ブービー賞をあなたに
私が今までの人生で出会った最悪の存在は、名前も知らないおっさんである。
彼とは高校生の頃に駅で出会った。最初は、登下校のときに同じおっさんをよく見かけるなあ、くらいの認識だった。それから彼が朝は午後の紅茶を飲み、夕方にはワンダモーニングショットを飲んでいることに気づいた。俄然注目して登下校時に探し始めるようになると、確認した限りでは、そのルーティンを彼は一日として欠かさずに行っていた。
毎日午後の紅茶を飲む生活というのはどういう精神状況なのか? ずっと彼の生活を観察し続けていると、どうやら昼は真面目に仕事へ行き、夜はまっすぐ家に帰り、奥さんや子どもを愛する良き夫であるようだった。朝起きて、会社へ行って、仕事をして帰ってくる。そして家族でご飯を食べてお風呂に入って寝るのだろう。
おっさんの方でも、やがてこちらの存在を認識したようで、会えば目礼をするくらいの関係になった。私は高校生ながらに、人に見られても恥ずかしくない生活をしようと心がけていたので(たとえば缶をきちんと分別したり、電車ではお年寄りや妊婦さんを優先して席を譲ったり)、おっさんと挨拶を交わすのは、一端の社会人男性と対等の関係になったように錯覚して、とても気持ちが良いものだった。
「君」とある朝おっさんは言った。「いつも挨拶してくれてありがとうね」
「いえどういたしまして」
「お礼といってはなんなんだけれども、これをあげるよ。僕はたくさん持ってるから」と言って彼は午後の紅茶をくれた。
そうしておっさんのルーティンを観察し続けるうちに、私は彼への好感を深めていったのだと思う。
それからしばらく経ったある夕方のこと、その日のおっさんはひどく体調が悪そうに見えた。顔色は悪く、足取りもおぼつかない。いつもまっすぐ帰る電車に乗るのをやめて駅の周りをうろうろしていた。私が心配になって声を掛けると、おっさんは「やあ、君か」などと言って弱々しい笑みを浮かべる。
「体調が悪そうですけど、大丈夫ですか?」
「まあね、大丈夫だよ。でもちょっと頭が痛くてね」
それから彼はベンチに腰かけて呼吸を整えようとしていた。手の中にはワンダモーニングショットが握られており、私は「体に悪いですよ」と注意したのだが、彼はそれを飲もうとする。
「うん、まあそうだろうなあ」
「そんな甘ったるいもの飲んでないで、病院に行かないと」
「うん……。でもね、飲まずにはおれない時ってのがあるだろう?」
おっさんは私を諭したつもりだったのかもしれないが、私は初めて彼にいらっとした。
甘い飲み物をやめろだとか医者に行けだとかそういうことではなく、彼の体調が悪そうなのを見ていらっときたのだ。それは私が子どもだったということなのかもしれないし、おっさんに勝手に期待をしていたのに裏切られたと思ったのかもしれない。あるいはその両方か。
「君の言う通りだと思うよ。甘ったるいし不味いし身体にも悪い。でもね……」
おっさんは言うかどうか迷うように少し間を開けてから続けた。
「たまにわくわくするんだよ。ほんの一瞬だけ。他人からみれば馬鹿げたことでもね。こだわって続けていると一瞬だけわくわくできるんだ。そして、その一瞬のためになら、人は一生を棒に触れるんだ」
おっさんはそう言うと、超神水でも飲むような苦々しい表情でワンダモーニングショットを飲み干した。
「病院、行った方がいいですよ」
おっさんがあまりにも不味そうにそれを飲むので、私は思わず口に出して言ってしまった。
「……そうするよ」
それからおっさんは立ち上がって、駅の外へぼつぼつと歩いていこうとしたのだけれども、二、三歩進むと急にしゃがみこんでしまった。手を貸そうとする私を制しておっさんは、
「ありがとう。大丈夫だよ」と言ったけれども明らかに大丈夫そうではなかった。
「救急車呼びましょうか」と私が言うと、おっさんは首を振った。そして鞄からくしゃくしゃになった朝刊を取り出してこちらに差し出した。
「なんですかこれ」
「ちょっと頼みがあるんだけれども……。申し訳ないんだけれどもこれをゴミ箱に捨ててきてほしいんだ」と言って彼は続けた。
「新聞って何となく買うんだけど、家に溜まって困るんだ。だから帰りに捨てるようにしてるんだけど、君が捨ててきてくれるかな?」
そうして私はおっさんに押し切られて新聞紙をゴミ箱に捨てに行き、それきり彼とは会っていない。
進学して就職しておっさんの年齢に近付くにつれて、私は彼の気持ちが少しわかるようになったし、それに伴って彼は私の人生における最悪の存在として、最下位という定位置で存在感を強めている。
彼があれからどうなったのかはわからないけれど、できることなら何処かでひょっこり再開して、彼にブービー賞をあげられたらなあと思っている。