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「宇田川源流」【お盆休みの幕末偉人伝】 徳川慶喜

2024.08.13 22:00

「宇田川源流」【お盆休みの幕末偉人伝】 徳川慶喜


毎週水曜日は、本来は大河ドラマ「光る君へ」について書いているのであるが、今週は8月11日の日曜日に、パリオリンピックの中継があったことから放送がなかったので、ちょうどお休みということになる。そのことから「光る君へ」に核ということがなくなってしまった。また今週はお盆ということから、基本的には「お盆休みの幕末偉人伝」をここにまた記しておこうと思う。今週はこのままこの内容を書いてみたい。

さて、昨日は「藤田東湖」について、幕末を始めた人ということになる。ある意味で幕末の中心的な思想である「尊王攘夷」を作った人物であるといって過言ではあるまい。そのように考えれば、彼の思想が無ければ、実は幕末は全く異なった内容になっていたのではないか。その藤田東湖の思想にもっとも傾倒し、そして「うまく使った」のが長州藩の人々である。はっきり言って「攘夷」「尊王」をうまくやったという事でありそれ下関戦争であった。同時に薩摩は薩英戦争を行った。この二つは全く異なる理由で外国と戦争を行った。その結果も異なるが、最後は「尊王倒幕」ということで、共同する。一方で「公武合体」「佐幕」という思想が別に存在する。これらについても今回はしっかりと見てゆこう。

さて、その「尊王倒幕」になった時の攻撃対象は当然に「幕府」である。そして個人ということになれば、武士のヒエラルヒのトップである将軍ということになる。しかし、第十四代徳川家慶までは、尊王倒幕がそれほど大きな内容になってくるのではなく、その内容が多きうなるのは、なぜか第二次長州戦争、そして、その最中に家慶が薨去し、第十五代将軍徳川慶喜が就任してからということになる。まさにその徳川慶喜とはどのような人物であったのか。

今回は徳川慶喜についてみてみよう。

★ 私は個人的に好きではない

今回は先に当時の評伝を見てみよう。松平春嶽は「衆人に勝れたる人才なり。しかれども自ら才略のあるを知りて、家定公の嗣とならん事を、ひそかに望めり」といい、木戸孝允は「一橋の胆略、決して侮るべからず。もし今にして、朝政挽回の機を失ひ、幕府に先を制せらるる事あらば、実に家康の再生を見るが如し」という。現在の一万円札の肖像画にある渋沢栄一は「公は世間から徳川の家を潰しに入ったとか、命を惜しむとかさまざまに悪評を受けられたのを一切かえりみず、何の言い訳もされなかったばかりか、今日に至ってもこのことについては何もいわれません。これは実にその人格の高いところで、私の敬慕にたえないところです」と言っている。なお、渋沢栄一は、一時主従関係にあったので、そのような感覚で見ておかなければならないのではないか。

さて、一方で西郷隆盛は「確かに人材ではあるが決断力を欠いていられるようである」といい、大隈重信は「公は人に接する温和にして襟度の英爽たる。老いてなお然り、以て壮年の時を想望すべし。その神姿儁厲にして眼光人を射、犯すべからさる容あり。静黙にして喜怒を濫りにせず、事情を述べ、事理を判するに当たりては、言語明晰にして、よく人を服せしむ。これを以て至険至難の際に立って、名望を集めて失わず、幕府の終局を完結して、維新の昌運を開かれたるは、決して偶然にあらず」と言っている。

これらを総合すれば、「貴族的で、加盟などにとらわれることなく様々な英断を行ったが、一方で広く意見を聞くことから、決断が遅く、また、どの相手に対しても不快な思いをさせないように八方美人的な部分があった」ということになる。

私個人は、徳川慶喜の内容を見ていると「強烈な個性を持った実父水戸藩主徳川斉昭のコンプレックスを最後まで引きずった人物ではないか」というように考えている。徳川斉昭は、父治紀の生前に「他家に養子に入る機会があっても、譜代大名の養子に入ってはいけない。譜代大名となれば、朝廷と幕府が敵対したとき、幕府について朝廷に弓をひかねばならないことがある」と言われていたという。藩校として弘道館を設立し、門閥派を押さえて、下士層から広く人材を登用することに努めた。こうして、戸田忠太夫、藤田東湖、安島帯刀、会沢正志斎、武田耕雲斎、青山拙斎ら、斉昭擁立に加わった比較的軽輩の藩士を用い藩政改革を実施している。つまり「型破り」で「新しもの好き」である。だいたいこの手のタイプは豪放磊落で、社会の常識よりも自分の道徳の正義感や道徳観を持っている。なおかつ自分に対する否定的な見解には基本的には耳を貸さず、自分の日値用とするところしか見ないという「唯我独尊」的な政治を行う。

まさに、徳川慶喜はこのような強引で型破りで周囲の評判を全く無視した人物に幼少期から思春期まで育てられた。そしてそののちに一橋家に入る。

ここで一橋家に関して少し注釈を加えておこう。徳川家康の宗家、つまり秀忠からつながる直径は七代家継で途絶えてしまい、八代将軍として紀州から徳川吉宗が将軍となる。徳川吉宗は、やはり型破りの人物であり、また徳川幕府の中興の祖ともいえる。まあ、その意味では時代劇「暴れん坊将軍」のイメージがちょうどよいくらいなのかもしれない。しかし、そのような将軍であっても徳川宗家をなくしてはならないということと、自分が将軍になった時に尾張家との間でかなり様々な確執があったことなどから、そのような無用な争いを招かないように、八代将軍の血筋で新たな御三家、つまり「御三卿」を作る。これが「田安徳川家」「一橋徳川家」「清水徳川家」ということになる。一橋家は8代将軍吉宗の四男宗尹を家祖とし、徳川将軍家に後嗣がないときは御三卿の他の2家とともに後嗣を出す資格を有した。家格は徳川御三家に次ぎ、石高は10万石。家名の由来となった屋敷、一橋邸は江戸城一橋門内、現在の千代田区大手町1丁目4番地付近にあった。なお、御三卿はいずれも独立した別個の「家」ではなく、「将軍家(徳川宗家)の家族」、いわば「部屋住み」として認識されていた。したがって、領地は幕府領から名目的に割かれているのみで支配のための藩は持たず、家臣団も少人数の出向者(主に旗本、他に当主生家の家中など)で構成されていた。

つまり「領地支配のない部屋済みの将軍のスペア」であったということになる。領土もなく支給で「10万石分」があるということで家格だけはあるが、実験がないという家になる。逆にいえば「普段から江戸城内に住んで江戸城内の様々な風評に晒される立場」にあった。

当然に風評というのは、男性よりも女性の方が多い。特に江戸上には「女性の園」である大奥があるので、女性の噂は非常に大きなものになる。ちなみに、女性の場合というと男女差別のように聞こえるので、少し譲って「当時の女性」の場合、政治的な風評とはあまり関係がなく、自分たちの生理的なスキキライから物事が始まることが少なくない。女性は政治にあまりタッチしない時代であったことから、政治的な功績や仕事場での話などは全くなかった。現在でいう「生理的に嫌い」というような話ばかりになる。そのような女性が最も嫌うタイプが徳川斉昭のような唯我独尊タイプで、なおかつ新しもの付きで格式などは関係なく、手続きなども全く関係ない「無軌道」なタイプである。実際に「徳川斉昭は女性に手を付けるのが早い」というような生理的に嫌う話が少なくなかった。

そのような「自分の父を生理的に嫌う人々の真っただ中に、見方もなく幼少の徳川慶喜が放り込まれた」ということになる。そのことは、当然に、「自分の身の処し方」が父とは異なる方向、もっと言えば父を否定しないが、父とは逆の「大奥の女性対地に好かれる清廉潔白さと清潔性」を取り込んだ内容になったのではないかと考えるのである。

このような政治的ない内容こそが、まさに、徳川慶喜の「特徴」である。しかし、大奥のいう「手続き性」や「清廉潔白性」「清潔」というのは、下級武士が中央政界に入ってくる幕末の世の中にはすべて必要としないというか、どちらかといえば「旧来の悪癖」として嫌われるものである。「型式よりも実質」を求める下級武士は、当然に、即効性と必然性で動いている人々であり、そのことからすべてが即断即決でなおかつ走りながら修正するというようなことが求められた。幕府のような巨大組織の官僚制的な手続き論は全く不要なものであったのだ。

そのような意味合いから「旧幕府」の「悪癖の象徴」というような形で徳川慶喜は考えられていたのに違いない。その意味で「徳川慶喜を倒す」ということが、江戸幕府を倒すことの中心的な目的になってしまったといえる。ある意味で「徳川慶喜が将軍になったことが、倒幕を速めたのではないか」という気がするのである。

★ キャラクター

徳川慶喜は、ある意味で「学級委員タイプの優等生」であろう。旧態依然とした、ある意味で既成の概念の中における優等生で「平時の能臣」という感じである。しかし、三国志に出てくる曹操とは異なり「乱世の姦雄」にはなれないタイプである。お坊ちゃまで、常に取り巻きがいて、そのうえで本人も頭がよく、周囲に気を遣うというようなタイプである。しかし、その「一見欠点のないことが、最大の欠点」となる。まさに、そのような時に何か緊急事態が起きると平時の対応では何もできない。

緊急事態に最も不必要なのが、「平時の能臣」「学級委員タイプの優等生」である。突然手続き論を言い始め、なおかつそのことで規則などを盾にとり、監査などを行うといい始める。はっきり言ってバカではないかという気がする。昔、マイカルというスーパーマーケットの会社にいたが、まさに「非常事態」であるにも関わらず、社長特命で行っている内容をいきなり監査するといい始める始末。そのことが嫌で会社を辞めたら、案の定、止めたのちに半年で会社は倒産した。一部上場でもかなりあっけない幕切れであったという気がするが、まさに、そのような状況が江戸幕府でもあったのではないか。

多分、英才教育、帝王教育を施されたが、危機管理ということは全く施されていなかった。そしてそのような人物であるので、「失敗してからすべてに気づく」ということになり、また。命じ偉大移行になってから、芸術、特に写真や油絵に嵌り、政治の世界には一切口を出さないようにするというような感じではないか。

実際に徳川慶喜本人は、もう少しあらぶった人物であったと思う。多分、徳川斉昭の血を最も濃く受け継いだ人物だったが、その英明であったがために、逆方向に向かってしまった人物であり、それが幕末という時代の流れに最もそぐわない状況になったのではあるまいか。

ある意味で、当時の江戸城内というのは、まさに「崩壊寸前でありながらその内容が全くわからない古い権威主義の腐った大木」であり、倒れる寸前でありながらどこか他人事で、その古い権威と官僚主義に浸っていたのに違いない。徳川慶喜はその中で生き残る術を手にしてしまった事から、荒ぶった人物で蟻ながらそれを隠すような形になったという事であろう。逆に言えば、それだけ腐ってしまった江戸城であり倒幕されて当然というような形になっていた、組織疲労が大きかったということになるのであろうし、また、それは、「庄屋仕立て」といわれた徳川家康の、当時の最も効率的であり実務的であった政治システムが形骸化し、完全に官僚主義権威的な内容になってしまっていたということを意味しているのではないか。

江戸幕府であっても、権威主義・官僚主義になってしまうと滅びてしまう。それを体現してくれたのが徳川慶喜ではなかったか。