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福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】

「からだのよみがえり」

2024.08.13 05:57
コリント人への手紙 第一 15章35-58節
35. しかし、「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」と言う人がいるでしょう。
36. 愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ生かされません。

37. また、 あなたが蒔くものは、後にできるからだではなく、麦であれ、そのほかの穀物であれ、ただの種粒です。

38. しかし神は、みこころのままに、それにからだを与え、それぞれの種にそれ自身のからだをお与えになります。

39. どんな肉も同じではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉、それぞれ違います。

40. また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、

41. 太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、それぞれ違います。星と星の間でも輝きが違います。

42. 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、

43. 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、

44. 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

45. こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。

46. 最初にあったのは、御霊のものではなく血肉のものです。御霊のものは後に来るのです。

47. 第一の人は地から出て、土で造られた人ですが、第二の人は天から出た方です。

48. 土で造られた者たちはみな、この土で造られた人に似ており、天に属する者たちはみな、この天に属する方に似ています。

49. 私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。

50. 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。

51. 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。

52. 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

53. この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。

54. そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」

55. 「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」

56. 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。

57. しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

58. ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。

礼拝メッセージ

使徒信条シリーズ⑰

 2024年8月11日

コリント人への手紙 第する一 15章35-58節

「からだのよみがえり」


日本ではこの時期、多くの家庭で先に亡くなられた家族とのつながりを覚え、今生きている家族とのつながりを再確認します。お盆の時期に入ります。

けれどもキリスト教は、先に亡くなった家族のたましいが、一時的に私たちのすぐそばに帰ってくるとは、言いません。優しかったおじいちゃん・おばあちゃんが、天国から私たちのことを守っていてくれているとも、言いません。限界だらけの人である私自身や私たちの父母・祖父母・先祖ではなくて、全知全能なる父なる神様が・神の子キリストが・そして聖霊なる神様が、インマヌエル(私たちと共におられる神)なのです。三位一体の神様が、あなたの守り手・助け主・救い主・いのちの君でいてくださいます。

すでに他界した大切な家族を親しく思い出す中にあっても、その大切な方と地上で出会わせてくださった神様に感謝し、まことのいのちを与えてくださるお方をこの朝も共に見上げてまいりましょう。

 ちょうどピッタリのタイミングで、今朝は使徒信条の「からだのよみがえり」を信じますの告白をみことばから探っていきます。

私は身内を天に送ってから、「からだのよみがえり」を信じますの告白が、本当に大きな慰めまた希望になりました。ただ、たましいだけが復活するのではない。第Ⅰコリント15章のみことばにあるように、終わりのラッパが鳴り響くイエス様再臨の日(52節)、私たちは「からだのよみがえり」を頂くのです。天国で永遠に朽ちることのないからだ(52―54節) = 天に属する方(キリスト)のかたち(49節) = 御霊に属するからだ(44節) = 栄光あるもの・力あるもの(43節) = 天上のからだ(40節) を頂くのです。

目には見えない「たましいだけの存在」として、天国で生きるのではないのです。栄光のからだを頂いて、私たちは永遠を生きるのです。それは、主にある家族の顔かたちを、目の前でもう一度見ることができる日です。あの大切な家族のからだと再会できる希望の日です。私を抱き上げ、なでてくれたあの家族のからだを、もう一度、目にし、そのからだに触れることができる日が来るのです!「からだのよみがえり」を信じます。このことは私たちにとって、どれほどうれしい希望でしょうか!!

「からだのよみがえり」が真実であることを、イエス様は身をもって示してくださいました。イエス様は身体ごと復活されたのです!

そして聖書は、私たちも、キリストにつながれている私たち皆が、「からだのよみがえり」を与えられると約束しています。ローマ人への手紙6章5節「私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。」

パウロは、このからだのよみがえりの希望を農作業にたとえて語ります。Ⅰコリント15章42-44節、

死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

 多くの植物の種は、小さく目立ちません。落としたら、探すのに苦労します。そんな種が良く耕された栄養ある畑にまかれたら、そこから新しいいのちが芽生え育ちます。種はまかれ、土に埋められると、一瞬にして見えなくなります。土の中で朽ち果て、その原型を失い、死んだようになります。

 けれども創造主なる神様によって、そこに新しい命が始まっています。小さな種から芽が出て、地上に現れ、葉をつけ茎を伸ばし、美しい花を咲かせ、そして豊かな実りをもたらします。

パウロは、畑の植物の成長・穀物の実りを観察しながら。私たちクリスチャンの本当の希望もこのようだと実感し、私たちに語ってくれています。ここでパウロは、この地上で与えられている私たちの肉体を植物の種にたとえています。種に新しい命の仕組みが素晴らしく組み込まれているように、私たちの体も創造者なる神様によって精巧に緻密に素晴らしく造られています。しかし地上の体は、いつかは死ななければならないものです。死に向かって行くものです。残念ですが、どんなに体を鍛えても、若さを保とうとしても、いつかは弱り、衰え、病んでいきます。最初の人アダムがそうであったように、地のちりで造られた私たちの身体は、いつかは地のちりに帰って行きます。

しかし、種が一回死ぬことを通して、そこから新しい命が、豊かな実りが生まれるように、私たちの肉体が死を迎えた先に、あたらしい永遠のいのちとからだの復活が待っているのです!イエス様が復活されたからだ、栄光のからだでよみがえらされ、弟子たちの前に現れたように、弟子たちが死を打ち破られたイエス様の存在そのもの、イエス様の御顔を見、釘の痕の残る手のひらに触れ、焼き魚を美味しそうに頬張る復活されたイエス様を見て、大喜びしたように、私たちも、天国で互いの存在を確認し、喜び合うのです。

天国では、二度と衰えることがありません。病むこともありません。朽ちることのない栄光のからだを与えられます。誘惑にさらされること、罪になびくこと、そんなことをもう心配しなくて良い、聖なるものに神様は私たちを造り変えてくださいます。

その栄光のからだは、地上の身体とは大きく違っている。地上の私たちには想像もつかないような素晴らしいものだ!と、パウロは、色んな事柄を例に挙げて、語ります。39-42節

どんな肉も同じではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉、それぞれ違います。また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、それぞれ違います。星と星の間でも輝きが違います。死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、

まだ見たこともない天上のからだです。想像もつかない素晴らしいからだです。輝きに満ちています。残念なのですが、地上のものしかまだ見ていない私には、その素晴らしさを語り得ません。理解し尽くせません。

ある人は気にします。「地上の時の何歳ぐらいの私でよみがえるのかな? シミとかしわのない若き日のあの姿でよみがえられたら良いな」と思います。でも、それは地上の私たちの発想なのでしょう。植物の種から想像もしなかったような美しい花々や豊かな実りが生み出されるように、地上の私たちには思いもしなかった、思い描くことができなかった素晴らしい栄光のからだが用意されている。そう信じて、期待して、あこがれを抱いて、歩んで行きましょう。

地上の体は痛みます。弱さや疲れを覚えます。目が見えにくくなったり、耳が聞こえにくくなったり、足腰が弱くなったり、記憶力が衰えたり、持病で苦しんだり、弱さを与えられている体です。だからこそ、私たちは天国の新しいからだ、朽ちることのない栄光のからだを待ち望みます。

それなのに、この「栄光のからだへのよみがえり」の約束を、信じられない人たちが2千年前の教会の中にいました。「そんなことは作り話だ」と笑い飛ばす人たちがいました。パウロが手紙を送ったコリント教会の中にいた人たちです。そういう人たちにパウロは、15章36節「愚かな人だ。」=愚か者と嘆きます。

35,36節 しかし、「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」と言う人がいるでしょう。愚かな人だ。

こう主張する人たちの背景には、ギリシャ哲学のものの考え方がありました。ソクラテスやプラトンなどに代表されるギリシャ哲学には、霊肉二元論というものの考え方があったんだそうです。霊魂は不滅で、崇高なもの。しかし、肉・人間が持っている肉体は、弱ったり、欲望に負けて罪を犯してしまうような不浄なもの。悪の温床だと考えました。ですからギリシャの哲学者たちは、難行苦行をしたり、体を鍛錬して、欲にまみれた肉体を滅ぼし、崇高な魂だけになることが大事だと教えました。

そんな霊と肉を二つに分けるギリシャの哲学思想が、コリント教会の中にも入り込み、不浄な肉体の復活など意味がないと声高に叫ぶ人たちがいたようです。

パウロは、それを否定します。「天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、」(40節)と、天上の栄光のからだに劣るかもしれないが、地上のからだの輝きも主張したのです。

最初の人アダムを神様は、「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」(創世記1:26)と仰せられて、造られました。三位一体の神様のかたちに、神様の似姿に造られたのは、私たちのたましいだけでなく、身体もです。霊も肉もあわせもった存在、霊と肉がばらばらでなく、相互に影響し合い、一体である存在として私たちを造られました。そして、心と体、精神と肉体、たましいと肉を持った存在である私たちをご覧になって、「見よ、それは非常に良かった」(創世記1:31)と感嘆されたのです。

事実、神の子イエス様も霊的な存在としてだけ、この地上に来られたのではなく、私たちと同じ肉体をもって、受肉されて、この地上に生まれて来られました。さらに十字架で私たちの身代わりに死なれた3日後、墓の中から復活されたイエス様は体を持ってよみがえられました。「本当にイエス様なのかな?」と疑う弟子たちに、「幽霊か」と疑ってしまう弟子たちに「本当にわたしだよ」と顔を見せ、手を見せ、その栄光のからだを見せてくださいました。

私たちは「からだのよみがえりを信じます」と告白します。それは、やがての天国での栄光のからだへの憧れを告白すると同時に、大切に素晴らしく造られたこの地上の身体をも大切にいたわり、神様のお働きのためにこの身体を用いていきますという決意表明なのです。

神様から与えられた授かりものの自分の身体をいたわり、ときに休ませ、大切にするのと同時に、互いの身体のことを心配し、いたわり、大切にします。今、教会の神の家族のからだが痛んでいます。弱っています。その方のことを心配し、神様の癒しと守りを切に祈り求めます。

パウロは、コリント人への手紙15章の最後でこう勧めます。58節、

ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。

与えられたこの身体をもって、主のわざに、託された奉仕に仕えていきましょう。神様のために、隣人のために、教会のために、神の家族のために、血のつながった家族のために、友のために、社会のために、地域のために、会社のために、学校のために、この授かりものの手や足を、頭を、心をささげて歩んで行きたいと願います。

いつの日か、天国で栄光のからだを着せて頂き、イエス様と目と目を合わせ、イエス様から直接、「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21,23)とほめて頂けることを心待ちにしながら、地上で励み続けていきたいと思います。

「ハイデルク信仰問答」の問57にはこう記されています。

問57 「身体(からだ)のよみがえり」は、あなたにどのような慰(なぐさ)めを与(あた)えますか。
答 わたしの魂(たましい)が、この生涯(しょうがい)の後(のち) 直(ただ)ちに、頭(かしら)なるキリストのもとへ迎え入れられる、というだけではなく、
やがてわたしのこの体もまた、キリストの御(み)力(ちから)によって引き起こされ、
再びわたしの魂と結び合わされて、キリストの栄光の御(み)体(からだ)と同じ形に変えられる、ということです。

この答にありますように、私たちの魂は死後、直ちにキリストのもとに迎え入れられます。死んで気がつくと天国にいるということです(ルカ23:43)。このことは、本当に大きな慰めです。さらにイエス様再臨の日には、私たちの体もよみがえらされ、たましいと結び合わされるのです。キリストの栄光のみからだと同じ形に変えられるのです。

お祈りします。