『ものの見方が変わる 座右の寓話』を読んで
みつむらです。
お正月休みということでまたまた本を読みましたので、恒例のおススメ本のご紹介です。
今回は『ものの見方が変わる 座右の寓話』です。
教養は戯曲を書く上での武器になります。以下は「はじめに」より。
寓話の目的は教訓や真理を伝えることであり、お話そのものはそれらを届けてくれる”運搬手段”である。面白さに気をとらわれているうちに、いつの間にか人間や世界、人生についての認識が深まっていくのである。私は本書をつくり込んでいく過程で、古今東西の寓話の面白さを再発見すると同時に、その寓話を一つの材料としながら様々なことを考えた。もちろん、私の視点や解釈が正解というわけではない。それは、一つの視点、一つの解釈にすぎない。本書が、寓話の面白さを知るとともに、自分の仕事や人生、地域・国・世界の進むべき道について考える一つの手がかりになれば、幸いに思う。
「はじめに」にあるとおり、自らの見方を変える物語ばかりが揃っており、読みやすい文体であるため、すぐに読み切ることができます。
ちなみに僕の作品である『殺さない殺し屋』を書くきっかけとなったカマスのお話も掲載されています。
抜粋して、特に印象に残ったお話を1つだけご紹介します。
「No.4 泣き婆さん」より
南禅寺の門前に”泣き婆さん”と呼ばれる女性がいた。彼女は雨が降れば降ったで泣き、天気が良ければ良いで泣く。雨でも晴れてもいつでも泣いていた。南禅寺の和尚が不審に思い、こうお尋ねになった。
「一体、おまえさんはなぜいつもそう泣くのか」
すると婆さんはこう言うのだった。
「私には息子が二人おります。一人は三篠で雪駄屋をやっております。もう一人は五篠で傘屋をやっています。良い天気の日には、傘屋の方がさっぱり商売になりませんので、まことにかわいそうでなりません。また、雨降りになりますと、雪駄屋の方は少しも品物がはけませんので、困っているだろう。そう思いますと、泣くまいと思っても、泣かずにはいられません」
そこで和尚は「なるほど、話を聞いてみれば一応はもっともな様であるが、そう考えるのは下手じゃ。わしがひとつ、一生涯うれしく有難く暮らせる方法を教えよう」とおっしゃった。婆さんはひざを乗り出して「そんなけっこうな事がありますならば、是非ともひとつお聞かせください」と言った。
和尚は次のような話をした。
「世の中の禍福はあざなえる縄の如しというて、福と禍とは必ず相伴うものである。世の中は、幸福ばかり続くものではなし。かといって不幸せばかりが続くものではなし。かといって不幸せばかりが続くものでもない。お前は不幸せな方ばかりを考えて、幸せのほうをいっこうに考えないから、そのようにいつも泣いていることになる。
天気の良い日は、今日は三篠通りの雪駄屋は千客万来で目の回るほど繁盛すると思うが良い。雨の降る日には、今日は五篠通りの傘屋の店では品物が飛ぶように売れていると思うが良い。こう考えれば、晴れれば晴れたで嬉しいし、雨が降れば降ったで嬉しいであろう」
それ以降、泣き婆さんは楽しく暮らしたという。
あなたが持つ、そのものさしは本当に正しいと言えますか?
視座という言葉があります。視座とは、「物事を見る姿勢や態度、立場」という意味です。どういう視座で世の中の出来事をとらえるかによって、世の中の見え方は決まり、「良い」ことと「悪い」ことが決まります。
逆に言えば、視座が変われば見え方も価値観のものさしも変わります。
戯曲を書くことにおいて、状況を様々な視点でとらえ、次の展開をどうしたら面白くなるかを考える力は必須です。
あなたが持つ、そのものさしは本当に正しいと言えますか?
本書は「働く姿勢と働く意味」や「欲望との付き合い方」、「生と死のつながり」といった15のテーマを元に構成されており、こちらでご紹介した「泣き婆さん」の他に76話の物語が収録されています。僕は筆者の物語の解説がどれも素敵で読みやすく、どれも印象深かったです。
人生を、そして自分自身を見つめ直すきっかけになる物語がたくさん詰まった本です。
是非、ご一読ください。
ではでは。この辺りで。
おわりっ!
みつむら