「そもさん」「せっぱ」
友達が、最近流行ってるみたいだよ、というので禅寺に体験合宿に行くことにした。
こう見えても子どもの頃はアニメ「一休さん」が好きで、真似をして遊んだものだ。
目的地に到着して案内係の人に「禅問答とかするんですか?」と訊くと「むしろそれがメインイベントまであります」と笑顔で頷くので期待も高まろうというものだ。
まずは「作務」という、禅寺での生活に必要な様々な作業が指示される。作務とは寺院の営繕管理のことで、男衆は庭仕事と掃除、女衆は炊事や洗濯を指すらしい。
ぼくは庭掃除を任されたのでほうきを手にせっせと落ち葉を集めたのだけれども、同じ仕事を割り振られた友達はといえば集めた葉っぱを鼻紙にくるんで丸めて遊んでいるのだった。
「遊んでないでちゃんと掃除しようよ」と注意すると彼は「発見したんだけどさ、葉っぱを鼻紙でくるんで紙吹雪を作ると吉幾三の歌が無限にできるんだよ」と訳の分からない反論をするので、どうやら彼は既に禅問答へ向けて自らのコンディションを整えているのかもしれない。
「なに言ってんの?」
「ふふふ。まあ見てなよ」
友達は鼻紙を空高く放ったかと思うと、落ちてくるそれを空中でさっと摑んでみせた。途端に一枚の紙からたくさんの丸いものが生まれて宙を舞う。
「すごいでしょ?」
これのどこが吉幾三の歌なのか解らないけど、とにかく凄いことには違いないので、ぼくは思わず手を叩いてしまった。
「どうやったの? なんで丸くなってぶわーってなるの?」
「これが禅問答パワーだよ」
友達は得意げに言う。
「ものが生まれる前の世界には原子が満ちていたって言うじゃん、だから鼻紙も原子から出来た丸い分子なわけでさ。それをうまくやるんだよ。わかる?」
ぼくは首をひねる。彼の言う禅問答のルールが魔術的すぎて理解が及ばない。というか禅問答って橋の真ん中を歩くとか、虎の絵の前で茶番を演じるとか、もっと小賢しい奴だと思ってた。ただまあ現象はもう起こってしまっているし、ぼくもどうにか頭をひねって、それらしいだけで意味のない言葉を紡ぐ。
「つまり、葉っぱを丸や三角や四角に切ってみせることで、葉っぱという物質の誕生を暗喩しているんだね? そしてそれを見せることによって、自然現象を観察してそこから自然の摂理を読み取っていく、つまり『物理で遊ぼう!』という粋なメッセージなわけだ」
「粋かな? まあ、そんな感じ」と友達は頷く。
ぼくもとりあえず丸めた鼻紙を空に放ってみせるけれども、いっこうに原子みたいな丸いものが生まれてくる気配はないので、すぐに飽きてしまった。すると友達は楽しそうに笑って言った。
「でもこれはほんの入り口だよ。本当に大事なのはこの後なんだ」
そうしてぼくらは作務をほったらかして庭掃除もさぼって禅寺じゅうを練り歩いた。友達がぼくを連れまわし、正規の案内係でもあるまいに、あれやこれやと勝手に禅のルールを体験させてみせたのだ。
例えば、「正見」といって物を見るときの正しい心のあり方というものがあるらしい。要は「物事をあるがままに見よ」ということなんだけれども、友達は庭にいる鯉を指してぼくに「あの鯉を見てごらん」と言う。見ると、鯉は口をぱくぱくさせており、なにかを食べてる途中なのかもしれない。ぼくがそう言うと友達は首を振って、
「いや、あれはエサを食べてるんじゃない。無我の境地に達したから、鯉は鯉そのものになってしまったんだ。だからもうエサなんかを食べてるという考えがあの鯉にはないんだよ」
「じゃあなに食べてるの?」
友達は庭の奥にある石を指差した。苔むした庭に半ば溶けこむようにして、その石はどっしりと鎮座していた。
「あれはお地蔵さまだね。きっと鯉はああやって石に腰かけて、のんびりと宇宙の始まりから終わりまでを頭の中で再生しているに違いないね。禅っていうのはそういう、物事の根源を見つめ直す営みなんだよ」
「禅では物事を抽象化して捉える。あの鯉が見ている苔むした庭だって、芝生の上にある輝く太陽だって、お地蔵さまの腰掛けている石だって、全部ひっくるめて『空』なんだ」
「難しいよ」
ぼくは音を上げた。禅は難しいし、それを小賢しいルールで遊ぶぼくらもいささか粋すぎた。こんなに頭を使ったのは深夜に面識のない相手と「卑猥な単語限定しりとり」をDMでしたとき以来だ。
そもそも粋なんてものは野暮な人間がオシャレぶってみたときに使う言葉であって、本来はどこまでも果てしないものなのである。無我の境地がどうとか考えている人間には一番不要な概念だ。
友達は笑って言った。「まあね、むずかしいかもしれないね」と頷いたあとで彼は、
「でも楽しいでしょ?」
ぼくは頷いた。
「うん」
友達と二人きりで知らない場所を歩き回りながらあれこれ話をするのは単純に楽しい。ぼくにとって彼は一番の友人だし、一番の友達もまたぼくを一番の友人であると思ってくれているはずだからだ。そしてその思いは言葉にするまでもなくお互いに了解されているのだった。