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現代俳句を読む

2024.08.14 12:25

https://hourai139.seesaa.net/article/503632137.html 【現代俳句を読む・安藤由人】より

「現代俳句を読む・安藤由人」 市堀玉宗

 嘗てブログ界に「安藤由人」なる人物がいた。十年以上も前の話。故人となられた氏のことを今でも時々思い出す。その経歴を私は殆ど知らなかった。今も謎のままである。以前に句集を出しておられる様でもある。ブログ上でその俳句と詩に出会った。何度かコメントのやり取りもしたが、その後数年して亡くなったことを知った。彼は詩人でもあり、俳句一句と詩一篇を毎日発表していた。その詩嚢と素養の深さに驚嘆した。そして、その人間通であることにも。己の良心を声高に主張せず酒とともに飲み乾す作者の面影だけが残った。魅力的で、忘れ得ない彼の詩人の良心とは如何なるものだったのか。

臥待ちてびょうと出るその月の赤きこと   よし    良心は緑酒に浮かべ干すものさ

ちさき身を伸ばして鶸の歌唄う            山澄みて人は恋しき里暮るる

ゆらゆらと酔うてチロリンと二人かな         色鳥来人の願いの様々に

蟠る思いのままで菜種蒔く              月光の皆ひといろに眠らせて

子規の忌に参じてそろか朱衣             見えぬ目で水面を叩く鯔の群

秋海棠節目節目の哀しみや              幾重にも堪忍してや筋子食う

 定型という魂の器に掬わんとする情深きもしたたかなる眼差しがある。一句に潤いがある。韻文という魂の音叉に共鳴する遠く微かでありながら確かなる心音。理屈ではない。それが脳髄に心地好い。

 俳句とはなんであるか?詩とは何であるか?

畢竟それは「人柄」に尽きるのではないだろうか。氏の作品には心に響くものがある。胸に突き刺さるものがある。腸に沁みるものがある。いのち懐かしきものがある。肩の荷を軽くしてくれるものがある。それは恐らく、「生きてこそ」という氏の境涯の賜である「良心」が作品の底流に存在するからである。

秋思ただ一筋に飛ぶところあり   よし     秋嶺に黙してあれば妥協せず

侘しきは身に吹く風よ螻蛄の才          山裾のその田その田の落し水

今日の日を選びてひとつ栗割るる        かなかなと生きて来た日も暮れむとす

高みには色なき風の吹くばかり         赤野菜籠に溢れる解夏の僧

何がなし今日は寂しき添水鳴る

 自在である。今ここの、生を活写して読むものの胸板を叩く。何故だろう。表現とは自己を主張することではない。己空しく他者や世界を鏡とすることだ。そうでなければ自己の真相を知ることはできない。感性を尽くして聴き入り、感性を尽くして見極め、感性を尽くして考えなければならない。己をむなしくするとはそういうことだ。理屈や観念に蟠っていては命を唄うことはできない。それが詩人たるゆえんであろう。滋味深き素の心。俳檀というぬるま湯ではなく、都会の喧噪、雑踏、清濁の巷間に嘯く吟遊詩人。信頼に足る俳諧師がいた。

「求めた事のそう多く無い秋も更け  よし」

 詩人も又宙に浮いて生きている訳ではない。霞を食べて露命を繋いでいる筈もない。市井の夕餉に膝を揃えては、宇宙の果ての小さな窓から詩の言葉を紡ぎだす。運命で決まっているのは、「生まれたものは、必ず死ぬ」ということだけだ。どのように生きるか、どのように死ぬか、どの道を選ぶか、すべて人それぞれの志し、生きる姿勢次第である。私は私以外のものとして解放されながらも私以外ではあり得ないものとして閉ざされている、捻じれたような一つの宇宙である。生きてある現実の己の弱さを知った者は幸いである。大いなるものに俯く悪人より、足下を省みない善人が余程厄介な存在である。この世はなんと善人の多いことであるか。

 誰も私の人生を生きてはくれないということは、肉親と雖も、人の人生を生きてやることもできないということだ。巡り合いとは星屑と星屑が擦れ違うようなもの。偶にはぶつかることもあろうか。それもこれも、すべてが「縁」としか言い現わせない無為なるものである。私の作為でも、人の作為でもない。哀愁、喜悦、悔恨、絶望、希望、愛憎、懺悔。なんという人間らしさ。人間だけが、己が命をあるがままに受け入れることができない。なんという神の善意であろうか。

 世界と共にある自己、自己とともにある世界。そのような世界と呼吸を合わせる、響き会う、ひとつになる、一体感、先入観のないありのままの新鮮さ、困難さ、在り難さ。俳句という定型詩において私が拘る「表現する自己」とはそのような「救われないながらも救われている自己」でありたい。俳句は人柄であると言い張る所以である。

「詩」とはことばが再生することであり、それは自己のいのち、世界が再生することに等しい。言葉には光り、或いは力のようなものがあり、詩的表現によって再生するいのちの域がある。自己が再生せずに、逝った者の鎮魂・供養などできる筈もない。

「歳月に山や川はなくなるけれど、言葉はなくなりません。」 ドナルド・キーン


https://shosetsu-maru.com/recommended/gendai-haiku 【若い詠み手による「現代俳句」のおすすめ句集、3選】より

「俳句」というものに、どこか古臭く堅苦しいイメージを持っている方もいるかもしれません。しかし、近年ブームになりつつある短歌と同じように、俳句の世界にも若く個性的な詠み手がたくさん存在します。今回はそんな「現代俳句」のおすすめの句集を3冊ご紹介します。

2010年代以降、インターネットを通じ若い世代の間でブームとなった現代短歌。TwitterやInstagramなどのSNS上でも、プロ・アマチュアを問わずさまざまな人々が、カジュアルに短歌を投稿しているのを目にすることも増えたのではないかと思います。

一方で、「現代俳句」は難しそう、どう詠めばいいかわからない……と感じている方も多いかもしれません。俳句は短歌と比べ、季語が入ることや音数が17音(5/7/5)ととても短いことからハードルが高いと思われてしまいがちですが、無季の俳句や自由律の俳句も存在し、想像以上にそのルールは自由です。また、伝統的な有季定型の形であっても、自由でのびやかな俳句を詠む俳人も多く存在します。

今回は、これから現代俳句に触れてみたいという方に向けて、2010年代以降に発表された若い俳人によるおすすめの句集を3作品ご紹介します。

『光まみれの蜂』(神野紗希)

出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4041101328/

『光まみれの蜂』は、俳人・神野紗希が2012年に発表した第1句集です。神野は高校時代、高校生を対象にした俳句コンクールである「俳句甲子園」の取材をきっかけに作句を始め、2001年に同大会の団体優勝を果たし、翌年には公募制の賞である第一回芝不器男しばふきお俳句新人賞の坪内稔典奨励賞を受賞しています。本書は、現在は若手俳人のエース的存在の神野が、学生時代から13年間にわたって詠んだ句をまとめた1冊です。

神野の俳句は、繊細な感覚に支えられたのびやかな言葉遣いが特徴的です。

起立礼着席青葉風過ぎた       カンバスの余白八月十五日

ひきだしに海を映さぬサングラス

といった10代のときに詠まれた句からは、特にそののびやかさが強く感じられます。1句目の“起立礼着席”では、号令として馴染み深い言葉の流れるようなリズムが、そのまま春の教室をスーッと通り抜ける風の描写につながることで、10代が漠然と感じている開放感や焦燥感、風が吹くだけでも何かを感じ泣きそうになってしまう傷つきやすさ──などが浮かび上がってきます。

2句目、3句目では、夏という生命力に満ち満ちた季節を背景にしながらも、“八月十五日”や“海を映さぬ”という言葉によって、ただの明るさではなくすこしトーンの暗い、陰を併せ持ったまばゆさが感じられます。

また、

すこし待ってやはりさっきの花火で最後    目を閉じてまつげの冷たさに気づく

といった、口語を効果的に用いた俳句も多く見られます。“すこし待って”の句は花火大会で最後らしき花火が打ち上げられたあと、まだ続くのかと一瞬身構える観客たちの様子を描いていますが、“やはりさっきの花火で最後”と七五調ではないダラッとしたリズムの言葉が連なることで、一瞬の沈黙のあとに弛緩する空気と、突然やってくる“最後”を巧みに再現しています。

読みやすく、生き生きとした俳句の素晴らしさに触れられる本書は、初めて現代俳句に触れる方におすすめなのはもちろん、これから自分で俳句を詠んでみたいという方にもおすすめしたい1冊です。

『火の貌かお』(篠崎央子ひさこ)

出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4781412939/

『火の貌』は、俳人・篠崎央子が2020年に発表した第1句集。本書は、篠崎が俳誌『未来図』に入会した2002年から18年にわたって詠み続けた俳句を1冊にまとめた作品です。

パンの黴かび剥ぎ一行の詩を練りぬ    握手してどくだみの香を移したる

浅蜊汁星の触れ合ふ音立てて

篠崎の句は、パンの黴を削ぐ、人と握手をする──といった、瑞々しさを感じさせる生活の実感に溢れています。同時に、そんな日常のワンシーンが“一行の詩”や“どくだみの香”へとシームレスにつながっていくような、美しい詩情もあります。あさりが味噌汁のなかでカチカチと触れ合う音を“星”の触れ合いに例える1句の情感には、思わずうっとりとさせられてしまいます。

それだけでなく、篠崎の句には、一見静かでありながら、内側に途方もない激しさを秘めているような作品も散見されます。

火の貌のにはとりの鳴く淑気かな   恋の数問はれ銀杏踏みにけり

伝票のうつすらと濡れ鱧料理      白き炎を吐きて女滝の凍てにけり

表題にもなっている“火の貌”の句は、赤い顔の鶏が鳴いている新春の賑やかな雰囲気を詠んだ1句ですが、文字どおり、言葉の端々からも火のように燃え上がる生命力を感じます。また、“恋の数”を問われてただ銀杏を踏むという句からは、一筋縄ではいかない恋愛の経験を持ちながらも、それをあえて言葉にしない情熱家のような人物像が浮かび上がってきます。

篠崎は、自身の作句のルーツは大学時代に始めた『万葉集』の研究にあると語っています。

万葉人にとって詩は自ずから溢れ出る思いを古きことば古き韻律に乗せることにより、神の啓示のように捉えようとした祈りのようなものなのかもしれない。(中略)私の俳句は、旧仮名文語体有季定型だ。私にとって、この日常とは違う古きことば古き韻律そして季題こそが、俳句に詩情を与える装置なのだと思っている。

──『セレクション俳人プラス 超新撰21』より

伝統的なことばと韻律、季題を“装置”にして生み出される篠崎の力強い俳句は、これまで古典的な俳句にあまり触れたことのない読者こそ、新鮮で魅力的に感じるかもしれません。

『天使の涎よだれ』(北大路翼)

出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4897097770/

『天使の涎』は、俳人・北大路翼による第1句集です。北大路は少年時代に種田山頭火の自由律俳句に感銘を受けたことで俳句の創作を始め、2011年からは「屍しかばね派」と称して、新宿歌舞伎町のバーに集うホストや漫画家、パフォーマーといったさまざまな人々とともに歌舞伎町を舞台にした俳句を詠み続けている異色の俳人です。

『天使の涎』は2012年から2014年の間に作られた15000句あまりから2000句を抜粋した句集で、2016年には、若手の俳人の優れた句集に贈られる賞である第7回田中裕明賞も受賞しています。

“アウトロー俳句”と紹介されることもある北大路の俳句は、有季定型の伝統的な俳句の形はとっているものの、ひと言で言えばとても破天荒。

沈丁花君の便器でゐたかつた     全レース外す恍惚花卯木

ウーロンハイたつた一人が愛せない

露悪的かつ、どこか芝居がかった歌詞のような言葉選びは、伝統的な俳句に馴染みのある方が初めて読むとすこし驚かされるかもしれません。しかし、1句1句がまるで殴りかかるかのように、ストレートに胸に飛び込んでくる力を持っています。

また、

ハロウィンの斧持ちて佇つ交差点     四トン車全部がおせち料理かな

冬帽子目深に無人契約機

といった句からは、舞台である新宿の街の猥雑さや特殊性、集う人々の多様性が強く感じられます。“四トン車”にぎっしりと積まれたおせち料理が何千という店に運び込まれる一大歓楽街でありながら、同時に消費者金融の契約機にひっそりと並ぶ人の姿もあとを絶たない街・新宿。北大路が詠む新宿の街のなにげない様子からは、人の営みの物悲しさや愛おしさ、業の深さがありありと伝わってきます。

俳句という形式にすこし堅苦しさや難解さを感じてしまう……、という方には、ぜひ読んでみていただきたい1冊。俳句への固定観念が根底から崩されること間違いなしの、唯一無二の句集です。

おわりに

今回は、口語を多用した現代俳句、文語体の現代俳句、そして“アウトロー俳句”と、それぞれタイプの違う現代俳句の句集を3作品ご紹介しました。

ひと言で“俳句”と言っても、伝統的な作品から革新的なもの、華やかな作品から静けさを湛えたものまで、その魅力はさまざまです。ぜひ、今回ご紹介した3作品を入り口に現代俳句の世界に足を踏み入れ、お気に入りの俳人を見つけてみてください。