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言葉を大切にする意味とは?

2024.08.08 11:41

Facebook新田 修功さん投稿記事  芭蕉とマチス……👨‍🎨🤗💕🌸🌈

賢者の一言 松尾芭蕉

「見る処、花にあらずといふ事なし、思ふ所、月にあらずといふ事なし」

賢者の一言 アンリ・マティス

「私はずっとデッサンを続けて来ました。

まず何よりも内面的感情を表現し、魂の状態を描き出す手段として描き続けてきたのです」

「マティス 色彩の交響楽」 創元社 より

………………………………✨✨✨

日本とフランスの優れたアーティストたちの達した境地は、表現こそ違いますが、同じものだと思います😊

2人とも自分の掴んだ「ものの見方」「心の在りよう」を表現せずにはいられませんでした。

優れたアーティストとは、すべてのものに「愛」を観ることができる人であり、それを表現できる人だと思います。

私は子どもの時から絵を描くのが大好きで、高校時代に、自分のことを「さすらいのアーティスト」と呼ぶほどにアーティストに憧れていました🤣

でも、ぼんやりとですが、本物のアーティストになるには人生経験が必要だということも分かっていました。

年齢を重ねるたびに、少しずつ草木染めのように、たくさんの愛がゆっくりと魂に染み込んで来るのを感じるようになりました。

そして、還暦を過ぎた頃から、文章や物語で、なにか「青空のような清々しいもの」を表現することに挑戦しはじめました✍️👨‍🎨💕

ふと開いた心のどこかに、やさしくそよぐ風のような、雨上がりの空に偶然見つけた虹のような、そんな投稿が出来ればいいなぁ、なんて考えている今日この頃です😊✨🌈

今日も読んでくれてありがとう🙏😊💕


https://koten.kaisetsuvoice.com/Kobumi/Kobumi01.html 【序章】

百骸九竅の中に物有。かりに名付て風羅坊といふ。誠にうすものゝかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好むこと久し。終に生涯のはかりごとゝなす。ある時は倦で放擲せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたゝかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立む事をねがへども、これが為にさへられ、暫ク学で愚を暁ン事をおもへども、是が為に破られ、つゐに無能無芸にして唯此一筋に繋る。西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり。

現代語訳

私の体全体の中に、一つの抑えがたいものがある。仮にこれを風羅坊…風にゆれる衣の坊主と名づける。実際、薄い衣が風に吹かれすぐに破れてしまう事を言っているのであろうか。かの男は、俳諧を好んで久しい。しまいには生涯取り組むこととなった。ある時は飽きて投げ出そうと思い、ある時は進んで人に勝って誇ろうとし、どちらとも気持ちを決めかねて、このため心が休まることがない。一度は立身出世を願ったこともあったが、この俳諧というもののために遮られ、または学問をして自分の愚かさを悟ろうともしたが、俳諧のために破られ、ついに無能無芸のまま、ただこの一筋をつらぬくことなった。西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その道をつらぬく物は一つである。

語句

◆百骸九竅…「百骸九竅六臓(りくぞう)【貝+亥】(そなわ)りて存す」(荘子・斉物論篇)。百骸は人間に供わっている百の骨。九竅は九つの穴。「百骸九竅」で体全体。 ◆風羅坊…芭蕉の別号。「風羅」は風にひるがえる衣。ひらひらして地に足がついておらず、頼りないさまを諧謔して言っている。◆狂句…俳諧を卑下したもの。 ◆さへられ…遮られ。 ◆貫道…道を貫くこと。 

しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。

現代語訳

しかも、俳諧というこの風雅の道は、天地自然にしたがって四季折々の移り変わりを友とすることである。見るものすべてが花であり、思う所すべてが月のように美しいというようでなければならない。見るものに花を感じないなら野蛮人であり心に花を思わないなら鳥や獣と同類だ。野蛮人や鳥獣の境地を離れて、天然自然に従い、天然自然に帰れというのだ。

語句

◆造化…天地自然。「ゾ」にアクセント。 ◆四時…しいじ。四季。 ◆夷狄…野蛮人。


https://note.com/maimai0101/n/n46cbc1b2db36 【言葉を大切にすることの意味】より

こんにちは、MAIです。

忙しさにかまけて、noteを更新できていなかったのだけど、佐渡島庸平さんの2019年のブログ「言語化能力をいかに鍛えるか」を読んで、急に書きたくなった。

佐渡島さんは、こう書いている。私もときどき頼まれて翻訳をすることがあるのだけど、ものすごく時間がかかる。言葉を自分の持てる限りの引き出しから出して、組み合わせて、しっくりくるまで試行錯誤するから。だから、佐渡島さんの言葉がすっと入ってきた。

文学作品を翻訳する。これが、言語化能力を磨く、最短の方法だ。日本語だけを使っていても難しい。「美しい」と「綺麗」の差は何かということを、唐突に日本語で考え始めることはなかなかできない。でも、この文章の中で、beautifulを翻訳すると、どの言葉が相応しいのかと考えていると、自然と「美しい」と「綺麗」の持つニュアンスの差について考えることになる。

そして、(佐渡島さん同様)私も村上春樹の翻訳小説が大好きで、グレイス・ペイリーの「最後の瞬間のすごく大きな変化」をバンクーバーまで持ってきて、今も再読している。なんというか、心の中の声やその場の空気がとても好き。日本語の美しさに浸ることができる。しかもタイトルが素敵で、つい声に出して読みあげたくなる。

私は昔から一歩引いた目で、周りを見ていたように思う。そして、人がこう伝えたらどう感じるか、言葉選びも意識せずに気をつけていた。それは、田舎すぎて本を読む以外娯楽がなかったことと、実家がお寺で常に近所のおばあさん達が周囲にいたことの影響が少なからずあったのかもしれない。

便利で娯楽の多い東京のマンションで育ったうちの子たちには、その環境を提供することは難しかった。そして、うちにはティーンエイジャーの娘がいるのだけど、彼女の言葉遣いが荒いのは、言葉を知らないからかもしれない、とふと思った。知らないから、不快なことに対して「気持ち悪い」という言葉しか出てこないのかもしれない。

言葉を知ること、しっくりくる表現を選べるようになることは、伝えたいことを、押し付けにならずに相手に届ける上で、とても助けになる。私が子ども達にこれから伝えていけることは、これなのかもしれない。子ども達にも、バンクーバーでの生活を通して、言葉の大切さや美しさ、日本語のおもしろさに気づいてほしい。


https://note.com/hark_san/n/n6b1154ee1cdf 【私が言葉を大切にする理由】より

最近自分の気持ちをアウトプットする練習をしてる。(主にインスタのストーリーとかで)

で、なんで自分が言葉を大切にするのかさっき頭に浮かんだこと壁に言い続けるっていうのをやってたらふと自分の口から本質っぽいのが出てきたから残しておく。

私が思うに、言葉というものが生まれた理由は、私たち個々人が完全にわかりあうことが不可能だからだと思う。

人間は元々言葉を持っていたわけではない。進化の過程の中で脳が発達するにつれ、「腹へった→食べたい」「性欲→セックス」という単純な脳回路だけでなく、感情にバリエーションが増え、複雑化していったんだと思う。

私たちは自分たちの中身を理解していくために言葉が必要になっていった。

そして、集団生活を行う上で、他者を理解しようとするとき、自分の感情が複雑化している=他者の感情も分からない=お互い今まで以上に分かりあう必要が出てきた=伝え合うツールが必要になり、自然に言葉というものが生まれていったんだと思う。つまり、私たちの祖先は、「個々人が完全に理解するのは不可能である」ということに気づき、言葉が生み出されていったんだと私は思う。

私は今まで割と自分のことばかりで生きてきた。自分がああしたい、こうしたい、だけで人間関係を築いていたから、表面上の関係はうまく見せかけられても、恋愛や深い友人関係というのは難しいと思っていたし、自分の思っていることを人に十分に伝えるということにも壁?苦手意識を感じていた。

だから何かあるごとに個人的に相談することよりも、インスタのストーリーに言葉を連ねて自己解釈することが多かったんだろうなと思うし、もっと昔は自分を理解したり他人を理解するのが苦手で、ネットの世界を生きていたんだと今になって思う。

そんな私が最近アウトプットをするようになったのは、もっと周りの人のことを知りたい、分かり合いたい、客観的に自分を見られるようになりたいと思っているからだと思う。昔はもっと「この状況でどう見られるのが自分にとって一番いいのか」を考えていたけど、今は「私のことをもっと知って欲しいし、私もこの人を知りたい」ということをベースに言葉を選ぶようになってきた。内面が大きく変化していっている最中なんだと思う。

言葉を覚え、扱えるようになることで、私たちは自分の感情を知ることができるし、他者の気持ちを理解することができる。他者の気持ちを汲んだ上で要点をまとめ、誰かにとっての助けになることもある。(自分が自分を理解できなかった中高生の頃に、そんな風に私のことを要約してくれるような自分を創り出せたら良かったなと思う)

人生はこれからも続いていくけれど、私がアウトプットを心に流されるままに行なっていっていることは、苦手意識のある「人と深く関わること」「人のことを理解しようとすること」「人を見た目で判断しないこと」「人にお願いごとをすること」「人に見返りを求めないこと」を解決した自分自身に将来的に出会いたいからだと思う。

やっぱり人生修行やな!!!!!!!!!!!!!!!!

落ち込んだり凹んだりすることもあるし、ネガティブなオーラを纏っている時もあるけれど、それでもしばらくしたらポジティブな「しなやかマインドセット」に戻ってくる自分が好き。今生きていること、人生という修行の道のりを歩けていることや、たくさんの気づきを与えてくれるこの世界、あとそうやって気づいていける自分自身が好き。周りにも自分にも感謝しています。

この調子で、自分の出会いたい自分や、新しい価値観にどんどん出会っていきたい。地面を踏み鳴らして、色んな人を巻き込んで、みんなまとめて豊かな人生を送れるように、社会に貢献していきたいな。


https://tuneakiheraeonetnejp.hatenablog.com/entry/2023/12/06/194543 【俳句を作ることのメリットとは】より

             俳句は…心遊びで心を癒す     

 時々ではあるが何故俳句を作っているのか、と自問自答している私に吃驚して夢より覚めることがある。夢より解かれて現実の世界に戻っても、しばらくは私を責めている全く別のもう一人の私が居て、思考の続く時間に悩まされることがある。これまでの長い月日に会得した日常のなかに何の不思議も思わないで俳句を作ってきた私である。だが、ときどき俳句を作ることに何の意義があるのだろう、何の価値観があるのだろうと思ってきたことも事実である。生活に追われてきた多忙な日々も必死で専念する俳句であった。

…何故、俳句を作るのか。それは私自身になれる、私自身を取り戻せるから、と言う俳人の言葉。なるほどと思う間もなくその人は言う。

…生きるのに疲れた時、俳句は癒しの栄養素になります。真剣に物事に集中して、毎日の現実と闘っている俳人の事を思っていた私。俳句は、日日の生活の糧とも、或いは生きていることのメリットとも。そのように思考してみると、明日への力の源とも、俳句を作ることは意味をもっているのかとも考えだした昨今である。

 そこで、生活の癒しの栄養素であれば、何も俳句だけが特に優れたものでもないだろうにとも思う。一行詩や散文の一行にだって同じような味は含まれている筈。どうして優れた心の癒しが俳句にはあるのだろうかと、私自身に問い詰めたいと思ったのが、この稿を書きたいと思ったきっかけである。

 一口で言ってしまえば散文は意味を求めるもの。その意味を細かく追求し、そのことを深める。より解りやすく人の感情を探り出し心に取り込むのが主眼の文体を作る。私は小説も書いているが、小説のなかでの意味の大切さを知った。神戸新聞の小説部門で5回入選したのであるが、その時の選考の基準が意味の重要性であったと感じたのである。

 一方、一行詩は作者の思想を意識的に高めて芸術的に発展させる文体である。これは短歌や俳句へとつながる文体でもある。ただここで言えることは一行詩には意味を求める要素が強くあり、ここが俳句とは根本的な相違点である。…故に一行詩は読んだ時の印象は強くある。だが、この感覚は一過性のものである。その心の思いはすぐに消える。心中を通過してしまえば消えてしまい後には何も残らないのである。それは意味の要素を多く含んでいての説明の文体だからである。したがってそれ以上の広がりと言う展開へは繋がらないからであろう。俳句は寄物陳思である。ここには美意識を強く求める心がある。私が…そのことを強く感じたのは鈴木石夫の句であった。

   風峠越え彼岸花悲願花  鈴木石夫 

句集『風峠』(平成8年8月)より。この句は言葉遊びのように思われるだろうが、私にはそうは思えないのである。むしろここにあるのは…心遊びである。これこそ寄物陳思である。寄物陳思とは感情的な言葉ではなく「物」で心を伝える基本に沿った表現。石夫の句には具体的な「物」を見て、心そのものを表現。「物」を導き入れ感情を抑えていることが理解できるのである。この句「彼岸花」は作者にとっては「悲願花」でもあるのだろうと思われる。いろんな思いの中における心の揺れが、心遊びとなって定着したのだと思っている。そして美意識と思われるのは心を美しくしての思想でもあったのだ。

   幽霊の集会があり 招かれる  鈴木石夫  

「歯車」311号鈴木石夫追悼号より。心遊びと言えば、これほど自由に遊んで気持ちを精一杯開放している句も珍しいと言える。日常の諸々にぶっつかり、苦しい思考の中で切羽詰まった時には思いもよらないとんでもない事を考えてしまうものである。幽霊の集会へでも行ってみれば何かが開かれるかもしれない。全く現実には存在しないことを思ってしまう。即ちこれが心遊びなのである。現実には存在しない幽霊が作者の目視のなかにはあるのだ。希望または願望として強くある。心の中の鬱々とした諸々が開かれるかもしれない。招待してもらいたいと切に思い、願いがかなえられ招かれる喜びにとっぷりと浸り切る作者。普通であれば、この句は寄物陳思とはならない。だが、作者の目視の中には幽霊が存在し見えているのである。幽霊の集会に招かれると信じ、そのように思うていられる事の心の美しさは大切であった。作者固有の美意識である。作者は心いっぱい癒されているのである。現実の世界では体験出来ないものが心遊びによって遂げられたのである。 

   くちびるを花びらとする溺死かな  曽根 毅 

句集『花修』(深夜叢書社)より。第4回芝不器男俳句新人賞の受賞者。この句が寄物陳思の類に入るかどうかなのだが、比喩が意識的に作られているようで不自然のようにも思える。なるほど「くちびる」は「花びら」でもある。そのように思えることはある。だが、「…とする」ということは物で心を表現すことではないのである。意味を説明していることで心を伝えることとは思えない。…その思いを強くすのだが、これは俳句ではない。この句は一行詩としての文体のように私は思える。俳句は美意識を心で感じるものでなければ…生きるのに疲れた時、俳句は癒しの栄養素になります。とは言えない。俳句に使われる言語は意識して作り上げられた言葉であってはならないのである。心中より自然に発声される心を大切にしていなけれは心を癒すもの、また生活の糧などにはならないのである。そのことは心のなかに誰もがもっている美意識を生むことであろうとはしないのである。

 ここで【美意識】とは何。デジタル大辞泉によると次のように記載されている。

美しさを受容したり創造したりするときの心の働き。

「物」に接し、目視し、そして美しいと心で受け入れたときに生ずる心の働きと記されている。意味を述べて説明することではないのである。しかし現代俳句のなかには言葉表現そのものが意味を求める傾向にある。感覚は意味を追求することや訴求するところから出てくるものではないのである。心で受け止めたときのその心の働きなのである。言葉先行の観念語や作られた意識操作語を十七音の中の主体にしようとする傾向は…生きるのに疲れた時、俳句は癒しの栄養素になります…ことにはならない。俳句は心を癒すものでありたい。まさに俳句を作るメリットは生活してゆくことのポイントでもあろうと思う。 

 だが、言葉が意識的に動かされても寄物陳思を思わせる句もある。 

   あめんぼに是非来てほしい洗面器  仲 寒蟬  

句集『巨石文明』より。ここにあるのは目視による具体的な物は「洗面器」だけである。言葉が説明的のように配置されてはいるが、物を踏まえてのもの。目視の果てでの心に残る言語である。意識して作られても…作りものと思わせなければ、立派な心の表現になる。ここには私性の文体があったのだ。作者にとっては日頃より思っていることが、物を目視することによって現実のものとなって蘇る。心の中だけではなく、目の前のものが目視の彼方にあることとして認識する。いま心を癒す時を作っているのである。この句にある言語は意識して言葉を作っても作者の作り言葉とは思わせていない。それは作者の日頃から思っている真実言葉であったからで心遊びは充分に出来ている。

   処分する風鈴いちどだけ鳴らす  仲 寒蟬

   手袋を出て母の手となりにけり  仲 寒蟬 

これらの句の根底をなすのは俳句における…心遊び。ただ気をつけなければならないのは意識作用が強すぎると、わざとらしくなり、言葉だけのものになる。心の伝達が不自然にならないことが望ましい。

 心遊び…作者の心の状態が定まらないで揺れているとき、正常な安定した心理に戻す、その時にいろいろな癒しを求めて心が動く、その様子を表現にして示す。日々の生活が繰り返されてゆく中で俳句での心遊びは大切である。感情の揺れをコントロールし安定させる気持ちの切り替えは俳句で出来る。

   月もまた前傾姿勢寒波来る  岡崎淳子

   晩年の右手に弾む手毬唄   岡崎淳子

句集『蝶のみち』より。目視により心に映った作者自身の思考の形が「月の前傾姿勢」であったのだ。寄物陳思によって編み出された心の弾みは「手毬唄」にもしてしまう。上弦か下弦の半月の前屈みの姿を、作者は自分自身として確心。それは前進しようとする心の姿勢である、半月が前傾させようとする形を作る時、自分自身を投影させ、寒波へと立ち向かう心の安心を受けとっている。その時の心の弾みこそ、心を自由に遊ばせる岡崎淳子さん自身であったのだろう。日日の一切から解放される楽しく美しいほんの一瞬。ここには心遊びがある。正に寄物陳思による美意識が込められているのだ。生きていることの実感が一瞬、喜びに行き着き心が美しく思えることの素晴らしさ。作者にとっては一瞬一瞬の思いは心の弾みとなって蘇生するのである。心遊びにより癒されてゆく寄物陳思であった。  

 俳句は…心遊び…である。日常の日々に傷つき悩み苦しむとき。癒しの心で心情を安定させ明日への弾みに向かう心を育てる。それは心遊びであろう。

「歯車」の代表であった頃の鈴木石夫先生は、今の私たちにこの心遊びの重要性を懇切丁寧に諭されていたように思う。生きていることの楽しさを俳句にすること。生活の日常を俳句として心遊びする、心を癒して人生を楽しくする。平成・令和の今の社会にあって、自分自身を感じとることすら出来ず、自分の心も開けない、そんな中にあって自己表現の出来る場としての俳句である。心遊びの要素がどれほど大切であるのか、示して下さったのは石夫先生であった。俳句を作り続けることの意義を私たちに遺して他界。

 …これが私の俳句だと言えるものが出来るまで続けなさい。

改めてこの言葉が心を打つ。決して忘れてはならない。心遊びは私の俳句である。私がわたしを癒すことでもある。石夫先生の心遊びの俳句とは…心を癒すこころを大切に保持することであった。私が俳句を作り続ける所以である。