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「宇田川源流」【お盆休みの幕末偉人伝】 井伊直弼

2024.08.14 22:00

「宇田川源流」【お盆休みの幕末偉人伝】 井伊直弼


 今週は、お盆休みということで「幕末偉人伝」をゴールデンウィークに引き続き行っている。幕末の人々について、幕末の小説を複数出している小説家として、とりあえず「専門家」っぽく解説をしながら、その人を小説に書く場合の「キャラクター」をここに書いてみたいと思う。

火曜日の初回は、「幕末という時代の初めを作った」ということで藤田東湖を書いてみた。もちろんキャラクターに関しては、反対する人もいるであろう。他の人を置き去りにしてしまう天才参謀ということで、とにかくわからない人には全く冷たくまた、細かい説明をしない。この世からの去り方も、安政大震災で母を助けるために崩れた家の中に入って死んでしまうという、唐突な死に方をしているところが、藤田東湖らしい。

そして昨日は徳川慶喜。家がっらの良いお坊ちゃまの「優等生タイプ」「学級委員タイプ」であり、欠点がないところが欠点であるという本当に、私のような劣等生には、嫌な奴であろう。ちなみに、この徳川慶喜と新選組は、相変わらず女性にファンが多い。日本人の心の、特に女性の琴線に触れる部分が少なくないのではないかという気がするのである。

詳しくは前回と前々回を読んでいただくとして、今回は、その幕末の混迷を深め、そして尊王攘夷派と幕府の対立を深くした、いや対立関係を決定的にしてしまった大老井伊直弼について考えてみたい。

★ 井伊家

 井伊直弼の先祖は、三河国井伊谷の出身で、大河ドラマの「おんな城主直虎」で扱われたので、その印象が残っている人が少なくないのではないか。実際に、井伊直虎はとにかく、井伊直政は、徳川家の先鋒であり、「井伊の赤備え」として有名である。しかし、一方で三河国衆の中では最後まで今川家に従っていて、徳川家康の三河国衆の中では「四天王」に入りながらも、新参者というような感覚になっていた。そのために井伊家は常に先鋒を任されるような状況であった。

そののちに、藤堂家が入り、徳川幕府は伝統的に、といっても大坂夏の陣以降まともな戦争はないのであるが、その戦争の先鋒は井伊家と藤堂家が任されるということになる。そのことが、江戸を守るという意味で彦根(現、滋賀県彦根市)と津(現、三重県津市)に配置され、それの後詰のような形で名古屋城があるということになる。

その井伊家の第14代藩主・井伊直中の十四男として生まれたのが井伊直弼である。母は側室の君田富(お富の方)で父の隠居後に生まれた庶子であった。そのために、17歳から32歳までの15年間を300俵の部屋住みとして過ごしている。この間に長野主馬と師弟関係を結び国学を学び、また、茶道、和歌、鼓、禅、兵学、居合術を学ぶということになる。また村山たか(花の生涯のヒロイン)と知り合っている。

第15代藩主・井伊直亮(直中三男)の養嗣子となっていた直元(直中十一男)が死去したため、江戸に召喚され、直亮の養子という形で彦根藩の後継者に決定する。兄の死去に伴い、藩主となってすぐに、国元にいた直亮の側役3名を直亮の病状[注釈 2]を自分に報せなかったことを理由に罷免あるいは役替とし、筆頭家老・木俣守易を職務怠慢を理由に罷免し隠居謹慎処分とした。直弼は、藩主・藩士・領民の一和を説いて藩士には積極的な意見の上申を奨励し、有意な上申や職務に精励する藩士には褒賞・人材登用の道を示して家中の意識向上を図り、そうした人材を育成するための藩校や家族の役割を重視する姿勢を示した。また、亡兄・直亮の遺命であると称して藩金15万両[注釈 3]を士民に分配した。これは、父・直中が家督相続した際の前例に倣ったもので、直亮の遺命としたのは士民に評判の悪かった彼の悪名を払拭し直弼の治世の始まりを宣言する狙いがあったとされている。

このように見ていると、「藩政改革」「新人物の登用」というようなことがあり、またその手段に関しては、「相手が全く反論できない方法」で行うということを行っている。ある意味で「綿密に計算された改革内容と、先読み、そして人の心を探るというような方法による藩政の掌握」を行っている。

 さて、ここで評伝を見てみよう。

安政の大獄で死罪となった吉田松陰は、彦根藩主就任当時に藩政改革を行った直弼を「名君」と評している。彦根に帰国した際に、まだ自分が期待に応えていないのに領民が総出で温かく出迎えてくれることを恥じて直弼が詠んだ歌「掩ふべき袖の窄きをいかにせん行道しげる民の草ばに」を、松陰は兄の杉梅太郎宛書簡に記し、直弼を領民に対する哀れみの心を持った領主であると賛辞を贈った。一方徳川慶喜の晩年の回想録である『昔夢会筆記』には、直弼のことを「才略には乏しいが、決断力のある人物」と評している。

長野主膳が直弼にあてた意見書の中で「現在となっては開国も仕方がないが、外国人を一定の場所(居留地)に閉じ込めて厳しく監視して商売を規制して、出て行くならそれで良し、報復するなら打ち払うべきである」と趣旨を述べ、直弼自身も安政5年(1858年)1月に堀田正睦に出した書簡の中で堀田の外交姿勢を「外国人の説に感服して一歩ずつ譲歩するのは嘆かわしく」「皇国風と異国風の区別を弁えるべきである」と批判している。

このようなところから見えて来るのは、「あまり考えないで短期間に決断をしてしまう」という姿である。そしてその決断は常に領民や「自分の守りたい人」を中心に考えているのであり、社会の秩序や、それまでの法、慣習などを全く無視して、自分の方法、自分のルールで物事を決めてゆくということではないか。ある意味で、徳川斉昭とは異なる形の「優等生型の唯我独尊タイプ」である。

逆に言えば「敵に回ってしまう人、または、守る対象とされていない人にしてみれば、本当に何の関係もないし、何故社会的な常識やルールを無視してこんなことをするのか」というようなことを、兵器でしてしまう、そのような人物であったということにある。守ってもらった人にとっては、本当に命の恩人でありまた、尊敬できる人であるが、一方であろう。皆さんのイメージの中でいえば「田中角栄」がその代表的な内容ではないか。田中派といわれる人々と、そうではない人々とでは全く扱いが違う。その人心掌握の内容や名言集は数知れないが、まさに飯尾直弼もそのような人物であったのに違いない。

さて、もう一つの評伝にある「開国派であったのか攘夷派であったのか」という事であろう。

これに関しても同じで「井伊直弼にとっては開国であっても、攘夷であってもどうでもよかった」というのが真相であろうと、私は大胆に予想する。要するに、井伊直弼は、自分が大事に思っている人をどのように処遇し守るかということが重要であり、そのファクトについて自分で何かを行動するということではない。もちろん自分に意見がないのではなく「開国であった場合のメリットデメリット・攘夷である場合のメリットデメリットをしっかりとまな板の上に挙げて検討し、どちらであっても対処できるという自信のある政治家であった」ということではないかと考えているのである。その井伊直弼の思考が理解できている人は、吉田松陰のように高い評価をするし、また、「学級委員タイプで、常識の範囲内の判断以外を評価できない」というような徳川慶喜にとっては、井伊直弼は理解できない存在ではなかったかと思う。

それだけ「自分を言う存在ではなく、自分の技術や政策で勝負する」ということでしかなかったのではないか。世の中にはそのような人物は存在する。例えば、「項羽と劉邦」の劉邦側の名産某である張良は、自分の権力欲やどちらが勝つということではなく「自分の策略が当たるか当たらないか」ということでしか物事を判断していない。ある意味で、名参謀でありなおかつ自分を消して主君に使えるタイプの軍師であれば、主君のために自分が犠牲になることもいとわないし、自分の仕掛けた策が成功するか否かが重要であるというような思考になるのではないか。

日本の幕末の悲劇というか、実際には、そのような人物が、大老として政権の中枢で自分で何でもできる立場になってしまったことである。つまり「補佐」ではなく「主君」になってしまったのである。

★ 何を守ろうとしたのか

では、ここにある井伊直弼は何を守ろうとしたのか。要するに彼が守ろうとしたものは何かということが最も重要なところになる。もちろんこの内容は、本人にしかわからないのであるしまた明確にこの人というのではないのかもしれない。

単純に「水戸斉昭が嫌い」であり、同時に「水戸斉昭が推薦している斉昭の息子徳川慶喜に将軍をさせたくない」ということが中心であった。そして、その陰にあったのが、村山たかの存在ではないかという気がする。ある意味で、村山たかそのものが「守るべきものの象徴」であったのではないか。なぜかそのような気がするしまた、その方が小説にしやすい。まさに「花の生涯」などは、そのような恋心とそれに合わせた政局の変化ということをうまく小説化した内容であり、その内容がそのまま「ドラマ」にもなるということになっている気がする。

では「村山たか」に象徴される日本とは何か。単純に、日本の文化の中で豊かに暮らす人々という事であろうしまた、幕府に象徴される内容である。そうであるあらば本来は開国する必要はないということになるのであるが、しかし、そうではなく「黒船と戦争をしない」ということを中心に物事を考えてゆけば、井伊直弼と同じような結論になるのではないか。戦中の日本の軍部と、外務省に近い関係であろう。ある意味で、軍部は終戦間際に「あくまでも戦って米英軍を日本から排除する」ということを考えたが、外務省、とくに日米派の吉田茂などは、和平を結び、軍備を放棄しても日本を生き残らせるというような感覚になった。そしてそのことから、国内の人々を東京裁判にかけながらも日本にいるまじめで無垢な国民を守るということをしたのではないか。そしてそれが国体であるということになる。

井伊直弼の視点に立てば以下のようになる。

尊王攘夷派=終戦時の軍部(無謀な戦いで国民を殺す者)

井伊直弼=吉田茂

水戸斉昭=東条英機(まさに、無謀な戦いに駆り立てる暴君)

開国=ポツダム宣言受託(本来は国益を損なうものであるが、戦争しないためにやらざるを得ないこと)

攘夷戦争=一億層特攻(国民を無駄に殺す行為)

安政の大獄=東京裁判(無謀な戦いを終わらせるための法的な手続き)

このような感じに見えていたのではないか。

このように考えれば、ある意味で井伊直弼も無謀な開国主義者でもなければ、暴君でもなかったのではないか。そのように考え、俯瞰的に見ることのできる人が少なかったことが桜田門外の変を引き起こすことのなったのかもしれない