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平和の俳句

2024.08.13 11:58

FacebookHiroshi Kaneiさん投稿記事  ■戦争が廊下の奧に立っていた

1939(昭和14)年、京都大学俳句会で活躍していた、渡辺白泉という学徒が詠んだものです。1939年の日本は、第二次世界大戦に参加する2年前でした。

1938年にヨーロッパで世界大戦が始まりますが、まだ日本は対岸の火事であった時です。

白泉はとくに政治に関与していたわけではありません。もちろん、左翼でもありませんでした。戦争を嫌い、平和と文学を愛するごくふつうの大学生だったのです。

ところが、特高警察はこの俳句にまで目をつけ、「反戦思想の持ち主だ」と言って、渡辺白泉に治安維持法違反の嫌疑をかけ、投獄しました。

仲間も俳句を作れないほどの言論弾圧を受けました。いまに伝わる「京大俳句事件」です。

たった一句の俳句にまで弾圧が及んだ暗黒の時代。そのおぞましい暴力は、まだ大丈夫だろう、と思っている矢先に、突然に襲ってきたのです。

国民の目と耳と口をふさぎ、自分たちの思うがままに独裁的な政治をしようという勢力が

居丈高に振る舞っているいま、すでに不気味な圧力はあなたの背後にしのび寄っているかもしれないのです。

戦争が廊下の奧に立っていた

戦前、京大生・渡辺白泉がこの俳句を詠んだときには、もう戦争は廊下の奧どころか、茶の間に軍靴で侵入していたのです。

***

【戦争が廊下の奥に立つてゐた】は、白泉が感じた大規模戦争への前触れを率直に表現した句です。当時の日本で、大規模戦争に突入すると予想した人が何人くらいいたでしょうか?

世界中を巻き込んだ戦争になると考えた人は少なかったと言われています。そういった状況を考えると、大戦が始まると考えた人は決して多くはないことが考えられます。

その中で、白泉は遠くない将来に大規模戦争が起こると考えました。

少しずつ戦争の色が濃くなる様子を白泉は「立つてゐた」と詠み、気がつくと待ち構えていたような表現をしました。

待ち構えている様子が恐怖を感じさせます。

また、廊下の奥と表現することで、一本道で逃げられず、段々と暗くなり戦争へと突入する様子を描いています。暗い様子はぼんやりであっても戦争の姿形が分かるやりきれない気持ちも感じ取れます。また、気づかないうちに大規模戦争になるという警戒感と回避できない無力感が伝わってきます。この句は戦争を直接知らなくても恐怖感がひしひしと伝わってくる句となっています。

***

“よくよく考えれば、「平和」の反対語は「戦争」じゃなくて「ペテン」だとわかります。ぼくらがペテンにひっかかるところから、もう戦争は始まっています"

--アーサー・ビナード(詩人)帯文より

歴史をひも解くと、ナチスドイツによるユダヤ人弾圧に 当時のアメリカや世界は無関心だった ! “無関心”でいることは“共犯者”との指摘も。


Facebook杉山和彦さん投稿記事

東京新聞 2024年8月1日

「ひもじい思いをしちゃいけないよ」。東京都稲城市に住む教員、山田慎一さん(40)は、会うたびに必ずそう話す祖母の姿が忘れられないでいる。

そんな夏の日の思い出を脳裏に浮かべながら、「平和の俳句」を詠んだ。

◆朝鮮半島から日本へ、乳飲み子を失い…

もっと読みたいなって思ったら下のURLを押してください


https://www.tokyo-np.co.jp/article/344265  【祖母にとっての「夏の味」は…戦争の苦難と「水ようかん」 40歳山田慎一さんが「平和の俳句」に込めた思い】より

<平和の俳句2024>

山田慎一さんの祖父母の写真と水ようかん=東京都内で(池田まみ撮影)

水ようかん戦争を見し人と食べ 山田慎一

〈選者・夏井いつき〉 戦争を見、戦争を生き抜いた人と、水ようかんを食べる。甘さや舌触りをしみじみと喜ぶ人の過酷な運命を思いつつ。

 「ひもじい思いをしちゃいけないよ」。東京都稲城市に住む教員、山田慎一さん(40)は、会うたびに必ずそう話す祖母の姿が忘れられないでいる。そんな夏の日の思い出を脳裏に浮かべながら、「平和の俳句」を詠んだ。

◆朝鮮半島から日本へ、乳飲み子を失い…

 山田さんの祖母フジノさんは佐賀県出身。1943年、同県出身で日本統治下の朝鮮で育った健吾さんと結婚し、新義州(現・北朝鮮)で暮らし始めた。健吾さんは当時、従軍経験があるものの負傷し、療養を経て新義州の高等女学校で教師をしていた。夫婦は現地で2人の男児をもうけた。

 終戦は新義州より南にある沙里院で迎えた。一家はその2カ月後、約70人の団体で同地を脱出。総督府のあった京城を経て釜山港から出航し、45年11月10日、山口県の仙崎港にたどり着いた。引き揚げのさなか、乳飲み子だった次男は亡くなり、遺体は現地で埋葬されたという。山田さんの父親は戦後、日本で生まれた。

◆「元気にしとかんばよ」

 山田さんが佐賀の祖母宅に帰省すると、フジノさんはいろいろなものを食べさせてくれたという。おなかがすくことをとても気にしており、「ひもじいのはよくない」とよく口にしていた。健吾さんに顔立ちがそっくりという山田さんの手をなでながら、「元気にしとかんばよ」と語ることもあった。

祖父母について話す山田慎一さん=東京都内で(池田まみ撮影)

 2020年に97歳で亡くなった祖母は、果たして自身の体験を受け入れて戦後を過ごすことができたのだろうか―。入選句は、そんな亡き祖母への問いかけでもある。つるっとした「水ようかん」の喉ごしと、そう簡単にはのみ込めないだろう祖母の思いを対比させたという。「一緒に食べたけど、見ている世界は違ったのかもしれません」

 終戦から間もなく79年になるが、世界中で争いは起こっている。戦争を知らない世代が大半を占めるなか、「戦争を止めることはできなくても、真剣に考えるためには、まずは知ることが大事」。気持ちを新たに、戦争の記憶を引き継いでいく。(飯田樹与)

  ◇

◆8月31日まで毎日紹介します

 「平和の俳句」は、平和を自由な発想で詠んだ句を募集し、入選句を紙面で紹介する東京新聞の企画です。

 10年目の今年は6033句というたくさんの応募をいただきました。日本は戦後79年ですが、世界では今も戦火が絶えることはなく、ウクライナやガザの人々に思いを寄せる句も目立ちました。

 作家のいとうせいこうさん(63)、俳人の夏井いつきさん(67)に選んでいただいた入選句を、今日から8月31日まで毎日紹介していきます。


Facebook玉井 昭彦さん投稿記事

「これは防げたことなの。人間が計画して行った大変な悲劇なの。運命じゃないのよ」 

 母 福原伸子

(天声人語)母と暮せば

 「父と暮せば」を完成させた井上ひさしさんが、いつか書かねばと思い定めていたのが長崎の原爆だった。だが果たせぬまま、鬼籍に入る。井上さんが決めていたタイトルと熱意は、山田洋次監督の映画「母と暮せば」に引き継がれた。

原爆で亡くなり幽霊となって現れた息子、生き残った母、息子の婚約者。3人の物語だ。罪悪感から新たな恋へ踏み出しきれない婚約者の背を、母はそっと押す。だがそれが現実となると、どうにもならない思いに襲われる。

「どうしてあの娘だけが幸せになるの。お前と代わってくれたらよかったとに」。

当初の脚本になかったセリフが加わり、母の苦悩が深まった。演じたのは吉永小百合さん。もう長い間、各地で原爆詩の朗読を重ねている。その作品の一つに、長崎県の下田秀枝(しもだほづえ)さんの詩がある。

「黒い雨の降りしきる中/ぼくは母さん 探しています/のどがからから/水が欲しいよ(略)母さん 母さん 母さん/お願い 返事をしてよ 母さん/なんだかぼくは/もうぼくでなくなるよ」

核のない世界をめざして、声をからす。だが原爆を落とした国の大使は、自国が武器支援するイスラエルへの配慮を優先して、きょうの平和祈念式典への出席を見送るという。壁は厚い。

それでも核兵器を、戦争を止められるのは人間しかいない。映画のなかで、死んだのは運命さ、とあきらめる息子を母は諭す。

「これは防げたことなの。人間が計画して行った大変な悲劇なの。運命じゃないのよ」

朝日新聞8月9日


https://www.youtube.com/watch?v=1QRQ2ipyVig