<江戸グルメ旅> 江戸下町上水記
うっとうしかった梅雨が明けると、江戸は真夏の太陽にさらされ、地獄の釜の蓋が開いたようなに、かぁ~と暑くなった。おまけに下町特有の湿気に加え、道路の砂ぼこりで、きれい好きな江戸っ子たちには、それこそ地獄の毎日であった。しかし、厳しい気象環境に関わらず彼らは働くことはいとわなかった。江戸の夏の夜明けは早い。まだ薄暗い時間から豆腐や納豆売りのの棒振りが、長屋を駆け巡る。それが終りしばらくし、ジリジリと真夏の太陽が照り射す昼どきになると「エひァら、ひァこィ、ひァら、ひァこィ」と向こう鉢巻で、勢いのいい「冷水売り」が町を練り歩く。冷水に甘露と白玉を入れて1杯4文、求めに応じて甘露の量を増やし、こちらは9文から13文、天秤棒で担ぐ桶には冷水、片方には朝顔型の真鍮製の大丼を並べていた。また、木陰や町々の木戸際で西瓜や真桑瓜を売る「水河岸売り」も出た。夜になると江戸の大通りの町角に「麦湯売り」の屋台が出る。こちらは麦湯の他、桜湯、くず湯、あられ湯などを販売、薄化粧した町娘が愛嬌を振りまいたので、客足が絶えなかったという。こちらは喉を癒すというよりも、自分のの気持ちを癒している要素の方が強かった。人間が飲んで美味いと感ずる水の温度は17℃前後だという。現在の東京の町は色々な自販機が、騒々しく唸り声を上げて無愛想に立って、そのモーターがまた町温度を上げている。
芝で生まれ神田で育ち、水道(すいど)の水で産湯につかったのを、自慢とする江戸っ子たちは、お天道さんがかたむき、仕事を終える黄昏どきは手ぬぐいを肩にかけ、子供たちと銭湯に出掛けるのが楽しみであった。朝炊いた夕飯を軽くかっこんだ後は、縁台に片足を挙げ、浴衣の片袖を外して野暮将棋を打って、1日の疲れを癒した。江戸幕府は同じ業種の開業を、1町毎に3軒以内に留め、そのうち1軒は必ず営業させるという、消費者志向に勤めた。「安穏と雪のしずく(水)は、タダでは得られない」と云うが、少なくとも江戸の市民たちはその安穏と水を貪っていた。ある米国の歴史学者はその時代に1番恵まれていた人たちとして「中世の貴族に生まれるならイギリス貴族、市民として生まれるなら江戸市民」と評価している。
樹齢250年のブナの木は約8トンの水を蓄えるという。天正18年(1590)家康が入ってきた当初、太田道灌が築いた江戸城の東の地域は、利根川水系始め5本もの大河がその都度暴れまくり、1本のブナどころか、葦と葭が生えているだけの湿地帯が、浅草待乳山から市川真間まで広がっていた。市民が生活し飲料水を得るには程遠い田舎の寒村であった。江戸の町に限らず、江戸時代の城下町は、上水道の設備を整備して街を造りあげていた。入府した家康は当初、千鳥ヶ淵や牛ヶ渕、溜池など、城周辺の掘割の水を飲料水として使用していたが、人口の増加に伴ない神田上水の開発を命じ、次いで玉川上水の開発に着手した。関口や四谷大木戸まで引かれた水は、樋(水道管)や枡(井戸)に導かれ江戸の街々、九尺二間の長屋の奥にまでいきわたった。因みにこの水銀(水道料金)は、小間割といって1間≒1,8mに対し年間16文、二八蕎麦1杯分の値段であった。勿論、江戸庶民の8割を占めていた八っつぁん、熊さんのチーム長屋グループは、店賃に地子税(固定資産税)や水道代などの諸経費は組み込まれていた為、いくら使ってもタダ、いわゆる「湯水の如く」であった。この言葉この辺りが語源かもしれないが、銭が湯水の如く使えた訳ではない。宵越しの銭を持たねぇ、いや持てねぇ八や熊にとっては、銭という字は一生縁のない字であった。江戸市民たちは枡から水を汲んで、炊事をしたり洗濯をした。たまに多摩川で泳いでいた鮎が釣瓶の桶の中でも泳いでいたという。水位の低い海や川に近い土地では、井戸を掘ってそれに充てたが、水位が高いということはそれだけ塩分濃度が高い水であったため、飲料水には不適であった。それでも当初200両ほど必要とした掘り抜き井戸は、その後関西から「あおり」という井戸掘り道具が考案されたことにより、3~20両で掘れるようになったため、各所で普及するようになった。一方、台地や崖地の入り組んだ場所や断層帯では、湧水や泉に恵まれた。お茶の水や白木屋の名水を始めとして、主水の水(神田川)、柳の井(清水坂)、桜ヶ井(紀伊)、他に譲りの井、門跡の井、姥ヶ井、辻ノ井などで名水が湧き出ていた。天下の台所大坂も水に恵まれず、淀川の河の水を汲んで飲料水に充てていた。岸辺と河の中程では値段が異なったという。反対に千年の都、京都は、山に囲まれているせいか、川の水も井戸の水も美味かったという。
江戸が一番江戸らしかった文政期(1804~29)のある日、人形町の裏長屋で蜆を商っていた八は、永代橋を渡って川向うの佐賀町に住む熊の長屋を訪れた。「ごめんよ いるかい、そこまで来たから寄ってみたよ」「おお、いい時来た、今けぇたとこだ、お前ぇも元気か?」「おうよ、そこの酒屋でなからを買ってきた」「いいねぇ、ウチの浅利を燻って呑るか」そんな会話が弾む4,5帖の居間兼ベットルームには、押し入れもなく片隅に煎餅布団が、無造作に積まれていた。その上には仕事着兼寒い冬の夜はそれにくるまって寝る、汗のしみついた半纏がぶら下がっている。唯一の外部との接触部分、入口兼台所の1,5帖には(長屋にはやたらと兼が多い)水瓶が鎮座、瓶の中の水が貴重な命の水、飲料水である。その蓋には柄杓が投げかけてある。この水瓶、夏は横着して蓋をピシッと閉めておかないと、その辺りの蚊が飛んできて、水瓶の水に卵を産みつける。その卵がボウフラとなり、孵化して成虫となる。従って次の水売りが来るまで、水瓶の中はボウフラの栖となる。そうなると住民は間違ってボウフラの混じった水を飲むことになるから、飲むときは予め柄杓で水瓶の淵を叩く。すると、ボウフラの奴らはビックリして底に沈む。そこを狙って水を汲んで飲む。正に生活の知恵、匠の世界、蚊との共生である。この水瓶の水は、江戸城で使った玉川上水の余り水で、内堀の辰口から流れ出てくる。そこを水売り商人が桶に受けて、大川を渡って売りに来る。従って原価はゼロであるが輸送コストはかかる。ユーザー価格一荷、二瓶4文、その頃1文=¥25を想定すると¥100、ペットボトル2ℓよりはるかに安い。やはり、江戸の生活費は基本的には安かった。高かったのは薪、炭といった燃料費、故に長屋のカミさんたちは、燃費節約のため、家計を浮かすため、1日分の飯、味噌汁を朝いっぺんに支度した。決して横着した訳ではない。
蜆、蛤、浅利など通年に渡り貝類を売る棒振り商人は「むきみ売り」と呼ばれた。むきみとは貝類の殻を剥いたもの、貝類はエンドユーザーの手間を省く為、むきみにして売る事が多かった。しかし、足(痛み)が早いため、自分の足との勝負であった。むきみ売りは商売としては手元の資金がさほどかからないため、地方から出てきた若者たちにとってはうってつけの商売であった。貝類は魚類より仕入れ値が安く、専門知識も技も必要としない、体が勝負の世界であった。浅利の小売り値段は1升≒1,8ℓで20文前後であった。深川丼はアサリ、ハマグリ、アオヤギ(バカ貝)などの貝類に、醤油と味醂でネギを煮込んでものを白いご飯にぶっ掛けたものと、具材を米と一緒に炊きこんだものを云う。江戸深川の漁師たちが仕事の合間に食べる賄飯である。江戸時代は深川近辺で大量に獲れたアオヤギを用いたが、明治大正になってアサリを使うようになった。明治中頃、車夫(二輪車)の即席料理として、丼一杯1銭5厘で売られていた。アサリは汽水域を好み、最大6㎝にもなる。現在我が国では三河湾が一大産地となっている。日本や朝鮮半島南部では古くから食用として用いられ、潮汁や味噌汁、深川飯、和え物、佃煮といった和風から、スパゲッティやカレー、ラーメンの具材にも用いられている。アサリの酒蒸しは冷えたビールにもあう.「チーム江戸」