造化にしたがひて造化にかへれ
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/32173161?categoryIds=5811044 【内なる自然と外なる自然】
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/32173214?categoryIds=5811044 【内なる自然をみつめる】
https://ameblo.jp/amenooshiwo/entry-12841987002.html 【季題を超える「宇宙原理」】
元禄二年、七夕の夜、松尾芭蕉は『奥の細道』で〈荒海や佐渡によこたふ天河〉と詠んだ。荒海には、佐渡の歴史的明暗あるいは芭蕉自身の漂泊の人生などが重なるが、それも所詮は仮の世のこと。雄大な銀河を天空に横たえる造化の妙を全身全霊で受け止めてこそ天人合一という至境が掲句に開かれたのである。ここにおいて「天河」は季題や季語を裏打ちする太陽原理を超えて造化随順つまり宇宙原理に根ざすものとして機能することになる。些末写生や季題諷詠に拘泥して停滞する現代俳句が取り戻すべきものがここにある。
太陽は律儀で難儀芹に花 鳥居真理子
『月の茗荷』(角川書店)からの一句。ほとんどの歳時記で、芹は春、芹の花は夏の季語となっている。ところが、榎本其角の〈うすら氷やわづかに咲ける芹の花〉について山本健吉は「『芹の花』によって春の句となる」と述べている。本来、無限定なる森羅万象を律儀に分別すること自体難儀なのであり、もっとも、俳句の本分がそんなところにはないのである。同じ作者の〈嗽するたびに近づく銀河かな〉〈天の川肉もこころの類なる〉では、人体あるいは生命という小宇宙と星々の耀く大宇宙との深い共鳴が詩的昇華されていて琴線に触れるものがあった。
流星を両手で掬う洗面器 対馬康子
掲句所収の『天之』(富士見書房)の後書きには「時間を創造し、風土を顕現せしめ、新たな関係性を創造するという喜びをあきらめることなく」と述べられている。海外生活の多い対馬さんにとって四季のない国での句作は難儀だったに相違ないが、天の原を振り放けて見る流星と日常生活との新しい関係性に季題を超えるべき深い詩性が耀いている。
最後に『祈りの天』(ふらんす堂)から昭和五二年生まれの新鋭の句。
星涼し夜空に沖のあるやうな 日下野由季
季節感が薄れゆく現代にあって宇宙的スケールの詩性が実に頼もしい。
初出 : 朝日新聞「俳句時評」
https://ameblo.jp/shinka0927/entry-12844318587.html 【日本、芸術の精神と自然観】より
おはようございます☀今日もまたマニアックな備忘録。
松尾芭蕉の俳諧(はいかい)紀行文に笈の小文(おいのこぶみ)というのがある
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https://kotobank.jp/word/%E7%AC%88%E3%81%AE%E5%B0%8F%E6%96%87-38477
現代語訳はこちら
↓
https://blog.goo.ne.jp/mayanmilk3/e/66fc05b6d8c80381c096597034feaec1
江戸時代以前の、日本の諸芸術を「貫通する精神」とは何か?
日本に古くからある芸術において大事なのは大いなる自然をリスペクトして感ずる心(感覚)
と私は受け取りました。
芭蕉は森羅万象に従い、四季の移り変わりを自分の親しい友のようにみなすという意味で
「造化にしたがひて四時を友とす」と言った
「見るところ、花にあらずといふ事なしおもふところ、月にあらずといふ事なし」
人間から見る客観的対象として花や月が存在しているという見方ではなくて
こちらの感じ方次第で(見るにつけ、思うにつけ)花や月は現象する(見方が変化する)ということ。
だからこそこちら側の感性や心構えが大事だよね〜って言っていますよね。
その感性を磨き感性を触発するのは造化 すなわち「自然」です。
なので芭蕉は「造化にしたがひて造化にかへれ」(自然に従いて、自然に還れ)と言った。
自然に対するリスペクトが高いのが日本の特徴なんですがそれは自然の風景に対してつけられた言葉(語彙)や「道」の精神にも表れているよね。
縄文時代から今日に至るまで精神的な面で無意識に受け継がれていること それは
「母なる自然からすべての命は生まれてきてまた自然に還るよねー」という自然リスペクト感性。人間を含めて生命を生んでくれるのは大いなる自然、大地でそこからすべては生まれ 循環の中で生き 自然にまた還る「自然と共に我々は生きている」という自然リスペクトが
受け継がれてきているのだと思う。
芭蕉の笈の小文(おいのこぶみ)で西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫通する物は一(いつ)なりという言葉。
そこを貫いている一つのものを芭蕉は「風雅」と言った。
風雅とは文芸、詩歌、文章の道芭蕉のいう、俳諧のこと。その中に流れているのは日本に受け継がれている自然観。それは現代の自然観とは違う。人間によって選別され再現(自然の模倣)された「人都合の理想化された自然」のことではない。
人間を中心に世界を考える現代の「自然の美」はガーデニングや花屋の花のようになっていて
人にとって理解の形に整えた景色のことを指すことも多いのですが芭蕉の言う自然とは
「史前の美」(人間の歴史よりもずっと前からある自然を感じとる感性)なのです。
すべてを人が意味を理解できる形に整形してきた現代の感覚でまだ意味化していない自然を見る感覚
ありのままの自然を理解するのは少し時間がかかるのだけど いまやっと なんとなくその日本ノリが少しづつわかってきているのは日本に暮らしているおかげ(環境)かもしれない。
思想としての、禅は「只管打坐」なので本来は神道も仏教も関係ない。
自然の中で座り我との区別をなくし感覚のみで捉える
その精神性の構築には日本に古来から受け継がれている自然観その影響もあったってことだよなぁ。
Facebook長堀 優さん投稿記事·
小春日和の好天のもと、日本ホリスティック 医学協会の降矢英成会長が講師を務める森林療法の体験会に参加してきました。
主催は、横浜-大口のヒーリングサロン「ぐらっぽろ」の船津仁美さんでした。
都会の森林なんて、と思われるかもしれません。
ところが、エネルギーも充分ある上、山奥と異なり手軽で、しかも害獣に襲われないというメリットがあるのだそうです。
じつは、私も公園を歩くことはあっても、木々にこれまで気を配ることはほとんどなかったのですが、しかし、これが意外なことにとても奥深い!
一口に落ち葉といっても、降矢先生の説明を聞きながら観察すると、様々な色や形があることに気づかされます。
そして、それぞれが、「神之木公園」というこの小宇宙で見事に調和しているのです。
紅葉なんてないように見えたのに、落ち葉を集めるとこんなにも美しく映えます。
樹木のそばで、天、森林、そして大地とエネルギー交換をする気功を体験しました。
感性がたかくない私でも、足元から力強いエネルギーが入ってくるのを感じ、爽快な気分になりました。「神之木公園」というだけあり、木々の"気"の流れも良いのかもしれません。
これまで、ボーッと生きてきて残念です。良い体験をすることができました。
最後は、神之木公園を登り切ったところにある山本忍先生の「神之木クリニック」に向かいました。
山本先生のクリニックに向かう患者さんが、「神之木公園」を通るだけで元気になることもあるのだとか、さすがですね。
「神之木クリニック」は、福祉施設と一緒になっており、クリニックに入る前からカラーセラピーで元気にしてもらっているような感じになります。
偶然にも、この「神之木クリニック」を設計した建築家は、我が家のワンコのお散歩仲間です。
今日は見学できて良かった、次にお会いした時にご報告するのが楽しみです^_^
クリニックのランチでは、酵素玄米のおにぎりや重ね煮で作った美味しい味噌汁を楽しむことができました。
神之木クリニックで買った「星々と木々」です。シュタイナー科学の一端、科学と神性について学ばせてもらいます。
身近な公園をもう一度見直してみませんか、きっと新たな発見があるはずですよ
Facebook斉藤 一治さん投稿記事
私たちの人間の心身は、他のあらゆる生命と同じように自然であり、地球であり、宇宙です。
斉藤は、人間の心身を「内なる自然」と呼び、それ以外の全てを「外なる自然」と呼称しています。
この二つで「大自然」「宇宙」を形成しています。
宇宙では「万物共生」が大原則です。
確かに、宇宙の中での「人間」の存在は、その出現時期、その生存期間を考えれば「ゴミ」以下の存在に過ぎません。
原始宇宙(創造主)は、個として一つの存在であって、自分という意識を持っている。
だが、それは、この世にたった一個の存在物であって、右も左も分からない原始無垢な生命です。
悲しいことに、原始宇宙は、自分の意識が備わると同時に、すぐまた、自己を破壊しなければなりません
いつまでも、その形を保っていることができないのです。
そこで原始宇宙は、渦を巻いて磁界を発生させ、氣を集めて物を作り、自己の原形を復元しています。
そして、人間を創造し、そこに自己の心を投影して、失った心を復元しているのです。
親渦の中心点に銀河を集めるのは、自己の体を復元するためであり、また、そこに人間の意識を宿すのは自分の心を復元するために他なりません。
貴方は創造主の子供ではない。神の分身であり、神自身なのである。
自分が大宇宙の当体であると悟れば、目に見える万物は自己の体であり、森羅万象が貴方の胸の中に帰納する。
地球人類の苦悩は貴方の苦悩であり、星や銀河の誕生は貴方の喜びである。
それを体得したとき、きっと貴方は本物の神になるだろう。
少なくとも日本の縄文人は、「自分が宇宙(大自然)」であることを自覚していました。
縄文以前のカタカムナ人も「宇宙全体の仕組み、生命の本質、命や心の本質」など現代科学が解明できないでいる「根源的な事実」を熟知していたようです。
このようなことが1万年前に、解明されていたのですから、日本人の祖先は世界に誇る「哲人」です。
この意識は、今でも、私たち現代日本人の「心」の底流に眠っています。
今こそ、覚醒し、その意識を取り戻す必要があります。
そのために、まずは簡単なことから始めましょう。
笑いがあり、あらゆるものに感謝申し上げ、明るい前向きの人生を送ることです。
笑いますと、副交感神経が優位となり、心身の緊張がほぐれ、血液中のエンドルフィンが増加し、NK細胞が活性化して、ガンの進行を抑制してくれます。
このエンドルフィンがハリ麻酔や気功麻酔の作用物資であることも証明されています。
エンドルフィンは約20種ある脳内麻薬の一つです。
最初に発見された脳内麻薬は、自前の鎮痛剤としてのエンケファインでした。
これらの脳内麻薬は「自前のモルヒネ」ですから下記のような副作用や習慣性がありません。
便秘、嘔気、嘔吐、眠気、呼吸抑制、混乱、幻覚、ふらつき感、
血圧低下、発汗、掻痒感、排尿困難、尿閉、口内乾燥など
因みに、エンケファインの作用はモルヒネの約10倍、
エンドルフィンは約100倍、
ダイノルフィンは約150倍あると言います。
ありがたい「宇宙からの贈り物」です。
笑いからモルヒネまで飛躍してしまいましたが、
斉藤が言いたいのは「生命は宇宙」ですから「健全な生命(心身)に必要なものは、すべて自分に与えられいます、すべて体内にある」ということです。
免疫力をも含む自然治癒力しかり、
唯一つの生薬である「唾液」しかり、
斉藤が毎朝、一番に飲む自酒「純マイ酒」しかり、
その後「神棚」を拝みますが、神前で、大きな笑いを8回繰り返しています。
すべて、必要なものは、既に与えられているのです。
だからこそ「生かされている」のです。
これに感謝するのは当然です。
笑いますと「内なる自然・約60兆個の細胞」に喜んでいただくことができ、その波動が「外なる自然」にも伝達されます。
「自分の喜び」が「宇宙の喜び」になり、4倍になつて自分に戻ってきます。
この「喜び・感謝・元氣」の循環こそ、「万物共生循環共同体」である「宇宙」の本体です。
「万物共生」への道のりは、険しいものですが、
まずは「笑い」から始めてみましょう。
そして、あらゆるもの、あらゆることに感謝申し上げます。
勿論「がん細胞も感謝すべき細胞」です。
この宇宙に「必要のないもの」はありません。