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Okinawa 沖縄 #2 Day 273 (13/10/24) 旧中城間切 北中城村 (05) Ishihira Hamlet 石平集落

2024.10.15 08:10

旧中城間切 北中城村 石平屋取集落 (いしひら、イシング)



安谷屋集落に向かう途中に石平集落に立ち寄った。


旧中城間切 北中城村 石平屋取集落 (いしひら、イシング)

石平 (イシング・いしひら) は、北中城村の西部に位置し、東は安谷屋、北は瑞慶覧に接し、南は宜野湾市、 西は北谷町に隣接する。

字石平は西原 (イリーバル) と下川原 (シュムガーラバル) の二つの小字で構成されている。石平の集落は、下川原に集中し、西原と下川原の一部が米軍基地として接収されたままになっている。

石平屋取は1798年 (寛政10年) 頃に首里・那覇から移住してきた士族によって、形成された屋取集落といわれる。その居住地は、中城村安谷屋・瑞慶覧、北谷村北前の二村三か字に属していた。戦前の石平は石平屋取といわれていたが、その中には、安谷屋の西原と下川原を安谷屋石平、瑞慶覧の西前原を瑞慶覧石平、北谷村字北前の石平原と横嵩原を北前石平と呼んでいた。中城村、宜野湾村、北谷村の境界付近に家屋が散在していた。安谷屋石平と北前石平の一部を前屋取 (メーヤードゥイ)、瑞慶覧石平と北前石平の一部を後屋取 (クシヤードゥイ) と称していた。

北谷村石平屋取は、1944年 (昭和19年) に北谷村北前から分字し、石平として独立行政区となり、中城村石平屋取も、1945年 (昭和20年) に中城村安谷屋から分字する事が認められていたが、戦争が激しくなり、分字が頓挫してしまった。戦後、1956年 (昭和31年) に下川原と西原が石平の行政区に移管が実現している。

下のグラフは明治時代の中城村の士族の割合を表している。安谷屋には25戸の屋取集落があるが、これは安谷屋石平屋取集落だけで、これ以外には北谷村の北前石平屋取集落と瑞慶覧石平屋取集落があった。 1941年 (昭和16年) には安谷屋石平が28世帯、瑞慶覧石平が10世帯、北前石平が26世帯、合計64世帯359人だった。

石平屋取は耕地面積が少なく、水はけが悪く、基幹作物である甘蔗、甘藷、大豆などの収穫が思うようにできなかった。前屋取 (メーヤードゥイ) と後屋取 (クシヤードゥイ) それぞれの組が、サーターヤー (製糖小屋) を一つずつ所有していた。その後、1940年 (昭和15年) に一か所、1943年 (昭和18年) にはさらに一か所増設され、全部で四か所の製糖小屋ができた。砂糖きびは、荷馬車によって、那覇の砂糖会社まで運ばれた。その他、間作として落花生を栽培し、首里市場に出荷し、畜産としては、馬・豚・山羊などが各農家で飼育されていた。

本格的な沖縄戦は、1945年 (昭和20年) 4月1日に北谷村砂辺海岸に米軍の上陸から始まった。石平屋取は、上陸地点から近かったので、翌朝には米軍が石平に到達し、村に残っていた住民は、捕虜となり、砂辺経由島袋に収容され、その後宜野座村福山に移動を命じられた。しばらくして石平屋取の全世帯が、宜野座村福山から安谷屋に移動することが許可された。北谷村の石平屋取も行動を共にし、安谷屋に移り、石平出身の外地引き揚げ者なども加わって生活していた。戦前に居住していた前屋取と後屋取は返還されていないのだが、1948年 (昭和23年) に下川原が、1952年 (昭和27年) には西原の一部も米軍から解放され、安谷屋から下川原と西原に移住が始まり、1955年 (昭和30年) までに石平屋取の全世帯の移住が完了している。下のグラフは沖縄戦での戦没者を表しているが、石平で118が犠牲となり、住民全体の27.9%にあたる。村内で亡くなったのは18人、島尻郡に逃げて亡くなったのは21人、中頭郡、国頭郡での死亡者はそれぞれ、3人と 4人。その他の地域で亡くなった人が38人と他の集落と比較して極めて多い。避難する際にはほとんどが集団で行動していたので、沖縄戦での死者の特徴は追い詰められ南の島尻での戦死者が大多数を占めるのだが、この石平はこの傾向に当てはまらない。何が起こったのかは分からないが、石平は屋取集落で、民家が点在していたことから、住民をまとめるリーダーで不在で、集団行動ではなく、各家が独自の判断で行動していた結果かも知れない。

字石平は北中城村の中では小さな地域で、全体の1%の面積。2023年末の住民はで319人で3番目に少ない人口の字に当たる。

字石平の人口推移を見ると、戦前は423人と現在よりも多くの人が住んでいた。沖縄戦で住民の約三分の一が犠牲となった事や、元々集落があった場所は米軍基地に接収され住民の帰還が困難だったことで、人口は減少。その後徐々に人口は増えて戦前の人口を超えるまでになった。2000年代に入ると、人口は減少に転じ、戦前之人口を下回り、現在でも微減傾向が続いている。


石平集落の拝所と祭祀行事

石平は屋取集落なので、村としての拝所や祭祀行事はなく、各門中で行っていた。1945年 (昭和20年) に中城村安谷屋から分字した後に、按司墓を村の拝所として拝んでいる。

  • 御嶽: なし
  • 殿: なし
  • 拝所: 共同拝所 (按司墓)
  • 井泉: 下門井 (嘉手納基地内)、石平樋川、普天間樋川


石平交差点、沖縄リージョンクラブレストラン

安谷屋の袖端坂 (スディバナビラ) 石畳道を見学した後、安谷屋集落を目指して石平交差点を通る。この交差点に少しレトロっぽい建物があった。沖縄リージョンクラブレストランとある。元々はアメリカ軍の将校クラブだったものを戦後まもなくの1947年にレストランとして開業している。現在は閉店してしまい、三階にOKINAWA LEGION CLUB というサバイバルゲームセンターが営業をしている。


旧石平集落、キャンプ瑞慶覧

石平交差点から安谷屋へは県道81号線が通っている。元々の石平集落は県道の北側の米軍キャンプ瑞慶覧として接収されたままになっている。丁度、米海兵隊基地司令部があった辺りになる。戦後、この県道の南側、普天間川との間に帰還後村をつくり住んでいる。


普天間橋跡 (フティマバシ、石平人道橋)

普天間集落の北東側、北中城村との境界に普天間川 (フティマガーラ) が流れている。川の中央が宜野湾村と中城村との境界になっていた。川の水は澄み、洗濯・水浴・子供たちの水泳の場所であり、カニ・エビ・ウナギなどもよく獲れたという。上流を川底に石を敷きつめて徒渉していたといわれる。 この普天間川は、水源が中城村の杣山 (現南上原) を発し、その間、山と平野の中を流れてくるので、降雨の際は増水して渡るのに難渋したという。

この川には普天間橋 (フティマバシ) のアーチ型石橋がかけられていた。石平橋とも呼ばれていた。首里の石大工によって架けられたと歌った琉歌が残っている。橋のすぐ下流には馬に水浴びをさせる場所があり、橋のすぐ上流は、子どもたちが泳ぐ場所だった。 現在の石平人道橋あたりに架かっていた。この橋は、1902年 (明治35年) に中部地方の農産物を首里、那覇へ運ぶ普天間街道が整備されてから、間切時代の宿道 (東海道) に変わる主要な道路の一部となり、普天間参詣などでも賑わっていた。 1922年 (大正11年) に那覇~嘉手納間に沖縄県営鉄道が開通すると人の往来も減少していった。

普天間橋は、1914年 (大正3年) 頃に新しい工法で建設された。その後、太平洋戦争の戦時色が強まるにつれ、各地から戦勝祈願のための普天間参詣が活発になり、再び人びとの往来で賑わっていた。整備された石橋や街道は、米軍の進攻を容易にするものと考えられ、1945年 (昭和20年) に米軍の進攻を防ぐため日本軍により普天間橋は爆破され、その後は仮橋を架けて使用していた。本土復帰 (1972年) 後も普天間、 安谷屋住民の生活道路として、また、悲惨な戦争の証として現場保存が望まれたが、老朽化が著しく危険との理由で1981年 (昭和56年)、河川の整備に伴って、宜野湾市教育委員会の記録保存調査後に撤去され現在の鉄骨の人道橋が完成し、石平人道橋と呼ばれている。大正時代の橋は、宜野湾市が文化財に指定してあったので、市がその残部を保管している。


石平樋川 (イシングヒージャー)

民族地図によると、戦前には石平人道橋 (普天間橋跡) のすぐ近くに石平樋川 (イシングヒージャー) があったとなっていた。その場所あたり、県道330号線の手前には普天間中継ポンプ場があるが、現在ではそれらしきものは見当たらない。ポンプ場か、その下の普天間川の辺りにあったのかも知れない。戦前までは前屋取 (メーヤードゥイ) の住民がこの井戸で無病息災・豊作を祈願していたという。


桜小路、夫婦シーサー (ミートゥーシーサー)

石平人道橋 (普天間橋跡) を東にわたり、普天間川沿いには桜小路と呼ばれる桜の名所がある。ヒカンザクラの満開の季節に縁結びの名所にしようと、普天間川の再生を目指す住民が、2002年ごろから普天間川沿いの両脇に約1kmに300本余のヒカンザクラを植樹し、現在では期待通りに桜の名所となった。今は桜の季節ではないので、その風景は見られないのだが、その季節の様子がインターネットにアップされていた。(写真下)


石平公民館 (倶楽部)

石平人道橋の道を東に進むと、石平集落に入る。集落の中心地に、戦後、1957年 (昭和32年) に倶楽部 (公民館)が建設された。戦前の石平には、旧暦1月17日に、ジュウシチニチジュリー (十七日揃い=初集会) というのがあった。これは戸主の集会で、2月2日のクスッキーの予算、道路の整備などの協議をしていた。


石平カジマヤー

公民館の道を更に進むと道は大きく左に曲がっている。ここが、胡屋・国頭方面と泡瀬・勝連方面への道が交わる場所で石平カジマヤーと呼ばれ、戦前は昼夜の別なく交通量の多く、交通の要所だった。

大正時代までは普天間まで徒歩で出て、大山駅まで客馬車に乗り、大山駅から軽便鉄道に乗り那覇や嘉手納まで行っていた。1941年 (昭和16年) には、石平カジマヤーの前を木炭と薪のバスが通るようになり、バス停も設置され、那覇、国頭、 勝連方面のどこにいくにも便利になった。ただ、普天間橋から石平カジマヤーまでは急な坂道だったため、バスは一、二回停車して、馬力をつけてから登らなければならなかったそうだ。石平カジマヤーを挟んで、県道沿いに商店・鍛冶屋・理髪店があり賑わっていた。石平カジマヤーでは勝連方面からの行商人が白イカや魚などを売りにきており、屋宜原・瑞慶覧の人々がよく集まってきて、一つの交易の場所でもあった。


石平の拝所 (按司墓)

戦前、石平は帰農士族の屋取集落だったので、伝統的な村の聖地や拝所は存在しなかった。前屋取は北谷村と中城村 (現北中城村) の境界近くにある石平樋川 (イシングヒージャー)、後屋取は製糖小屋の敷地にある井戸で無病息災・豊作を祈願していた。戦後は元の集落が米軍基地に接収されてしまったので、石平カジマヤーから普天間川に降る階段にある按司墓と伝えられている墓を整備して村の拝所としている。


石平集落は小さな村で、屋取集落だったので、拝所などは少なく、時間もかからず見終わった。この石平に隣接している安谷屋集落に移動する。




参考資料

  • 北中城村史 (1970 安里 永太郎)
  • 北中城村史 第2巻 民俗編 (1996 北中城村史編纂委員会)
  • 北中城村史 第2巻 民俗編 付録 (1996 北中城村史編纂委員会)
  • 北中城村史 第4巻 戦争・論述編 (2010 北中城村史編纂委員会)