烟りつつ室の八嶋の霧晴るる
https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498744213.html 【おくのほそ道~室の八島】より
【原文】
室の八島に詣(けい)す。
同行(どうぎょう)曽良(そら)がいはく、
この神は木の花咲耶姫(このはなさくやひめ)の神と申して、富士一体なり。
無戸室(うつむろ)に入りて焼きたまふ、
誓ひの御中(みなか)に、火々出見(ほほでみ)の尊(みこと)生まれたまひしより、室の八島と申す。
また煙をよみならはしはべるも、このいはれなり。
はた、このしろといふ魚(うお)を禁ず。
縁起の旨、世に伝ふこともはべりし。
【自己流訳】
室の八島に参詣する。
同行の曽良がいうには、
「この神社の祭神は木花咲耶姫と申しまして、富士の浅間神社と同じご神体です。
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に不貞を疑われた木花咲耶姫は、
潔白の誓詞を立て、塗りごめの室(むろ)に入って、火を放ち、わが身をお焼きになられ
ましたが、その最中に、彦火々出見尊がお生まれになったことから室の八島と申しま
す。」
室の八島では煙を詠む、和歌の習わしも、このいわれによるものです。
また、この地では「このしろ」という魚を食べることを禁じている。
そういう由来の縁起談があって、世に伝わっているのであろう。
https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498744218.html 【「おくのほそ道」を考える~室の八島編① 室の八島とは何なのか?】より
(栃木県栃木市 室の八島)
「室の八島」(むろのやしま)とは何か?
「室の八島」は栃木県栃木市の大神神社(おおみわじんじゃ)の境内にある「歌枕」で、池の中にある「八つの島」のことである。
とは言っても、「島」というほどの大きさではない。
数人が立てるくらいの狭い「島」が、池の中に八つあるのである。
いかでかは思ひありとも知らすべき室の八嶋の煙ならでは 藤原実方
人を思ふ思ひを何にたとへまし室の八島も名のみなりけり 源重之女
下野や室の八島に立つ煙思ひありとも今日こそは知れ 大江朝綱
いかにせん室の八島に宿もがな恋の煙を空にまがへん 藤原俊成
恋ひ死なば室の八島にあらずとも思ひの程は煙にも見よ 藤原忠定
ここの池からは、なぜか一年中、「煙」が立ちのぼっていた、という。
けぶりたつ室の八島
と言われ、和歌では、その「ほのかな煙」という連想から、おおむね「秘めた恋」「はかない恋」の例えとして、詠まれた。
例えば、藤原忠定の和歌は、
私が恋焦がれて死ねば、私の思いに気づいてくれるのでしょうか?
室の八島に立つ煙が見えるように、私があなたを思う心に気づいてください。
という意味である。
抑えきれず、煙のように立ちのぼってくる恋心…、それが歌枕「けぶりたつ室の八島」に例えられたのである。
「おくのほそ道」は歌枕をたずねる旅でもある。
室の八島は、「おくのほそ道」で訪れた最初の歌枕の地である。
芭蕉も楽しみにしていたに違いない。
が…、芭蕉はここで俳句を残していない。
いや、詠んではいるが、芭蕉自身、それほどの句とは思わなかったのであろう。
「おくのほそ道」には載せていない。
糸遊に結びつきたる煙かな 芭蕉
(いとゆうに むすびつきたる けぶりかな)
「糸遊」とは「陽炎」のことで、室の八島の煙が、春の陽炎に絡みつくように立ちのぼっている…という句である。
実際、芭蕉が訪れた時は、煙は見えず…というか、池の水自体枯れていて、無かったのである。
おそらく幻滅したのではないか。
https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498744222.html 【「おくのほそ道」を考える~室の八島編② 室の八島の「室」(むろ)とは何なのか?】より)
「室の八島」とは何なのか…、ということを昨日書いた。
が…、肝心のことにまだ触れていない。
「八島」は前回、説明した通りである。
「おくのほそ道」を考える~室の八島編①
http://blogs.yahoo.co.jp/seijihaiku/36632329.html
今回は「室」とはなんなのか、考えてみたい。
…といっても「答え」はすでに「おくのほそ道」の中で、弟子の曽良が語っている。
引用してみよう。
この神は木の花咲耶姫(このはなさくやひめ)の神と申して、富士一体なり。
無戸室(うつむろ)に入りて焼きたまふ、
誓ひの御中(みなか)に、火々出見(ほほでみ)の尊(みこと)生まれたまひしより、室の八島と申す。
現代風に言うと、
この神社の祭神は木花咲耶姫と申しまして、富士の浅間神社と同じご神体です。
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に不貞を疑われた木花咲耶姫は、
潔白の誓詞を立て、塗りごめの室(むろ)に入って、火を放ち、わが身をお焼きになられ
ましたが、その最中に、彦火々出見尊がお生まれになったことから室の八島と申します。
ということである。
「室」とは「部屋」と考えていい。
「氷室」「麹室」などの「室」である。
土などで塗り固められた空間…というほうが適切かもしれない。
天照大神(あまてらすおおみかみ)の命を受け、天孫から地上へ降り立った瓊瓊杵尊は、地上の神の娘である木花咲耶姫を見初め、結婚した。
ところが、木花咲耶姫は一晩で身ごもってしまった。
「これはおかしい??」
と瓊瓊杵尊は思った。
「私の子ではなく、だれか他の地上の神の子ではないか?」
と疑った。
まあ、その疑問はもっともだろう。
だが、それを知った木花咲耶姫はキレ(?)た。
「もし、この子が天孫神であるあなたの本当の子ならば何があっても、無事に産めるはず!」
とよくわからない理屈付けをして、室の入口を塗りこめて、「室」を「密閉」してしまい、なんと、そこに「火」を放ったのである。
「室」の中で火が充満し、木花咲耶姫は亡くなってしまったが、一遍に3人の子を無事に出産した…、という神話である。
その木花咲耶姫を祀っているので、「室の…八島」というのである。
煙をよみならはしはべるも、このいはれなり。
と、このあと「おくのほそ道」に記されているが、歌枕・室の八島では「煙」を和歌に詠む習わしがあるのは、木花咲耶姫が籠った室からあがる煙を想起してのことらしい。
しかし、木花咲耶姫を祀っている神社は他にもある。
全国にある「浅間神社」はすべて木花咲耶姫を祀っているが、他の神社にはそういう伝説はない。
また、不思議なことに、平安の頃には、室の八島の池からは一年中、煙が立ちのぼっていた…、というのである。
もちろん、芭蕉の頃には、そういう煙はなかった。
その煙はなぜ立ちのぼっていたのか…。
室の八島にはまだまだ「謎」がありそうである。
https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498744230.html 【「おくのほそ道」を考える~室の八島編③ 室の八島の煙はなんの煙だったのか?】より
「室の八島」について、これまでいくつか書いたが、もう一つだけ書いておきたい。
「室の八島」の「煙」についてである。
「けぶりたつ室の八島」
というように、ここからは平安時代、つねに「煙」が立ちのぼっていたという。
もちろん、今は違う。
芭蕉が訪れた頃も、煙は立ちのぼっておらず、池には水さえもなかった。
ところでその「煙」はなんの煙だったのだろうか?
池からは一年中、煙が立ち上っていた、という。
本当のことだろうか?
まず、私の推理を書きたい。
「温泉」である。
この池には温泉が湧いていたのである。
ここから「日光」へは約20キロ。
このあたりからも昔、温泉が湧いていた…と考えてもおかしくはない。
その「湯煙」が立ち上っていたのではないか。
しかし、先日、ある俳人から「異説」を聞いた。
「製鉄」の「煙」ではないか…というのである。
日本の製鉄の始まりははっきりわかってはいないが、一般的には5~6世紀と言われている。
古代、この周辺に出雲族が移住し、室の八島あたりに「製鉄集団」が住んでいた。
そして、製鉄のため、つねにこの近辺には「煙」が立ち上っていた…、というのである。
実際、この近辺には「製鉄跡」が見つかっているのだそうだ。
そう言われると、納得せざるを得ない。
しかし、「温泉説」も捨てがたい。
いずれにしても今は見れないが、ひろびろとした関東平野、はるかに筑波峰をのぞむ神々の森から、ほのかに煙が立ちのぼる姿は、なんとも美しい。
そういう風景を一度見てみたいものである。
https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498744238.html 【「おくのほそ道」を考える~室の八島編④ 「このしろ」とはどんな魚か?】より
「おくのほそ道」の室の八島の段では、最後に妙な文章が入っている。
【原 文】
はた、このしろといふ魚(うお)を禁ず。
縁起の旨、世に伝ふこともはべりし。
【意 訳】
また、この地では「このしろ」という魚を食べることを禁じている。
そういう由来の縁起談があって、世に伝わっているのであろう。
ここ、室の八島では、
このしろ
という「魚」を食べることを禁じている、というのだ。
なぜ、こんなことをわざわざ書いているのか?
この地のミステリアスさを演出するためだろうか。
まず、「このしろ」とは何か?
簡単に言えば「コハダ」のことで、江戸前の寿司ネタで知られている。
「このしろ」の若魚が「コハダ」である。
…ということは、昔はこのあたりは海辺に近かった、ということがわかる。
栃木はご存じの通り、「海なし県」であるが、古代の関東平野には深くまで「海」が浸食していた。
きっとこの近くまで、海が寄せていたのである。
次になぜ、「このしろ」を食べることを禁じたのか?
こういう「伝説」がある。
むかし下野の国の長者に美しい一人娘がいた。
常陸の国の国司がこの娘を見初めて結婚を申し出た。
しかし、娘には恋人がいた。
娘思いの親は、「娘は病死しました」と国司に偽り、代わりに魚を棺に入れ、使者の前で火葬でしてみせた。
その時、棺に入れたのが、焼くと人体が焦げるような匂いがするといわれた「ツナシ」という魚で、使者たちは娘が本当に死んだと納得し国へ帰り去った。
それから後、子どもの身代わりとなったツナシはコノシロ(子の代)と呼ばれるようになった。
この「下野」というのは、ここ栃木、「常陸」はお隣の茨城である。
きっと室の八島か、その周辺のことだったのではないか。
室の八島は平安時代の国府跡であったから、この伝説も、室の八島周辺のことで可能性が高い。
例えばだが、こういう伝説から、人の災難の身代わりなってくれた魚ということで、この魚を神の魚として敬うようになった…、そういう仮説が成り立つ。
ついでながら、なぜ「こはだ」は寿司ネタのみで、焼き魚などにならないのかもわかった。
焼いたらきっといや~なにおいがするのだろう。
芭蕉がこの話を知っていたかどうかはしらない。
芭蕉は「現実の風景」から「いにしえの風景」へと心を飛躍させる名人である。
芭蕉の名句には、そういう句が多い。
きっと、芭蕉は、いにしへの世界を想起させる逸話として、この謂われに興味を持ったのではないか。
https://www.minyu-net.com/news/detail/201904087593 【【春日部~栃木】<いと遊に結びつきたるけふりかな> かすみ立つ室の八島】より
今回も松尾芭蕉を追い掛け、関東平野を北へ進む。まず、芭蕉の同行者曽良が、旅の初日、1689(元禄2)年3月27日(陽暦5月16日)に宿泊したと「日記」に記した粕壁(現埼玉県春日部市)である。
記録残らぬ伝承
東武スカイツリーラインで独協大学前 草加松原駅から北へ約30分、春日部駅で下車。駅の東口を出て、宿場町があった駅の北側をぶらぶら歩く。
あちこちに彫刻や、ハクモクレンなど季節の花。のどかな街だ。戦前、旧制粕壁中(現春日部高)の教師だった俳人、加藤楸邨(かとうしゅうそん)の住居跡の表示に出くわしたりもする。
元宿場町の東端、東陽寺の門前では「日光道中粕壁宿」の標柱を見つけた。側面に、芭蕉は東陽寺に宿泊したともいわれている、と書かれている。
はて、曽良の日記にも、そんな記録はないが、と春日部市教委に聞くと「『春日部市史』に『東陽寺に泊まったとの伝承がある』と記されている」とのこと。加えて、宿場北の観音院に宿泊したとの説もあると言う。
「芭蕉は寺に泊まることが多かったから、そう言われるのだろう」と、旧街道の老舗菓子屋「江戸助」の主人降田実さん(64)が言う。なるほど納得。「芭蕉に詳しいですね」と言うと「有名人だもの。マスコミがよく取材に来るし」と返された。
この春日部、芭蕉の句は残っていない。そのため楸邨の26歳の作を記す。〈棉(わた)の実を摘みゐてうたふこともなし〉
実摘みの作業はつらく、歌を歌うこともないの意。春日部は綿花の産地だ。叙情的で、同時に人間へのまなざしが深い。
さて、旅は続く。「曽良日記」によると芭蕉らは旅の2日目、3月28日、春日部をたち9里(約36キロ)北の間々田(現栃木県小山市)で宿泊。翌29日は歌枕「室(むろ)の八島(やしま)」を参詣した。
記者も、東武宇都宮線の野州大塚駅周辺でこの歌枕を探すが辺りは農村地帯。失礼ながら「こんな田舎に...」と思っていると、室の八島がある大神(おおみわ)神社(栃木県栃木市惣社町)の看板。その先に、うっそうとした神社の森が、浮島のようにあった。
歌枕は和歌に詠まれた名所。この地は、藤原実方の歌〈いかでかは思ひありとは知らすべき室のやしまのけぶりならでは〉などで知られる煙の名所だ(別項参照)。和歌では、室の八島と、はかない恋心などを表す煙がセットで詠まれる。
煙は、炊煙か水煙か、かげろうかと諸説ある。八島は、私見だが、平野に点在する森や林が無数の島に見えなくもない。
この地について「おくのほそ道」では、由来などが語られるだけで、そっけない。だが、なかなかの趣だ。
島を巡りお参り
7世紀創建という同神社の神域は約4.5ヘクタール。大木が濃い緑を茂らせる。
現在、境内に設けられている「室の八島」は、八つの小島が橋で結ばれ池に浮いていた。島ごとに熊野、二荒など神社があり、参拝客は島を巡りお参りする。凝った趣向だ。
藤原定家の歌碑など数々の石碑の中に芭蕉の句碑もあった。
〈いと遊に結びつきたるけふりかな〉(「曽良日記」俳諧書留より)
「おくのほそ道」にはなく、「曽良日記」の俳諧書留に記された句。いと遊(糸遊)はかげろうの意という。
権禰宜(ねぎ)の荒川育子さん(62)にあいさつし神社を出ると、早春の日を浴びた農地の上が少しかすんで見えた。これが煙だろうか。出来すぎのようだが、本当の話である。
【春日部~栃木】<いと遊に結びつきたるけふりかな>
【 道標 】「旅の詩人芭蕉」像の確立
松尾芭蕉という名を聞くと「旅の詩人」「漂泊の俳諧師」といった言葉が反射的に浮かんできます。風に吹かれて思いのままに諸国をさすらう旅人像が、芭蕉には確かに似合います。
芭蕉自身も、旅を重ね歌を詠み続けた能因(平安時代中期の歌人)や西行(平安時代末期から鎌倉時代初期の歌僧)らにあこがれ、庵住と行脚を繰り返す生き方を理想としていたのは、その作品を読む限り間違いないようです。
では、実際はどうだったのか。芭蕉が深川に移った延宝8(1680)年から亡くなる元禄7(1694)年までの15年間を見ると、大きな旅は4回。「おくのほそ道」の旅に続く上方滞在も加えれば、江戸を離れた期間はおよそ4年半になります。
そこから火事で焼け出されるなどした仮寓(かぐう)期間を引けば、行脚と蕉庵にいた時間は1対2といった割合になります。
行脚の期間が意外に少ないと思われる人もいるかもしれません。それでも、「笈の小文」の旅と「ほそ道」の旅の間が約7カ月であるなど、旅から帰って、すぐまた慌ただしく出掛けて行く、というのに近い実態はあったようです。
ただ、同時代の俳壇には日本中を旅した三千風、幽山のように旅を愛した俳諧師はほかにもいました。
芭蕉の門人たちも師の没後、芭蕉が行けなかった地域にも足を運び蕉門を全国的なものにしていきました。
それでも、芭蕉ほど「旅の詩人」の名号が似合う人はいません。それは、芭蕉が「おくのほそ道」を書いたことで、その中の旅人像が芭蕉のイメージを固定化していったからだ、という解答が浮かんできます。(和洋女子大教授・佐藤勝明さん)