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感情を示す言葉(感情語)はNG!

2024.08.08 06:25



https://kaicoh.exblog.jp/28188900/ 【なぜ俳句を詠むのかⅨ◆感情表現をしたければ、心から離れよ】より

 俳句は17拍しかない。つまり短すぎる。だから、内容に手を入れると別の句になってしまう。そこで、ボクが教わってきたのは、手を入れるくらいなら捨てて振り出しに戻れということ。この「出直せ」という意味は新たに写実(事物の実際を写すこと)を試みよ、ということ。頭で作るなということ。

 宋代に編まれた漢詩撰集『三体詩』(1250成立)は、感情(心)を「虚」、カタチあるものを「実」と定義し、「実」の扱いが詩の品位を左右すると説く。俳句の世界でいえば、季題(季語)のほとんどが「実」であり、表現したいと願う感情(心)は「虚」である。「感情表現をしたければ、心から離れよ」というのは矛盾のようだが、その感情(心)をしっかり表現するには、季題(季語)をきちんと把握せよといっている。当然のことながら、添えるだけではダメであるということである。古典や近現代を問わず、独り善がりに終わらないための真実であろう。

 必要があって、他人の句に手を入れることはある。しかし、ボクにとって、それは国語教師として、正しい日本語表現にするためのアドバイスであり、他人の句を名句に仕立て上げるためではない。それほど傲慢ではないのである。

▶▶俳句はなんと不自由で、つまらない世界なのだろう。まじめに俳句を始めた人たちの中に、こういって句会から離れていく人は少なくない。そういう人々のために、こんなことを書き残しておくことにした。佳い句、悪い句はあるけれど、それは才能によるわけじゃない。


https://www.iroha-dou.com/jp/2021/04/words-for-emotions/ 【感情を示す言葉(感情語)はNG!】より

またやってしまった。これまでも何度かご指摘をいただいているのですが、また感情語を使ってしまった…

「感情語」とは、美しい、楽しい、嬉しい、麗しい、悲しい、苦しい、汚い、無情だ、泣きたいなどの感情を表現する言葉のこと。俳句では、こういう感情を直接示す言葉は出来るだけ控える方がよいとされています(特に初心者は)。作者が「美しい」と詠んでしまうと、読み手はそれ以上想像力を膨らませることができなくなるからです。

感情を示す言葉を使わずに、その感情を想い起こすような情景なり事物を描くことによって、読み手にその感情を感じ取ってもらうように詠むことが俳句の基本とのこと。「美しい」と自分の感情をもろに出さずに、「さぞかし美しいだろうな」と読者が想像できるような表現をするということです。

さて以下は、冒頭の「またやってしまった」私の句です。

薮中に咲くや孤高の白き梅

近所の森林公園を散歩中、薄暗い薮の中にぽつんと咲いている真っ白な梅の花を発見した時の句です。あ、梅の花だ、と気づいた瞬間、その気高さと清らかさに孤高という言葉が浮かび、ピッタリの表現ではないかと、読み込んだのです。句会で先生に「孤高と言いたいところですが、感情語はできるだけ控えて」とのご指摘を受けました。あぁ、またやってしまった、というわけです。

薮の中に梅が咲いている、その実際の景色を表現すればいい。あとは読み手にお任せするだけ。そしてもし孤高を感じていただけたら、それはそれで密かに喜べばいい。

先生に添削いただき、孤高を大樹にしました。

薮中に咲くや大樹の白き梅

感情語は控えて、思いはぐっと胸に秘めて。


https://jhaiku.com/haikudaigaku/archives/8938 【かんじょうご 感情語【ワンランク上の俳句百科 新ハイクロペディア/蜂谷一人】】より

俳句では「うれしい」「悲しい」などの感情を表すことばを使わない方がよいとされています。片山由美子さんによれば、俳句は短いので感情語を用いると、結論ありきになってしまう。「悲しい」と言わないでかなしみを表すのが俳句、とのこと。きっと多くの方が納得されるのではないでしょうか。ところが、ここにも例外があるからややこしい。次の句を見てください。

おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな  芭蕉

「おもしろし」も、「悲し」も感情語。ルールを二つも破って、なおかつ名句と言われるのですから、さすが芭蕉というしかありません。おもしろうてやがて悲しき。そうとしか言えない、複雑な感情を湛えていて言い換えができないのです。さらに「鵜舟かな」と収めた巧みさ。普通なら「鵜飼かな」としがちなところ。そうなると鵜飼とは、そういうものだという報告になってしまいます。鵜舟という「もの」を描いたことで、句にリアリティが生まれました。小さなものを描いて大きなものを表現する。俳句の骨法がここに生かされているのです。

さて「NHK俳句」で、この問題に触れたときのゲストはシンガーソングライターの川崎鷹也さんでした。川崎さんのヒット曲「魔法の絨毯」の歌詞はどうなっているでしょう。

くだらないことで笑って何気ない会話で泣いて

ひとつひとつの出来事に栞を挟んで

忘れないように無くさないように

アラジンのように魔法の絨毯に乗って

迎えに行くよ、魔法は使えないけど

お金もないし、力もないし、地位も名誉もないけど

君のこと離したくないんだ

一行目から「笑って」「泣いて」という感情を表す言葉が登場します。音楽には俳句のような決まりがないため、感情語の使用は珍しくありません。しかし次のフレーズが秀逸。「ひとつひとつの出来事に栞を挟んで」うたかたの日々を心にとどめる栞。栞という具体物が出たおかげで、曲のイメージがひときわ鮮やかになりました。芭蕉の「鵜舟」と同じ効果です。感情語を用いる時は、具体物をいれるとよい。奇しくも古今のお二人に教えていただきました。


https://note.com/happysakumari/n/nf5484a99555c【ハートで感じる】より

理性=考える  感性=感じる 心はこの2つから成っていて、 一度に一つの場所にしかいられない。

考えるに偏っていると、感じる事が少なくなり、

感性を使って感じている時は、思考が働かないようだ。

普段、私たちは頭で理論的に考えることでほとんどの時間を過ごしているので、「感じる」ことを意識するといいのかもしれない。

心のことをハート Heart=心臓 感情は、一番身体で感じやすいみたい。 確かに。

緊張している時、ストレスがかかっている時は。・呼吸が浅くなる・顔が硬直する

・胃のあたりがしゅんてなる

心の声(直感、インスピレーション、本当の気持ち)も身体に聴いてみるのが、実は分かりやすい。

自分がどうしたいのか、分からなくなったときには、気持ちを落ち着かせて、身体に意識を向けて、耳を傾けてみる。

ストレスが溜まっていると感じる時にも、身体と丁寧に対話してみる。

本当はどうしてもらいたいのか?今、何を感じているのか?ストレスの原因に気付くだけでも、少し楽になることもある。頭じゃなくて、ハートで感じてみる、

一番大切な自分とのコミュニケーション。


Facebook尾崎 ヒロノリさん投稿記事

おはようございます。『わくままに 消えるままに』

人は、喜怒哀楽がありますが、それは肉体を持ち、感情がある以上、自分のフィルターで物事をみることは、当たり前のことです。

その感情というアンテナも 良いもの 悪いもの拾うことがあります。

そこで、最近、自分自身に言い聞かせていることがあります。「心をとどめない」こと。

特にマイナスの感情を持った時、「心をどどめず 執着しないこと」です。

湧き上がる感情があったとしても、思い留まらせないで、流れるように 放っておき、消えるままにする。「わくままに 消えるままに」これは、すぐには出来ませんが、

本来の静寂な状態を保つために 繰り返しいくことで、コツがつかめてきます。

呼吸法だったり、沸き起こった感情を8秒間、「待てをする」など……のいろいろな方法で執着しないようにすることです。

素敵な一日をお過ごしください。


https://note.com/hideo_tanaka/n/n8742d93f299d 【情動 (エモーション) とフェルトセンス】

より

情動 (エモーション) とフェルトセンス(直接参照体)との区別は、ジェンドリンにとって年を追うに連れますます重要 になっていきました。そこで、以下ではまず彼がこの2種類の感情を区別した歴史を振り返ります。次に、『プロセスモデル』で論じられている区別がフォーカシングの実践とどのように対応しているかを検討することにします。最後に、両感情の区別にもかかわらず、実践においてはそれらが連続したものとして捉えられていることを指摘します。

2種類の感情の区別、その変遷

『プロセスモデル』第VIII章の「(a) 導入」で、情動は、フェルトセンスや直接参照体が形成される第VIII章の手前にある、第VII章的連続というものの一つとして論じられています。

もちろん、私が感じたのは怒りだったが、それでは単純すぎる。VIIで見たように、情動は「逆戻りする」、つまり、通常は状況全体を推進する (全体に出会う) ことはない。(情動的におこなったことを後で後悔することが多いのはそのためである。推進しなかった状況の他の側面が、証拠として残るのである)。だから、たとえ私が最初に怒りを感じたとしても (私的な、スロット連続の中で)、それによって状況全体を感じたわけではないのだ。 (Gendlin, 2018, p. 200; cf. ジェンドリン, 2023, p. 326)

そこでまず、ジェンドリンが「直接参照体 (フェルトセンス)」と「情動」をどのように区別したかをたどりたいと思います。

フェルトセンスの以前の呼び名である「感じられた意味 (フェルトミーニング) 」は、彼の哲学書『体験過程と意味の創造』 (Gendlin, 1962/1997) で初めて提唱されました。しかし当時、感じられた意味は情動と明確に区別されていませんでした。

1960年代前半の心理療法論文「人格変化の一理論 (A Theory of Personality Change)」の脚注において、感じられた意味 (直接参照体) と全くの情動との区別が初めてなされました (Gendlin, 1964, pp. 123-4; cf. ジェンドリン, 1999, pp. 196-7)。

1970年代前半の哲学論文「情動の現象学: 怒り (A Phenomenology of Emotions: Anger)」 において、「情動は、あとで後悔するような行為をさせる」と書かれています。そして、「怒りを爆発させることが、状況をすべてふまえた行動であることはほとんどない」 (Gendlin, 1973, p.378) と論じられており、これはのちの『プロセスモデル』の先駆けとなっています。

1980年代前半の心理療法論文「クライエントのクライエント」で、引き続き情動とフェルトセンスを対比させています。怒りのような情動は「ストーリーのあるスロットに入ってきて、それを部分的に推進する」ものの、「状況全体を推進しない」 (Gendlin, 1984, p. 102) のだというわけです。

情動の限界: 視野の狭さ

1990年代前半の哲学論文「パターンを超えて考える (Thinking beyond Patterns)」の中で、ジェンドリンは「情動は視野を狭め、現在の状況を見逃す」と書いています (Gendlin, 1991b, p.101)。しかし、この論文では、視野を狭める理由について明確に論じられていませんでした。

同年の心理療法論文「セラピーにおける情動について」では、視野が狭まる理由がより説得力をもって論じられています。この論文で彼は、まず動物と私たちとの違いを「...動物は感情を行為においてのみ持つのであって、内なる空間に内なるものとして持つのではない」 (Gendlin, 1991a, p. 260) と指摘しました。一方で、「動物の情動は私たちと同様に妥当である」 (Gendlin, 1991a, p. 260) とも言っており、その共通点は以下の通りです。

猫の身体は周囲の様々なものを刻一刻と感じ取る。ひとつひとつのものを探り、わずかな物音にも耳を傾ける。しかし、ある合図(例えば、見知らぬ猫が縄張りに入ってきたなど)で、猫の身体は突然闘いの準備を始める。大きな身体的に変化がある。すなわち、尻尾は急に太くなり、心臓はドキドキし、猫はヒューと鳴く。身体全体が緊張している。普段は感受性豊かに注意を払っている周囲の環境の多くを無視するようになる。他の猫から注意をそらすのは難しい。猫の注意の範囲は狭くなっている。 (Gendlin, 1991a, p. 260)

『フォーカシング指向心理療法』の中で、最終的にジェンドリンは次のように言っています。「怒りにまかせて行為すると、その状況の一部にしか反応しなかったため、後で後悔を感じることが多い。落ち着いているときには、状況全体を思い出すことができる。」 (Gendlin, 1996, p. 58; cf. ジェンドリン, 1998, p. 109)

フェルトセンスまたは直接参照体: 全体を全体として感じ取ること

状況全体を思い出すために直接参照体を形成することの重要性については、『プロセスモデル』第VIII章の「b) 直接参照体とフェルトシフト」で論じられています。

誰もがそうであるように、この特定の人も悔しさ、怒り、傷つきといった感情を感じているはずである。人はこうした情動とそれに伴う状況的コンテクストを何度も繰り返す傾向がある。直接参照体を形成するために、人はこうしたVIIの連続を止める必要があるが、止めることは単なるブランクではない。通常の活動に「休止 (pause)」をつくるのは、異なる活動である。異なる活動とは、全体を全体として感じ取ることなのである。 (Gendlin, 2018, p. 210; cf. ジェンドリン, 2023, p. 341)

『プロセスモデル』とフォーカシングの実践の対応関係

上記の『プロセスモデル』の一節をフォーカシングの実践に具体的に当てはめると、『フォーカシング』の本の中の次のような会話部分がふさわしいと言えるでしょう。

フォーカサー [1]: 「彼女にはあれもこれも必要で、私が何をしてあげても足りないんです。彼女の家族はみんなそうです。腹が立ちます。彼女の父親も、病気のときはそうでした。いつもネガティブで、不機嫌で、お互いを見下してるんです」

リスナー [1]: 「彼女のあり方、彼女の家族のあり方に腹が立つのですね。

フォーカサー [2]: 「ええ、腹が立ちます。その通り。嫌な雰囲気です。嫌な雰囲気の中で生活しているんです。いつも灰色です。いつも何かに沈み込んでて。先日、私が—」

リスナー [2]: (遮る) 「待ってください。ちょっと感じてみてください。その中に何がもっとあるか見てください。何も考えないで・・・」 (Gendlin, 1981, p. 124; cf. ジェンドリン, 1982, p. 163)

フォーカサー [1] だけでなく、フォーカサー [2] でも、「腹が立ちます」、「いつも灰色です」、「いつも…沈み込んでいる」と、フォーカサーは情動とそれに伴う状況的コンテクストを何度も繰り返していました。フォーカサー [1] と [2] の発言は、7つのレベルからなる「体験過程尺度」 (Klein et al., 1986) で言えば、あまり高くはなく、「外的な出来事に対して話し手に気持ちが語られるが、そこからさらに自分について述べることはしない」 (久保田・池見, 1991, p. 55) という意味で、せいぜいレベル3と評定されることでしょう。リスナーはフォーカサーの第VII章的な連続を止めなければならなかったので、「その中に何がもっとあるか見てください」と言って遮り、フォーカサーに全体を全体として感じ取るように促したわけです。

情動とフェルトセンスの連続性

以上見てきたように、ジェンドリンは情動とフェルトセンスの役割を長年かけて明確に区別してきました。にもかかわらず、実践において彼は、情動を排除してそれとは別のフェルトセンスを形成するべきだと主張したわけではありません。なぜなら、上記の会話部分でリスナーは、「それ以外に」とか、「その外に」ではなく、「その中に何がもっとあるか見てください」と言っているからです。『プロセスモデル』よりも実践的な著作である『フォーカシング指向心理療法』の中の次の一節を見てみましょう。

フェルトセンスは多くの場合、情動を含んでいる。したがって、人は情動を感じるのを避けたり、感じないようにしたりすることで、フェルトセンスを見つけるのではない。そうではなく、もしすでに情動があるのであれば、その情動に伴うもの、その情動の下にあるもの、あるいはその情動の周りにあるものとして、より広いフェルトセンスを形成させるのある。 (Gendlin, 1996, p. 59; cf. ジェンドリン, 1998, p. 111)

そして、次の一節は、「悲しみ」と呼ばれる情動が、フェルトセンスを形成するきっかけになりうることを示す良い例のようです。

例えば、「私は悲しく感じます。なぜかって、うちの猫が死んだからです。飼い猫が死んだら、誰だって悲しいと感じるでしょう?」 これが本当なら、「うちの猫が死んだことで、私がこんなに悲しく感じるのはいったい何なのか?」と問うことは無意味に思えるかもしれない。しかし、もっと深く考えてみると、(猫の世話を十分にしなかったことに対する) 罪の意識が、悲しみを構成するひとつの要素であることに気づくかもしれない。 (Gendlin, 1996, p. 62; cf. ジェンドリン, 1998, p. 116)

情動は、「悲しく感じるのはうちの猫が死んだからだ」のように「よくあるフレーズや状況のパターンの観点から説明することができる」 (Gendlin, 1996, p. 60; cf. ジェンドリン, 1998, p. 113) のです。「そしておそらく、この種の出来事はどんな人にも同じ情動を呼び起こすと思われる。そして情動はそこまでなのだ」 (Gendlin, 1996, p. 62; cf. ジェンドリン, 1998, p. 116) とその限界をジェンドリンは指摘します。だからこそ、私たちはフェルトセンスを形成する必要があるのです。フェルトセンスには、あなたを悲しませたものすべて、「状況全体の感じ、状況に至るまでの経緯、そして状況がどのようにあなたに関わっているか」 (Gendlin, 1996, p. 61; cf. ジェンドリン, 1998, p. 114) が暗黙的に含まれています。だからこそ、「うちの猫が死んだことで、私がこんなに悲しく感じるのはいったい何なのか?」のように、6つのステップの中の「問いかけ (asking)」 (Gendin, 1981, p. 57-60; 1996, pp. 73-4; cf. ジェンドリン, 1982, pp. 57-60; 1998, pp. 134-5) をおこなうことによって、私たちはフェルトセンスに暗黙的に含まれているものを明らかにするのです。

おわりに

以上のように、情動とフェルトセンスの対比は彼の実践的著作と理論的・哲学的著作のどちらにおいても重要な課題として論じられていました。両感情の働きや特徴の理論的な区別を理解しつつも、実践面においては情動からフェルトセンスへのスムーズな移行を促すことは大事なことだと言えるでしょう。

参考文献

Gendlin, E.T. (1964). A theory of personality change. In P. Worchel & D. Byrne (eds.), Personality change (pp. 100-48). John Wiley & Sons. ユージン・T・ジェンドリン [著] ; 池見陽 [訳] (2023). 人格変化の一理論 セラピープロセスの小さな一歩:フォーカシングからの人間理解 (pp. 165-231) 金剛出版.

Gendlin, E.T. (1973). A phenomenology of emotions: Anger. In D. Carr & E.S. Casey (Eds.), Explorations in phenomenology: papers of the society for phenomenology and existential philosophy (pp. 367-98). Martinus Nijhoff.

Gendlin, E.T. (1981). Focusing. 2nd ed. Bantam. Books. ユージン・T・ジェンドリン [著] ; 村山正治・都留春夫・村瀬孝雄 [訳] (1982). フォーカシング 福村出版.

Gendlin, E.T. (1984). The client's client: The edge of awareness. In R.L. Levant & J.M. Shlien (Eds.), Client-centered therapy and the person-centered approach. new directions in theory, research and practice (pp. 76-107). Praeger.

Gendlin, E.T. (1991a). On emotion in therapy. In J.D. Safran & L.S. Greenberg (Eds.), Emotion, psychotherapy and change (pp. 255-79). Guilford.

Gendlin, E.T. (1991b). Thinking beyond patterns: body, language and situations. In B. den Ouden & M. Moen (Eds.), The presence of feeling in thought (pp. 25-151). Peter Lang.

Gendlin, E. T. (1996). Focusing-oriented psychotherapy: a manual of the experiential method. Guilford Press. ユージン・T・ジェンドリン 村瀬孝雄・池見陽・日笠摩子 (監訳) (1998). フォーカシング指向心理療法・上巻 金剛出版.

Gendlin, E. T. (2018). A process model. Northwestern University Press. ユージン・T・ジェンドリン [著] ; 村里忠之・末武康弘・得丸智子 [訳] (2023). プロセスモデル : 暗在性の哲学 みすず書房.

Klein, M. H., Mathieu-Coughlan, P., & Kiesler, D. J. (1986). The experiencing scales. In L. S. Greenberg & W. M. Pinsof (Eds.), The psychotherapeutic process: a research handbook (pp. 21–71). Guilford Press.

久保田進也・池見陽 (1991). 体験過程の評定と単発面接における諸変数の研究. 人間性心理学研究, 9, 53-66.


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怒りや激情の渦中にいるとき 自分の真実を見失い勝ちです。

激情を抑圧しないで観るには、「情動を鎮める・メーキング・ア・スペース」が必要です。


虹色の光が集まると透明になると言われますが 和多志は金色になるのでは?と思います。プラウナは金色に輝いていますから。オーラも分光させなければ金色ですから。

怒りや絶望など自分を拘束する不要な感情エネルギーは光に返すといいですね。

不要な感情エネルギーを光に戻す=感情ストレスの浄化に和多志は金色のバラのイメージを使います。

「金色のバラ」:リリース手順

1.目の前に金色のバラをイメージします。

2.そのバラに消し去りたい体験の全てを入れます。

3.イメージで十分入れることができたら 瞬時に吹き消します。

  (花弁が光に戻っていくイメージ)

脳は瞬時に切り替えるほど効果的です。3回繰り返します。

*脳は一度にひとつの感情しか処理できないこと

*脳にはイメージ体験も 実体験も同じ情報効果を持つということ

*脳内タイムラインがあるという3点がこのエクササイズの前提です。

感情はサインです。サインがなにを示しているのか観るためには メーキング ア スペース・・・ 情動を鎮める必要があります。金色のバラのほかに 以下があります。

1.消したい体験を消しゴム消す

2.パソコンに入力し、Deleteキーで消去する

3.シャワーで洗い流す

4.炎で燃焼 などいろいろあります 感情のリリース以外にも 情動を鎮める6つの対応 があります。

1.体感覚を使って  *深呼吸をする  *スポーツやダンスをする *筋肉をほぐす

2・聴覚を使って   *音楽を聞く  *友達と話す   *独り言を言う 
           *コマーシャルソングを思い出す  *数字を逆に数える

3・視覚を使って  *楽しい「思い出」を思い浮かべる   *サブモダリティチェンジ 

  *怒りの場面を外から眺める  *額縁のパワー

4・創造力を使って  *氣持ちを詩や手紙に書く   *刺繍や編み物をする  *絵を描く

           *楽器を演奏する

5・自分を大切にして  *温かい風呂に入る  *大好きなものを食べる

            *マッサージをする      *身体をなでる

6・笑って

 *面白いビデオを見る      *ジョークを言う

 *口角を上げる         *笑顔を作る