災害と賢治
https://ihatov.cc/blog/archives/2011/05/post_740.htm 【災害と賢治】
「災害と賢治」-今、もし賢治がいたら
0.はじめに
今日お話させていただくのは「災害と賢治」というタイトルなんですが、生前の宮沢賢治は災害というものについて、どんな思いや態度でいたのだろうかということについて、考えてみたいと思います。副題に、「今、もし賢治がいたら」と書いていますように、今の日本のこの大変な状況にあって、もしも賢治が生きていたら、何を考え、どんな行動をとっただろうかということを、何とか推し測ってみたいという気持ちもあります。
「第1回 イーハトーブ・プロジェクトin京都」-満員御礼 この、「今、もし賢治がいたら」という疑問は、これまで賢治に関心を抱いてきた者として、3月11日の震災以来つねに私の胸のどこかにあったものでした。そして、今日のこの催しを企画するために、3月20日に初めてここ「アートステージ567」にやって来た時に、Hさんからまず私に突き付けられた問いでもありました。
その時にははっきりとはお答えできないままだったのですが、私はその後この自問をふとツイッターに書き込んでみたところ、特に皆の意見を求めたわけではなく独り言のように呟いただけだったのですが、驚くほどいろいろなお返事が帰ってきました。
賢治は、「自ら原発や瓦礫の間に分け入ろうとしてレスキュー隊や自衛隊と揉めているか」、あるいは「避難所生活を共にして今頃水や食料の確保に駆け回っているか…」と想像した方もありました。
また、集団で協力し合って物事にあたるのが得意な人と、個人で行動するのが得意な人がいるけれども、賢治は後者だと思われるので、「だから多分一人でがれきを片付けたり、ひとりひとりの話を聞いて回ったり…かな」という意見も寄せられました。
そして、賢治がとったであろう行動は、ひょっとしたら周囲の人からは「愚かなこと」と思われるようなことだったかもしれない、と指摘して下さった方もありました。この視点は、「デクノボー」の人間像や、「虔十公園林」の虔十の行動にも通ずるもので、おそらくそこには深い意味があるでしょう。この点については、後でまた触れる予定です。
さて、こういう経過もあり、あらためて私は「災害と賢治」についていろんなことを考えさせられたのですが、ただ、賢治自身は、災害の現場で何かの活動をした記録があるわけでもなく、「災害論」のようなものを書き残しているわけでもないのです。ですから、「賢治だったらどうしたか?」という考察をしようとしても、せいぜい作品の一部や伝記的事項をもとに、想像をたくましくして推測してみるということしかできません。
そもそもこれは、はっきりした答えが出る問いではないのですが、今回の震災を機に賢治について考えてみようという本日の催しの趣旨には沿うものですし、答えの当否はともかく、賢治の作品や思想を振り返ってみる一つの切り口にはなると思いますので、今日のテーマとさせていただいた次第です。
ということで、今日のお話の大まかな内容は、次のようになる予定です。
「災害と賢治」-本日のお話
賢治の作品や伝記的事項の中で、「災害」と言える上記のような題材が出てくるものを順番に検討し、それらに対する賢治の態度を見てみます。そして次にそれを整理して、賢治という人が災害や自然との関わりにおいてどういう思いを抱きつつ生きていたのかを、考えてみようと思います。
一般にこういうテーマというのは、論者それぞれの「賢治に対する思い入れ」にもとづいて、あれこれ好き勝手に推測を述べるという形になりがちです。「私なりに抱いている賢治のイメージからすると、きっとこうしたのではないか」ということの、まあ主観的な表明です。
もちろんそのような話も面白いのですが、ここでは賢治に関する伝記的事実や、作品内で直接描かれていることをもとに、なるべく客観的に考えてみたいと思います。無論それでも、背景に私なりの賢治に対する主観的「思い入れ」があるのは事実ですが……。
1.地震・津波 ~荒ぶる自然の申し子?~
このたびの東日本大震災の中心は、まずM9.0という未曾有の大地震と、それに続く巨大な津波でした。
よく話題になるように、宮沢賢治の生涯も、その始めと終わりを大規模な地震と津波が特徴づけています。
まず賢治が生まれた1896年(明治29年)6月25日には、「明治三陸地震」と「明治三陸大津波」がありました。それまでは行政用語として限定的に使われていただけだった「三陸」という地名表現が、広く一般に普及したのも、この災害がきっかけだったと言われています。
この時の死者は2万1915人で、現在も津波の死者数としては日本最大で、波の最大遡上高は38.2mで、これも現時点では観測史上最高です。
これは、賢治が生まれる2ヵ月前の出来事でしたが、彼が生まれた直後にも、岩手県内陸地方では大きな地震がありました。8月31日に起こった陸羽地震がそれで、震度は6~7程度あったと言われています。母のイチは、まだ生後数日だった賢治の上に覆い被さるようにして、わが子を守ろうとしたそうです。
そして、賢治が亡くなった1933年(昭和8年)3月3日には、明治三陸大津波と並び称される「昭和三陸大津波」がありました。これは賢治が死去する約半年前のことで、すでに賢治の病状は重く、ほとんど病床から離れられない状態でした。ですから、この津波災害に際して賢治が何らかの社会的行動をすることは、すでに不可能になっていました。
ただ、この津波の後まもなく、賢治の弟の清六氏が、「釜石に急行して罹災者を見舞った」と記していることは、注目に値すると思います(『兄賢治の生涯』ちくま文庫)。
おそらくまだ交通も寸断されていた時期に、内陸の花巻から沿岸で最も被害が大きかった地区へ入ったというのは、かなり思い切った行動だったのではないでしょうか。釜石に宮沢家の親戚がいたということが、災害直後に急行した直接の理由かと推測されますが、弟がこういう行動をとるということは、賢治もこの時もし「丈夫ナカラダ」だったら、被災地に直接赴いたのではないかと、一つの想像が成り立つと思います。
なお、この地震・津波の後に、東京在住の大木實という詩人から届いた見舞い状に対して、賢治が出した返事が残っています(下写真は勉誠出版『月光2』p.163-164より)。
「被害は津波によるもの最多く海岸は実に悲惨です。」との言葉が、ちょうど今の私たちの胸にも突き刺さります。今回の震災とほぼ同じ時季のできごとでしたが、「何かにみんなで折角春を待ってゐる次第です。」とは、今年の東北でも共有されていた思いでしょう。
津波とともにこの世に生まれ、津波とともに去っていった賢治の生涯は、あたかも「風の又三郎」が、二百十日の風とともに山あいの村に現れ、また風とともにどこかへ行ってしまったという設定を、彷彿とさせます。清六氏は『兄賢治の生涯』に、次のように書いています。
このように賢治の生まれた年と死亡した年に大津波があったということにも、天候や気温や災害を憂慮しつづけた彼の生涯と、何等かの暗合を感ずるのである。
賢治は、荒ぶる自然の申し子のようにこの人間界に生まれ、科学や宗教をより所として、実践的に自然災害に関わるようになります。
2.雪山遭難 ~自然と人間との関係について~
さて次は「雪山遭難」というテーマです。さきほど第一部で菅原さんが朗読された「水仙月の四日」というお話は、ほんとうに美しかったですね。人の命を奪うような猛吹雪が襲来する刻一刻の描写も、水晶のように透き通っていました。
しかしある面でいかに美しくとも、雪山や吹雪は人間にとって非常に怖ろしいものです。岩手の内陸で生まれ育った賢治にとって、これは小さい頃から言い聞かされてきたことでしょうし、それからお隣の青森における「八甲田山雪中行軍訓練」で、壮健なはずの陸軍連隊210名中199名が死亡した事件は、1902年(明治35年)のことでした。この衝撃も、賢治の幼時記憶には刻まれていたかもしれません。
「水仙月の四日」に雪の精霊として登場する雪童子は、「顔を苹果のやうにかがやかし」ている可愛い子どもです。このお話では、たまたま人の子を救いましたが、また別の時には死なせているのでしょう(童話「ひかりの素足」では、一人は死に一人は生き残りました)。吹雪がやって来る時の、「雪童子の眼は、鋭く燃えるやうに光りました」という箇所などは、この子の本当の怖ろしさを垣間見せます。
また「雪婆んご」の方は、年とった「魔女」あるいは「山姥」のようで、もっと冷たく恐そうな存在ですね。
しかしだからと言って、このお話で雪婆んごや雪童子が、人間の「敵」であり人間と対立する「悪者」として描かれているかというと、まったくそんなところはないのです。
それどころか、人間と彼ら自然の精霊は、一つにつながっている存在として提示されているようでもあります。
「人間」と「雪婆んご」の間にはちょっと距離があるようで、きっと雪婆んごには、人間的な感情など理解する余地などないのかもしれません。しかしここで、両者の間に「雪童子」という中間項を入れてみると、ちょうどこの両者を媒介してくれるように見えます。
雪童子は雪婆んごの配下であり、彼女の命令に従って雪を降らせ、時に人の命を取ります。しかし一方で、雪童子は人間の行動も興味を持って眺めたり、自分が投げてやったヤドリギの枝を子どもが大事に持っていたことで、「ちよつと泣くやうに」したりもするのです。雪童子は、人間と自然の両方の性質を帯びた、一種の境界的な存在のようですね(下図)。
人間-雪童子-雪婆んご
雪童子という存在について、次のように考えてみることもできるかもしれません。東北地方には「雪女」という伝承もあって、やはりこれも美しいとともに怖ろしく、しばしば人間の命を奪う精霊ですが、伝承によればこの「雪女」とは、雪の中で遭難して亡くなってしまった人間の女性の化身であるとされています。
もしも雪女の出自がそうであるならば、雪童子というのも、実は雪で亡くなった子どもの化身なのではないでしょうか。
「水仙月の四日」には、雪婆んごが雪童子に向かって、「おや、をかしな子がゐるね、さうさう、こつちへとつておしまひ。」と命ずる場面があります。子どもを「殺しておしまひ」ではなくて、「こつちへとつておしまひ」と表現しているということは、子どもが死ぬと、雪婆んごや雪童子の側である「こつち」の存在として「転生」する運命にあることを、示しているのではないでしょうか。
それならば、ここに出てくる雪童子も、しばらく前までは人間界で生きていた子どもだったのかもしれません。雪婆んごとは違って、この子にはまだ人間としての感覚が完全には失われていないために、人の子に対して「情が移ってしまう」のかもしれません。
いずれにしても、この物語における「自然」は、とても怖ろしいけれども、「人間」と別個に対立する存在としてあるのではなく、どこかで人間と不可分な存在です。
その特徴を浮き彫りにするために、西洋のお話でこれと類似した設定を持つ、アンデルセンの「雪の女王」という童話と較べてみましょう。
このアンデルセンのお話においても、「雪婆んご」に相当する「雪の女王」は、「死」を象徴する存在です。しかし、人間との関係はかなり異なっています。
ある日、カイという男の子の目と心臓に、悪魔が作った鏡のかけらが運悪く入ってしまいました。そのた「雪の女王」のお城へ向かうゲルダめに、カイは物事が歪んで見えるようになってしまい、幼なじみの女の子ゲルダと離れ、雪の女王に連れ去られてしまいます。カイを探してはるばる北へやって来たゲルダは、やっと雪の女王のお城を探し当てますが、城に近づこうとすると、生き物のような「雪の大軍」がそれを阻止します。ゲルダが思わず「主の祈り」を唱えると、その白い息がたくさんの天使となり、天使軍は雪の大軍を打ち負かします。そこでついにゲルダは雪の女王のお城に到達し、大好きなカイを救け出したのです(上挿絵は「青空文庫」内「雪の女王」より)。
この西洋の童話においては、愛のある人間は「善」で、冷たく怖ろしい雪は、人間と対立する「悪」です。善と悪は戦い、神の守護を受けて善は勝利したのです。
「雪の犠牲になりかけている子ども」と「雪の精霊」が登場することにおいては、アンデルセンの童話と、賢治の「水仙月の四日」は似ていますが、実は両者の世界観は、相当に異なっています。
「水仙月の四日」においては、「雪」は善悪というような人間が決めた価値基準を超越した存在です。雪と対峙して天使とともに戦ったゲルダとは対照的に、「水仙月の四日」に出てくる子どもは、積もる雪に受動的に包み込まれてしまいます。この物語では、その柔らかい褥(しとね)は結果的に子どもを守り救けましたが、しかし一歩間違えば、これは命取りになる状況でもありました。
「水仙月の四日」で描かれている「自然」は、人間にとってはむら気で残酷でありながらも、それは人間と対立しているわけではなくて、人間を包み込んでくれるものです。人を包みながら、救けてくれるかもしれないし、命を奪われるかもしれない、両価的な存在です。
これが、いわば賢治の自然観だったと私は思いますが、実はこれは何も賢治独自の考えというわけではなくて、近代以前の日本では、当たり前の感覚だったようです。
というのは、明治維新までの日本には、英語の Nature に相当する言葉が存在しなかったのだそうです。強いて似た意味の言葉を挙げれば、「森羅万象」「万物」などというものがそれにあたりますが、これらはいずれもその中に「人間」も一緒に含む概念です。
そこで、「人間と対置される存在としての Nature」という概念を日本語に移し替えるために、「おのずから」という意味でそれまで使われていた「自然(じねん)」という言葉が、訳語に充てられることになったのだそうです。今から思えば不思議な感じもしますが、近代以前の日本人は、「人間」や「人工物」と対比させる意味で、「自然」という概念を用いることはなかったわけですね。
人間が科学技術など様々な手段によって「自然を征服し支配する」という考えや行動は、19世紀から20世紀前半の西洋において頂点に達し、明治以降の日本にも取り入れられました。それからは、日本人もこういう視点で「自然」を見るのが当たり前になっていきます。
しかし20世紀後半になると、環境破壊や公害などの問題が表面化してきて、人間は自然を「征服」するのでなく自然と「調和」しなければならないという考えが、しだいにクローズアップされてきます。でもこの「調和」も、実際には「人間」と「自然」を対置してとらえていることには変わりはなく、言ってみれば「戦争をするか、同盟を結ぶか」の違いにすぎません。 西洋由来で、最近の日本でも流行している「エコ」とか「自然との共生」という思想もそうでしょう。結局は、人間に都合のよいように、そして人間に利益がある範囲内において、自然を守り共存しようということです。いわば「人間中心主義」であり、これが言葉の本来の意味における「ヒューマニズム」です。
自然と人間
しかし、賢治の深層にある自然観は、そんな生易しいものではなかったようです。人間は自然の一部としてその中に包み込まれていることを受け入れるとともに、なおかつ彼は、人間だけが特権的に他の存在よりも優位に立つことが許されるとは、考えなかったのです。
たとえば「なめとこ山の熊」という童話では、猟師の小十郎が、熊を獲って生計を立てています。小十郎は、熊が憎くて殺すわけではありませんが、自分が生きるためにはそうするしかありませんでした。小十郎は本当は熊が好きでしたし、熊も小十郎が好きでした。
「なめとこ山の熊」(あべ弘士:画) しかしそのような生業の帰結として、ある日猟に出た小十郎は、熊に襲われて死んでしまいます。彼は死ぬ間際に、「熊ども、ゆるせよ」と心で念じました。そしてその三日目の晩、月の光の下でたくさんの熊が小十郎の死骸を輪になって囲み、祈るようにひれ伏す姿がありました(右はミキハウス刊あべ弘士画:『なめとこ山の熊』)。
ここで、人と熊とは殺し殺される関係にありながら、互いに尊敬を払いつつ、文字どおり「対等に」生きています。そのようにして自然とともに生きている小十郎には、並々ならぬ覚悟と矜持が感じられます。
しかし、このような「自然」と「人間」との関係は、ちょっと聞くと美しく感じられても、よく考えるととても一般に受け入れられるものではないでしょう。「反ヒューマニズム」とも言えます。よく言われるような「人の命は地球よりも重い」というような価値観とは、まったく相容れないものです。
それでも賢治の思想の根底には、このような自然と人間との一体性・対等性を基本的に受容するという感覚があったのは確かだろうと、私は思います。
宗教学者の山折哲雄さんは、この「なめとこ山の熊」を取り上げて、「『共生』だけでは生きることへの執着、エゴイズムになってしまうので、『共死』という思想が重要である」と言っておられます(「共死の思想の大切さを思う」)。熊も人間も死を受容している「なめとこ山の熊」の世界は、まさに「共死」を具現化しているものであり、賢治の思想の根幹にも関わるものだと思いますが、はたして山折さんは「共死の思想が大切だ」と言うことで、一般の人々に何を伝えたかったのでしょうか。人間が、他の生物と対等に「共に死ぬ」ことを受け容れよ、というのでしょうか。こんな考え方は、人間を中心として成立している私たちの社会のモラルとして、到底みんなが納得できるはずはないものですが……。
賢治は、人に向かってそういう考えをさも有り難いことのように説くということはありませんでしたが、しかし自分の内奥にはしっかりと抱いていたのだろうと、私は思います。
人間は大地の上に暮し、幸いなことに大地から様々な恵みを贈与されていますが、時にその大地が大きく揺れ動くと、人々の命や暮らしが失われることもあります。また日本人は、四方を海に囲まれて暮し、様々な海の幸を受けとっていますが、時に海は怖ろしい怒濤となって陸地へ押し寄せ、人々の命や暮らしを奪います。
荒ぶる自然の申し子であった賢治は、元来このような自然の摂理を、どこか宿命のように受け容れていたような印象が、彼のいくつかの作品からは感じられます。
それは、大いなる自然とちっぽけな人間との関係として、当時としては無理もなかったことなのかもしれません。賢治の生まれた家では、父が非常に熱心な浄土真宗の篤信家で、賢治自身も幼児期から真宗の教えを暗誦しながら育ちました。人間の無力さを知り、超越者としての阿弥陀如来にすべてを委ねる(絶対他力)という思想は、もともと賢治の心には沁みわたっていたと思いますが、このような大きな受容の心も、賢治の自然観の形成に与っていたのではないかと思います。
しかし賢治は、そこにとどまってはいませんでした。青年期に法華経に出会って世界観の変容を体験し、また高等農林学校に進学した賢治は、西洋近代文明の成功の基盤となった自然科学を究めようとします。そこからは彼の新たな、いわば「ヒューマニズムの闘士」として立ち上がろうとする姿も現われるのです。
3.豪雨災害 ~必死の農業技術者~
次に取り上げる作品は、賢治が盛岡高等農林学校で農学を修め、農学校教師として教育に携わった後、さらに教師を辞めて「羅須地人協会」の活動を行いつつ、近隣の農家のために無償で肥料設計をやっていた頃の詩「〔もうはたらくな〕」(「春と修羅 第三集」)です。
一〇八八 一九二七、八、二〇、
もうはたらくな レーキを投げろ この半月の曇天と 今朝のはげしい雷雨のために
おれが肥料を設計し 責任のあるみんなの稲が 次から次と倒れたのだ
稲が次々倒れたのだ 働くことの卑怯なときが 工場ばかりにあるのでない
ことにむちゃくちゃはたらいて 不安をまぎらかさうとする、 卑しいことだ
……けれどもあゝまたあたらしく 西には黒い死の群像が湧きあがる
春にはそれは、 恋愛自身とさへも云ひ 考へられてゐたではないか……
さあ一ぺん帰って 測候所へ電話をかけ すっかりぬれる支度をし 頭を堅く縄って出て
青ざめてこわばったたくさんの顔に 一人づつぶっつかって 火のついたやうにはげまして行け どんな手段を用ひても 辨償すると答へてあるけ
作品の日付けとして記入されている1927年(昭和2年)8月20日、花巻地方は激しい雷雨に襲われ、まさに稔りの時期を迎えようとしていた稲は、ことごとく倒れてしまったのです。
賢治が自らの知識と経験を傾けて肥料を設計した農家の人々の田の稲も、甚大な被害に遭い(=おれが肥料を設計し/責任のあるみんなの稲が/次から次と倒れたのだ)、賢治は絶望的な気持ちに襲われます。彼は自らに対して、「もうはたらくな/レーキを投げろ」と嘲るような言葉を投げつけます。もうこんな状況では、真面目に働くことなど無意味だ、卑しいことだ、とさえ言うのです。
いつも前向きに粘り強く努力を続ける賢治にしては、これは珍しい投げやりな態度ですが、思えば彼は盛岡高等農林学校では首席を通すほど勉強に励み、その後も自分の健康も害するほど献身的に、周囲の農家の人々に尽くしてきたのです。環境や能力にも恵まれた一人の人間として、農家の暮らしの改善のために最大限のことをやってきたはずなのに、その成果は一日の豪雨によって、無残にも打ち砕かれてしまいました。所詮、人間の努力なんて自然の威力の前では徒労にすぎないのではないか……。賢治がこの時そう感じたとしても、無理からぬことにも思えます。
しかしやはり賢治は、自暴自棄な態度では終わりませんでした。「さあ一ぺん帰って/測候所へ電話をかけ/すっかりぬれる支度をし/頭を堅く縄って出て/青ざめてこわばったたくさんの顔に/一人づつぶっつかって/火のついたやうにはげまして行け」ともう一度自らに命じます。「火のついたやうにはげまして行け」という言葉からは、賢治の燃えるような行動的エネルギーも感じます。
賢治は幼少期から、人が苦しんでいる様子を見ると、放っておけずすぐに行動に移す子どもだったということです。例えば小学校の3年頃、悪戯をした子が罰として水のいっぱい入った茶碗を両手に持たされ廊下に立たされているのを見て、「ひでがべ、ひでがべ」と言ってその茶碗の水をごくごく飲んでしまったという逸話もあります(関登久也『宮沢賢治物語』)。
思えば賢治の父の政次郎氏も、家業を飛躍的に発展させただけでなく、仏教講習会の開催や、町会議員、民生委員、小作調停委員、家事調停委員、金銭債務調停委員、借地借家調停委員、育英会理事など地域の多数の役職を務めて公共福祉活動に貢献しました。また、弟の清六氏が昭和三陸大津波の直後に被災地を見舞ったことも、すでに触れたとおりです。行動・実践を重んずる賢治の態度は、こういった精力的な父や家庭の影響によるところも大きかったでしょう。
また盛岡高等農林学校で、当時最新の自然科学を学び、科学が持つ現実変革の力を体験し自ら身につけたことも、行動主義的傾向を促進したかもしれません。
そして彼は農学校教師になってからも、「実践」を重んじる教育を行いました。教科書はあまり使わず、理屈よりも現実への応用を旨として、「これは実際問題ですよ、実際問題です!」というのが、教室での彼の口癖だったということです(『証言 宮澤賢治先生』農文協)。
生徒には、学校で学んだ農業の知識や技術を実地に生かさせるために、卒業すれば「百姓になる」ことを勧めましたが、現実には熱心に勉強する生徒ほど、さらに上級の学校に進学することを希望しました。結果として、賢治の宿願であった農民の生活の改善は、農学校教師という仕事を通じてはなかなか達成困難に思われました。
それで賢治は、一方で生徒に「百姓をやれ」と勧めながら、自分は教師という職業に就いて安閑としていることにも、自己矛盾を感じるようになります。おそらくこういう様々な思いが交錯した結果、賢治は教師を辞めて、自ら「一人の百姓になる」という行動に踏み出すことになります。しかし無理がたたって結核を悪化させた賢治は、いったん死を覚悟するほどの病状にも陥り、数年間を病床で過ごすことになりました。
けれども、賢治はまだそれくらいでは諦めません。何とか病状が回復すると、今度は石灰工場の嘱託技師となったのです。ここで賢治に嘱託されていた役割は、土壌学や肥料学の観点から専門的な助言をすることが中心だったのに、蓋を開けると彼は連日のように岩手や周辺各県をセールスマンのように奔走して、何とかして石灰肥料を東北地方に普及させようと、また無理を重ねてしまいます。その結果、再び結核の再燃を招くことになってしまいました。
このように、賢治は飽くなき実践と行動の人でした。法華経に傾倒するや、冬の夜中に大声でお題目を唱え太鼓を叩きながら花巻の町を歩いて家族や近所の人を唖然とさせたり、父を改宗させるために突然家出をして東京へ行き、「下足番でもするつもりで」日蓮主義の国柱会に押しかけたり、こうと決めたら実行せずにはいられないところがあります。
こういった傾向は、賢治が法華経を信仰するようになってから、特に顕著になってきたようです。それまで信じていた浄土系の仏教が、他力によって「あの世」での極楽往生を目ざすのと対照的に、法華系の宗派では「この世」を常寂光土とすべく自力による菩薩行の崇高性を説くこと、また日蓮その人も、鎌倉幕府に直言したのをはじめ何度弾圧されても主張を曲げず精力的に布教をした「行動の人」だったことなど、宗教的な背景も賢治に一定の影響を与えていたと思われます。
さて、以上のような賢治の生き方は、「積極行動主義(activism)」とも呼べるものでしょう。勉強もしますが、議論したり考えたりするよりも、とにかく思い切って実際の行動に移してみるのです。
ただ、そのような積極行動主義には、どうしても挫折もつきまといます。自分の知識や精魂を尽くして、農業生産を上げようとしても、自然はそう簡単に思い通りにはなりません。「〔もうはたらくな〕」という作品は、献身的な行動に明け暮れながらも、そのような努力が水の泡と消えようとする時、彼でさえも無力感や虚無感にさいなまれることがあったことを、率直に示してくれています。
積極行動主義は、賢治という人間や生涯を理解する上では、重要な一つの側面であると思います。しかしそれは常に、厳しい現実との相克につきまとわれていたのです。
4.水難 ~「共苦」ということ~
さて次に取り上げるのは、川や海で溺れる「水難」です。
実は賢治には、子どもの水難事故に関して小学生時代の印象的な体験がありました。
1904年(明治37年・尋常小学校2年)8月1日(月) 川口小生徒沢田英馬・英五郎・高橋弥吉・沢田藤一郎の4名が豊沢川下流を徒歩渡り中、水勢のため流され、英馬と沢田藤一郎(4年生)は魚釣りの人に救われたが、2年生の英五郎・弥吉は行方不明となり、夜になっても探索がつづき、その舟の灯がぺかぺか光るのを豊沢橋より見つめる。溺死者は翌日発見。強い印象として残る。(『新校本宮澤賢治全集』第十六巻(下)年譜篇より)
真っ暗な川面の上で、行方不明の子どもを探す舟の灯が「ぺかぺか」と光る様子は、「銀河鉄道の夜」の最後の場面を彷彿とさせます。子どもの頃に見たこの情景は、賢治の心にそれほど強く焼き付いていたのでしょう。
「アザリア」の4人 一方、くしくも賢治の死ぬ直前にも、「銀河鉄道の夜」の最後と似た出来事が起こります。
それは、盛岡高等農林学校時代に賢治にとって大切な親友だった河本義行(右写真で前列右)が、鳥取県の倉吉農学校の教諭として水泳の監視中に、同僚が溺れるのを見て海に飛び込み、同僚を救けた後に自分は亡くなってしまったのです。1933年(昭和8年)7月18日のことでした(上写真は『新校本宮澤賢治全集』第16巻(下)p.293より)。
河本義行は、盛岡高等農林学校卒業後、郷里で農学校教師をするかたわら、積極的に文芸活動にも取り組んでいましたし、賢治と違ってスポーツも万能で、水泳も上手だったとのことです。いったいなぜ水難で命を落とすことになってしまったのか、かえすがえすも悔やまれます。
ここで一つの問題は、賢治は自分が亡くなる前に、はたしてこの親友の死を知っていたのかということです。もしも知っていたら、それは「銀河鉄道の夜」のラストシーンにおけるカンパネルラの死と、否応なく重なりあったでしょう。これは、現存する資料からはまだ答えの出ていない謎ですが、遠く離れた岩手と鳥取のことであり、河本の遺族が賢治に知らせた形跡も残っていないことから、賢治「カンパネルラの館」は河本の死を知らなかったのではないかという説が多いようです。
しかし、鳥取県に住んでおられる河本義行の遺族の方は、その遺品を展示する建物(右写真)に「カンパネルラの館」という名前を付けて、賢治との縁を偲ぶよすがとしておられます。
一方、もしも賢治が親友の水死を知らずに「銀河鉄道の夜」を書いたのなら、その符合からは、なおさら不思議な感興が呼び起こされます。
さて、次に取り上げる作品は、実際に水難事故が起こっているわけではありませんが、それが想像上の一つの主題となっているもので、賢治が農学校教師時代に書いた「イギリス海岸」という短篇です。賢治はこの頃、生徒たちと過ごす楽しい日々を題材にしたノンフィクションに近い作品をいくつか残していますが、これもその一つで、教師賢治としての明るく輝かしい、かけがえのない思い出が詰まっています。
「イギリス海岸」というのは、皆さんもご存じのように「海岸」と言っても海ではなくて、北上川のとある岸辺のことです。賢治は、その場所の地質がイギリスのドーバー海峡のものと似ているというので、面白がって「イギリス海岸」という愛称を付けたもので、ここは現在でも花巻の観光地の一つになっていますね。
夏になると賢治は、そのイギリス海岸に農学校の生徒たちを引率してやって来て、水泳をさせたのです。内陸部で海のないイギリス海岸花巻でも、他の学校では夏になると「臨海学校」が催されて海で泳ぐことができたのですが、貧しい農学校にはそんなイベントはありませんでした。そこで賢治は、北上川の岸辺にことさら「海岸」と名前を付けて、日頃は海に親しむことの少ない生徒たちへの贈り物としたわけです(上写真は現在のイギリス海岸)。
その短篇「イギリス海岸」の中ほどには、水難事故予防のために町から救助係として雇われている男性(=「その人」)が出てきます。一人称の「私」が、賢治です。
「お暑うござんす。」私が挨拶しましたらその人は少しきまり悪さうに笑って、「なあに、おうちの生徒さんぐらゐ大きな方ならあぶないこともないのですが一寸来て見た所です。」と云ふのでした。なるほど私たちの中でたしかに泳げるものはほんたうに少かったのです。もちろん何かの張合で誰かが溺れさうになったとき間違ひなくそれを救へるといふ位のものは一人もありませんでした。
この人と会話した賢治は、もしも生徒が溺れた時のことを考えます。
実は私はその日までもし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一諸に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一諸について行ってやらうと思ってゐただけでした。全く私たちにはそのイギリス海岸の夏の一刻がそんなにまで楽しかったのです。
教師として監視していると言っても、実は賢治は泳げなかったので、もし目の前で溺れる生徒が出ても、救助することはできなかったのです。
そして、そのような場合に賢治が覚悟していたことが、いかにも極端で、また賢治らしいことですが、「もし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一諸に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一諸について行ってやらう」というのです。
すぐに飛び込むところは「積極行動主義」ですが、その行動は現実的な意味で「役に立つ」ものではありません。彼は生徒を救けるかわりに、一緒に溺れて死んでやろうと決意しているのです。
おそらく現代の学校の生徒の保護者だったら、先生のその気持ちには敬服するけれども、それでは万一の場合うちの子はどうなってしまうんですか、誰でもよいから救助ができる人を配置しておいて下さい、と言うところでしょう。
賢治のこのような気持ちは、実際的な人助けにはなりませんが、子どもの頃に水の入った重い茶碗を持たされている同級生を見ると、思わずその水を飲んでやったように、苦しんでいる人を見ると、とにかく理屈以前にその苦しみを分かち合おうとせずにはいられないという、やむにやまれない彼の衝迫を表わしています。
それは、人の痛み・苦しみへの「共感」、「共苦」、そしてこの場合には、先ほどの山折さんの言葉では「共死」というところまで至る、思いであり行いです。自分の力ではどうしようもないことに直面した時、それを「解決」することはできなくても、「共感」し「共苦」することは、その覚悟さえあればできるのです。
それは、現実には役立っているように見えなくても、何かの「意味」があるのではないか? 賢治はここで、人間の「力」(=「自力」)を超越したところに、次の何かを見出そうとしているのではないでしょうか。
私がここでちょっと連想するのは、賢治とはまったく異なっワーグナー「パルジファル」(カラヤン指揮,ベルリンフィル)た文化状況におけることではありますが、19世紀ドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーの最後の楽劇「パルジファル」のモチーフです(右はドイツ・グラモフォンPOCG3729『パルジファル』)。
この楽劇には、過去のあやまちのために永遠の苦しみを背負わされている王と、崩壊に瀕している聖騎士団が登場します。そして「予言」によれば、王や騎士団を苦難から救済できるのは、「共苦によりて知にいたる、けがれなき愚者」=(“durch Mitleid wissend, der Reine Tor”)だと言うのです。
第一幕に登場した粗野な若者パルジファルが、結局ここで予言されていた救済者だったのですが、ここで興味深いのは、救済の力を持っているのは決して始めから知力や武力のある者ではなく、人から見れば「愚か者」であって、しかし「共に苦しむこと(Mitleid)」を通して知に至る者であるというところです。ある人が、今ここで役に立つ力・問題解決能力を持っているかということではなくて、何の役にも立たないような愚かな様子であっても、悩める人と「共苦する」ことに、より深い力があるというのです。
ここには、キリスト教的というのともちょっと違った宗教的ニュアンスがあり、晩年のワーグナーが仏教にも関心を抱いていたと言われることとも、関係があるのかもしれません。そしてこの「純粋な愚者」には、賢治が後に「デクノボー」と名づける人間像と共通する要素があるところが、私には非常に興味深く感じられます。
ともあれ、賢治は積極行動主義とその限界の相克に苦しむところではとどまらず、そこからさらに、「共苦」という新たな可能性の道があることを提示してくれるのです。そしてその方向に進むことは、見かけ上の能力などを超越し、一見すると「愚者」と言われるような「デクノボー」的存在に近づいていくことになるようなのです。
5.旱害・冷害 ~行動し共苦するデクノボー~
ここまでいくつか賢治が関わった災害を見てきましたが、最後に取り上げるのは、旱害と冷害です。この二つの災害は、彼の時代の東北地方の農業にとって最も深刻な問題であり、江戸時代には厖大な餓死者が出るような飢饉を招いたり、近代以降も農家の生活を深刻に脅かす危機を引き起こしました。
当然、農業に関わりつづけた賢治は常に意識していたことで、これらは作品にも様々な形で、何度も登場します。
さてその旱害と冷害に関して、ここでまず最初に見てみるのは、賢治の晩年の童話「グスコーブドリの伝記」です(下挿絵は文教書院『児童文学』初出時の棟方志功画-『新校本宮澤賢治全集』第12巻校異篇p.117より)。
これは、冷害によって両親を失った少年グスコーブドリが、苦学の末に火山技師になり、科学技術の応用によってイーハトーブの農民の暮らしの改善に尽くす物語です。そしてその話の重要な部分として、旱害と冷害に対するブドリたちの挑戦が描かれます。賢治自身も、科学を勉強して農業の改革のための実践を行うことに「イーハトーブ火山局」(棟方志功:画)生涯をかけましたから、これは賢治が自ら夢見ていた、一つの「あるべき人生」の姿だったのかもしれません。
グスコーブドリは技師になって2年後に、噴火が切迫している火山の中腹にボーリングを行い、町ではなく海の方へ爆発させることによって多くの人を被害から救います。そしてさらに6年後には、雲の上から飛行船で硝酸アンモニウムの粉末を散布することにより、肥料とともに雨を降らせることに成功します。
お話の中でブドリたちが貼り出していた、
「旱魃の際には、とにかく作物の枯れないぐらゐの雨は降らせることができますから、いままで水が来なくなつて作付しなかつた沼ばたけも、今年は心配せずに植ゑ付けてください。」
というポスターのとおり、イーハトーブではついに旱害を克服することができたのです。
そしてブドリが27歳の年、「あの恐ろしい寒い気候」が、また襲ってくる徴候が現れました。5月にも10日みぞれが降り、6月になってもオリザの苗は黄いろく樹は芽を出しませんでした。「このままで過ぎるなら、森にも野原にも、ちやうどあの年のブドリの家族のやうになる人がたくさんできるのです。」
火山を人工爆発させれば、炭酸ガスによる温暖化で、冷害は避けられるという見通しがありましたが、それをすると最後の一人がどうしても火山島から逃げられないこともわかりました。そこでブドリは、クーボー大博士が止めるのも振り切り、自らを犠牲にして火山を噴火させ、帰らぬ人となったのです。
そしてちやうど、このお話のはじまりのやうになる筈の、たくさんのブドリのお父さんやお母さんは、たくさんのブドリやネリといつしよに、その冬を暖いたべものと、明るい薪で楽しく暮すことができたのでした。…
このように、献身によって人々の幸せがもたらされるという帰結は、賢治自身が目標としたことでもあったでしょう。しかし、「科学技術によって自然を人間に都合がよいように変える」という試みには、人の命という犠牲が伴いました。それはまるで、手段こそ違えど、古代の人々が災厄の回避を祈る時には、神に生贄を捧げたことも連想させます。
それにこのような火山の人工爆発は、賢治の時代からすれば所詮SF的なお話であり、当時でもそして現代でも、実際にやれることではありませんでした。旱害と冷害は、科学の力でも非常に解決の困難な課題だったのです。
「グスコーブドリの伝記」は、賢治的な面白いアイディアが満載ですし、物語としても感動的で人気のある作品ではありますが、これはハッピー・エンドなのか悲劇なのか意見は分かれ、また誰かの犠牲のおかげでもたらされる幸せを人々は本当に喜んでもよいのかなど、議論を呼ぶ作品です。
以上、たくさんの作品を見てきましたが、ここで先ほど菅原さんが朗読して下さった作品を、もう一つご紹介させていただきます。皆さんもご存じの、「〔雨ニモマケズ〕」です。
ここでまずちょっと皆さんに考えてみていただきたい問題があるのですが、全部で30行あるこのテキストを、意味の上で二つの部分に分けるとしたら、どこで区切ることができるでしょうか。
これはいろいろな視点・考え方があり、どれが正しくてどれが間違いと言えるような問題ではありませんが、まあ最も一般的なのは、14行目の「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ…」から後を「後半」として二つに分けるやり方でしょう。花巻の羅須地人協会跡に建てられている最も古く有名な詩碑にも、ここから後の部分が刻まれています。
しかし今日は、ちょっと違う分け方をしてみます。それは、下の赤い点線のところで、二つに分けてみようというものです。
「雨ニモマケズ」の内容
どうですか。これはまた、何とも中途半端なところで区切ったと思われるでしょうね。確かに形式的にも分かれていない変な箇所なんですが、あえて今日ここに線を引いてみた理由は、ここより前で描かれているのは、「立派な」「役に立つ」人間像なのですが、それに対してここから後では、どこかちょっとズレたような、役立たずのような人物になってしまうのです。
「丈夫なカラダ」で、「慾ハナク、決シテ瞋ラズ」とか、「アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニ、ヨクミキキシワカリソシテワスレズ」なんて、よくできた健康優良児の優等生みたいですね。そして、「東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ、西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ」というのも、道徳の教科書に出てきそうな、献身的で立派な人です。
それでは、次の「南ニ死ニサウナ人アレバ、行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ」というのはどうでしょうか。
これは現代風に言えば、実は死に臨む人の「ターミナルケア」をしているわけですね。それなら、大変有意義なことをやっているとも言えるわけですが、もし皆さんの家に重い病気にかかっているご家族がいたとして、ある日そこへ急に男がやってきて、「死ぬことは恐くないですよ」などと説き聞かせ始めたら、家の人はどう思うでしょう。「こっちは回復を信じて懸命に看病しているのに、あんたは何を縁起の悪いことを言いに来たんだ」と怒って、追い返したくなるのではないでしょうか。
病人の治療をしたり、身のまわりの世話をしたりしてくれるのならとても有り難いでしょうが、「死を恐がらなくてもいい」と説教するだけでは、なかなか一般の人にその意図は理解してもらいにくいでしょう。だから普通の人は、とうてい回復しそうにない病人を見舞った時にも、「きっとよくなりますよ」などと気休めを言ってしまうのです。気休めを言えない人は、「変な人」「愚か者」と思われかねません。
本当は人間にとって、死に臨む時期をいかに生きるかということは、とても大切なことです。しかし、「死を恐がらなくてもいい」という言葉は、元気に生きている者が瀕死の人に向かって、自分の健康を棚に上げてそう簡単に言えるものではありません。そこで中村稔氏はこの「コハガラナクテモイヽトイヒ」について、「ここで作者は仏の言葉を語っているのです」と述べています。
それから次の、「北ニケンクヮヤソショウガアレバ、ツマラナイカラヤメロトイヒ」はどうでしょう。喧嘩を仲裁するのはまあ良いことでしょうが、「訴訟」を「つまらないからやめろ」と言うのは、どうでしょうか。
詩人であり弁護士でもある中村稔氏は、ここに表明されたような思想が若い頃は嫌いであった、と述べています(思潮社『宮沢賢治ふたたび』)。「みんなが訴訟や喧嘩をつまらないからといって止めてしまったらどうなるか、結局のところ、強欲な人々、我執を主張する人々の私利私欲がまかりとおるのを許すことになるだろう」というのが中村氏の言い分で、これは社会的な観点からは当然の理屈です。やはりここでも、「訴訟をやめさせようとする」人物というのは、現実を知らない愚か者のように見えてしまいます。
しかし中村氏は、「ここでも彼は仏の言葉を語っているのだ」と解釈します。
「どんぐりと山猫」 これに関連して私が連想するのは、「どんぐりと山猫」という童話です(右挿絵は光原社『注文の多い料理店』-『新校本宮澤賢治全集』第12巻校異篇p.18より)。
このお話では、たくさんのドングリたちが「誰がいちばん偉いか」という問題で紛糾して収拾がつかなくなったので、山猫が「裁判」を行います。これは、当事者たちにとっては切実な問題のようですが、ドングリの間での優劣なんて、人間や山猫から見ればそれこそ「どんぐりの背比べ」にしかすぎません。
そのような構図を、賢治は次のように描いています。
山ねこは、もういつか、黒い長い繻子の服を着て、勿体らしく、どんぐりどもの前にすわつてゐました。まるで奈良のだいぶつさまにさんけいするみんなの絵のやうだと一郎はおもひました。
つまりここで賢治は、人間や山猫の立場からはドングリの争いなど馬鹿馬鹿しく見えるのと同じように、大仏さまから人間同士のもめ事を見れば、やはり「ツマラナイ」ものであるということを、暗示したかったのでしょう。中村氏が指摘するように、「北ニケンクヮヤソショウガアレバ、ツマラナイカラヤメロトイヒ」という態度は、同じ人間としてというよりも、「仏が人間界を見下ろしている」ような視線に由来しているのです。
しかし現実の社会では、こういった仏の目線でものを言ってもなかなか理解されず、若い頃の中村稔氏のように反発を感じる人も多いでしょう。現実の社会から見ると、この言葉も理解されにくいと言わざるをえません。
さて、この後に、有名な「ヒデリノトキハナミダヲナガシ、サムサノナツハオロオロアルキ」が続きます。科学の進歩を前提とした「グスコーブドリの伝記」においては、人間はヒデリ(旱害)もサムサノナツ(冷害)も克服しますが、賢治の時代の現実では、これらはまだ逃れようのない災厄でした。
このような状況において、賢治が「ナリタイ」と思った人間は、「ナミダヲナガシ」、「オロオロアルキ」という行動をとる者でした。これらは、災害に見舞われた農民に対しては、実際上は何の役に立つものでもありません。しかしここには、人々の痛みを我がこととして受けとめる、「共感」と「共苦」があります。
賢治は、少しでも旱害や冷害に強い稲の品種を普及させようと努力し、各地を巡回する肥料相談においてもそのような自然条件の被害を最小限にしようと肥料配合を考えました。このような積極行動主義と科学的な対処によって、彼は花巻地方の農業に、一定の貢献を果たしたと言えるでしょう。
しかし、賢治がいくら頑張っても、あるいは仮にもっと多くの人の英知を結集したとしても、当時はまだ農業が天災の打撃を受けるのを食い止めることはできませんでした。豪雨の被害を受けた際の賢治の様子については、先に「〔もうはたらくな〕」で垣間見ましたが、その際の賢治は、無力感にさいなまれながらも、「火のついたやうにはげまして行け」と自らに命じていました。
これに対して、晩年の「雨ニモマケズ」では、「ナミダヲナガシ」「オロオロアルキ」という静かな共苦の姿を描いたのです。
そして、次の行に出てくる「ミンナニデクノボートヨバレ」という事態は、結局上に見たような行動が招いたものだったわけです。重病の人に「死ぬのは怖くない」と言い、喧嘩や訴訟を「つまらないから」と言って止めようとし、旱害や冷害の時には為すすべもなく「ナミダヲナガシ」「オロオロアルキ」……。
このような行動および態度は、その「実効性」という点では無価値に見えるので、「ミンナ」からは「役立たずの人間」と思われてしまうというわけです。
ということで、上の赤い点線よりも後の部分で描かれている行動は、いずれも一見すると「社会的に役に立っている」とは思えないような事柄なのです。
前半部分では、「雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ……」に典型的に表われているように、いわば「強い」人間像が描かれます。「東ニ…」「西ニ…」と東奔西走して人助けをする様子も、まるで修身の教科書のようで、この辺までのイメージのために「お説教臭くて押しつけがましい」と感じてしまい、この文章が嫌いになる人もけっこうあります。
しかし、赤点線から後の部分に描かれているのは、何も目に見える形のことは為しえない、いわば「弱い」人間像なのです。しかしこの「弱さ」は、賢治に責任があるわけではありません。人が死ぬ運命や、社会から対立を根絶できないことや、旱害や冷害は、賢治であろうと誰であろうといくら頑張ってもどうしようもない、人間に普遍的な「弱さ」です。
その無力さを自覚しつつ、しかし単なる諦めやニヒリズムとは異なった行動の可能性が、後半では描かれます。ここで提示されているのは、まるで役立たずの行為のように見えるにもかかわらず、本当は前半部よりもっと奥の深い事柄です。ちょうど「虔十公園林」という童話に出てくる虔十と同じように、その場では愚かなことと思われながら、実は尊い意味があるかもしれないことです。
このように、「雨ニモマケズ」のテキストにおいては、前半と後半の描く人間像がいつの間にか変化しており、その変化が始まる場所も、「東西南北」という修辞的構成の途中なので、色合いが変わったことになかなか気がつきにくくなっています。このような賢治の叙述方法は、やはり巧みとしか言いようがないと思います。
繰り返しになりますが、この「雨ニモマケズ」で描かれている行動や態度を、順に整理し直すと、次のようになります。上の引用テキストに青い文字で書いた区分をご参照下さい。
最初の方では、まず心身の健康とともに、「ヨクミキキシワカリ、ソシテワスレズ」という経験や知識の重要性が挙げられています。賢治が農学や土壌学を高等教育機関で学び、さらに実地に広範囲の土性調査を行って経験を積んだことは、肥料設計の活動のために重要な基盤となりました。
次に、「東ニ…」「西ニ…」「南ニ…」「北ニ…」とあらゆる方面に向かって、「行ッテ」「行ッテ」「行ッテ」という言葉を反復しつつ表現されているのは、先の言葉で云えば「積極行動主義」です。賢治は花巻周辺の農村を、文字どおり東西南北と巡っては肥料相談を行いました。「野の師父」という詩には、「二千の施肥の設計を終へ……」とありますが、このように非常に精力的に実践活動を行ったわけです。
しかし、十分な知識と経験をもとに積極的な活動を行ったとしても、人間の力には限界があります。賢治もその巨大な壁にぶつかり、無力感にさいなまれることもありました。それは、彼がもともと抱いていた自然観・人間観、すなわち人間は自然の中に他の生き物と対等に包み込まれているちっぽけな存在にすぎないというとらえ方を、あらためて再確認させることだったとも言えるでしょう。
ところで、命を懸けるほど頑張った挙げ句、その努力が無駄だとわかった時、人は「どうせ何をやっても無駄だ」というニヒリズムに陥りそうにもなるでしょう。先のことまで見透せてしまう力のある人ほど、そういう諦めを抱きやすいかもしれません。「〔もうはたらくな〕」にも、賢治のそんな一面がのぞいていました。
それでも、賢治はニヒリズムには陥りませんでした。人間の力が及ばないことに直面した時に彼がとった行動、それは「共感」「共苦」ということでした。どんな状況でも、共に苦しみ、痛みを分かち合うことはできるのです。
そしてワーグナーの楽劇のごとく、そのような真摯な関わりには、人を救済する力さえあるかもしれません。
「災害と賢治」-「雨ニモマケズ」の人間像
6.人間に変えられること/変えられないこと
以上、「地震・津波」、「雪山遭難」、「豪雨災害」、「水難」、「旱害・冷害」という災害との関わりを切り口として、賢治の考えや行動を振り返ってみました。晩年の「〔雨ニモマケズ〕」の中に、災害を通して見た賢治の様々な側面が凝縮して織り込まれているのは、興味深いことです。
これまでは、賢治のスタンスを災害の種類ごとに、あるいは「雨ニモマケズ」の構成に沿って通覧してみましたが、これを別の角度から言い換えると次のようになります。
自然の一部である人間は、様々な形で自然に働きかけつつ生きていますが、人間の力によって「変えられること」と、いくら頑張っても「変えられないこと」があります。その境界線は、人によっても、時代によっても変化するものでしょうが、誰にとってもいつの時代も、どこかに厳然とその区切りが存在するのは事実です。
人間の力は、ある時はちっぽけに見え、大いなる自然の前では、小ざかしい努力をしたって徒労に思えます。これを突き詰めるとニヒリズムになりますが、賢治はそのような態度はとりません。たとえ限界があるとしても、「できること」に関しては最大限の努力をしなければならないと考えました。彼が自然科学を学んでそれを実践に生かそうと努め、生徒や農家の青年たちに教え伝えようとしたのも、「変えられるものは変える」ということを実行するためでした。
農学校を辞める少し前に生徒に語りかける形で書いた詩「告別」においては、
なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ
と言って、刻苦勉励を説き聞かせています。
しかし逆に、「努力さえすれば何でもできる」とか「成せば成る」といったような、根拠のない精神論も、賢治は採りませんでした。現実には無理なことまで「やればできる」と思い込むことは、おのれの力に対する過信であり、賢治はこれを「慢」と規定して、やはり自らに強く戒めました。ある時期以降の賢治は、自分の若い頃の考えに対して、自己批判的に何度も反省を示しています。
私はあの無謀な「春と修羅」に於て、序文の考を主張し、歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画し、それを基骨としたさまざまの生活を発表して、誰かに見てもらひたいと、愚かにも考へたのです。あの篇々がいゝも悪いもあったものでないのです。(森佐一あて書簡200)
すなわち、自らの力の限界を知り、それを受容することの重要性も、彼は深く認識していました。そして、上記で様々な災害や人間の死に関して見たように、賢治は自らの力を越えた災厄に対しては、悩める人々のもとに飛び込み、「共に苦しむ」ということを実行するのです。
このようなスタンスは、賢治が独自の実践や仏教から身につけてきたものと言えるでしょうが、くしくも同じような姿勢は、キリスト教にもあります。
下記は、キリスト教の神学者ラインホルト・ニーバーが、1930年代か1940年代初頭に書いたとされる祈りです。
「ニーバーの祈り」
これはキリスト教の立場で、神に「お与え下さい」と祈る形になっていますが、やはり賢治が思い巡らしたように、人間に「変えられるもの」と「変えられないもの」にどう対処すべきかという課題を扱っています。この祈りも、賢治の晩年とほぼ重なる時期に作られており、遠く洋の東西でちょうど同じ頃に現れているのが、興味深いところです。
19世紀から20世紀にかけては、科学技術の急速な進歩によって、これまで人間には不可能だったことが、どんどん可能とされていきました。何が「変えられるもの」で、何が「変えられないもの」かという境界線が、短期間のうちに大きく変化する中で、これはちょうどこの時代から人類に突き付けられた、普遍的な問題だったということなのでしょう。
7.賢治ならどうしたか
ということで、一通り作品や伝記的事実をもとにした検討を行ってみました。最後にこれをもとに、もしも賢治が現代の日本にいて、この災害に立ち会っていたらどんな行動をとっていたかという、冒頭の課題に戻ります。
しかし私の結論は、賢治の生涯や作品を巡る長い行程の後、また最初にご紹介したようなツイッターからのご意見に帰るものです。
賢治は豪雨の中でも、「一人づつぶっつかって、火のついたやうにはげまして行け」と自らに命じた、激しい行動主義の人でした。大災害が起こって多くの人が苦難に直面していると知ると、まず何をおいても現場に飛び込んでいっただろうと、私は思います。
当時よりもボランティアが普及している現代でも、災害初期には一般のボランティアは闇雲に被災地に押しかけないようにということが言われたりしますが、いったんこうと決めた賢治は、そんなことに構うタイプではないでしょう。ツイッターで、「自ら原発や瓦礫の間に分け入ろうとしてレスキュー隊や自衛隊と揉めているか…」という推測を寄せていただいた方がありましたが、そんな姿も目に浮かんでしまいます。
さらに被災地には、多くの人の死や、どうしようもない喪失体験も、数え切れないほどあります。賢治としても為すすべのない事象に直面した時には、彼も「ナミダヲナガシ」「オロオロアルキ」ということしかできないでしょう。
しかし賢治は、苦しんでいる人への共感能力が人一倍高く、皆とともに「共苦する」人でした。もしも目の前で津波にさらわれる人があれば、「飛び込んで行って一諸に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一諸について行ってやらう」とまでしかねないところのある人ですが、そこまではしなかったとしても、肉親や家や田畑や財産を失った人々の気持ちを、避難所において全身で受けとめようとしつづけたでしょう。
被災初期には、賢治はそんなことをしていたのではないかと、私は想像します。
ただ、こういったことは、宮沢賢治のことを知っている方々ならば、多かれ少なかれ考えるような事柄です。何もこんな大そうな考察などする必要もなかったのではないかと言われれば、そのとおりです。「災害」という切り口から覗いてみても、宮沢賢治はやはり宮沢賢治だった、という感じもします。
しかし結論はともかく、3.11後という状況において、東北に生まれ育った宮沢賢治の生涯や作品をあらためて辿ってみることにより、彼が行動に至るまでのプロセスにおいて感じていたことや行っていたことの中に、少しでもご参考になることがあればと思い、本日のお話とさせていただきました。
まとまらない内容でしたが、今回の災害について考えていただく一助にでもなれば、幸いです。
本当は、あとさらに「原子力」というものについて、賢治的な観点から何かお話できればと思ったのですが、今日は時間もありませんので、今後の課題としたいと思います。
ところで、災害後の初期段階が終わって復興が課題となる時期がこれからやってきますが、もしも賢治が生きていたら、本来はそこからが彼の真の出番になるのでしょう。
津波によって海水に浸されてしまった田畑の土壌をどうやって回復させるか、作付けにはどういう品種を選択すべきか、どんな肥料配分を用いるべきかという問題は、彼のもともとの専門分野です。
実は、津波による塩害対策として、土壌の塩分濃度が高い場合には、消石灰、炭酸カルシウムなどを100kg/10a程度散布して、代掻きした後に排水するという方法が、推奨されているということです(JA全農「津波による塩害対策と水田の土壌管理について」参照)。
さらに、放射性セシウムで汚染された土壌への対策としても、とくに酸性土壌の場合には石灰の散布によって、作物へのセシウム移行を低減させる効果があることが確認されており(日本土壌肥料学会「原発事故関連情報(2):セシウム(Cs)の土壌でのふるまいと農作物への移行」)、チェルノブイリ事故後、旧ソ連の農地では広く実施されたということです(村主進「チェルノブイリ事故における環境対応策とその修復」)。
晩年の賢治が、その改良と普及に文字どおり命を懸けた石灰肥料が、今度また東北地方の太平洋岸、とくに福島県において土壌の回復に役立つとすれば、またここにも、このたびの災害と賢治との浅からぬ因縁を感じてしまうではありませんか。
本記事は、「第1回イーハトーブ・プロジェクトin京都」においてお話した内容に加筆したものです。