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一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

vol.74「天保の改革」と「蛮社の獄」について(前編)

2024.09.14 20:25


「享保の改革」に「寛政の改革」と来て、二度あることは三度あるって言うように、やっぱり来ますよ「天保の改革」が。なんだか日本史の授業じゃ、こいつらを江戸の三大改革だーゆーて妙にご大層に取り扱いますけど、調べてみれば全部失敗に終わってるじゃあーりませんか。


だから今回もWEBからサクッと内容かいつまんで終わろうと思ってたんですけども、この「鳥居耀蔵(ようぞう)」ってゆーなかなかキャラ立ちした男の存在を初めて知りまして。前回の音吉に続いて、また初めましての面白野郎が出てきたもんで、ちょっくら読み込んでみたわけであります。

そしたら長くなっちゃった。




⚫︎ まずは「家慶」12代目就任おめでとう


江戸幕府12代将軍「徳川家慶(いえよし)」は、その治世で何もしていない将軍、「凡庸の人」という見方をされるのが一般的。1793年(寛政5年)に11代将軍「徳川家斉」の次男として誕生。長兄が早世したため、早くから将軍の継嗣(けいし:あと継ぎ)となるものの、父である徳川家斉の治世が長く、将軍職に就く頃には45歳になっていた。


1837年(天保8年)父の徳川家斉が隠居したことで、徳川家慶は12代将軍となるが、家斉が大御所として幕政の中心に居座り、権力を握り続けていたので何もできず、家臣に「そうせい」と言うのがお仕事の日々。その間も大御所ビッグダディが続ける贅沢な暮らしのせいで、幕府の財政は悪化の一途を辿るばかり。幕閣内でも賄賂が横行し、政治は腐敗。しかも海の彼方からは異国船がちょこちょこ現れて問題を起こす有様。


このような内憂外患を抱えつつ、1841年(天保12年)にようやく家斉が死去してくれたので、とりあえず差し迫った問題として、幕府の財政と海防に重点を置き、様々な改革を行なわなければならない状況を、老中「水野忠邦(ただくに)」に任せることに。




⚫︎ ストイック野郎の悪夢再び「水野忠邦」見参


水野忠邦の家柄は、家康の叔父「水野忠元(ただもと)」を祖とする「譜代」(ふだい:古くから徳川家に仕えてきた家臣)。父の忠光は、唐津藩主で、重要な貿易港である長崎の警備を担っていた。19歳で家督を継いだ忠邦は、幕閣になるために権力者に多額の賄賂を贈るなど、積極的な昇進活動を行うが、当時の決まりで唐津藩の出身者は幕閣になれないことを知ると、浜松藩への配置換えを幕府に嘆願。1817年(文化14年)、浜松藩への転封を実現させる。


浜松城は、これまで多くの幕閣の登竜門となった「出世城」。ところが、唐津藩から浜松藩への転封は25万石から15万石への減収を意味しており、家臣のなかには転封をやめるよう忠邦を説得し、聞き入れられず怒って自害した家臣もいたのだとか。いま兵庫でも話題の「死をもって抗議する」ってやつですね。


しかし、ここまでして幕閣を目指したことで逆に名が知られ、そのあとは順調に出世コースを進み、1834年(天保5年)にはついに「本丸老中」へと登り詰め、家斉も死去して、いよいよ実力を出すチャンスが到来する。


ここから、水野忠邦のすさまじい改革の始まり始まり。まず、家斉に近しい幕閣、実力者達を次々と罷免。その一方で「遠山景元」「鳥居耀蔵(ようぞう)」「渋川敬直(ひろなお)」「後藤三右衛門」などの中級武士や商人、学者を登用して自分の周囲を固めます。そして1841年(天保12年)5月15日、家慶の誕生日に幕臣を一堂に集め、過去の「享保の改革」、「寛政の改革」を理想とする新たな改革に着手することを宣言。悪名高き「天保の改革」のスタートです。




⚫︎ 隠れたスーパーヴィラン「鳥居耀蔵」


老中である水野忠邦の天保の改革の下、目付として市中を取締まったのが、この鳥居耀蔵(ようぞう)という男。鳥居の市中取締りは非常に厳しく、おとり捜査を常套手段とするなど権謀術数に長けていたため、その手段の卑怯さ、しつこさから「蝮(マムシ)の耀蔵」あるいは「妖怪」とあだ名されていた。


天保の改革とは、ひとことで言えば徹底した風紀粛正である。贅沢品の販売は徹底的に禁止。扇や傘、下駄などの日常品を扱う店までもが財産没収などの罰を受けている。当然、寄席や芝居小屋はほとんどが閉店し、出版も禁止に。


特に歌舞伎に対し、市川團十郎の江戸追放役者の生活の統制興行地の限定(江戸・大坂・京都のみ)といった苛烈な弾圧が加えられた。それまで江戸の繁華街にあった江戸三座(中村座・市村座・守田座)を、天保12年(1841年)の中村座の焼失を機に建替えを禁止し、郊外であった浅草の一角の猿若町に移転。合わせて陰間茶屋も禁止された。一時は歌舞伎の廃絶まで考慮されたが、そこまでに至らなかったのは、北町奉行であった「遠山景元(遠山の金さん)」の進言によるものと言われている。


こうして娯楽をことごとく奪われ、華やかな時代は終わりを告げた。また、諸物価を抑えるために、地代・店賃(たなちん:家の賃貸料)、職人や奉公人の給料を下げる命令も出された。これにより物価は下がるが、商人は1個当たりの量や質を落とさざるを得ず、この時期に江戸の豆腐のサイズが小さくなったという。




⚫︎ 疑惑捏造により「蛮社の獄」はじまる


さらに、モリソン号事件を受けて蘭学者たちによる異国船打払令への批判が高まると、鎖国政策の支持者であり蘭学者たちを忌み嫌っていた鳥居耀蔵は、「高野長英」の『戊戌夢物語』が注目されたことをきっかけに蘭学者やそれを支持する者たちを一掃しようと画策。蘭学普及の立役者と言われる「渡辺崋山」のもとへ1人のスパイを送り込む。蘭学者の「花井虎一」である。


花井が初めからスパイであったのか、もともと崋山のもとにいた花井を鳥居が裏切らせたのかは分からないが、とにかく崋山らの行動を逐一報告させた。その密告の中で鳥居が注目したのが、無人島渡航計画であった。


ここで言う無人島とは、小笠原諸島のことである。当時の日本では、小笠原諸島の存在は知られていたが、その島をどうするかという政策はなく、ほぼ無関心の状態であった。しかし、イギリス人が入植しているという風説が流れてくると事態は変化した。


無人島と西洋人への強い興味から、いつか渡航したいと願う蘭学者は多く、無人島渡航計画の話し合いがたびたび行われた。この中にいたのが「山口屋金次郎」や「山崎秀三郎」「本岐」「斎藤治郎兵衛」ら蛮社の獄で逮捕されることになる面々のほか、スパイ花井虎吉であった。


彼らの計画は、幕府の許可を得ることが大前提であった上、資金・船・食料の用意などの計画は全く決まっていない、まさに夢物語の段階にしかなかった。そんな空想のような計画が、花井を通じて鳥居に報告される。


鳥居はこの計画を利用し、幕府に隠れて西洋と交流しようとした確たる証拠として偽の報告書を提出する。こうして蘭学者や町民たちが無実の罪で獄につながれる蛮社の獄が起きたのである。


蛮社の獄は『戊戌夢物語』の著者の探索にことよせて、渡辺崋山や高野長英らを町人たちともに「無人島渡海相企候一件」として断罪し、鎖国の排外的閉鎖性の緩みに対する一罰百戒を企図して起こされた。まさに“妖怪”鳥居の思うつぼとなったわけだ。


天保10年(1839年) 5月14日、崋山・無人島渡航計画のメンバーに出頭命令が下され、全員が伝馬町の獄に入れられた。崋山・長英の入牢を聞き、キリストの伝記を翻訳していた「小関三英」は自らも逮捕を免れぬものと思い込み、あの劣悪な牢では生きてゆけぬと5月17日に自宅にて自殺した。(でも早とちりだったらしい)




⚫︎ 邪魔者は消すのが「妖怪」鳥居流


天保12年(1841年)、市民に人気のあった南町奉行「矢部定謙」を讒言により失脚させ、その後任として南町奉行となる。矢部家は改易、定謙は伊勢桑名藩に幽閉となり、ほどなく絶食して憤死する。鳥居は江戸市民からかなり嫌われていたようで、「町々で惜しがる奉行、やめ(矢部)にして、どこがとりえ(鳥居)でどこが良う(耀)蔵」という落首が詠まれたという。


また、この時期に北町奉行だった「遠山景元(金さん)」が改革に批判的な態度をとって規制の緩和を図ると、耀蔵は水野と協力し、遠山を北町奉行から地位は高いが閑職の大目付に転任させ、実務から遠ざけた


洋式の軍備の採用を幕府に上申し、採用された砲術家「高島秋帆(しゅうはん)」に対しては、終始反対の立場にあった鳥居は快く思わず、密偵を使い、姻戚関係にあった長崎奉行と協力して、高島に密貿易や謀反の罪を着せた。長崎で逮捕され、小伝馬町の牢獄に押し込められた高島に、鳥居が自ら取り調べにあたるなどして進歩派を恐れさせたと言われている。




く〜、鳥居耀蔵なかなかの悪役っぷりでw 水野忠邦が霞んでますやん。なのにどうして教科書に名が残らなかったんでしょうかね。まあ、江戸の三大改革を立派なものとして伝えたい派からしたら、鳥居さんは陰険すぎてアレなのは理解できますが。


しっかし蘭学者たちは、罰が重すぎて気の毒でしたのぉ。体制を批判するのはリスク高いですな。それでも日本の未来のために動かずにはいられない人がたくさんいて、昔の日本人はカッコ良いなぁ。


特に高野長英なんてこの後、脱獄して顔焼いて逃亡して、ってそんなハードボイルドな人生については当ブログ初期のvol.5でも触れましたけど、あの時は偶然、高野長英碑なるものを表参道で見つけたから突発的に調べたわけであって、vol.74にしてようやく貴方の時代まで漕ぎ着けましたよ。1年かかりましたわ。


さてさて、そんな幕末前夜になってきましたが、天保の改革はもちょっと続きがありますので、後編にてその顛末をまとめましょう。鳥居耀蔵がまだまだ面白いんです。水野忠邦はその失脚っぷりで笑かしてくれますし。


12th家慶は、、相変わらず影薄ですw



参考
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/水野忠邦https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/mizunotadakuni/https://ja.m.wikipedia.org/wiki/鳥居耀蔵
https://sengoku-his.com/2179

https://bushoojapan.com/jphistory/edo/2022/11/23/84230/2