vol.75「天保の改革」と「蛮社の獄」について(後編)
「天保の大飢饉」「大塩平八郎の乱」「モリソン号事件」「蛮社の獄」などを経て、すっかり天下泰平ムードも薄れた今日この頃。そこへ水野忠邦&鳥居耀蔵という嫌な奴コンビによる「天保の改革」で、大好きな歌舞伎も落語も奪われるわ、贅沢品まで禁止されるわ、江戸っ子のテンションはだだ下がりであります。
はたしてこの大不評の改革の結末やいかに?
⚫︎ まだまだやるよ、水野忠邦の天保の改革
忠邦クンは、先祖があの家康の叔父の水野家だっただけに、理想的な武士の世界を取り戻したかったのかな。11th家斉の享楽的な平和を良しとは思っておらず、老中首座になるやいなや、水を得た魚のように様々な改革に取り組んでいくよ。例えば、、↓
< 人返し令 >
幕府への収入の基本は農村からの年貢であったが、当時は貨幣経済の発達により、農村から都市部へ人口が移動し、年貢が減少していた。そのため、江戸に滞在していた農村出身者を強制的に帰郷させ、安定した収入源を確保しようとした。しかし「慣れ親しんだ江戸での生活から無理矢理に引き剥がして帰村させるってのは現実的ではねーべ」と町奉行たちから反対され、結局は強制力のない形で施行したため、その効果については疑問視されている。と言うかまったく機能しなかった。
< 株仲間解散令 >
忠邦クンは、株仲間こそが物価高騰の元凶と信じ、高騰していた物価を安定させるため、株仲間を解散させて、経済の自由化を促進しようとした。しかし、株仲間が中心となって構成されていた流通システムが混乱してしまい、かえって景気の低下を招いてしまう。
< 金利政策 >
「相対済令」の公布とともに、一般貸借金利を年1割5分から1割2分に引き下げた。そして札差に対して、旗本・御家人の未払いの債権を全て無利子とし、元金の返済を20年賦とする「無利子年賦返済令」を発布し、武士のみならず民衆の救済にもあたった。しかし、そんなん金を貸してた方からすりゃたまったもんじゃないわけで。なので貸し渋りが大量発生し、逆に借り手を苦しめることになった。
< 改鋳 >
また、貨幣発行益を得るために貨幣の改鋳を行った。貨幣発行益を目的とする改鋳は江戸時代の多くの時期で行われ、それによって穏やかなインフレーションが発生して景気も良好となっていた。しかし、天保の改革においては以前とは異なり、猛烈な勢いで改鋳を行ったため、高インフレを招いてしまった。
↑ みてみて〜全部「しかし」が付くの〜。やることなすこと、ことごとくうまく行かないの〜。一個もヒットしないってチョーウケるんですけど〜。でもね、極めつけはこれ ↓ なの〜。
< 上地令 >
「上知令」を出して、江戸や大坂周囲の大名・旗本の領地を幕府の直轄地とし、地方に分散していた直轄地を集中させようとした。これによって幕府の行政機構を強化するとともに、江戸・大坂周囲の治安の維持を図ろうとした。しかし、、
⚫︎ 猛反対を受け、部下にも裏切られ、失脚
その後、上知令で召し上げられた土地を所有する藩主達が猛反発。特に、それまで天保の改革に協力的であった「土井利位(としつら)」も、自身が関西に持っていた所有地が幕領になってしまうため、老中でありながら公然と反対を表明。
腹心の部下であった「妖怪」こと鳥居耀蔵は、水野忠邦に対して「上知令に反対する勢力を処罰しましょう!」と主張。「いやそれは過激すぎるっしょ、だいたいお前が厳しく取り締まり過ぎるから俺の評判まで最悪だしよ!」と忠邦クンが却下すると、鳥居はブチ切れて、こっそり上知令に関する機密文書を土井利位に横流しし、掌を返すようにプイッと反対派に寝返ってしまう。
かくして、改革の切り札となるはずだった上知令は、かえって改革自体を否定することになった。これにより、江戸幕府内で孤立した水野忠邦は、同年9月に老中を罷免される。失脚したことを知ると、暴徒化した庶民らが、忠邦クンの屋敷を取り囲んで石を投げ込んだ。それほど忠邦クンは恨まれていたのである。その様子は当時の「ふる石や 瓦とびこむ 水の家」という川柳にも詠まれているのだとか。
⚫︎ こっからはもうごっちゃごちゃ
水野忠邦を失脚させ、鳥居耀蔵は従来の地位を保った。ところが半年後、江戸城本丸が火災により焼失。老中首座・土井利位はその再建費用としての諸大名からの献金を、充分には集められなかったことから、将軍家慶の不興を買ってしまう。やがて、外交問題の紛糾を理由に、忠邦クンが再び老中として将軍家慶から幕政を委ねられると、状況は一変する。
土井は前述の不手際の責任と同時に、忠邦クンの報復を恐れて老中を辞任し、鳥居耀蔵は孤立する。忠邦クンは自分を裏切り、改革を挫折させた鳥居を許さず、元仲間の渋川、後藤の裏切りもあって、同年9月に鳥居は職務怠慢、不正を理由に解任される。翌年に鳥居は有罪とされ、全財産没収の上で讃岐丸亀藩へ、お預けの身として軟禁状態に置かれた。
再び老中・老中首座へ返り咲いた忠邦クンであったが、天保の改革初期のような使命感もなく、御用部屋でもぼんやりと過ごし、まるで「でくの坊」のようだと噂された。ほどなくして、忠邦クンが商人「後藤三右衛門」から巨額の賄賂を受け取っていたことが発覚し、忠邦クンは再び失脚。今度は浜松藩から山形藩への転封と強制隠居・謹慎が命じられ、6年後にこの地で56年の生涯を閉じた。
いや〜笑える。本人たち大真面目にやってるのに、失策続きからの裏切りとか潰し合いで、もうしっちゃかめっちゃかですやん。傾いた家の修復に来た大工さんらが、あちこちイジリ倒して余計にガタついた挙句に喧嘩して追い出される、みたいな笑。どーしてくれるのよこの家? 前より酷くなって倒壊寸前じゃないのさ。
この後、ようやく有能な「阿部正弘」(当時24歳)が老中に任命され、天保の改革で混乱した社会の収束に奔走することとなるわけですが、それはまた追ってまとめましょう。それより今、気になるのは鳥居耀蔵の結末でして。
⚫︎ 明治まで生き延びた妖怪
丸亀藩での鳥居には昼夜兼行で監視者が付き、使用人と医師が置かれた。監視は厳しく、時には私物を持ち去られたり、一切無視されたりすることもあった。嘉永5年(1852年)の日記には、一年中誰とも話をしなかったという記述がある。
そんな無聊を慰めるため、また健康維持のため、鳥居は若年からの漢方の心得を活かし幽閉屋敷で薬草の栽培を行った。また自らの健康維持のみならず、領民への治療も行い慕われた。林家の出身であったため学識が豊富で、丸亀藩士も教えを請いに訪問し、彼らから崇敬を受けていた。このように、軟禁されていた時代の鳥居は「妖怪」と渾名され嫌われた奉行時代とは対照的に、丸亀藩周辺の人々からは尊敬され感謝されていたようである。
江戸幕府滅亡前後は監視もかなり緩み、鳥居は様々な変化を見聞している。明治政府による恩赦で、明治元年(1868年)10月に幽閉を解かれた。しかし鳥居は「自分は将軍家によって配流されたのであるから、上様からの赦免の文書が来なければ自分の幽閉は解かれない」と言って容易に動かず、新政府や丸亀藩を困らせた。おいおい変な意地はるなやw
でも結局、東京と改名された江戸に戻ってしばらく居住していたが、やがて郷里の駿府に移住。(この際、実家である林家を頼ったが、林家では彼を見知っているものが一人もいなかったという)明治5年(1872年)に再び東京に戻り、江戸時代とは様変わりした状態を慨嘆し「自分の言う通りにしなかったから、こうなったのだ」と憤慨していたという。
晩年は、知人や旧友の家を尋ねて昔話をするような平穏な日々を送り、明治6年(1873年)多くの子や孫に看取られながら亡くなった。享年78。墓所は東京都文京区の吉祥寺である。
なんと。20年もの幽閉生活を乗り越え、徳川幕府より長生きしとりました。さすが妖怪。幕府崩壊後に江戸から東京へと変わった世界を目の当たりにして「昔、自分は幕府に“外国人を近づけてはならぬ。その害は必ずある”と言い続けたのに誰も耳を傾けなかった。だから幕府は滅んだのだ。もうどうしようもない」と、傲然と言い放ったそうな。さすが妖怪。蛮社の獄により日本は多くの人材を失ったが、実行に際しては鳥居なりの信念を持っていたとも考えられる。
実際、鳥居耀蔵を主役にした『妖怪と呼ばれた男』や『名残の花』を読んでみると、彼には彼の理念があり、様々な過激な行為の裏にも、あえてそう貫いた美学があるように解釈されているし、きっとホントにそうだったのだろう。結果的には何にも上手くいかなかった天保の改革であったが、11th家斉がたるみにたるませた日本を、1st家康の作った美しき世界に戻すべく、誰かが嫌われ役になって締め直さなきゃならないターンだったのだね。
それはそれで、ある意味カッコ良い話だとは思うのだけれど、、
けど、、
忠邦クンも鳥居も、死んでからあの世で「渡辺崋山」や「高野長英」ら蛮社の獄の犠牲者たちに取り囲まれてボッコボコにされたのは間違いないw
参考
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/水野忠邦
https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/mizunotadakuni/