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宮沢賢治 ②

2024.08.12 06:41

https://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/text-a141.html 【宮沢賢治】より

15 「自然は変えられる」

   −ブドリとペンネンナーム技師の火山の手術

 宮沢賢治の特徴っていうのはどういうところに表れてるかっていうと、例えばクーボー博士のところに、自分はここで勉強して、それで働きながら勉強したいんだって言って、そしてクーボー博士っていうのは、それじゃあ試験するって言うわけですね。で、試験するっていう、問題を出させるわけです。で、その問題っていうのが要するに、煙突の煙にはどういう種類と形があるかっていうことを聞かれるんですね。で、そういうところはとても面白いんで、つまり部分的な面白さなんですけど、実に宮沢賢治らしい面白い、ユーモラスで面白いあれなんですけど。そういうふうにクーボー博士に言われて、それでブドリは煙には6種類ぐらいあるんだって言って、黒いのから褐色、灰色、白、それから無色って、こういうようなのが6種類ぐらいあるんだっていうふうにすらすらっと答えるわけで。して、クーボー博士は感心して、じゃあ形はどうだって言うんです。すると、形は要するに風がないときは棒みたいに真っ直ぐになるんだって。で、風が少しあるとその棒がちょっと傾くって言う。で、風の種類によって傾くっていうふうになるんだって。から、ときどきは煙突の煙っていうのは波みたいになるときがあるんだって。で、それはどうしてなるかっていうと風の問題じゃなくて、要するに煙突の形と、それから煙の性質によってそういう波みたいになることもあるんだっていうふうに答えるわけです。それで、もし煙突の煙がたいへん重たいときにはどうなるかって言うと、棒にはならないで煙突から出たらすぐにふーってこういうふうに煙が下りていくって。煙突に沿って下りていく、房型に下りていくっていうふうになるんだっていうふうに、要するにブドリがすらすらっと答えるわけです。それで要するに、それじゃあお前俺の講義を聞いていいっていうふうに言って、それでお前の就職世話してやるって言って、その火山局のペンネンナームっていう技師のところに世話してくれるっていうことなんですけど、その煙にはどういう種類があるかみたいなんで、そこの問答のところが実にユーモラスで興味深いって言いますか、そういうあれなんで、そういうところがとても特徴なんですけど。

 それで、後は本当に宮沢賢治の世界観を表現する、そういう筋立てになってゆくわけ。それで、要するにペンネン技師のところに勤めますとそこはどういうふうになってるかっていうと、たくさんの特色があるんです、宮沢賢治の世界観の特色なんですけど。要するにイーハトーヴ地方のあらゆる火山の模型がそこに作られていて、それでそれが実際にその火山と電気でもってちゃんと連絡って言いますか、通じていて、それで火山にもし、どっかの火山に爆発があるとか地震があるとかっていうと、そこの火山局の模型のところに明かりがついたりいろいろ記号とか、それから数字が出てきたりして、それで幾日ぐらいにこの火山が爆発しそうだとかここでは地震が起こりそうだっていうようなことがすぐ分かるような装置がそこに作られているわけです。それで、ブドリがそこで三つぐらいペンネン技師の手伝いをして、三つぐらい仕事をするわけです。

 で、その仕事を申し上げてみますと、それまた宮沢賢治の世界観の世界観の特色なんですけど、ひとつは言葉では火山の手術っていう言葉を使っています。それはどういうことかっていうと、ある火山が噴火しそうであるっていうことがその模型のところを見てるとよく分かるわけです。そうすると、その噴火するとその噴火の噴流が今の長崎みたいなあれで、噴流が街へ、サンムトリっていう火山なんですけど、サンムトリのそばにサンムトリの町があるわけ。それで火山が噴火すると溶岩流がそこに流れていってその町が全滅してしまうっていうことになるわけです。そしてなんとかしてそれを防ぎたいっていうふうに考えるわけ。どうしたらいいかっていったら、要するにその火山の海側のほうに穴を開ける。穴を人工的に開けて溶岩をそっちへ流しちゃえばいいんだっていうふうに考えるわけです。それで2人は火山が爆発する直前なんですけど、決死の工作隊を呼んだり自分たちがいろいろ指図したりして、その火山の海側のほうに穴ぼこを開けるわけです。そうすると噴火が起こって噴火の噴流はそこから町のほうにじゃない、そっちの穴から海のほうへどんどん流れていって、その町は救われるわけです。それがブドリがペンネン技師と一緒にやった火山局でのひとつの仕事になるわけ。

 で、この着想は、つまりたいへん、つまり当時大正末年だと思いますけど、大正末年にこういうことを考えたのは宮沢賢治だけなわけです。それで、だけなわけで、つまり概して言えばこの人は、概して言えば要するに自然っていうのは変えられるっていう考え方です。自然っていうのはどうしようもないっていうこととか自然を守れっていうことじゃなくて、自然っていうのは変えられるぜっていうのが宮沢賢治に重要な思想だっていうふうに僕は思います。これはこの『グスコーブドリの伝記』の中によく表れています。つまり反対側に穴ぼこを開けちゃうっていうことで、それで町を救っちゃうっていうことは、ひとつのブドリの仕事になるわけです。

 で、もうひとつ仕事があるわけです。それは干ばつでもって、童話では沼畑と山菜畑が出てくるんですけど、その沼畑と山菜畑に窒素肥料を外から、つまり空から降らせるっていう。それで雨と一緒に降らせるっていう考え方を取るわけです。それで、それをやろうとするわけです。それでクーボー博士っていうのはいつでも火山を見回ったり移動したりするときに飛行船、小さな飛行船を作ってそれを使ってるわけです。で、その飛行船を使ってそれで雨を降らせながら同時に窒素肥料を上からまくわけです。それでそれはもちろんあらかじめ火山局からちゃんと知らせが行ってて、幾日幾日に窒素の肥料を雨と一緒に降らせるから、そこのところは窒素をまかないで、それで待っててくれっていうふうな通知をしときまして、で、飛行船で窒素肥料をまいて、それで同時に雲を凝縮させて雨が降るようにしまして、それで雨を降らしてその窒素肥料を降らすわけです。それで、干ばつ飢饉っていうのを免れるわけです。それがブドリがペンネン博士と一緒にやったもうひとつの仕事になるわけです。

 で、これもまた自然っていうのは変えられるぜって、やりようだぜっていうことが宮沢賢治のとても重要な世界観なんですけども、それをひとつ象徴してる、ひとつの童話の挿話なんですけど。つまり現在だって、例えば日本ではやったかどうか知りません、例えばアメリカで人工の雨を降らせるみたいな実験っていうのはやったっていう記事を見たことがあります。つまりそういうことはうまくいく場合もまずくいく場合もあるわけですけど、それは理論的にはもちろん可能なわけで、つまり宮沢賢治っていう人は大正年間の末ですけども、すでにそういうことを考えていたっていうことはとても重要なことなわけなんです。で、それがブドリがやった第2番目の仕事なんです。

 それで、もうひとつ第3番目の最後の仕事があるわけ。それは要するに東北の冷たい夏、つまり夏でも温度がちっとも上がらないで作物は実らずっていうようなことになっていくわけです。それで、そのときにブドリはペンネン博士と相談してどうしたらいいかっていうふうに考えるわけ。何か方策はないだろうかっていうふうに考えて、あらゆる方策はないけれどクーボー博士っていうのは示唆してくれたことは、つまりひとつカルボナード島っていうところの島に火山があると。その火山がもし爆発すると一緒に、火山の爆発と一緒に炭酸ガスが噴出してくると。その炭酸ガスがだいたい地球を全部取り巻くと、だいたい温度がだいたい5度とか7度とか上がるはずだ。そしたらば、冷たい夏の冷たさっていうことは免れるはずだっていうふうにクーボー博士が言うわけです。で、ただ要するにそれをやる場合にはどうしても最後に、最後の1人っていうのはどうしても犠牲にならなくちゃいけないっていうふうにクーボー博士が言うわけです。そうするとペンネン技師は、自分はもう年寄りだからいいから俺がやろうっていうふうに言うわけです。すると今度はブドリのほうは、いやそれは違うと。俺はまだ慣れてないから失敗するかもしれないって。失敗したら誰もやり手がないっていうんじゃ困るから、ペンネン技師のほうは残ってくれと。俺がそれをやると。俺はもう、要するに宮沢賢治が得意の言葉を使ってるわけですけども、大循環の風と一緒に自分は宇宙のちりとなってしまうっていうのはいいんだって、こういうふうに言うわけ。だから俺がそれは引き受けるっていうふうに言うわけです。それで、窒素肥料を降らしたときに、窒素肥料を減らして調合すればいいのにそうしなかって、それで実は枯れちゃったっていうやつが居て、それが恨みを持ってて、ブドリを襲って怪我させちゃうっていうあれがあるんですけど、その人たちが最後に自分が手伝いに行きたいからって言って、で、ブドリと一緒に島へ行くと。それで最後にそれを、その人たちを逃がして自分が犠牲になるって。そこで終わるわけです。

 それで、その中で、これがブドリの伝記なわけです。それでブドリが襲われて、それで病院に入院してるときにそれが新聞に出るんですね。そうするとネリという別れ別れになってる妹がやってきて、それで自分は牧場の主に救われて助けられて、そこで働いてるうちにそこの息子と結婚して幸せにやってるみたいなことをしゃべって、それからしばらくの間はそういう兄妹の交流が続いたっていうふうになってるわけですけど、最後にそういうふうにしてブドリが犠牲になって亡くなるっていうふうなところでブドリの、『グスコーブドリの伝記』っていうのは終わるわけです。


16 「超人になりたい」という願望

 で、ここでは今申し上げたとおり、要約してみれば二つ大切な宮沢賢治の考え方があるんです。あると思います。つまりひとつは、要するに自然っていうのは変えられるもんだぜって。変えられるっていうことなわけです。それが宮沢賢治の重要な思想だと思います。それでたぶんこれは現在でも生きている宮沢賢治の思想だと思います。これはとても大切なことだっていうふうに僕には思えます。で、これはどうしても宮沢賢治が科学者として、どうしてもそう言わざるを得なくて、そうまた構想せざるを得ないことだったと思います。それはこの童話の中に非常によく表れています。

 それからもうひとつここの中にある宮沢賢治の理念って言いますか、思想と言いますか、そういうのがあるんですけど、それはいわゆる宮沢賢治っていう人は、つまり一種超人、つまり人間、つまり人間以上のものって言いましょうかね。人間以上のものに自分がなろうっていうし、なりたいっていう願望っていうのはいつでも持っていた人だと思います。だから人間以上、つまりこれは法華経って言いますか、大乗仏教でいえば菩薩っていうことでしょうけど。自分、自己を犠牲にしても自分は人のために尽くすんだみたいな、そういう通俗的にいうとそういう言い方になるわけですけど、要するに本質的にいえば人間っていうものは、要するに信仰を獲得したときには人間以上のものになれるわけだし、なるわけ。なるっていうことを目指さざるを得ないわけだっていうことになると思うんですけど、これが宮沢賢治の持っている大きな考え方だと思います。つまりそれのために宮沢賢治っていう人はたいへん無謀なこととか無理なことをしたと思いますし、無理に自分の寿命を縮めたと思います。それで、逆に言えばそのために普通の人がそれほど努力しなくても自分の生活を維持して、それを繰り返していくっていうのは誰でもできるっていうふうに言えば誰でもやってるし誰でもできてるんだっていうふうに言える。そういうことが宮沢賢治っていうのは、先ほど言いましたように一生涯できなくて、一生涯どこかで親がかりで暮らしてたっていうふうに言えば言えたり。それから学校の先生のように、農学校の先生のように立派に生活できるだけの給料をもらって、少しの時間の講義をやれば自分は勤めていて食べられるのに、わざわざそこをやめて慣れないって、体の弱いのに慣れない百姓仕事って言いますか、農家の仕事をしてみたりとか肥料の設計をしてみたりっていうので、要するにそんなことは普通の人から見ればしなくてもいいことだって。なのにそういうことを自分で進んでやってしまうことでもって、自分の体と生活を台無しにしてしまうっていうようなこともやった人だと思います。

 つまりそういうことはどこから出てきているのかって言えば、やっぱり法華経の言う菩薩になるための修練って言いますか、修行と言いましょうか。あるいは菩薩になることが理想なんだっていう、それをなんとかして自分で実現して実行して実現していきたいっていうそういう願望を遂げていったっていうことだと思います。それからこれが『グスコーブドリの伝記』の中にはとてもよく、分かりやすくとてもよく表現されていることなんだっていうふうに思われます。これが『グスコーブドリの伝記』のとても大きな特徴のひとつだと思います。

 この二つの特徴っていうのが、言ってみれば『グスコーブドリの伝記』のモチーフにもなっていますし、また作品としてのいいところだっていうふうにも思えます。それで、それが森の生活って言いましょうか、それを中心にして描かれているっていうのが『グスコーブドリの伝記』の特色になっているように思います。これは宮沢賢治の作品の中で言えばたいへん優れたいい作品のひとつだと思います。別の種類、別種の種類のものを持ってくればまた別の見方ができる作品がありますけれども、これはこれとしてとてもいい作品のひとつになってると思います。特色のあたりはそこのところで遂げられていると思います。

 これ、概して言えば宮沢賢治の童話作品っていうのは悪人があんまり出てこないって言いますか、悪人らしいんだけど悪人として描いてないって言いますか、それが特色だと思います。童話性っていうことの特色はある意味ではひとつの極端性、分かりやすい極端性、単純化なんですけれども、ヨーロッパの童話っていうのは概して言えば悪玉と善玉が非常によく分かってって、肉親であってもそうでなくても意地悪くしたり悪党であったりっていうようなことは非常によく分かりやすく出ていますし、また善人がそのために不幸な目にあって、それであることを契機にして救われるっていうようにだいたいパターンがそういうふうにできていますけど、宮沢賢治の童話性の特徴っていうのは、概して言えば悪党として本来描かれる人物像っていうのは、ちょうど悪党になるところでユーモアに転化してあるようになっております。ですからちっとも悪党の役割をしてるんだけど、読む人にとってはちっとも悪党だっていうふうに思えないっていうふうに、ユーモラスに描かれています。ですからだいたいこれ、宮沢賢治の童話性の特徴は悪人とか悪党とか、そういうものが出てこないっていうのがとてもいい特徴だっていうふうに思います。

 それからもうひとつはやっぱりそういう意味の極端性、単純化がないから、やっぱり子どもでも大人でも、つまり別に童話っていうふうに名前を付けなくたって読めるっていうことです。つまりどんなきつい読み方をしても読むに耐えるし、どんな幼い読み方をしても読むに耐えるっていう、その両極性を宮沢賢治の童話は持っていると思います。概して言えば童話っていうのは年齢がある層に決まっているし、またその層に受け入れられるために極端な単純化が施してありまして、極端な善悪が区別できるように作られていたりするのですけど、宮沢賢治においては少なくともその種の配慮は非常にうまく避けられてるっていうか、単純化が避けられてるって言いますか、言えばいいと思いますけども、そういうふうにできていますからそんなに、どんな厳しい読み方をしてもそんなに幼稚だとか単純だっていうふうには思えませんし、また逆にどんな単純な読み方をしても童話として充分優れた童話だっていう要素を子どものために持っていると思います。

 つまりこういうことは、ある意味でどうしようもないことなんて、要するに宮沢賢治の文学が童話なんであって童話文学を書いたわけではないっていうふうに言えば言えるんだと思います。それで宮沢賢治の文学が童話なんだって、文学そのものが童話なんだっていうふうに言って、何が普通の文学と違うかって言うと、それはやっぱり性っていうことが、セックスって言いますか、セックス、エロスっていうとかそういうものの描写っていうのがたぶん違うんだと思います。違うっていうのは、宮沢賢治の場合にはそこがないか、または宗教的な情操に転化されてるかっていうようなことになってるんだと思います。それが違いっていえば違いだけで童話っていうふうに無理に読まなくても、文学として読めば充分だっていうふうになってると思います。


17 心の敏感さ

 それで、この宮沢賢治の童話の中の最も優れた作品でもありますし、また宮沢賢治の特色がいちばんよく表れているのは『銀河鉄道の夜』っていう作品だっていうふうに思います。で、『銀河鉄道の夜』っていう作品については、僕はいろんなことに例えたことがあります。つまり銀河鉄道っていうふうに宮沢賢治が考えているものは、要するに仏教でいう死後の世界っていうことを経巡るっていう、そういうことで、仏教の死後の世界っていうのと同じようになぞらえてできてんだっていうようななぞらえ方をしたこともありますし、それからいわゆるユートピア物語で、例えばウィリアム・モリスみたいな人のユートピア物語の中の、テムズ川をさかのぼっていくうちに両岸に理想の村や町や田園が開かれるんだっていう、そういうものを頭において作られてるんだっていうふうに、そういうなぞらえ方をしたこともありますし、どんななぞらえ方もできるわけです。で、今日のなぞらえ方をすれば、先ほど詩の中に出てきました、つまり箱があって箱の中に、要するに箱の中は明るくてその中に人々がいろんなものを食べたりしゃべったりしながらそこで人々が乗っていると。その箱が空を浮かんで、それで外から見ると暗いんだけど、暗い空を浮かんで、それでどっか現実の世界の空から、それから違う空間の世界の空へとすーっと入っていくっていうような、それで経巡っていくってな、そういうイメージで考えてもいいんだと思いますけど、そういうイメージの世界を非常に理想的なかたちって言いましょうか、宮沢賢治の思いどおりのかたちで描いている作品が『銀河鉄道の夜』っていう作品だっていうふうに思います。

 で、この作品からどういうことを特徴をつかんできたらいいのかっていうことを申し上げてみたいと思います。それで、今日は今日なりに申し上げてみたいと思うんです。つまりこういうことについて書いたこともありますけども、それとはまた少し違って、今日は今日なりにということで考えてみたいと思います。ひとつ、この作品を読む場合にひとつの特徴は、登場人物たちが、特に主人公や副主人公、っていうのは敏感すぎるって言いましょうか、敏感な気付き方って言いましょうか、別な言い方もできるでしょう。つまり敏感な気付き方とか察知のしかたって言いますか、分かり方って言いましょうか、それを描いているっていうことがとても大きな特徴であるし、この作品をいい作品にしている要素だっていうふうに思います。

 で、例えばそれは『銀河鉄道の夜』の冒頭の、午後の授業っていう場面があるのをみなさんも知っておられると思うんですけど、冒頭のところに学校で先生が理科の時間かなんかで銀河かなんかの説明をしてるところがあります。それで質問をするわけです。それで銀河っていうのはこれはよくよく考えると、これは何からできてんだというふうに思いますかっていうようなことを先生が聞くわけです。で、それでジョバンニが指されるわけです。するとジョバンニは要するに、それはたくさんの星からできてんだっていうふうなことは自分では知ってるはずだし知ってるんですけど、これはみなさんがとてもよく経験したことがおありだと思うんですけど、非常にくたびれて疲労しているときには判断力がつかなくて、そうだと思ってもそうだって言うことができなかったり、言うのが億劫であったりとかっていうことは誰にでもあるわけです。つまりそこのことを言ってるわけですけども、ジョバンニは自分はこれはたくさんの星からできてんだっていうことを聞いたことがあるし知ってるつもりなんだけど、そういうふうに普段アルバイトって言いますか、内職をして母親の生活を見てるもんだからくたびれていて、そういうふうに指されてるんだけど立ってもそういうことが言えないわけです。それはいわば、そういう描写があるわけです。

 それはいわば作者の持ってる察知の力っていうことに、察知の力と言いますか、敏感性っていうことに関わると思います。つまりそういう敏感性っていうのは一種の心理的な敏感性なんですけども、宮沢賢治は必ずしもそれを心理主義っていうふうに持っていかないわけで。心理主義的な敏感さっていうことに持っていかないで、それを一種の倫理って言いましょうか、倫理の敏感さっていうふうに持っていこうとするわけです。いつでもそうします。で、それがよく表れているわけです。それで僕は、だからそこはいつでも感心しますけど、よく体験する、つまりくたびれちゃってるとそうだと思ってもそうだっていうふうに言うのが億劫でしょうがないっていうことっていうのは誰にでもあるわけですけど、それを非常によく描写しています。

 つまりジョバンニは先生に指されて立ち上がるんですけど答えられないわけです。知ってるんだけど答えられないわけです。で、すると今度は親友のカムパネルラが、今度はまた察知するわけです。今度は登場人物が登場人物を察知するわけ。つまりジョバンニが疲れていて、あれは知ってるんだけど答えらんないんだよなって。知らないで答えらんないんじゃなくて知ってるんだけどやっぱりくたびれちゃってて答えらんないんだなと思って同情するっていうか、シンパシーを感じて、すぐにそれが分かるわけです。そうすると先生が今度はカムパネルラを指して、それであんたはどういうふうに銀河っていうのはどういうもんからできてると思うかっていうふうに聞くわけです。するともちろんカムパネルラは即座に答えられるわけですけれども、ジョバンニが答えられなかった、あるいは答えなかったことを察知して、自分も答えないでもじもじしてしまうっていうふうになるわけです。すると今度はそういうふうな察知のしかたをするわけ。そうするとそれを今度は先生がそれを見ててこれはおかしいと思うわけです。あんなに優秀な生徒で知ってるのに答えられないはずがないと思うんだけど、もじもじしちゃうわけです。で、それを少し経つと先生のほうも察知するわけです。あれは要するにジョバンニのことを思いやってあれはわざと答えないんだなっていうふうにいうことを先生が察知するわけで。そして先生が自分で、これはたくさんの星の集まりです、みたいな説明を自分でしちゃうわけです。これが冒頭の『銀河鉄道の夜』の冒頭にある一節であるわけです。で、午後の授業っていう一節であるわけで。この一節だけでこの作品はたいへんいい作品だっていうことが分かります。つまりこれは心理主義的な作品としていい作品だっていうことが分かります。

 しかしよくよく作者の思惑を察知してみますと、心理主義的な作品を描こうとしたわけではないのです。その心理主義的な察知のしかたっていうのを、それを倫理として、つまり善なること、人間の善であると。善悪の善である行いであるっていうふうにそれを持ってきたいっていうのが宮沢賢治のモチーフであるわけで、それがまた宮沢賢治の文学のモチーフでもあります。つまり宮沢賢治の作品を優れたものにさせている要素のひとつは、明らかに心理主義的な描写にあるわけですけれども、それを心理主義として描くっていうことじゃなくて、心理主義として描きながらそれを倫理って言いますか、それを善悪、つまり倫理の方向にその心理主義的な察知のしかたを引っ張っていくっていうような、それが宮沢賢治の文学を、あるいは童話作品を非常に優れたものにしている要素だっていうふうに、全体的な要素だっていうふうに思います。


18 モチーフは仏教的倫理観

 で、これはどっから来るのかっていうことはたいへん明朗なことで、これは要するに仏教的な倫理観から来ます。つまり要するに仏教、法華経でもいいですけど、法華経という経文の根本的な倫理と言いますか、考え方の要素のひとつに、つまり菩薩っていうのはなんなのかって。つまりそれは超人であるっていうことになるわけで。われわれが例えば超人的な行いでもって人のために自分を犠牲にして人のために尽くすっていうのはそれは菩薩だって。菩薩の役割だって。で、勇猛果敢にそういう役割をしなきゃいけないっていうのが日蓮の要義なんですけども、つまりその場合に、じゃあ菩薩っていうのはどういう特性を持ってるかって言いますと、これは要するに大乗仏教のつまり理想になるわけですけども、それは察知っていうのがすぐできるっていうことなんです。つまり相手が何を考えてるかっていうのがすぐに分かっちゃうっていうことはもちろん、それから自分と遠くに離れてる人がこういう状態にあるっていう、こういう困った状態にあるっていうのもすぐに分かって、分かるとすぐにその場所に行ってその人を助けられる。即座に助けられる。そういう場合には菩薩っていうのは時空を超えてしまうっていうの。つまり時空の妨げなしにすぐに、そう思ったらそういうふうに行けちゃうっていう、すぐに行けちゃうしすぐに助けられちゃう。それで、誰がどこでどう困ってるかっていうのはすぐに分かっちゃう。分かっちゃうとそこに行って、それですぐにその人を助けることができる。

 これが要するに仏教の言う、仏教を倫理的に解釈しますと、仏教の言う理想の倫理観っていうことになるわけで。そんなことができるかどうかっていうのは、それは分かりませんけれども、仏教はそういうことを理想にしているわけです。で、もちろんだから宮沢賢治も自分が菩薩であろうとするような修行をした人だからそういうふうに考えたわけなんです。これが例えば『雨ニモ負ケズ』っていうみなさんもご存じの詩がありますけど、その中で、

ヨクミキキシワカリ

ソシテワスレズ

っていう言葉があるでしょう。あれは本当はただそう言ってるだけじゃなくて、あれは仏教で言う、つまり菩薩でありたいっていうことなわけです。つまり人の言ってることは全部よく分かっちゃうって。仮に離れたところで言ってたって全部分かっちゃって、して、よく見聞きすることができて、で、分かり、そしてそれを忘れない。そしてそこへすぐに行けて困ってたらすぐに助けられる。その人を助けられる。それがつまり仏教、大乗仏教の言う理想で、だから法華経の理想であるわけ。そうすると、そんなことはできるわけがねえよって言えば、そんな超人的なことができる超能力なんかできるわけがないよって。じゃあできるわけないと思うんですけども、そう思わなければやっぱりそういうのが理想だっていうふうになってると思います。それで宮沢賢治もやっぱりそれが理想だったっていうことだと。

 だから心理主義的に言えば、人の心理っていうのはすぐ読めちゃう。しかし人の心理が読めちゃうっていうことだけならば、ある意味で言えば現実的にそういう人が居るとするといやらしいっていうこともあるわけです。つまり嫌な野郎だなって。あいつは敏感すぎて嫌な野郎だなっていうことになっちゃうと思うんです。で、ところで宮沢賢治の人の心が分かっちゃうっていうその分かり方っていうのはそうじゃなくて、分かっちゃうっていうことが心理主義的に分かっちゃうとか心理主義的に過敏なんだっていうことじゃなくて、それは倫理として善なんだっていうところへ行くわけで、それが宮沢賢治の理想なわけです。

 そうするとここで『銀河鉄道』の最初のところにもしょっぱなから出てきてしまうジョバンニという主人公と、それからカムパネルラという親友と、それから授業風景、授業をやってる先生と、この三者三様に、全部人の、すぐ分かっちゃうって。分かっちゃうだけだったらいやらしいことにもなるかもしれないんですけども、それを善に、いやらしいっていうふうになる直前に善って。ああそうかっていうことで分かっちゃって、そういう善の問題に転化しちゃうっていう、その情景っていうのがこのしょっぱなからこういうふうに出てきちゃうって言いますか、出てくるっていう、これはやっぱり『銀河鉄道の夜』に最も著しく表れている特徴だっていうふうに思います。そこから『銀河鉄道の夜』っていうのがはじまっていくわけです。

 それから今度は少し内容って言いますか文体的特徴っていうことになっていくわけですけど、それをひとつ挙げてみますと、それは接続っていうことだと思います。つまりどう続けるかっていうことだと思います。例えば、ジョバンニが母親の牛乳を取りに行って、それで牛乳屋さんが留守でもって、その留守の間町の外れの丘の上に上がって町の明かりを見てるわけですけれども。そうして見てるうちに主人公のジョバンニは町の明かりが空の星のように見えてきて、それから逆に今度は空の星がやっぱり町の明かりのように見えてきて、要するにほんとの町とそれから空の星の風景とが入れ替わったみたいな、一種の奇妙な状態になっていくわけです。それで、そういうふうになっていきますと、そうすると自分がひとりでにそこに山の頂上に天気輪があるんですけど、天気輪がぺかぺかっていうふうに明滅したかと思うと、自分がいつの間にか町の明かりのところを通ってる列車の中にいつの間にか入っちゃうっていうふうに。それで、初めは外のほうで町の明かりを見てて、列車はそこを通ってるんですけど、ぺかぺかってしてきて自分が町と空の星とが、町の明かりと空の星とが分からなくなってくるっていうか、混合してきたり逆さまになってきたりしてるうちに、自分がひとりでに列車の窓の中の人になってるっていうふうになります。それで自分は列車、それが銀河鉄道でそれで銀河を旅するっていうことになるわけですけど、そういう眠りと眠りの中の夢と、それから現実に自分が列車の外で丘の上で見てたのにいつの間にか列車の中に入ってたっていうその接続のしかたが実に見事な接続のしかたがされているっていうことがとてもこの作品の特徴だと思います。して、その列車の中で出会うのは自分は夢の中で出会ったようにその列車の中に乗ってるんですけど、ほかの乗ってる客は全部死んでしまった後の世界の人であるわけです。カムパネルラもそうであるわけ。つまりそういうことが実にスムーズに接続されている。つまりスムーズに現実の世界と夢の世界とそれからいわば仏教で言う死後の世界とっていうのの接続のしかたが実に見事にされているっていうのが、この『銀河鉄道の夜』のひとつの特徴だっていうふうに言うことができると思います。

19 なぜ、たったひとつの真実の信仰はないのか

 それで、この中で、それじゃあもうひとつたいへんな特徴っていうのを挙げてみるとすれば、自分はジョバンニという人物は、主人公は夢の中で丘でまどろんで、それで夢の中で列車の中へ入っちゃったっていうふうに描かれてるんですけど、そこで一緒になるカムパネルラという親友も、それから鳥を捕る人もって、その列車の客は全部死後の世界の人だっていうふうにひとりでに描かれているわけです。で、そこで銀河鉄道の旅をしていくわけですけど、そこで重要な考え方っていうのがあります。それは要するに、それぞれの信仰に従って、自分が死後の世界、理想の世界だっていうふうに思ってるところは全部違うんだっていうことがひとつの重要な考え方だと思います。

 ですからカムパネルラは列車に乗ってるうちに、お母さんが居るのはあそこだっていうふうに言って、あそこが本当に理想の世界なんだよって言って、自分はそこで降りなくちゃって言うわけです。そしてジョバンニはそれを聞いてそこを見るんだけど、そこはちっとも理想の世界だとかそういうふうに見えなかったっていうふうに描写されています。つまりカムパネルラにとってはそこが理想の世界だったと。それで、その理想の世界っていうのはどこで違うかっていうと、それぞれの持ってる宗教的な信仰って言いますか、それによって違うんだっていうふうに、この『銀河鉄道の夜』は描かれていると思います。それで、それは宮沢賢治の重要な理念って言いますか、思想だと思います。で、カムパネルラはそこで降りて行ってしまうわけです。して、どうして自分と一緒にどこまでも行こうって言ったのに降りちゃったんだろうかっていうふうにジョバンニは嘆くわけです。それからまた列車の中で、要するに沈没船の中で救命ボートにいろんな人を乗り移るのに、自分たちは最後まで乗り移らないで、それで溺れてしまうって、溺れて死んでしまったっていう姉弟とその家庭教師の男の、若い男の人がやっぱり乗り合わせてるんですけど、その人もやっぱり十字架の見えるところで、あそこで降りなきゃっていうふうに言い出すわけです。で、ジョバンニはやっぱり、どうして自分と一緒に行かないんだって。そうするとその女の子や青年が、あそこはやっぱり自分たちの神様の居る世界で、それであそこは理想のところだからそこへ行かなきゃいけないんだっていうわけで。して、ジョバンニはそんな神様はうその神様だって言うわけで。それで、いやあなたの神様のほうがうその神様だっていうふうに言い争いをするわけです。それでやっぱりキリスト教の信仰っていうことなんでしょうけど、信仰している姉弟とその家庭教師はそこで降りてって行ってしまうわけです。

 そうするとジョバンニは考えるわけです。どうして人々の信仰っていうのは違っちゃうと、その信仰が違うにつれて人々が理想とするものっていうのはどうしてみんな違っちゃうんだろうかっていうことを思い悩むわけです。で、どうやって、どうして自分と一緒にどこまで行こうっていうような人はどうして居なくなっちゃうんだろうかっていうふうに疑問に思うわけです。で、そこからが宮沢賢治の思想って言いますか、非常に重要な思想になるわけですけど、そういうふうに人々は全部自分の信じている神って、神っていうことを思想とか理念とか全部含めて言っていいんですけど、信念も含めて言っていいんですけど、それに従ってそれをいちばんいいものだと思っちゃうんだろうか。そして言い争いをすればどうして勝負がつかないで、お前のがいいとか俺のがいいんだっていうふうになっちゃうんだろうかっていうことを考えるわけです。それで、それこそ必死に考えて、そういうふうに対立してしまうのはなぜだろうかって。して、なぜたったひとつの信仰って、真実の信仰っていうのはないんだろうかみたいなふうに考えてしまうわけです。でもそれであるにもかかわらず、自分と違うものを信じてる人たちのやった行いでも、それがいい行いだったとするとそれを感心したりするっていうのはどうしてなんだろうかっていうふうに。つまり違う神を信じてる人たちがやったことでも、それがいいことだったら自分らにも分かってしまうし、やっぱり感心してしまうっていうのはどうしてなんだろうか。それにもかかわらず、それぞれの人はそれぞれの神を主張して、それでそれが違ってしまうっていうのはなぜだろうかっていうのをジョバンニは考えるわけです。

 して、宮沢賢治がそこで考えたことがあるわけですけど、それは言ってみれば、簡単に言ってみれば要するに本当の考えとうその考えっていうのがあるとして、本当の考えとうその考えっていうのを実験で分けられるようになったら、そしたら要するに本当にこれは、本当に万人にとってこれは本当の神であり、これはそうじゃないんだっていうことが分かるようになるはずだっていうふうに考えるわけ。そうすると、それは言ってみれば科学的に考えた心理っていうものと、それから宗教が宗教的に考えられた心理っていうものがそこでは一致するはずだって。それを、そういうことをジョバンニは考えていくわけです。

20 ほんとうの考えとうその考え

 そうすると、『銀河鉄道の夜』の初期のころの作品の中には1人の長老が出てきて、どうしてそういうふうに違っちゃうんだろうかって。どうして本当の考えとうその考えっていうのを実験できちっと分けらんない限りは、誰の信じてるものがいいのかっていうことは決められないんだろうかっていうことを尋ねると、いや、そういうことっていうのは分かんないけど、自分もどうしたらそれが分かるかっていうことを探し求めてるんだっていうふうに言うところがありますけど、つまりそこらへんが宮沢賢治が生涯探し求めたところだっていうふうに思えるわけです。つまりどこにも解決っていうのはないわけだけども、しかし要するに本当の考えとうその考えっていうことを実験で分けられるようになれば、それはもう科学だって宗教だっておんなじになるはずだって。つまり誰にとっても心理って、誰にとっても神っていうようなものが得られるはずだっていうふうに考えるわけですけど、そこいらへんのところを宮沢賢治っていうのは生涯の理念として考えたっていうふうに思います。つまりそれはジョバンニが背負わされているものなわけです。

 で、ジョバンニは目を覚ましまして、その『銀河鉄道の夜』では目を覚ましまして、それで目を覚ましますと自分は丘の上で眠ってたわけです。それでお母さんの牛乳を取って、それでそのついでに町のそこが銀河の祭りって星祭りの日で、河原で川にカラスウリの灯籠を流すっていうあれを見に行こうとして川の橋の上のところまで行くと、人が固まってて、で、同級生たちが居て、それでザネリっていう同級生の子どもが溺れそうになっている。それを助けようとして、それでカムパネルラは死んじゃって、溺れちゃって、それでそれがなかなか見つからないんだって言って、それで今探してるんだっていうふうに説明してくれるわけ。して、それを聞いてジョバンニは夢の中で自分はもうカムパネルラと会ったと。そしてあのカンパネルラはもう銀河の外れのところにしかもう居ないはずだっていうふうに思うんですけど、思ってあれするんですけど、カムパネルラのおやじさんが来てて、それでそこでもう45分経ったから、溺れて45分経って見つからないからもう駄目だっていうふうに、もう死んだと思うって言って、同級生、友達たちに、明日学校が終わったらうちへみんなで遊びに来てくださいっていうふうに言って、ジョバンニに対してもあなたも一緒に来てくださいって言うわけです。それで、あなたのお父さんっていうのから手紙が来たけどもうすぐ帰ってくるはずですよっていうようなことを教えてくれるっていうところでだいたい『銀河鉄道の夜』っていうのは終わっていくわけで。

 で、これは宮沢賢治が現実の世界と夢想の世界、夢の世界、ファンタジーの世界と、それから死後の世界っていうものを自分の中でスムーズに続けることができた非常に成功した唯一の作品なんだっていうふうに思います。それで、たぶんいろんな考え方あるでしょうけど、宮沢賢治の散文、あるいは童話の作品の中で最も優れた作品なんだって。宮沢賢治が依然としてそこで自分に問おうとして、そしてそれは解決つかなかったことっていうのは、現在でもやっぱり解決つかないで、誰もが、それぞれが信じている神様のうちどれがいいのかっていうことを、誰もそれを決める基準を持ってないっていう状態っていうのは今もおんなじだと思うんですけども、その状態っていうのは理念、あるいは思想として言えば宮沢賢治が最後までそれを追求しようとして考えたことだっていうふうに言うことができると思います。

 で、ここいらへんが宮沢賢治の文学の手が届いたっていう、いちばん果てのところだっていうふうに思われます。それで作品としてもなかなか見事で、心理主義的にも見事ですし、また倫理的にもって言いますか、仏教理念的にもたいへん見事な作品だっていうふうに思われます。つまりここで見る宮沢賢治はいろんな限定はいらなくて、童話という限定もいらないし、宗教という限定もいらなくて、非常に大きな芸術性として、やっぱりわれわれ近代文学以降で言えば、やっぱり最も遠くまで、最も大きなところまで作品の手を伸ばし、またそれを達成した先たる詩人だっていうふうに言えると僕は思います。でもたくさんの問題を未知のまま抱えて終わったっていうことは確かなことで、われわれに対して今でもたくさんの課題を残しているっていうことは疑いようがないことなんだっていうふうに思います。

 だいたい時間が来たようですので、これで終わらせていただきます。