美意識
Facebookごとう 孝二さん投稿記事
「ありのままのあなたの姿が美しい」ありのままのあなたでいい 心の世界でもよく言われますね 弱い私 ズルい私 恥ずかしい私 かっこ悪い私 不器用な私 どんなあなたでも
ありのままのあなたが素晴らしい 本当に本当にその通り
そしてね もっと付け加えると 姿形がどんなであっても どんな性に対する欲望があっても
それもまた ありのままのあなたに価値があり 素晴らしいって事なんです
ありのままの容姿の素晴らしさについて ミロのヴィーナスをはじめ芸術の世界でも
ありのままの姿を美しいものと捉え ギリシア神話の中の女神達も アダムとイブの楽園も
裸で描かれることが多いですよね。
ありのままである裸体は 最も美しく尊い姿 のはず………ですが
現代では ダイエットと謳えば、商品がヒットし 美しくなると謳えば、高価な化粧品が売れる どれだけ 誰かの決めた美しさの基準に踊らされ ありのままの自分の容姿に 自信を持つことができないのかと言う現れでしょう。
もちろん 美しくなりたいという欲求そのものは 女性として、誰もが持つものであり
女神として、当然の欲求です。それは、大いに楽しんでいいのです
けれどそのベースが「今の自分では、ダメだから」もっと痩せたいもっと変わりたい もっと美しくなりたい で、あったなら 美しくなるという、楽しみが 自分に対する脅迫にも近い
苦しみを生み出してしまうのです。
痩せなければ、愛されない・・・変わらなければ、受け入れられない・・・女神の皆さんの美しい身体は 与えられたその一つ一つのパーツが 素晴らしく完璧で 本当は、何ひとつ変える必要などないものです。
絵画で描かれる女神達も ふくよかで暖かく 女性的な優しさを感じませんか?
中には痩せすぎで悩んでいる方もいるかもしれませんね。
しかしぽっちゃりさんも 痩せっぽちさんも 胸が小さくたって ウエストが締まってなくたって お腹が出ていようとも 足が太くとも 肌の色がどんなであれ あなたが欠点だと思っている部分こそが チャーミングポイントであり そんなあなたがいいよ❤️と言ってくれる人が必ずいるのです。
欠けた部分があるからこそ美しいと唱えたのは千利休だったでしょうか。
日本人の美意識は本来、この欠けた部分にこそ魅力を感じるものなのです。
産まれたての赤ちゃんがどの子も天使のように光り輝いているように 成長し、大人になったあなたも どんなあなたの姿であろうと女神のように神々しく光り輝いているのです
そのありのままの姿を美しいと思えなくなったのは 人が 比べる という事を覚えたから
比べるという行為は 優劣をつけるためではなく 違いを知る為 あなたの価値を決めるものではありません。
心と同じように身体もあなたはあなたで素晴らしいあなたが求めている完璧だと思っている姿はあなたが愛する人にとってはちっとも魅力的ではないかもしれません。
あなたが自分の女神な身体を愛をもって見つめることができたなら 変わる必要など、全くなく パートナーからも愛されますし 今はまだ出逢ってない方も そのままのあなたを愛してくれる人が 必ず現れます。
そして 何のために悲痛な思いで 我慢を重ねて 苦しいダイエットをしようとしていたのか
不思議にさえ思うでしょう。ありのままのあなたの姿が美しい
自分を愛する生き方ブログより。
Facebook尾崎 ヒロノリさん投稿記事
おはようございます。『花の決意』
人知るもよし 人知らぬもよし 我は咲くなり (武者小路実篤)
「花の決意」と題された詩です。
自分がそこにいることを周囲に認められなければ、まるで自分の存在価値がないかのように感じてしまうのが人間です。人が知っていてもよい、知らなくてもよい。
私の与えられた場所を私の居場所として、そこで精一杯の花を咲かせる。この詩にそんな凛とした輝きを感じます。見習うべき生きざまがそこにはあります。
例えば、なんとなく感じる一人ぼっちの私、ちょっとしたことでイライラする私、望みが絶たれ辛いと感じる私……。
でもだから自分はダメだというのではなく、それは私が問題として気づきがあったという証になること。その心は自分次第です。
そんな私に呼びかける言葉が心に響きます。
そんな呼びかけに耳を澄ましてみることを大切にしたいと思います。
素敵な一日をお過ごしください。
https://ameblo.jp/197001301co/entry-12758092635.html 【自分の「美意識」を知る】より
その句にとても魅かれるが、なぜ魅かれるのか説明し難い句、というのがある。句会の場などで講評を求められた時、自分の思い出に直結していたとか、同じような光景を目にしたとかいう「感想」はあたたかく素朴ではあるが「鑑賞」にはならない。
例えば、 音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢 赤尾兜子 といった句。
不安感とか絶望感を「音楽漂う」の若干のリリシズムで包み云々…という説明は出来るが自身の根本的な何に触れたのか説明するのはかなり難しい。
「真理を知る方法は心情である」というパスカルの言葉は、最も安らかな批評の方法につながる。ただこの「心情」を言葉で説明するのはやはり難しい。
しかし「なぜ良いか」を客観的に言語化して表現しようとする作業は自己分析の手段となり、また他者を深く理解する手立てともなる。
そういう意味で最近読んだ『絵を見る技術 名画の構造を読み解く』(秋田麻早子著 朝日新聞社)は興味深い一冊だった。
この著書は、名画と呼ばれる絵画がなぜ名画なのか―その仕組みを構造的に分析し「絵の見方」を提示する。
「名画」といわれる所以はどこにあるのか。美術を見る鍛錬を経ると、その作品が例えば「明るい」「暗い」などという表面的な見方ではなくて、構造や造形の面から語ることが出来るようになるという。「フォーカルポイント」(絵を見る際の焦点)、「リーディングライン」(重要な部分に目を誘導する線)、「リニアスキーム」(線のバランス)、用いられている絵具の種類、十字線や対角線などを手掛かりに細かく分析的に見る方法が丁寧に解説されている。
いわば絵画を見る際の「基準」というべきものを知ることで、絵画を理解していこうという試みだ。俳句も、構造的に一句を分析し、鑑賞することも可能だが、そういった見方はふくよかな味わいに欠けるという欠点がある。ただ、この本の巻末にあった自身の美意識を知る方法が、俳句にもあてはまるかもしれないので紹介したい。
①自分の好きな三つの絵(名画に限らず、漫画やポスター、CDジャケットなどでも)を選ぶ
②その三つの「共通項」を探るというもの。
「絵」を「俳句」に置きかえて私も実際にやってみた。
①自分の好きな三句
夏の河赤き鉄鎖のはし浸る 山口誓子
冬河に新聞全紙浸り浮く 山口誓子
花の雨滲む新聞紙を踏めり 菅原鬨也
②共通項
・「河」「雨」など水にまつわる句。
・田園風景より都市生活。
・「鉄鎖」「新聞」といった自然物ではないものと季語の取り合せ。
・伝統的な切字より「浸る」「浮く」といった断定的な動詞の使い方。
・見慣れているようだがどこか暗さと陰りがある光景。
・一句に漲る緊張感。
・鉄鎖や新聞といった無機質なものが有機的に描かれている。
・ぱっと見「美しい」というよりどこかひっかかりがある。
これらの結果は、冒頭の兜子句にも共通するところがあり発見であった。
なんとなく「良い」「好き」と思う句の「共通項」を客観的に知ることが自分の「美意識」をうっすらと知ることと繋がるのは面白い。
「感想」ではなく「鑑賞」するためには「教養」がものを言うのだろうが、真の教養とは単に物知りな事ではないのだと思う。
自分の美意識を知り、相手の美意識を知ろうとする姿勢。広く世界を見、世界を知ろうとする気持ちが豊かな「鑑賞」を生むのではないだろうか。
(「滝」2022.3月号所収)
https://ameblo.jp/197001301co/entry-12724507960.html 【よりよく生きるための俳句】より
①選という海
「滝」を継いでもうすぐ六年になります。主宰となって一番変わったのは、当然の事ですが選を「される側」から「する側」になったということ。ある程度予測していたこととは言え、結社内外問わず、見せて戴く俳句の数は日に日に増えています。
俳句の選は、私にとって俳句を作るより非常に神経を使う作業。はじめの頃は、歳時記の例句と季語だけ違う句を採ってしまったりと失敗もありました。選者というのは、特別偉いからなれる、とか、物凄い実力があるから、というより、私の場合だと置かれた境遇、立場、そしてタイミングによりその役割を与えられた、と考えるのが妥当かと思います。言葉のニュアンスはあまり適当でないかもしれませんが、いわば選者は「釣り人」。ここぞというポイントに狙いを定めて良い句を釣り上げる。その為には釣り竿や釣り針をきちんと手入れし、体調を整え、良いコンディションで選句の海に漕ぎ出さなくてはいけません。
今回はその選をする際の「基準」から、「俳句」を考えてみました。
②詩の純度
先日行われた松島芭蕉祭において、招聘選者夏井いつき先生が、選の基準として「詩の純度、オリジナリティ、リアリティ」を挙げられました。また「俳句の選は結局、選者の好き嫌い」という通念を越えて、どの選者にもこの基準は共通してあるとのこと。200句なりの句の中で50句のふるいの中に残る句は、各選者重なっていることが多い、というお話は実に頷けるものでした。実際、チェックは入れていたが私の選からは漏れてしまった句を、他の先生が採って下さっていた例がたくさんありました。
複数の選者がいて、どの選者の選にも入らない句と言うのは、やはりその三つが他の句に比べて弱いと言い換えられるかもしれません。結果に一喜一憂せずに、自句に欠けているのはどの部分なのかを検証してみるのも、俳句大会における学びのひとつであろうかと思います。
やはり俳句の選の筆頭に挙げられるのは「詩情」の部分であると思います。「詩の純度」の部分と言えるでしょう。
では「詩情」というのはどこに宿るのか。それは「芸術」における価値判断の基準を知ると明確になるかと思います。詩人萩原朔太郎は言います。
「あらゆる人間文化の意義は、宇宙に於ける意味に於て、真善美の普遍的価値を発見することに外ならない」「芸術の価値批判は「美」であって、この基準された点からのみ、作品の評価は決定される」「芸術の評価はこれ(美 ※筆者注)以外になく、またこれを拒むこともできないのである」。
③美という基準
朔太郎の論評は全般的に、詩人特有のエキセントリックさが少々勝っている気もしますが、私にとって芸術や文化の基準を考える際の大いなる礎となっています。
「真善美の普遍的価値を発見する」の「真」と「善」の部分は、道徳的、倫理的側面が絡んでくるので、詩の評価基準に持ち込むにはやや慎重さを要しますが、「美」に基準を置くというのは、一番安らかで正直な方法であるとも思います。
「美」に基準を置くというと、きれいな景色とか雅な言葉、と思われがちですが、「美」というのはそういった一見わかりやすいものだけに宿るのではないことは「美」を辞書で引くとはっきりします。
「美―知覚・感覚・情感を刺激して内的快感をひきおこすもの」
(広辞苑第五版)
かみ砕いてしまえば、「美」とは「人の心を揺さぶる」ものとも言えそうです。必ずしもうっとりきれいな言葉とか、光景として美しいというだけでなく、「より情線に振動をあたえるもの」(朔太郎)であると言えるでしょう。岡本太郎も言います。「美しいというのはもっと無条件で、絶対的なものである。見て楽しいとか、体裁がいいというようなことはむしろ全然無視して、ひたすら生命がひらき高揚したときに、美しいという感動がおこるのだ。それはだから場合によっては、一見ほとんど醜い相を呈することさえある。無意味だったり、恐ろしい、またゾッとするようなセンセーションであったりする。しかしそれでも美しいのである」。
必ずしも表面的な「きれいきれい」ではない。得体の知れないものの中に「美しさ」を感じた経験、というのは誰にでもあるのではないでしょうか。
いろいろな「美」を含め、人はあらゆる場面で「美」を求め「美」に憧れます。
なぜ人が「美」を求めるか。料理家の辰巳芳子氏は「「美」を追い求めることで、自然に自分のいのちを完成させやすいのではないか」と言います。辰巳氏によれば、「「美味しい」ということは人間にとってもっとも分かり易い「美」であり、美味しいものを求めるということは「いのちを守りやすくするため」と言います。「「美」を求めていくことで、人間は生きやすくなる」と。
④よりよく生きる
人間にそもそも備わっている「美」を求める心。それはよりよく生きたい、という人間の根源的な欲求に繋がっている。さらに「美」を追求するためには、自分というちっぽけなものだけを相手にしていては、到底見えてこないものなのかもしれません。
俳句という文芸の大きな特徴は「四季」「自然」を相手にするということ。またわかりやすい特徴のひとつに句会の場などで他者の作品に触れる機会が多いということが挙げられます。これらは、自分以外のものに目を向けることで世界の広さや奥深さを感じられるというメリットがあり、よりよく生きられるということに繋がるのだと思います。
完成された人生や人格の果に文学作品があるのではなく、俳句を作り、また鑑賞することで自分自身を完成させてゆく、というのはとても魅力あふれる行いであることは間違いありません。
おぼろ夜のかたまりとしてものおもふ
加藤楸邨
ぼんやりとした朧の中で、朧なる自分がおぼろなる考えをくゆらせている。俳句を通してさまざまを考えるのはひとつの愉楽でもあります。
この「虚実淙淙」も「滝」創立三十周年にあたる十二月のタイミングでちょうど五十回目となりました。
近頃は俳句の「選」を通して俳人として鍛えていただく機会をたくさん得ています。俳句にかかわることで、少しずつ人生を完成していけたら、と思っています。
皆様いつもあたたかく見守って下さり、本当にありがとうございます。
参考文献
萩原朔太郎『詩の原理』筑摩書房 1975年
岡本太郎『自分の中に毒を持て』青春出版社 1993年
辰巳芳子/小林庸浩『辰巳芳子のことば 美といのちのために』小学館 2007年
(「滝」2021年12月号 所収)