「未来の文学/文化批評」としてのアダプテーション批評
武田悠一『差異を読む―現代批評理論の展開』(彩流社)が発売されたところだが、さっそく書店で購入した。まず読んでみたのが、前々から楽しみにしていた、「エピローグ」のアダプテーション批評にかんする論考だ。
武田氏は、昨今の「文学の衰退」の問題に言及することから本章をはじめている。そして氏によれば、このような状況のなかで新たな「文学の力」を創り出す可能性を秘めているものが、アダプテーション批評なのだという(pp. 225-226)。
その理由として、本論考をつうじて武田氏が強調するのが、アダプテーション批評における「間メディア性」である。少し前までのアダプテーション批評は、文学作品(とりわけ小説)の映画化を取り上げることが大半だったようだが、現在の研究者たちの関心は、それ以外のメディアにも向けられているようで、ひとつの題材(たとえば武田氏のとりあげる、フランケンシュタインの物語(pp. 230-241))が、多種多様なメディアにおいて「増殖」していくそのありさますべてが研究対象となっているとのことだ。
僕なりに言い換えてしまえば、要するにアダプテーション批評は、他のメディアとのあいだに連絡関係を結ばせることで、文学を孤立状態から救い出す試みであるといえる。一昔前までは、文学は特権的な地位を享受していたため、文学を文学として排他的に取り扱うことにはなんの問題もなかったが、最近では、その裏返しとして、文学が村八分の状態に置かれている。アダプテーション批評は、その文学に新たな立ち位置、そして「力」を与えることができるかもしれない。
以上のような意味で、アダプテーション批評は、まさにこれからの人文学のための武器であるといえる。武田氏は、本論考を「アダプテーションを理論化する試みは、解体しつつある文学研究に代わる可能性を秘めた、未来の文学/文化批評への模索なのだと思われます」(p. 251)という言葉で閉じている。
いまちょうど、来年度に仕事先の大学で行う講義「アダプテーション批評入門」(仮)のシラバスを執筆している。90分×15回という制約のなかで、どのように解説を進めていくか悩んでいるが、今回の武田氏の論考は、すぐれた道案内のひとつになってくれそうだ。