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火と水と花野の下を走りけり

2024.10.12 05:57

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%9B%E5%90%8D%E5%B1%B1 【榛名山(はるなさん)】より

榛名山(はるなさん)は、関東地方の北部の群馬県にある上毛三山の一つであり、古来山岳信仰を受けてきた山である。山の南西麓に榛名神社が祀られている。

概要

榛名火山の火山体地形図

山頂部地形図と解説 >無印画像

榛名山カルデラ付近の空中写真

国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

山頂にはカルデラ湖である榛名湖と中央火口丘の榛名富士溶岩ドーム(標高1,390.3 m)があり、 495年頃(早川2009)と約30年後に大きな噴火をしたと見られている。中央のカルデラと榛名富士を最高峰の掃部ヶ岳(かもんがたけ 標高1,449 m)、天目山 (1,303 m) 、尖った峰の相馬山 (1,411 m) 、二ッ岳 (1,344 m) 、典型的な溶岩円頂丘の烏帽子岳 (1,363 m) 、鬢櫛山 (1,350 m) などが囲み、更に外側にも水沢山(浅間山 1,194 m)、鷹ノ巣山 (956 m) 、三ッ峰山 (1,315 m) 、杏が岳 (1,292 m) 、古賀良山 (982 m) 、五万石 (1,060 m) など数多くの側火山があり、非常に多くの峰をもつ複雑な山容を見せている。

噴火史

金井東裏遺跡出土の甲を着た古墳人(複製)。群馬県立歴史博物館展示。

古期榛名火山:約50万年前頃から開始し、約24万年前頃まで。約20万年間の活動休止期を経て、約5万年前から新期榛名火山の活動に移行。

新期榛名火山:約5万年前の八崎降下軽石・白川火砕流の噴出で開始し、榛名カルデラを形成。その後、榛名富士、蛇ヶ岳、相馬山、水沢山、二ッ岳など少なくとも5個の安山岩溶岩ドームを形成したが、いくつかが山体崩壊し榛名山東側及び南側山麓に扇状地状地形を形成。

5世紀に活動を再開し、マグマ水蒸気噴火を起こす。(二ッ岳有馬火山灰噴火)

489年 二ッ岳渋川噴火で大規模なマグマ水蒸気噴火と泥流。マグマ噴出量は0.32 DREkm3。火山爆発指数:VEI4

525年から550年 大規模マグマ噴火、マグマ水蒸気噴火、マグマ噴火泥流。マグマ噴出量は0.74 DREkm3。火山爆発指数:VEI5

有史以降の記録は残っていないが、古墳時代後期にあたる6世紀代には二ツ岳で大規模噴火が度々発生しており、北東山麓では6世紀初頭の「榛名山二ツ岳渋川火山灰(Hr-FA)」と、6世紀中頃の「榛名山二ツ岳伊香保軽石(Hr-FP)」の降下による分厚い堆積層が形成されている。渋川市黒井峯遺跡や中筋遺跡、高崎市三ツ寺遺跡など、火山灰や火砕流で被災した古墳時代後期の遺跡は多く発見されており、当時の群馬県域(上毛野地域)に甚大な被害があったことが解っている[1]。渋川市の金井東裏遺跡(国道353号建設工事に伴う調査)では、6世紀初頭のHr-FA火砕流に巻き込まれた小札甲を着装した成人男性人骨1体(甲を着た古墳人)と、その家族と思われる成人女性人骨1体と幼児人骨1体、乳児頭骨1点が発掘されており、人的被害が出ていたことが裏付けられている[2]。当時の北関東は大和とは別の毛野地域で、南海トラフ巨大地震の白鳳地震とは違って記紀には記載はない。

伝承

榛名山に関係する伝承では、巨人ダイダラボッチ[3]が、富士山、浅間山、榛名山を競争で作り、あと一息というところで富士山のだいだらぼっちが勝ったという民話、榛名神社が諏訪神社から井戸を通して食器を借りたという民話、弘法大師(空海)が杖を刺して井戸を掘ったという民話などが残っており、山岳信仰が盛んだったことをうかがわせる。

観光

榛名山周辺には伊香保温泉をはじめ各種の温泉が出ている。中腹の展望台からの眺めがとても良く、渋川市を一望できる。信仰としては、有名なところだけでも榛名神社、水沢観音といった寺社が山中にある。

伊香保温泉から榛名山へは群馬県道33号渋川松井田線の一本道になっている。県立榛名公園の沼ノ原地区一帯、黒髪山神社の鳥居周辺や榛名湖畔の沿道では、毎年5月下旬から6月下旬にかけて、ヤマツツジやレンゲツツジが満開になる[4][5]。


https://asakinoe.hateblo.jp/entry/2022/09/03/170519 【花野忌】より

榛名山のふもとに広がる花野、紫色の花が松虫草

 9月1日は竹久夢二の忌日です。今秋発売される角川大歳時記で、初めて夢二忌の傍題に「花野忌」が加わりました。それは30年近くにわたり「夢二忌俳句大会」を推進してきた俳人・木暮陶句郎をはじめとする群馬県伊香保の方たちの活動の成果と言っても過言ではないでしょう。

 夢二画の女性は秋草の風情がただよい、「花野忌」という美しい呼称は、夢二忌にこそふさわしいように思われます。

 夢二はこよなくこの地を愛し、榛名湖畔にアトリエを建てました。また伊香保には竹久夢二記念館があり、その作品の収集保存だけでなく、大正ロマンの風情を十二分に楽しませてくれます。

 今回3年ぶりに榛名山のふもとに広がる花野に足を運びました。以前より芒が増えているように思いましたが、木道の中ほどまでゆくと薄紫の松虫草やイワシャジン、萩や吾亦紅などがしずかに、さみしく群れ咲いていました。


https://blog.goo.ne.jp/shinso_tatebayashikido/e/af31855a7c581a8e99df1bf5548b2451/?cid=8afdb2b08388ccefd598f1897a8c35e2&st=1 【伊香保行① 榛名湖畔】より    

 所属結社「百磴」主宰(雨宮きぬよ)が大会の前夜及び当日句会の選者になっていますので

第12回夢二俳句大会及び第16回夢二忌俳句大会に昨年に引き続き参加してきました。

 竹久夢二がはじめて榛名、伊香保を訪れたのは大正8年(36歳)とのこと。

以後当地を拠点に画家、詩人、装丁、デザイナー、芸術運動まで、その活動は多彩でした。

榛名山美術研究所建設を世に問うたのが昭和5年。実現しないまま昭和9年9月1日

51歳で長野県富士見高原療養所で永眠しました。

翌10年榛名湖畔に歌碑が建設されています。

 「竹久夢二伊香保記念館」の開館は昭和56年ですが昨年お聞きした、館長の開館に至るまでの講演は感銘深いものでした。

 大会の宿泊ホテルは「竹久夢二伊香保記念館」とは道路を挟んである「天坊」。温泉のホテルは大抵そうですが入ってみると中は実に広い。

 伊香保温泉は群馬県にありますが、こういうときを利用しないとなかなか温泉にはいけません。 昨年は「夢二記念館」、及び石段街、伊香保神社を拝観しましたので今年は俳句はさておき到着してすぐタクシーをたのみ榛名湖畔へ出ました。

タクシーの運転手さんはとても明るく親切でタクシーの車内に野草を活けています。

小さな花瓶が3、4個ほど、秋の七草も活けてありました。

また驚いたことには高峰秀子の「湖畔の宿」をかけて湖畔を一周してくれました。

 茂った草をかきわけて 夢二のアトリエも案内してくれました。

 

 

 アトリエの中には榛名山美術研究所建設の趣意書も掲示してあります。

 すぐ近くに「湖畔の宿」記念公園があります。

 湖畔は「とて馬車」が観光客を乗せてのどかに

案内をしてくれます。

翌朝の吟行地になっていましたので素通りしましたが

湖畔に出る途中には花野があります。

湯元も案内してくれてまた紅葉が美しいという河鹿橋も。

 つかの間でしたがタクシーの運転手さんに恵まれ

一人旅を楽しめました。

 観光のためにタクシーをたのむときは

草花を活けている運転手といえば来てくれるそうです。