原爆ドーム
Facebook古川 賢一さん投稿記事
皆さん、おはようございます。昨日は8月6日、広島平和記念日でした。
その時の報道で必ず映し出されるのが、原爆ドームですね。
今朝のブログは、その建物のたどった運命についてです。ご笑覧いただければ幸いです。
https://kitamahokif.jugem.jp/?eid=5535&fbclid=IwY2xjawEoIEVleHRuA2FlbQIxMQABHRsnMFttn3Lg3RV4lcVfHebLM0LfT6LyWNkI28M12Az6oBdfB5eg6Mrjmw_aem_gbRrYSJRy5uDxjTbuiQ4nQ 【原爆ドーム】より
(8月6日)
今年も8月6日がやってきました。広島平和記念日です。
世界平和を祈る日として広島市が制定した記念日ですね。
その象徴的建物が原爆ドームで、この日のメディアを観ると必ずこの建物の映像が映し出されます。
これは先日の日本近代建築史のワークショップの課題の一つでもあっため、とても印象深いです。
(広島物産陳列館としてスタート)
ただ原爆ドームというのは、当然この建物のもともとの名前ではありません。
広島県物産陳列館(wikipedia)
原爆ドームの元の建物は、広島県物産陳列館という名で、大正4年(1915年4月15日)に建てられました。
設計者はヤン・レツルというチェコの建築家です。
建物は一部鉄骨を使用した煉瓦造、外装は石材とモルタル。
窓の多い3階建てで、正面中央部分は5階建ての階段室、その上に銅板の楕円形ドームです。
弧を描く平面、ドームは正円ではなく楕円平面であることからも、全体構成はネオバロックと考えられます。
また柱上部に見られる抽象化されたメダリオン、軒飾りも抽象化されていて(アンテミオン)いることから、全体装飾はゼツェッシオンと考えられます。ワークショップでのお勉強の成果?
(そのたどった歴史)
といった建物の仕様の細かいことはさておき、ヨーロッパ風の建物はたちまち人気を博し、広島名所、シンボルの1つとなりました。
ここで1919年(大正8年)3月に開催された似島独逸俘虜技術工芸展(ドイツ人捕虜の作った作品が300点程も展示)は開館以来最高の人出でした。
おそらく皆さんもご存知のお菓子のユーハイムは、この捕虜の一人であった菓子職人カール・ユーハイムが日本で初めてバウムクーヘンを紹介したことから始まるとのことです。
(広島県産業奨励館への名称変更と戦争の影)
1933年(昭和8年)からは広島県産業奨励館と名前を変え、その活動はピークを迎えました。
しかし日中戦争、太平洋戦争と戦争が進むに従い、煉瓦作りの耐火構造であったため、国や県の機関の事務所に転用され、展示内容も戦時色が濃いものになり、ついには1944年(昭和19年)展示館としての業務は完全に停止しました。
(原爆による被害)
この建物は1945年(昭和20年)8月6日に投下された原爆によって、爆心地から約160メートルの至近距離で被爆したため大破。ただ奇跡的に(いくつかの偶然が重なり)建物の壁の一部は倒壊は免れ、現在に至ります。
なお、当時この建物の中に居た人は全員即死だったといいます。
(原爆ドームの保存)
いつしか原爆ドームと呼ばれるようになった旧広島県産業奨励館の取り扱いについては、危険建造物であり、被爆の悲惨な思い出につながるため、取り壊すべきという考え方と、原爆の惨禍を後世に伝えるため、被爆後の姿のまま残すという考え方がありました。
しかし、次第に保存を求める声が高まり、ついに1967年(昭和42年)に第1回保存工事がおこなわれました。
その後3回(計4回)の保存工事が行われ、1996年には世界遺産にも登録されました。
この建物が、世界平和の実現する日まで、立ち続けてほしいと思います。
Facebook小林 まどかさん投稿記事
生まれて初めての広島。
小1の子供が1学期に「はだしのゲン」を学校で一部観てきたそうで、ショッキングな場面には怖かったと感想を話してきましたが、今のタイミングで原爆ドームをみせるのは意味があるだろうと思い、行ってきました。
私も初めての、平和記念資料館と原爆ドーム。
意外にも子供が一つひとつの展示品の解説を私に読んで聞かせてと言うので、鼻水を拭いながら小声で耳元で読み上げてきました。
展示されているもの以外にも、当然亡くなったり被爆された人の数だけ物語はある訳ですが、子供の頃教科書でみて記憶に刻まれていたものをすぐ目の前にして、何も言葉が出てきませんでした。
暑い陽射しの中原爆ドームまで歩き、まさに79年前の今頃この辺りは測り知れない惨状だったんだと、タイムスリップして当時の様子が重なって感じられる様な不思議な気持ちでした。
ニュースや写真でみるのと、自分の目でみて感じるのは、雲泥の差があると改めて感じました。
Facebook葦木 啓夏さん投稿記事 2024.8.6 広島平和記念公園
これは ぼくらの叫びです これは 私たちの祈りです 世界に平和を きずくための
(原爆の子の像 石碑より)
原爆が投下された直後に降った黒い雨に打たれ 当時12歳で亡くなられた佐々木禎子さん。
「元気になって、またみんなで遊びたい」と千羽折ったら願い事が叶うとのジンクスを
病室で聞き、折り鶴を折り続けました。
願い虚しく、禎子さんは旅立ち お見舞いに来ていた当時同級生だった 子供たちが、全国の子供に募金を募り 平和の想いを込めてつくったのが【原爆の子の像】です。
今も「折り鶴」を平和のシンボルとしてその想いは後世を生きる私たちの心の中に
生き続けているのだと 私の歌『祈り鶴』は生まれました。
一発の爆風により崩れ落ちた【原爆ドーム】の姿は、原子爆弾の悲惨さを今に伝え続けています。
被曝ピアノを演奏くださったSOUL-Tさん ( 鳥居 強志 )と一緒にめぐることができ、大切なひと時でした。