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Ride in Kyushu Day 15 (30/12/18) Omura Castle Ruins 大村城

2018.12.30 09:22

Omura Castle Ruins 大村(玖島)城跡

大村 (玖島) 城跡 Omura Castle Ruins

大村とは戦国武将の大村純忠が治めていたところ。歴史ファンならこの大村純忠は知っているだろう。キリシタン大名として有名。九州には多くのキリシタン大名がいるが大村純忠はその中でも最も熱心だったというローマバチカンは考えていた。

確かに、大村領の全ての領民 (6万人と言われている) にキリシタンへの改宗を強要し、改宗を拒む者を奴隷としてポルトガル商人に売った。(売られた人たちがどうなったのかには興味ある。ポルトガルまで連れて行かれた者もいるのだろうか) また、寺社を破壊したりもした。当時の大村氏の領土は以下の通りで長崎までも含んでいた。特に長崎が隠れキリシタンが多くいたのはこの大村純忠の方針があったからだ。

大村純忠のキリシタンへの改宗はポルトガルとの交易 (特に武器の調達) が目的であったとされている。ポルトガル商人が交易地の平戸で問題を起こした際には、領内の長崎を新たな交易地として開発した。後に長崎は幕府直轄地となり、大村氏の交易権が取り上げられてしまったのだが、長崎が発展したのは、大村の貢献が非常に大きい。宣教師には長崎の一部を与えたりもしている。江戸時代の大村藩の領土は以下の様に変わり、長崎は幕府直轄の天領となっている。

交易目当てであったことはそうだと思うが、それだけであればここまで過激な事はする必要はなかった。他に大村純忠のエピソードがある。改宗した後、側室を全て帰してしまった。息子4人とも洗礼を受けさせている。

天正10年(1582年)には、フロイスの勧めで、同じ九州キリシタン大名の大友宗麟、有馬晴信とともにローマに天正遣欧少年使節を派遣している。この様なことから見ると、初めは打算があったにしても、次第に真剣にカトリックを信じていたと思う。他の多くのキリシタン大名は比較的ゆるい信心で打算の方が大きかった。この大村純忠の行き過ぎた政策故、その後、島原の乱が起こり、多くの隠れキリシタンの存在があったであろう。領民がこれほどまでにカトリックを信じたのは大村純忠がそうだったからだろう。詳しくはわからないが、カトリック信仰を領地経営にも大いに利用したと思える。

大野市にはキリシタン信仰に関連した碑が何箇所か残っている。長崎空港への道には天正遣欧少年使節の記念碑がある。まだ良い時代だった。カトリックに改宗した領民はさぞかし歓喜した事だろう。領民は将来、何か良い事があると希望を抱いていたと思う。ただ、4人の少年が帰国する前に秀吉がバテレン追放令を出し、事態は一変した。これからがキリシタンの暗黒時代が始まる。4人の少年は帰国して、一人はマカオに脱出、一人は棄教 (大村純忠の名代)、残り二人は隠れて布教を続け、それぞれ病死と殉教している。大村純忠はバテレン追放令の前に病死しており、一連の悲劇は知らない。もし、純忠が生き続けていたら、どの様な対応をしただろう? これは気になる。人が極限の選択をどの様にするのか。跡を継いだ喜前は棄教し日蓮宗に改宗している。これにより、大村藩は明治まで領地替えも無く存続した。喜前も極限の選択をしたのだろう。

これはあまり知られていないのだが、島原の乱終結の30年後の明暦3年(1657)、ここ大村で大勢の隠れキリシタンが見つかった事件が起こる。「郡崩れ」と呼ばれている。捕らえられた村民は603人、取り調べの後、打ち首406人・牢死78人・永牢20人、赦免99人となる。これをきっかけに、藩内では厳重なキリシタン禁止制策が敷かれる。寺請制度、5人組制度、絵踏みだ。このうち寺請制度、5人組制は近年まで続いていた。キリシタン対策の意味は薄れたが習慣として残った。

市内の「郡崩れ」の碑を訪れた。碑以外何もないのだが、訪れる事により当時を想像し、処刑された者の思いやその家族の哀しみ、逃れ処刑を見つめた村民の戸惑い、処刑をした為政者や役人の感情など、自分ならどう感じたかを考える機会になる。

妻子別れの石

翌年の万治元年(1658)に大村牢から処刑のため131人が斬罪所に連行された際、見送りの家族や親戚と、最後の別れを惜しみ、水盃を交わした場所。

放虎原殉教地

郡崩れのときに捕らえられた131人の隠れキリシタンが処刑された場所。

獄門所跡

長崎街道筋で人の往来が多い場所に処刑された131人の首を20日間みせしめのため晒した場所。

胴塚跡/首塚跡

キリストの復活の際に生き返るとの教えを恐れ、胴と首を約500mも離して埋めた。

碑が単なる石碑で無く、祈りを捧げる村民や聖母像にしたのは、殉死した人たちへの地域の思いやりかもしれない。この地域にはきっと今でも殉死した人の子孫が生活しているだろう。

大村(玖島)城

大村城は大村純忠の嫡男 喜前(洗礼名 サンチョ)が築城し、居城をここに移した。江戸時代になり大村藩の藩庁として機能する。喜前はキリシタン禁教令により棄教した事のより、本領安堵された。喜前の心境はいかなる者だっただろう。城は当時の外郭をかなりとどめており、城の構成が良くわかる。本丸後は神社になっている神社の境内が本丸の石垣で囲まれている。要塞の中に神社がある様だ。

海を背にして掘りで囲まれている。海岸には船蔵跡が残っており、当時は船を保管していた。交易が重要な政策であった大村藩ならではの遺構だ。

場内には戊辰戦争の碑が立っている。大村藩は新政府側につき、東北の戦線に参加している。大村氏は戦国時代から常に勝者側にあった。秀吉、家康、明治新政府と渡り歩き、元々の領土を明治まで守り続けた数少ない藩だ。当たっているのかわからないが、軒並み九州の大名が領地替えや改易になっている中、歴代藩主が世渡りが上手だったかもしれない。

城の海に近いところに10代藩主により造られた梶山御殿という大村家の別邸があったが、生憎、年末年始の休みで閉館していた。

大村市を後にし、諫早市に向かう。今晩は諫早市の地元のインターネットカフェに泊まる。