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偉人『アイザック・ニュートン』

2024.08.09 00:00

『万有引力の法則』『微分積分法『光の分析』』の三大功績を成し得た世界的科学者のアイザック・ニュートンを今回取り上げる。

リンゴを見ていて万有引力を発見したというのほほーんとした取り上げられ方をすることが多いニュートンであるが、当時の平均的寿命の2倍近くの84歳でこの世を去るまでに陰湿で暴挙の数々を働き、科学を50年進歩させたが100年その進歩を妨げたとも言われている。なぜアイザック・ニュートンがそのような生き方をしたのか、彼の生い立ちと三大功績を果たした20代前半以降の人生を考察してみよう。

今から480年余りの1642年の12月25日クリスマスの日、イングランド東海岸のリンカンシャーの田舎町で農場を営む彼と同じ名前を持つ父と母との間に誕生する。しかしニュートンが誕生する3ヶ月前に父が他界し女一人での養育が困難として母は再婚をした。しかし母の新しい伴侶の牧師はニュートンを引き取り育てることを拒み、母は仕方なくニュートンを父方の祖母と叔父に託し一人家を出た。この時にニュートン3歳であるが日に日に『母に捨てられた』という感情を強くし心に傷を負い、人を信じない性格を形成しかなり気難しい人物として成長していく。また母の再婚相手に対して憎しみをあらわにし「義父と母の住んでいる家に放火し焼き殺す」と義父を脅している。自分から母を奪った義父に対しての憎悪は人格形成を歪めるだけではなく、その後の人生においても研究上で自分自身を否定する人物やニュートンを支えた人物に対しても妄想癖で攻撃をするなど理性とはかけ離れた感情的で衝動的な感情コントロールがうまくいかない人物へと変貌していくのである。

母と離れて暮らすニュートンは未熟児で誕生し長くは生きることができないと医師から言われるほどの小ささで、就学後も身体が小さく学校ではいじめの対象となった。しかしこの時もいじめっ子たちに対して義父を攻撃するかのようなやり返しを実行し、その後いじめられることはなかったようであるがいじめっ子が手を引くぐらいの攻撃性があったとの見方もできる。

これまで多くの偉人が神童と言われるほどの能力の高さを誇っていたことを記す機会が幾度もあったが、ニュートンはその神童と呼ばれるほどの優秀はなくどちらかというと平均レベルであったようだ。しかしいじめをきっかけに人を見返すために喧嘩だけに頼るのではなく、学業においても『絶対に負けない』というハングリー精神が沸き起こり、学業をに対する考え方が変化し努力を惜しまず学ぶことを獲得していったのである。しかしこのマイナス局面から一見プラスに働いたかのように見える学業での成長は、人格形成に課題を持っていたニュートンにとっては華々しさと紙一重で『孤立と鬱』を持ち合わせており、陰湿で人を蹴落とすことや攻撃性と尋常ではない権力に執着へと転じてしまったのである。

権力に対する彼の執着は45歳で国会議員となる道が開かれたが話すことが得意ではなかったため議員としての資質がないものとして政治家としての返り咲きをすることはできなかった。それもその筈である。議会で発言したのは「窓を閉めてくれ」だけだったと言われている。しかし彼の政治に対しての意欲は強いもので50代で再度政治に出馬しようとした。しかし失敗すると家に閉じ籠り鬱状態になったばかりではなく、彼の政治出馬を精一杯応援していた人物に対して被害妄想のような手紙を送り、応援者の病は治らず死を匂わせる文面を綴ったのである。ニュートンの人生の特徴として自分を認めない者に対して攻撃し、それが上手くいかなければ孤立し鬱になり妄想が広がる困った状況を引き起こすが、それでも彼は耐え忍んでチャンス到来まで待ち人生を何とかしようとすることを繰り返すのである。

幼少期に形成された攻撃性は孤立を生み出し精神面での安定を脅かす鬱状態をも作り出してしまったが、ニュートンが尋常ではない強さで自分の人生を切り替える能力を持ち合わせているのも事実である。暗黒の幼少期によって彼の才能は花開し世界的な科学者になったのであるが、人としての人生を考えると自分を認めない人物に対しては過激な行動を取ってまでも屈服させる尋常ではない陰湿さに気づけなかった天才科学者の哀れさも感じてしまう。

怒りに任せた彼の行動を記しておこう。当時彼が所属するイギリスの王立協会では優秀な科学者が集い互いの研究を共有して批評し合うことが行われていた。1672年にニュートンが発表した光に関する研究に対し異議を申し立てられ、ニュートンはその研究について上手く説明することができないまま心折れその場から逃げ出してしまった。その後弁明することなくその公開討論会は終止符が打たれたのであるが、陰湿な性格のニュートンは人から批判されることを生涯忌み嫌っていたため自らの研究をバッサリと切り捨て異論を唱えた科学者仲間のロバート・フックに恨みが沸々と湧き起こり彼を生涯の敵と看做していた。ニュートンはロバート・フックの死後自ら王立協会の会長の役職に就くと、自分を批判したロバート・フックのたった1枚の肖像画を破壊するよう指示するだけでなく、その研究の成果や開発した機械などを破壊するなどさせた。同じ科学者であれば生涯かけて研究する意味を理解できるのであろうが、憎しみが増幅するような感情を持つと理性の判断もできないばかりか、過激に物事を片付けてしまう衝動を抑えることができなかったのである。彼はその後国際的にも認められても常に深い不安を抱えて鬱状態に陥ったり攻撃性を露わにしたりを繰り返し大いに苦しんだのである。

彼が生涯執着していたことに権力志向がある。政治に進出することができなかったニュートンはケンブリッジ大学に席を置いたまま2年後、大臣で友人のモンタギューの勧めで造幣局の所長となり街に出回る偽造通貨の犯人を執拗以上に追い詰め、偽造の主犯格である裕福層の人物を裁判にかけるため自ら証拠集めを行い主犯格を絞首刑の刑に処す裁判を起こしている。

彼は生涯自分自身を批判する者や権力のある者、裕福層を快く思っていなかった節がある。実はこの全ては彼が歩んできた人生のターニングポイントで出会った人物の特徴とリンクしている。まず初めにニュートンから母を奪った義父は自分を認めず、当時のキリスト教社会において権力を持つ牧師であった。そして大学進学後は同じ学生でありながら多くが裕福層の家庭にの学生である一方ニュートン自身は学費と食費を免除される代わりに教授のコマ使いとして働きながら学ぶ苦学生であり、コンプレックスを自ら育て友人はおらず他学生と距離を置くようになっていた。そして自分の分身と思える研究を批判する同じ科学者の存在の上に立つためにはやはり権力を得なければと痛切していたに違いない。

彼を理解するためには幼少期の環境を考慮する必要があるものの、そのほかの理由に関してはニュートン自身が感情コントロールをする機会はどこかであったであろうと考える。しかしそこが気づけなかったのには大きなものの欠如があったと言える。

その欠如の1つが彼の心のあり方を諭したり異変に気付き助言する大人がいなかったこと、そして2つ目が人間の心理や哲学に関する書籍を読んでいなかったことである。

ニュートンが心の寂しさや孤独、不安を鎮めるために読書を好んでしていたことは有名な話であるが、彼が読んでいたのは科学や数学に関するものや機械やものの仕組みに関するものばかりで小説や哲学書の類は読んでいなかったとされている。努力で掴み取った優秀さを有しているのであるから人間の心情や精神論的ものに触れていたならば、彼の生き方は自分自身を追い込んで神経をズタズタにするような生き方はしなかったであろう。幼き頃に受けた悲しみや寂しさ孤独を別の形で癒すことができたであろう。さすれば人の研究を踏み付けずに互いに切磋琢磨し心の安定もはかれたであろう。人間、生き辛さを抱えることほど苦しいことはないであろうが、たとえ抱えたとしてもそこに何らかの意味を見出し、自分に与えられた生き方とはどのようなものなのかを見つめることができれば苦悩を多く抱えることにはならないのではないだろうか。ニュートンは人を恨む負のエネルギーによって偉業を成し得たがそこには精神を苦しめる代償がある。そのような偉人の人生もあるのだと頭の片隅に置くことも人生には必要なのかもしれぬ。子供達がある程度成長した時期に反面教師として知らしめることも人生の学びである。