感情と感覚の違い
https://www.asahi-net.or.jp/~nu3s-mnm/mainndohurunesu.html 【マインドフルネス】
https://lifeskills.amebaownd.com/posts/categories/1145444 【サダナ】
https://note.com/yam1027/n/n1f1160aa9f66 【サダナという黙想会に誘われてはじめて参加してみた】より
今日は、大学院で知り合った方から誘っていただいてサダナという黙想会に参加してきた。瞑想じゃなくて黙想というところから、アウェイな感じが漂う。私は、黙想という言葉を使わない。
それでも、参加したのは、知人に誘われたということもあるし、心を整えたいという気持ちもあったから。最近はニュースを見聞きしては、心がざわつく。悲しかったり、胸が痛んだり、途方に暮れたりしている。
結論から言うと、参加してとてもよかった。9時から16時まで、ゆったりとした時間の流れだったにもかかわらず、あっという間に終わってしまった。
サダナとは、サイトによれば「神への道」という意味らしい。ごく簡単には、「東洋の瞑想とキリスト者の祈り」と説明されている。イグナチオの霊性と、心理学と東洋の瞑想を取り入れた祈り方だという。
そこにも興味をひかれた。イグナチオの霊性がどのようなものか知らないと言ったら、大学は失望するだろうけれど、四ツ谷にあるイグナチオ教会の隣の大学で、心理学を専攻していた。そして、東洋の瞑想といえば、一番長く通ったのは、高輪にある高野山東京別院で毎週土曜日に開かれている阿字観という瞑想会に、40代後半の数年は通っただろうか。坐禅会には、今でもちょいちょい出かける。北鎌倉に出向くのが最近のお気に入りだ。
で、キリスト教と仏教的な行法がミックスされるとどうなるのか?
今日は、呼吸法やマインドフルネスのボディチェックのような基本からスタートした。キリスト教的な色合いは、後半にでてきた。
それは、呼吸に合わせて祈りを念じる2つのプログラム。最初に、レジュメに印刷された4つの詩のなかから好きなものを選んで念じる。私は「平和を願う祈り」を選んだ。クリスチャンではない私にも取り組みやすい。少々とまどったのは、「イエスの御名の祈り」。信仰がないから、心を込めて念じることができない。どうしたものかと悶々としつつ終わった。
16時にプログラムが終わると、自由参加のミサがあり、参加した。作法はまったくわからなかったが、新型コロナウィルスや戦争のせいで亡くなった方々や今も苦しむ方々への祈りに心を合わせた。
自分のからだにていねいに向き合い、祈る静かな時間は、あたたかく優しさが感じられ、本当心地よかった。誘ってくださった方に感謝。
入門プログラムは3日間で構成されていて、今日は「”からだ”の日」とか。2日目はイマジネーションを扱い、3日目はからだやイマジネーションの範疇に収まらない内容と聞いて、がぜん興味をひかれた。5月、6月の日程を確認して、早速申し込んだ。今から楽しみだ。
(おまけ)
黙想と瞑想の違いをわかりやすく説明しているnoteがあったので、参考までに。
<黙想>目を閉じて静かに自らの内面に深く沈思し、
故人や神や自分の信じる信仰における絶対的な存在と触れ合い、故人への 思いや人生、生きることの意味について思いをめぐらす行為である。
<瞑想>何かに心を集中させること。単に心身の静寂を取り戻すために行うような比較的日常的なものから、絶対者(神)をありあ りと体感したり、究極の智慧を得るようなものまで、広い範囲に用いられる。
https://ja.empatheme.org/emp-0132/ 【感情とは「感覚の意味づくり」のこと】より
How am I feeling?(じぶんの気持ちって?)
感情とは何でしょうか?
自然に起きる気持ちのことですよね? 何か外部に原因があり、その刺激に対して、内部で反応すること。
一般に、そう思われていますが、事情は少し違います。実は、「感じる」という現象は、外界に起きていることを身体で受け取った感覚の「意味の産物」なのです。
リサ・バレットさんは、このように説きます。
「感情は、意味を生成する作用(シミュレーション)によって、つくられます。シミュレーションは、精神作用・心理現象の基本設定モードです。心拍とおなじように、無意識的、自動的におきています。」
「脳は、コンセプト(概念)によって入ってきた情報の意味を推測します。予想して、物事の仕分け・まとめをしているのです。その概念があるからこそ、気圧の変化に意味づけをして、それは音なのか、ことばなのか、ノイズなのかを、聞くことができる。匂いも同じことです。あーいい香り、という意味づけです。」
脳は、抽象化・まとめる働きを通して、感情をつくっているのですね。
生まれてきた時から、感じる「練習」をしてきた結果ともいえます。
過去の体験がコンセプトとして、行為のガイドとなり、刻々と、感覚の意味生成を行なっているわけです。
リサさんは、感情を健康に保つ、感性を豊かにするためには、「ことば」の使い方が大切だと言います。
Words seed your concepts.
ことばが、じぶんの思考の糧かて
「声に出すことばのふるまいが、物事を捉える予想をつくり、その予想が身体調和を保つ。その調和が気分を決める。ことばの細やかさはとても重要です。」
受け取り方、感じ方を身につけるためには、声に出すことばが大切です。
エンパシームは、じぶんのことばを声にする、プラクティスをみちびきます。
「声のカタチ」をつくり、くりかえすことで、イメージのつながり、じぶんとのつながりができていきます。
心がことばを生み出し、ことばが心をカタチづくる。
Seed yourself.(ことばの種が心の糧に)
https://ameblo.jp/hamadahiroake/entry-10584447898.html 【感覚と感情の違いを知る】より
ショットバーマスターが伝える 幸せを呼ぶ人 そうじゃない人
いらっしゃいませ、マスターの濱田です。わたしがもっとも大切にしていることに、「感覚を感じていることに気づく」というのがあります。
実はわたしたちの多くは、「感覚」と「感情」の違いがわからず、ごちゃまぜになっています。この「感覚」と「感情」がごちゃ混ぜになって、区別がないことで、わたしたちの多くが、苦しんじゃっていたのです。
正確に言うと、「思考」と「感情」と「感覚」の違いなのですが、ここではとりあえず、わかりやすくするために、「感覚」と「感情」の違いがわかることが、なぜ大切なのかについて、書かせていただきますね。
まず感情ってなにかっていうと、みなさんご存知のように、「怒り」とか「悲しみ」とか、「喜び」とかですよね。で、わたしたちは怒りや悲しみを嫌い、喜びや安心感を求めます。
(これが執着のスタートなのですが)
さて、感情を辞書でひいてみると、次のようなものが出てきます。
物事に感じて起こる気持ち。外界の刺激の感覚や観念によって引き起こされる、ある対象に対する態度や価値づけ。快・不快、好き・嫌い、恐怖、怒りなど。
辞書にも定義されているように、感情は、外界からの刺激、もしくは過去の記憶(観念)がトリガーとなり、快、不快、好き、嫌い、恐怖、怒りなどが発生する「しくみ」ということがわかります。
さて、わたしたちが怒りや悲しみ、快、不快を感じているとき、実は「感覚」を感じています。感覚ってどんなものかというと、胸のあたり、皮膚から奥に10センチくらいのところに、重い鉛の球があるような感じ。
とか、同じく胸の奥あたりに、きゅーっとしめつけるような感じがあるとか、モヤモヤしたつかみどころのない、わたあめのようなものがある感じとか。これが感覚です。
実は、快、不快の感情を引き起こす、トリガーとなる刺激も感覚ですし、感情を感じている最中も、実はこの「感覚」を感じています。
ただ、わたしたちは感情が発生すると、ほとんど同時に、過去か未来という、現在じゃないどこかへさまよいはじめます。
そして、思考の世界にどっぷりとつかって、一喜一憂を繰り返す、苦しみの世界をさまよってしまうわけです。
わたしのメンターは、今この瞬間からはなれ、この過去や未来へとさまよう思考のことを「実体のない幽霊」と表現していました。
こう書いているわたしも、気がつくと、思考の世界をさまよっていたって気がつくことがしょっちゅうで、坐禅や瞑想でもしていない限り、一日の多くの時間、この実体のない幽霊の世界をさまよっています(笑)。
ただ、どんどん「あ!今さまよってた」って気がつけるようになったことで、すごく楽に生きることを選べるようには、なってきました。さて、感覚と感情の話に戻ります。
感情にふりまわされいる間も、(つまり過去と未来という思考にさまよっている間)
実は感覚を感じています。
ただ、感情に意識を奪われているので、(奪わせているので)感覚があることに、気がつかなくなっているだけです。
怒りや悲しみの最中に、「あ!ちょっと待て」って気がついて、「今どんな感覚を感じているんだ?」って、感覚を感じてみれば、実は今、重い鉛の球があるような感覚だったり、
きゅーって締め付けられるかのような、「強い感覚」を感じていることに気がつくでしょう。
実は、この感覚に気がつくと言うことは、とっても大切なことなのです。
なぜかというと、ひとつは、感覚は「過去でも未来でもない」、「今この瞬間にだけある」ものだからです。
そして、今この瞬間の感覚に気づき、それを感じることにフォーカスしている時、ふらふらと未来や過去へとさまよっていた思考はストップし、「ただ今この瞬間」にいるんです。
未来や過去へ思考がさ迷っていない時、怒りや悲しみの感情も姿を消します。
なぜなら、あるのは重い感覚や、もやっとした感じや、きゅーとっとした感覚なだけで、
それ自体には、「意味が存在しない」からです。
そして、この「感覚には意味は存在しない」ということに気がついた瞬間、自動的な反応ながら、意味がないものに、意味づけをしてきたことで、とてもしんどい思いをしてきたんだな
ということに気がつきはじめます。
そしてもうひとつとても重要なこと。感覚を、ただ感覚として感じていると、「生まれてきた感覚は、やがて消えていくもの」だということを体験から気づきます。
これがよくいう、「生まれくるものは、やがて消えていく」というものの本質です。
実は、怒りや悲しみなどの感情の最中に、感覚に気づき、感覚をただ観察します。
するとそこにあった感覚は、やがて消えて、滅していくことにある時気がつきます。
実は一度、生まれ、消えていった感覚に、意味を与えることなく、滅してしまうと、
まったく同じものは二度と、生まれてこなくなるのです。
一度滅した観念は、もう二度と生まれてくることはないんです。
似たようなものは出てくるかもしれませんが、一度消えたものは、もう二度と生まれ出てこないんです。映画「マトリックス・レボリューションズ」の中で預言者が語る、「はじまりのあるものには、終わりがある」は、実はこのことを言っているんですね。
実はこれ、すっごいことなんですが、これは、体験してはじめて感じ、理解できることです。
なぜなら、頭の中での解釈もまた、「実体のない幽霊」だからです。
よかったら、今どんな感覚が身体にあるのか、感じはじめてみてください。
それは、人生を変える扉なんだと、ある瞬間気づくことでしょう。