「宇田川源流」【お盆休みの幕末偉人伝】 皇女和宮
「宇田川源流」【お盆休みの幕末偉人伝】 皇女和宮
今週は、お盆休みということで「幕末偉人伝」をゴールデンウィークに引き続き行っている。幕末の人々について、幕末の小説を複数出している小説家として、とりあえず「専門家」っぽく解説をしながら、その人を小説に書く場合の「キャラクター」をここに書いてみたいと思う。
さて、普段であれば、「土曜日のエロ」の日であるが、まあ、今週はお盆なので、今日までこの内容を続けようと思う。そのように考えて、今日までは「お盆休みの幕末偉人伝」を行う。しかし、幕末の偉人の中で、せっかくエロの日なので、女性の偉人を出してみたい。
まずは何か「和宮親子内親王」を話をしてみましょう。いわゆる「皇女和宮」です。ある意味で「お盆休みの幕末偉人伝の最終回」にとっても非常にふさわしいし、「土曜日のエロ」という意味でも最も良い特集の人ではないかと思う。
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京都御所の東に隣接する橋本邸において、仁孝天皇の第八皇女として生まれる。母は側室・橋本経子(観行院)。父・仁孝天皇は和宮の誕生に先立つ1月26日に崩御しており(遺腹の子)、和宮は勅命により橋本邸で養育された。
橋本家(はしもとけ)は、藤原北家閑院流西園寺の分家にあたる公家・華族。公家としての家格は羽林家。鎌倉時代末期、西園寺公相の四男実俊を祖として創設される。実俊は冷泉・橋本・入江などを称していたが、孫の橋本実澄の代から橋本の家名が定まった。家業は笛。幕末の実麗(さねあきら)は、国事に尽力。実麗の妹、経子は、仁孝天皇に典侍として仕え、14代将軍徳川家茂に降嫁した和宮親子内親王の生母となった。
さて、本来天皇の妻や妾は、天皇家または親王家、公家であっても「摂関家」「大臣家」
くらいでしか入ることはできない。藤原家の貴族は多くなり、その階級が決まっている。摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家となる。羽林家は大納言くらいにしかなれない。大臣家で最高位がない大臣となる。当然に皇后は摂関家以上しかならないということになる。では本来橋本経子が側室になるはずがないのである。これは、清涼殿等御所で働く女性はすべて藤原家など公家の女性になる。さすがに一般人の女性は中に入らない。あとは「穢多」といわれる人々が行うことになる。すべてに位階が存在するということになっている。もちろん、
さえ、そのような女性の中でも「天皇」が所望すれば夜の伽を共にすることがある。そのようなことがあってもよいように、あらかじめすべての女性を公家の子女にしているのである。まさにそのような「夜伽」を申し付けられて、そのまま子供を産んだ。それが和宮ということになる。
橋本家は、和宮を育てることによって「養育費」という加増があり、生活が楽になったようである。私の小説の中でそのことは書いている。
嘉永4年(1851年)7月12日、孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王と婚約する。しかし、万延元年(1860年)10月18日、孝明天皇は和宮の降嫁を勅許し、中山忠能らが縁組御用掛に任ぜられて和宮付女官の選定に入り、(宰相典侍)庭田嗣子・(命婦)鴨脚克子らが選定された。この間に幕府から公武合体の申し入れがなされ、そして、その内容に従って有栖川宮熾仁親王の婚約も破棄されることになった。
和宮は内親王宣下を受け、諱を親子と賜った[注 4]。しかし和宮の下向が近づくと世上では、「降嫁は幕府が和宮を人質とすることが目的で、久我建通らは幕府より賄賂を受け、天皇を騙して幕府の計画を手助けしている」との噂が持ち上がった。
噂を耳にした天皇は10月17日、岩倉具視と千種有文を召し出し、「和宮について江戸に下向し、老中と面談して事の真偽を確かめるとともに和宮の意向が叶うようにせよ」との勅語を与えた。
10月20日、和宮一行は桂宮邸を出立した。東海道筋では河留めによる日程の遅延や過激派による妨害の恐れがあるとして中山道を江戸へと向かった。行列は警護や人足を含めると総勢3万人に上り、行列は50km、御輿の警護には12藩、沿道の警備には29藩が動員された。 和宮が通る沿道では、住民の外出・商売が禁じられた他、行列を高みから見ること、寺院の鐘等の鳴り物を鳴らすことも禁止され、犬猫は鳴声が聞こえない遠くに繋ぐこととされ、さらに火の用心が徹底されるなど厳重な警備が敷かれた。島崎藤村『夜明け前』にも、第一部第六章で和宮一行が木曾街道を通行する前後の情況が描かれている。
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和宮一行は江戸城内の清水屋敷に入る。登城した岩倉具視・千種有文は老中の久世広周、安藤信正と会見し、「幕府は和宮を人質に天皇に譲位を迫るつもりだ」との風説について詰問し、幕府に二心無いことを示すため、将軍自らが書いた誓紙を朝廷に提出することを求め、将軍・家茂は和宮降嫁に関して幕府に二心の無い旨の誓紙を書き、翌日に岩倉らはこの誓書と老中の副書を持って江戸を発ち、京に戻った。この間一か月間、和宮は登城することなく、清水御殿に置かれた。
将軍家茂と和宮の婚礼は文久2年(1862年)2月11日であった。江戸来てから半年後のことである。和宮が征夷大将軍よりも高い身分である内親王の地位で降嫁したため、嫁入りした和宮が主人、嫁を貰う家茂が客分という逆転した立場で行われることとなった。一方、京都では尊王攘夷を唱える志士が各地から集まる事態となり、朝廷は薩摩藩の島津久光に市中の警備を依頼した。8月に入ると、京では攘夷を一向に実行しない幕府への批判から、天皇の「攘夷親征」に期待する声が強まった。同時に和宮の降嫁に尽力した公卿・女官への反発も強まり、久我建通・岩倉具視・千種有文・富小路敬直が蟄居・辞官・落飾する。前月に関白を辞していた九条尚忠も重慎み・落飾となった。
翌年、将軍家茂は京都に出立する。そして9月に将軍家茂は二度目の京都に行く。和宮は春日神社にお百度詣でを始めたという。それほど仲睦まじかったという事であろう。
しかし、仲睦まじい二人もなかなか一緒にいることはできない。将軍は京都に、そして、和宮は江戸にというような状況が長く続く。特に、禁門の変、そして長州征伐と世の中は混乱を極める。
そして二回目の長州征伐を前に薩摩長州の同盟が起き、そして第二回目の長州征伐のさなか、慶応2年(1866年)4月になると大坂城の家茂は体調を崩し、6月には食事も進まなくなっていた。家茂の病状が伝えられると和宮は湯島の霊雲寺に病気平癒の祈祷を命じ、医師も蘭方医から漢方医に変えるよう手配し、医師3名を大坂に向かわせた。また孝明天皇も典薬寮の医師を派遣している。しかし7月20日、家茂は大坂城で薨去した。
12月9日、和宮は落飾し、号を静寛院宮と改めた。12月25日、孝明天皇が崩御し、和宮は1年余りの間に母・夫・兄を次々と失うこととなった。
その後戊辰戦争の時に江戸城の無血開城、というよりは東征軍の江戸での戦争を止めさせたのである。なにしろ東征軍の総司令官は、もともと和宮と婚約していた有栖川宮熾仁親王である。同時に総参謀は薩摩の西郷隆盛である。薩摩出身で島津斉彬の養女である天璋院篤姫と二人で説得をしたということになる。そのうえで勝海舟が交渉をしたのであろう。ただこのくだりは、ここだけで一つの小説ができるくらいなので、この辺にしておこう。
維新後は、まずは京都において父仁孝天皇陵を参拝し、その後また東京に戻った。その後様々な人々と孔る輸していたが、明治10年に脚気を患い、そして箱根温泉で療養中に薨去する。31歳という若さであった。
★ キャラクター
さて、この和宮のキャラクターは、どの様にするのであろうか。和宮は、一見深窓の令嬢であるということになるのだが、しかし、そうではない。もともと妾の娘でありあまり大事にされていない。そのうえで、下級貴族といっては失礼であるが、橋本家で育っているのであり、皇室の内容を学んでいるわけではない。その様に考えれば「普通の人が急にお姫様になってしまった」というような感じになるのではないか。そのように見えれば、キャラクターはよくわかるのではないか。
このようなキャラクターは少なくないのであるが、なかなか面白い存在であることは間違いがない。同時に、ある意味で非常に稀有な存在と異様な感じなんかもしれない。