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「宇田川源流」【お盆休みの幕末偉人伝】 藤田東湖

2024.08.12 22:00

「宇田川源流」【お盆休みの幕末偉人伝】 藤田東湖


 さて今年のお盆休みは幕末偉人伝を行う。今年のゴールデンウィークは、長州の幕末の志士について話をした。その内容は、省セルに書く内容としてキャラクターの設定のような話になったのである。今回もそれを行ってみたい。

さて、今回は藤田東湖である。何故藤田東湖なのか。それは藤田幽谷・藤田東湖の親子が幕末を始めたからである。幕末というのは、江戸幕府の最後の時ということになるのであり、大概の場合、それは「ペリー来航」と「開国」ということによって形作られる状況の変化がもたらしたと思われている。しかし、実際には藤田親子、特に藤田東湖の思想が無ければ、外国人が入ってきても、現在歴史に残っているような国内の分裂はなかったということになる。そのような意味で藤田東湖を今回は研究してみたい。

★ そもそも水戸学とは

そもそも水戸学とは何であろうか。徳川家康は、江戸幕府を開くにあたり、自分の直系の子孫が絶えることを考え、自分の末の息子三人を御三家として、要衝に配した。一人は尾張名古屋城。尾張国は、もともと織田信長・豊臣秀吉を配した国であり、なおかつ京都頼向こうの西国から迫られたときの東海道の要衝である。また伊勢湾を中心にした海運の中心になり、商業の中心になる。そしてもう一人が紀伊和歌山。現在とは異なり、大阪に天領があり大阪城代が、そして、京都に天皇がいる。そして西国には、とうそyは熊本に加藤清正が、広島福島正紀が、島津も毛利も残っている。そのような状況において、その西国の大大名の清軍を止めるために、和歌山に強大な藩を作った。大阪そして近江国彦根の井伊家、そして伊勢国津の藤堂家等で防ぐということになる。

そしてもう一つが水戸家である。水戸家はそのような役割を持っているのではなく、江戸の自覚にいて将軍家を補佐するということがその役になっている。そのために尾張国・紀伊國が50万石なのに対して水戸家だけは二十五万国と他の御三家の二家の半分くらいになっている。その分、将軍の補佐ということになっていて軍事的な力はあまり期待されていない。

その水戸家の三代当主光圀は、日本の歴史を学ぶことを行った。これは、明治時代に完成する「大日本史」として成立するのであるが、この光圀の歴史検証そのものから、日本は神の国であり、イザナギ・イザナミの二人の国作り神話から出てくるようになる。この思想から、光圀威光水戸藩の藩主は仏教ではなく神道による葬儀を行うことを将軍が直接に許可するということになっている。

この思想から「本来日本の為政者は天皇である」という考え方が出来上がる。まさに「尊王思想」であり、その尊王思想であることから「神国日本に周辺の夷敵が入り込むことは許さない」というような「攘夷思想」が出来上がることになるのである。前期水戸学というのは、日本の歴史をしっかりと学ぶというものであった。大日本史の編纂のほか、和文・和歌などの国文学、天文・暦学・算数・地理・神道・古文書・考古学・兵学・書誌など多くの著書編纂物を残した。実際に編集員を各地に派遣しての考証、引用した出典の明記、史料・遺物の保存に尽くすなどの特徴がある。ちなみに、「大日本史」の編纂方針において、南朝正統論を唱えたことは後世に大きな影響を与えることになる。しかしこの時点では「日本を知る」ということが主眼になっていたのではないか。この「前期水戸学」は、元文2年(1737年)、安積澹泊の死後、修史事業は50年間ほど中断状態となっている。

「大日本史」の編纂事業は、第6代藩主徳川治保の治世、彰考館総裁立原翠軒を中心として再開される。藩内農村の荒廃や蝦夷地でのロシア船出没など、内憂外患の危機感が強まっていた一方、水戸藩は深刻な財政難に陥っており、館員らは編纂作業に留まることなく、農政改革や対ロシア外交など、具体的な藩内外の諸問題の改革を目指した。翠軒の弟子の藤田幽谷は、寛政3年(1791年)に後期水戸学の草分けとされる「正名論」を著して後、9年に藩主治保に上呈した意見書が藩政を批判する過激な内容として罰を受け、編修の職を免ぜられて左遷された。立原翠軒と藤田幽谷の対立はこのようにして表面化する。享和3年(1803年)、高橋坦室が『大日本史』の論賛を削除すべきである旨を上書し、藤田幽谷もこれに同調したことで、翠軒は致仕を命ぜられることになり、その後彰考館の総裁に藤田幽谷が就任する。

文政7年(1824年)水戸藩内の大津村にて、イギリスの捕鯨船員12人が水や食料を求め上陸するという事件が起こる。いわゆる大津浜事件である。幕府の対応は捕鯨船員の要求をそのまま受け入れるのものであったため、幽谷派はこの対応を弱腰と捉え、水戸藩で攘夷思想が広まることとなった。事件の翌年、会沢正志斎が尊王攘夷の思想を理論的に体系化した「新論」を著す。「新論」は幕末の志士に多大な影響を与えた。この時に藤田東湖は、身支度を整えイギリスの捕鯨船印を霧に向かったが、すでに解放された後で後悔していると記載している。

天保8年(1837年)、第9代藩主の徳川斉昭は、藩校としての弘道館を設立。総裁の会沢正志斎を教授頭取とした。この弘道館の教育理念を示したのが『弘道館記』であり、署名は徳川斉昭になっているが、実際の起草者は幽谷の子・藤田東湖であり、そこには「尊皇攘夷」の語がはじめて用いられた。ある意味で「尊王攘夷論」は、この時に藤田東湖によって完成したといってよい。もちろん、そのもとは、大津村事件と、藤田幽谷による教育であったということになる。要するに藤田親子によって、幕末の中心的な思想である「尊王攘夷論」が出来上がるということになるのである。

★ 思想の切り替え

実際の日本の幕末は、『弘道館記』の尊王攘夷論から始まるといって過言ではないのではないか。

幕藩体制というのは、将軍をトップにした武士のヒエラルヒと、その武士に支配される農民や庶民の「支配体制」を中心に政治が行われている。しかし、尊王攘夷論は武士そのもののヒエラルヒの上に、もう一つ天皇を中心にしたヒエラルヒが存在し、日本が二つの支配体制によって成立しているということを中心に思想が展開する。それらが歴史から導き出されるということが、なかなか興味深いところである。

筆者の個人的な経験であるが、あえて固有名詞をなるべく書かずにここに記載をしておこう。ある宗教施設の本山の建て替えがあった。その時に宗教と関係のある人々の子孫がみな呼ばれるというようなことになった。当然に、皇室関係者に旧華族、そして武士階級の人々が来賓として呼ばれたのである。その時に、旧皇族が最も上座に座るまでは良かったが、その旧皇族の次に誰が座るかということで、徳川家の子孫なのか藤原家(五摂家の近衛氏であったが)の子孫なのかということで、軽い争いがあったのである。

「お前ら武士は、人斬り包丁を腰に差して400年位補佐しただけだろう。こっちは天岩戸の時から皇紀2600年(実際は2670年くらいであったが)以上ずっと天皇を補佐してるんだ。無礼であろう」という藤原家側の一言ですべてが解決した。もちろん、そのあとは家柄や階級などがあるので、旧公家の家柄の後に武士が並んだのである。

この「天皇をどちらが長く補佐して日本を治めてきたか」ということが、最も重要な内容になっている。この価値観がしっかりとできたのが尊王思想であるということになる。日本の為政者が、本来は天皇であり、その天皇を補佐するのが公家であり、また、武士である。将軍と言えども、すべて天皇によって承認されている。現在の内閣総理大臣もすべて天皇の認証によって正式に就任するという形式になっているのであるから、当然に、天皇を中心にした王朝政治が出来上がっているということになるのではないか。そのうえ将軍、正式名称で征夷大将軍は、実は令外官であり、本来の日本の憲法であった大宝律令の中には全く存在しない内容であった。そのように考えれば、「臨時全権大使」が鎌倉時代から江戸時代まで700年続いたということに過ぎないのである。

そして、その「征夷大将軍」は、夷敵を掃討し、内地(日本)に平和をもたらすということを行う役職である。もちろんその平和をもたらすために、軍事力を持ちなおかつ、その政治を行うということがから、庶民や年貢の聴衆もすべての内政権限を持っているというように構成されていることになるのである。

藤田東湖は、前期水戸学によって研究された歴史の内容から、この内容を導き出し、将軍や幕藩体制が、必ずしも絶対的な支配権を持つのではなく、本来その幕藩体制を許した朝廷こそが本来の内容であるということを考えた。もちろん、そのことは「将軍を中心にした武士のヒエラルヒ」つまり「幕府」を破壊してよいというようなものではなかった。将軍を尊重しながら幕府を維持するということを中心に論理を構成しているということになるのである。藤田東湖の問題は、そのような「複雑な論理」をそのまま放置してというか、その手の天災によくありがちなのであるが、「わからない人に懇切丁寧に説明して、なぜそのような論理になっているかということをわからせてから前に進む」のではなく、そのまま自分と徳川斉昭だけが知っていればよいというようなことで前に勧めてしまったということである。

安政2年10月2日(1855年)に発生した安政の大地震で50歳で死んでしまった時には、その藤田東湖の残したほんと理論だが残り、その解説などは全く残っていなかった。もちろん自分がそのようなところで死ぬとは思っていなかったということになるが、このことについては後で少し解説を加えたい。その上で、その論理だけが残ってしまったので、尊王攘夷の解釈や、あるいは佐幕派との間に様々な価値観の相違があり、その相違が国内の総覧(戊辰戦争)を産むことになってしまう。ある意味で、もう少し長生きして、議論を戦わせ、そのうえで、国論を統一するということができなかったことが、彼の最大の欠点であろう。

★ 藤田東湖の性格

まさに、藤田東湖の功績はこのように解説ができるが、では、どの様なキャラクターであったのだろうか。

「藤田東湖は、多少は学問もあり、剣術も達者で、一廉役に立ちそうな男だったヨ。しかし、どうも軽率で困るよ。非常に騒ぎ出すでノー。西郷(隆盛)は東湖を悪く言うて居たよ。おれも大嫌いだよ。なかなか学問もあって、議論も強かったが、本当に国を思うという赤心がない」とは勝海舟の言葉である。「藤田という人は君徳輔翼の上にも余程力のあった人である。夫れはドウであるかというと、東湖が死んだ後は烈公の徳望も東湖の在世ほどにはないということを聞いた。東湖が在世のときには烈公の徳望は一尺あるものも二尺に見えたが、東湖が死んでからはそう行かない。これを見ると藤田の輔翼の力は豪いものである」「藤田は聡明で磊々落々の人ではあるが、話の中に決して切っ先三寸というものを抜き放さぬ人であった。人と話をするに、右に行くやら左に行くやらその切っ先を見せぬというが彼の人の極意であった」という二つは西郷隆盛の言葉と伝わる。

さて、この言葉から目に見えるのは、彼は「輔弼の才」はあるが自分で頭目としてすべてを動かす君主タイプの人物ではなかった。参謀タイプであり、自分そのものが君主とするのではない。その参謀として仕える人物だけがわかればよいというような感覚を持っていたのではないか。逆に言えば「自分についてこれる人だけ理解してくれればよく、自分を理解できない馬鹿は相手にしない」というタイプであったのではないか。

そのような人物は豪放磊落で、人格的に人を魅了する。そして研究している「ゾーンに入った時」と、人と接しているときの差が激しいタイプではないかと考えるのである。もちろん、そのうえで「人を魅了する、そして安心させる風貌」を備えていたということになろう。ある意味で「凡庸な風采」だが「なんとなく一つきらりと光る何か」があるということになったのであろう。

ある意味で「藤田東湖」という人物は、諸葛孔明などとは異なる「孤高の学者」でありながら「多少ドジな部分のある愛すべきキャラクター」であったと考える。

同時に、「自分がいつ死ぬか」ということは全く考えていなかったのではないか。「理解されなくてもよい」というような考え方から、「事細かに自分の思想や足跡に対して、しっかりと説明する」ということができなかった人物であったと考えられる。水戸藩はそのような意味で、戸田忠太夫、武田耕雲斎などの補佐があって、その人々の政治の才覚から、大きな力を得ていたのに違いない。同時に、会沢正志斎のように、身近にいながら自分を理解していない人も出てきてしまうような人物であったのに違いない。

いずれにせよ、彼のこの思想から、大きな騒乱が起きたといって過言ではない。もちろん藤田東湖に責任があるというわけではなく、それを理解できなかった日本の社会にも問題があったともいえるのである。そして、藤田東湖のような思想家と、そうではなく、それをうまく解釈した人々というような感じで、様々な速度の人物が共存することこそが歴史の必然なのであると教えてくれる人物であろう。