生きること、暮らすこと
くもをさがす(西加奈子)を読んでいる。
カナダに移住し、そこでガンに、彼女はかかった。
カナダの医療体制は、いってみれば「アバウト」で「ゆるゆる」だ。
アポイントメントはどこにいれればいいかわかりにくいことも多いし、入れてもそれが何らかの人為的理由で取れていないことも多い。
いわゆる人的ミスも多発し、そのことで治療や投薬が予定通りに進みにくい。
ただ、医療にかかる費用は、たとえ外国人であっても無料だ。
人の命は、みな平等であるという考え方に基づいているようだ、
一方日本は、国民皆保健。医療体制は整えられており、患者は身を任せていればまるでベルトコンベアーにのせられているように粛々と治療が進んでいく。何も声をあげなくとも医師や看護師がなにくれとなく、ある意味「勝手に」患者のからだをになんらかの施術をおこなっていく。
カナダでは、ただ、医療側が、患者が意思的に、社会のなかで患者たりうるようなさまざまな「しかけ」がある。
たとえば、からだがしんどくなったときに、仲間に「助けて」と言えば、食事を代わりばんこにもってきてくれたりする。
大上段に「看護食」と構えずとも、カジュアルに、ゆるやかに仲間が助けてくれるような、またまわりも気軽にサポートできるような、ふんわりとした助け合いのしくみがあるのだ。
たとえば、リストに名前を書いたひとが順番に食事を作って届けてくれる。
栄養たっぷりのバラエティに富んだ食事は、つくるのも外食するのもしんどいときには本当にありがたい。
物理的な栄養だけでなく、心も満たされる、と西さんは言っている。
みんな同じだ。対等なのだ、という思考もはんぱない。
薬物依存者に対しても、その思考は同様に発揮される。
「そのひと」が悪いのではない、そのひとは病気なのであって、根絶すべきは違法薬物だったりその病気にかかる要因なのだ、といった感じで目を向けるところが圧倒的に違うのだ。
障害者もガン罹患者ももちろん、「不摂生」や「親のせい」、ましてや「先祖の因縁」などでは断じて、ない。
「おんなである」というだけで「劣った」「わきまえるべき」「いつもみぎれいに」、なぞの「女らしく」を求められる日本のありようとは大違いだ。
ガンにかかる。当たり前にできていたことが、徐々にできなくなり、普通に過ごしているはずなのに、どこかに支障をきたす。
愛する家族がいたとしても、十分に自分の愛情を注ぐことができなくなってしまうこともある。
できなくなることは本人が負い目を感じることではない。
最優先に目をむけて大切にするのは自身の心身のありよう。だれもがそうしているからだれからも「わがまま」「勝手」「図にのっている」「甘えるな」などと言われる筋合いはない。