧き出ていて名水の宝庫である。

   若水の渾渾と阿蘇一の宮

特に南阿蘇方面には多くの湧水が存在し、阿蘇の恵みとして尊ばれている。

   奥阿蘇の湧水あまし新豆腐

年今年阿蘇の水湧く水前寺

また、阿蘇は有数の放牧地である。阿蘇の草原に放牧されている牛のほとんどが、子牛を生ませるための雌牛とその子牛である。

   春雷や子牛奔れる阿蘇の牧

   阿蘇谷の牛小屋守るちやんちやんこ

阿蘇に吹く風も風物詩の一つである。

   阿蘇谿の風さらさらと新豆腐

   阿蘇谷の風はいづくへ女郎花

   かなかなや阿蘇の木木より生るる風

いずれも阿蘇を吹き抜ける風を描いて、心地いい。

 阿蘇の野菜といえば高菜が有名であるが、

   大阿蘇や青首大根ぐいと引く

という大根もあり、〈大根引く阿蘇に大きな尻向けて〉の句は捨てがたい。

 球磨川は、熊本県南部の人吉盆地を貫流し、多くの支流を併せながら八代平野に至り不知火海に注ぐ一級河川で、日本三大急流の一つでもある。

   球磨川の水面揺蕩ふ盆の月

球磨川沿いの風景を〈暮易し球磨の渡しの独木舟〉と描いて過不足がない。

球磨川下りではなんといっても美しい自然を眺めながら、大小の早瀬を進むスリルが魅力である。

   川下り焼酎に酔ひ舟に酔ひ

   鶺鴒や球磨には早瀬かつぱ淵

 焼酎は「球磨焼酎」のことである。熊本県南部の人吉・球磨地方に産する焼酎の呼称で、米を原料とし、すっきりとした味わいが特徴である。

 このように、阿蘇、そして球磨の句には阿蘇、球磨の風物が余すところなく詠みあげられている。

   トンカラリン抜ければ古代秋の蝶

 句集の題は末尾の連作である「トンカラリン」から採られている。トンカラリンは熊本県和水町にある古代の隧道型の遺構で、未だに用途は不明である。題そのものが郷土の風物に対する作者の愛情を物語るものである。

 ところで、郷土・風土への関心は遍路の句に表現されている信仰心と不可分の関係にある。句集「トンカラリン」の副題は「果てなき遍路みち」となっていて、作者の作句姿勢が如実に現れている。

   重き荷の肩に食ひ込む遍路みち

   補陀落の海遥かなり遍路みち

など、人生を「遍路」とみている句を抜き出すのはそう難しくない。日常的に〈大寒のひとり経読む仏間かな〉の状態であり、〈隠岐や今御霊鎮まる雲の峰〉という後鳥羽上皇への鎮魂の句など、枚挙に遑がない。

 この宗教に対する言及の根源には、余人の伺うことの知れない心の闇の存在があることを忘れてはいけない。

木枯らしの我が影ととも海に入る

 この「影」は見たままの影ではない。「木枯らし」はまさしく心象の句である。そう思うのは「影」と類縁の「闇」の語が頻出するからである。

   闇の遍路明王鈴をよすがとし

   身のうちの修羅とき放つ五月闇

心の闇を凝視した句からは作者の心の底の深さを思い計ることができる。もちろん、〈海鼠腸を舐めつつ酒を呷るかな〉の句にある通り酒を好み、旅にあれば〈みちのくのどぶろく重ね一句なす〉〈熱燗や熊襲の裔の集ふ句座〉というふうに酒は傍らにあるににあるとしても、あくまでも酒は〈どぶろくや背の矜恃つと解けり」と心を解放するものでしかない。

 菅野隆明氏の俳句は単なる写生の具でなく、生き方そのものが俳句である。ここに、魂の一行詩を標榜する「河」の同人たるを疑わない。

  平成二十九年四月