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田の神祭りに見る日本人の神意識

2024.08.16 05:45

Facebook竹元 久了さん投稿記事

🌾稲の成長を見守り、豊かな恵みをもたらす田の神

日本では、古くからお米づくりをつかさどる田の神の存在が信じられてきました。田の神は、冬は山に住んでいて、春になると里に降り、稲の成長を見守り、豊作をもたらしてくれると考えられています。田の神が里で宿るのが桜の木とされ、桜の開花は田の神が降りてきたことを告げ、田植えの始まりを知らせるものでした。

人々は田の神に豊作を祈るため、田植えの始まりや終わりには3つに束ねた稲の苗を神前に供え、収穫の際には数束の稲を刈り取って田の一隅に掛けてまつってから稲刈りをするなど、お米づくりの過程ごとにさまざまな儀礼やお祭りを行ってきました。

お米に深くかかわる宮中行事と各地のお祭り

新嘗祭(にいなめさい)- 11月23日

宮中で天皇がその年の秋に収穫されたお米やお酒などを神様に供え、自らも食べて感謝する儀式です。古くは陰暦11月の卯の日に行われていました。新嘗祭の中でも天皇が即位して最初に行うものは「大嘗祭(だいじょうさい)」と呼ばれます。

抜穂(ぬきほ)祭り[愛媛県 大山祗神社] - 旧暦9月9日

-収穫を感謝するお祭りです。神のお使いの少女が稲の穂先だけを刈り取り、神様に供えます。目に見えない稲の精霊と力士が勝負をする「一人角力(すもう)」も奉納され、稲の精霊が必ず勝つことで豊作祈願と豊作感謝を表します。

稲穂祭り[山口県 法静寺] - 11月3日

- 稲が実ると一束を刈り取り、神様に供えて感謝するお祭りです。別名「キツネの嫁入り」と呼ばれ、稲荷の神の使いであるキツネの面をかぶった新郎新婦が人力車に乗り、お供をつれて町を練り歩きます。

御田植(おんたうえ)[大阪府 住吉大社] -

6月14日 - 田植えを始めるにあたり、豊作を祈るお祭りです。昔と同じ格式を守って行われ、牛が田んぼを耕し、植女(うえめ)と呼ばれる女性が、おはらいがすんだ苗を手で植えていきます。舞や踊りも披露され、これにより田んぼや苗に力が宿るとされています。

田植踊り[青森県八戸市中心街] - 2月17日~20日 -

種まきや田植えなどお米づくりの作業を舞踊化してまねることで豊作を祈ります。八戸市の田植踊りは「えんぶり」と呼ばれ、馬の頭をかたどった帽子をかぶった舞手が頭を大きく振りながら勇壮な舞を披露します。

雨乞い祭り[長野県 別所温泉]- 7月15日に近い日曜日 -

水の恵みを天に祈るお祭りです。別所地区に伝わるものは「岳の幟(たけののぼり)」と呼ばれ、青竹に色とりどりの反物をくくりつけたのぼりの行列が練り歩きます。笛や太鼓に合わせて、子どもたちによる「ささら踊り」や、「三頭獅子舞」も奉納されます。

稲のお祭りから発展した伝統芸能

日本に伝わる伝統芸能には、稲のお祭りから発展したものがあります。

田楽は、田植えの前に豊作を祈る「田遊び」から発達したといわれ、おはやしや歌、踊りでお米づくりを表現しています。

日本の国技とされる相撲も豊作を祈る目的で奉納されました。相撲の土俵入りなどの際に「しこ」を踏む動作がありますが、これは大地を踏むことで害虫や厄などの災いを追い払い、豊作をもたらす田の神の力が消えないようにするという意味があったとされています。

このようにお米づくりは、日本人の生活に昔も今も密接にかかわっているのです。


https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no37/02.html 【田の神祭りに見る日本人の神意識】より

取材にご協力いただいた田中牛雄さん。

取材にご協力いただいた田中牛雄さん。石川県珠洲市でアエノコトの祭りを継承し続けている。田の神様にお供えするご馳走や食器は、各家でさまざま。そこに「家の祭り」らしいおおらかさが感じられる。神様からのお下がりは、家族にとっても滅多にないご馳走で楽しみに待たれたことだろう。写真では、箸がお膳に置かれていることから田の神様が食事をとっておられることがわかる。

「近ごろの若者は」と言われるように、信心する気持ちが薄くなったのは最近の傾向と思っていましたが、森田悌さんの古代の人の神意識をうかがうと、不信心なのは何もここに始まったことではないようです。 水も土地も豊かで、超越神の存在がなくても生きていかれた日本人が、目に見える物に〈神霊〉が宿ると考えたことは、アジアでも珍しく、独自の神意識だったようです。

森田 悌さん

群馬大学名誉教授

森田 悌(もりた てい)さん

1941年埼玉県生まれ。東京大学文学部国史学科、同法学部公法課程卒業。1971年金沢大学助教授、教授を経て、1995年群馬大学教育学部教授。2008年定年退任、名誉教授。上代から平安朝を研究著述し、『日本後紀』、『続日本後紀』を初めて現代語訳した。日本古代史専攻。

主な著書に『推古朝と聖徳太子』(岩田書院 2005)、『天智天皇と大化改新』(同成社 2009)、『続日本後紀 上下巻』(講談社学術文庫 2010)ほか。

唯物的な古代の神意識

僕は古代史が専門です。古代社会を見ていますと、どうしてもその後の展開とは疎遠になりますが、しかし、逆に考えてみると、日本の原型を見るには都合がいい。

当然のことながら、非常に古い段階での日本の在り方と、今とでは大きな隔たりがあります。例えば、日本の神霊というかスピリットは、常に物とくっついているんです。物と離れて意識されることはないんですよね。アエノコトでいうと、穀霊は穀物そのものでして、それを祀る。穀物の移動に伴って、神霊も移動してくるのです。

したがって、日本の古代には超越神たる第三者の存在なんていう意識はなかったと思います。超越神といった発想は、多分にキリスト教などの唯一神宗教に出てくるものです。日本の場合は、物から離れた〈神〉というような存在を生み出す段階にまで至らなかったんですね。物自体に神霊がある、と見る。その神霊を祀るのが日本の祭礼なのです。

祀るっていうのは奉(たてまつ)るで、物を差し上げることですよね。差し上げてうまくいったら報賽(ほうさい)、お礼をするわけです。それが祭りです。

極端なことを言いますと、目に見えないとか、感じられない、触れられない〈物〉については認識がなかった、と言い切ってしまっても構わないくらいです。「ちょっと、それは言い過ぎじゃないか」という人がいるかもしれないけど、僕はこのことに、かなり確信を持っているんですよ。

他界とか異界とかいう言葉を使ったりすることがありますが、日本の古い段階では、他界観なんてありません。はっきり言って、古代人は死者の世界を想定していません。目の前にある今だけですね。見える物、あるいは触れる物、あとは音に聞こえる物とか、こういった物だけしか認識しない。その中に神霊がある、と考えているんです。

役に立つとか、お願いする段になって然るべき祭りをした。祭りは、構造的には、そういう具合に考えればよいと思います。

日本では天を祀らない

僕は論文や著書で、外から来る神霊に触れ、稲を育てる神霊、空から降りてくる神霊などについて書いていますが、これは、かなり新しい神意識だと思います。新しいとはいうものの、みなさんの常識からいったら、まあ古い段階ということになるかもしれませんが。強いていえば、稲作を始めた前後のころには、まだ、そのような神意識はなかったと思います。

こういうと不思議に思われるかもしれませんが、古い時代の我が日本では、天を祀るという習俗はなかったんです。天を祀るのは中国の伝統的な発想です。天覆地載(てんぷくちさい:天は人を覆い、地は人を載せ育む)何ていいますよね。

『三国志』魏書東夷伝(この中に有名な魏志倭人伝(ぎしわじんでん)が含まれている)を読んでいきますと、中国の東方の諸国、満州から朝鮮、日本についての信仰形態について触れている部分があります。

そこには、朝鮮半島の中央部の南の辺りまでは、全部ね、祭天の習俗があるっていうんです。しかし、朝鮮半島の一番南の弁韓(べんかん)、のちの任那(みまな)ですが、弁韓と倭国については書いてないんですよ。他には全部書いてあって。

書いてないってことは、なかったことにはならないんだって言われたら、そりゃちょっと困りますけれど、やはり他の国について書いてあって、弁韓と倭国についてだけ書いてなかったとしたら、やはりなかったということになります。これは、日本では天を祀るという習俗はなかった、という証明になると思っています。

邪馬台国の卑弥呼は天を祀ってはいないんです。天はあまりに遠くつかみどころのないものですから、どうのこうのといった発想はなかったのでしょう。だから、日本で天を祀るっていうのは、僕の考えでいうと、弥生時代が終わった段階以降ということになります。

中国だと超越的なものとして天があるのですが、日本は中国のすぐ隣に位置しているのに、時代が下らないと、取り入れなかったのですね。だから、日本の歴史の全体を考えたら、高天原(たかまがはら)なんていうのはかなり新しいはずです。高天原は、よく北方から入ってきた観念、信仰だといわれますが、僕もそのとおりだと思います。日本の基層文化は照葉樹林文化だといいますが、北方の文化が入ってくる以前の段階では、天を感じることはなかったのではないでしょうか。関連して、星座のこともあまり知らないし、関心が稀薄ですよね。

ついでに、沖縄のニライカナイは海からだといいますけれど、それを日本の文化の本質にかかわると考えたら、かなり問題です。折口信夫(おりくちしのぶ)なんかを読んでいると、よく出てくるんですけれど、僕の理解の範囲を越えていますね。ニライカナイのような観念は、もっと南の南洋というか、島嶼(とうしょ)部へ行ったら、ああいう世界観もあるのでしょう。ですから日本の伝統的な文化を議論するときに、沖縄の話を入れると、混乱して、わかりにくくなってしまうと思いますよ。

中国人にとっては、人間世界とは別な所(他界)として天がある。そして死者の行く黄泉(よみ)がある。しかし日本では天について格別の意識がなければ、黄泉が存在するという発想もなかったということです。

先祖もせいぜい祖父母まで

黄泉に触れたところで、それでは、日本人は死んだらどうなるのだということですけど、死んだ直後は悲しんだり、霊がそこいらをさまよっているのではないかと考えていたと思いますが、しばらくすると忘れてしまって、それで終わりです。存在が感じられなくなりますから。

我々日本人は、世界でも珍しい親不孝、祖先不孝な民族で、親が死んで何年かすると法事も「もう、終わりにします」ってなるでしょう? 何回忌かまですると、お仕舞いになる。文明民族の世界でこういうのは、あまりないと思います。少なくとも東アジアの中国、朝鮮では、そんなことをやったら大変なことになります。

僕は学生によく、「君たちね、自分のおじいさん、おばあさん四人の名前を言えるかい」と聞いたことがありますが、答えられない学生が多い。これでは、ご先祖様を大事にしているとは言えませんよね。

最近薄れてきたように言われるけれど、中国や韓国に比べたら日本人の祖先観というのは、もとから罰当たりな感じです。それは近年宗教的な意識が薄れてきたからでなくて、本来そういうものだったのです。日本人が祖先崇拝しているなんていうと、韓国の人には笑われるでしょうね。彼らは千年くらい前の家系図を持っていますから。そして、先祖の名前を憶える術を心得ているのですね。

欽明(きんめい)朝に仏教が入り、推古朝以降それが盛んに信仰されるようになり、儒教も入ってきて、知識人の世界でそれらが浸透した段階で、祖先とか死後の世界に意識が向くようになりました。しかし、庶民のレベルでは普及しない。これは一貫して今日まで続いている傾向と言って過言ではありません。

みなさんの常識になっているかどうか知りませんけれど、古墳時代に、古墳に人を葬った後、死後のお祀りはどれくらい続けて行なわれているか知っていますか? せいぜい一、二回ですよ。棺を置く部分が竪穴式の場合は、遺体を一回しか埋められないけれど、横穴式になると何回も遺体を入れます。その場合は新しく入れた段階で、またお祀りしますが、前の人のことは、もう忘れちゃいます。古い時代の天皇陵が眉ツバものだということは、しばしば言われていますが、そう言われるのは死者の祭りが継続して行なわれていなかったことによります。

物と神霊が結びついて、目に見えるものにしてはじめて神霊、スピリットと関係する、というのは、現今の日本文化にも濃厚にあると思います。いなくなったら、存在しなくなったら、終わりなんです。こういうことは、まさに伝統を引き継いでいると思いますね。

仏教は他界観をきちんと持っていて、日本の仏教者の中には、西方浄土へ行こうと本当に歩き出した人もいます。しかしこれは中世に見られた現象で、日本の宗教観において中世は特殊な時代で、近世以降には引き継がれなかった。

私たちの世界では、外から入ってきた仏教文化や中国文化に影響されて、本来のものが消えたり、変容しているのは事実ですが、しかしその一方で核心的なところで残っている部分があります。神道関係の人たちは、何かにつけ「森羅万象に神霊が宿っている、大切にしなくては」と言いますよね。この発想なんかはまさにそうで、非常に古い段階の日本の在り方を引き継いでいると思います。

アエノコトと嘗の祭り

古代史というのは残っている文献・文字資料は少ないけれど、解明に当たっては、残っているものを使うのが本来だし、それが僕ら古代史研究者の仕事です。ただ、それだけだと限界があるので、少ない史料をつなぐ部分を、何か別のところや視点に立って追究してみようと。それでやったのが、僕の場合はこの本(『田の神まつりの歴史と民俗』吉川弘文館 1996)なのです。

古代史の文献を読んでいて関心を持ったことの一つに、祭礼のことがあります。朝廷で行なわれる重要な祭礼行事に、嘗(じょう)の祭りと称し得る三つの神事があります。11月の新嘗(にいなめ:もしくは〈しんじょう〉)祭と6月と12月の月次(つきなみ)祭です。大嘗(だいじょう)祭は天皇代初の新嘗祭のことです。嘗の祭りは、神今食(じんごんじき)ともいい、天皇が夜、神を迎えて御膳を進め、自らも食する神事で、真夜中を挟んで二度繰り返します。この二度の御膳を悠紀(ゆき)、主基(すき)の膳といいます。この行事、神態(かみわざ) ですが、真に面白く、興味の赴くままに僕は、文献でかなり勉強したわけです。僕は大学では井上光貞先生(注1)という方に教わりましたが、先生も神祇令(じんぎりょう)に関心があってね。岩波書店から出ている日本思想大系の『律令』の神祇令の部分は、井上先生ご自身が書かれています。

僕も井上先生に教わりながら、祭礼に関心を持つようになって、それなりに知識を深めていったのです。その後、大学院が終わって1971年(昭和46)にまず金沢大学へ赴任し、そこで初めてアエノコトなるものを知りました。

それを見て、驚いちゃいましてね。向こうでは12月に入るとTVでもやるんですよ。これは面白いなあと思い、図書館などに行き、あちこちにある映像の資料を見せてもらって、「なるほど、なるほど」と一つひとつ感心しました。当時はまだ能登では、多くの家庭でアエノコトをやっていました。

家庭の中のお祭りなのでなかなか目に触れないけれど、現段階でも、かなり、まだやっていると思いますよ。ユネスコに登録されてちょっと脚光を浴びて、取材陣も来たようです。もっとも、だいぶ観光化してしまったところもあるようです。福井にも同性格の祭りが有り、そこではアイノコトと言うことが多いですね。相木(あいのき)という地名が、日本全国にかなりありますが、アイノコトにかかわる地名だとする説があります。

僕が驚嘆したのは、能登のアエノコトを見て、神祇令から知られる嘗の祭りの在り方が、非常によくわかったからなのです。

アエノコトのときにお供えするのは、魚菜からなる食べものですが、二股大根と人参が並べられるのは男女を象徴し、豊穣にかかわることはいうまでもありません。そして核心的な祭礼内容として、迎えられるのが男神(おがみ)、女神(めがみ)の二神であることです。僕は、この男女二神が迎えられ、接待されることにものすごく興味をそそられたのです。

(注1)井上光貞 (いのうえ みつさだ 1917〜1983年)

日本の歴史学者。東京大学名誉教授。国立歴史民俗博物館初代館長。専門は日本古代史。共編著の『日本の歴史』(中央公論社 1973)シリーズは、ロングセラーを更新している。

荒唐無稽な解釈も

ところで嘗の祭りについては、奇妙な解釈が行なわれてきています。朝廷で行なわれる嘗の祭りでは、天皇が神態を行なう神殿内にマトコオフスマと称する寝具を敷き並べ寝所を設(しつら)えるのですが、例えば折口などは、天皇がそこに入り込んで生命力を強くするのだ、という解釈をしています。また歴史学者の中には、天皇は一人で入るのではなくて、皇后というか、釆女(うねめ)というか、つまり女性と一緒に入るという人もいます。歴史学のほうでは聖婚という言葉を使いますが、模擬的な交接行為をするのだといいます。僕の先生であった井上先生なども、天皇がマトコオフスマにくるまる秘儀があったと理解されていましたが、これは異様と言えば異様な説でして、僕には非常識、そしておかしな解釈だという思いを禁じ得ませんでしたね。

しかし、アエノコトと比較してみると、宮中の祭りでも田の神を呼んできて接待していることがわかったのです。この視点は、すでに柳田國男が出していまして、僕も『天皇の祭り 村の祭り』(新人物往来社 1994)の中で書きましたが、柳田は「祭儀の中心をなすものは、(遠来の)神と君と、同時に御食事をなされる寧(むし)ろ単純素朴」な行事だと書いています。

その遠来の神に当たるものとして田の神を迎えており、天皇が迎えるのも田の神である、という解釈をすると、非常にわかりやすくなります。こうして僕は、不思議に思っていたことが一挙に氷解したと感じたのです。

アエノコトでは、田の神様を家へ招じ入れると、まずお風呂に入ってもらいます。天皇の神態でも同様に浴場が関係していて、嘗の祭りを執行する神殿に入る前に必ず湯浴みをします。もっとも嘗の祭りでは、古代の段階で湯槽(ゆぶね)の中に入るなんていうことはありませんから、天皇が羽衣という湯帷子(ゆかたびら)を着て沐浴します。お湯掛けの儀式だと思います。

神殿の中に置かれたマトコオフスマも、単に「お迎えした田の神に寝(やす)んでもらう場」と考えると非常にわかりやすいのですね。実際、アエノコトでも家の中の稲俵の中で寝んでもらいます。

アエノコトの場合には、主人が小さい子供の場合であっても、その子がやる。おばあちゃんに抱かれてとかね。天皇家も同様です。平安時代には幼い天皇もいますから、夜中にやるのでむずかるんですよ。それでも摂政関白が抱いてあやしながら、天皇がやるんです。

むずかる子供のそばに寝台があるのに抱いていて寝かせないのです。この事実が、折口の「マトコオフスマにくるまる」という説が成り立たない根拠になります。

しかも、嘗の祭りでは二度同じことをやります。夜中に二度接待の場を設えて、寝台まで改めて、神をお迎えします。研究者の解釈では天照大神(あまてらすおおみかみ)、つまり皇祖をお迎えするということになっていますが、天照大神一人をお迎えして、間を置かず続けて二度接待するというのはおかしい。

ここは単に、招じ入れた神様に食事を供してあとは寝んでもらう。そして、神様は男女二柱いらっしゃると考えれば、非常にわかりやすい。アエノコトがまさにその通りですね。男神・女神の穀霊神を迎えて接待するのですから。ただ宮中では、男女二神を別々に接待するわけです。『日本書紀』の中にも、天照大神自身が新嘗の祭りをやっている、とちゃんと書いてあります。ですから、天照大神が祀られているのではないことが、明白です。

この前の今上天皇の大嘗祭は、海部俊樹さんが総理大臣のときでした。当時、内閣告示を出しているのですよ。面白いから丁寧に読んだのですが、その中で「皇祖 天照大神をお迎えするのだ」と書いてあって、僕はね、あれは間違っていると思いましたね。

このように、朝廷の嘗の祭りについて、いろいろ不正確な解釈がされてきているんですが、誤りを正し本質をはっきりさせることは、やはり重要ですよね。この点で、能登のアエノコトは僕に大変な示唆を与えてくれました。

朝廷の祭りも もとは天皇家の家の祭り

結局、古代律令国家の建設に向かって大きく歩を進めた天武天皇が即位した段階で、国家意識が急激に発達するのです。お祭りも国家祭祀ということになり、変わりました。大まかにいえば、朝廷、あるいは今の皇室のお祭りとしては、そこで変えられたものが、現段階まできているということです。

古代には祭事は女の人がやっていた時代があって、段々男の人に代わっていく。これは政治社会で、男性の力が強くなったからでしょう。

天武天皇以前の段階、大化の改新の段階などを見ていますと、嘗の祭りを天皇家の祭りとしてやっているのです。天皇家が嘗のお祭りをするときには、大臣や皇子たちは自分の家の嘗の祭りを、ちゃんとやっているのです。当今の天皇の執行する祭りでは、皆さん、列席することになっていますから。嘗の祭りについては、天武天皇ががらっと変えたのですね。僕はそう思います。

なお、祈年祭は歳神(としがみ)の祭り、つまり農作関係の祭りで、2月4日に行なわれます。これは規模が大きいけれど、天皇自身は特別な神態をするわけではありません。中国のお祭りを持ってきたものです。

新嘗祭と月次祭の場合では、親修、つまり天皇ご自身がお祭りをしますから、重要な祭りということで後々まで存続しています。月次祭は江戸時代に廃絶してしまいますが、新嘗祭は昭和天皇も、今の天皇もちゃんとやっています。

毎年ニュースになる天皇の田植え行事は、昭和天皇から始まるらしいですよ。六国(りっこく)史(注2)などを見ますと、天皇が田植えをしている農民を近くで眺めるという記述はありますが、自分が田植えをするということはありません。天皇の田植えは国民との一体感をつくろうという、政治的な発想に始まるのでしょう。

(注2)六国史

奈良時代から平安時代前期にかけて、国家事業として編纂された六つの史書。

『日本書紀』『続日本紀 』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録 』『日本三代実録』の六つで、一般に国史とされる。

祭りの猥雑さ

万葉集には民間の新嘗祭に関係して、二つほど和歌が残っていて、それに当たりますと、嘗の祭りは女主人がやっています。家刀自(いえとじ:家事を掌る女性のこと、主婦)がやります。夫を含めて家の者を全部追い出し、家内を神聖な空間にして、家刀自が穀霊である神様を迎える。男衆を追い出しているので、言い寄る人が出てくるんです。男女の問題が起きたりしてね。それで恋が生まれて、万葉集で詠っちゃってる。

日本の祭りの一つの特性ですが、神聖性という要素とともに、多く猥雑性を伴っています。男女の出逢いの場だったりもしますが、ケースによっては、もう、めちゃくちゃというか。口にするのがはばかられるようなことも起こっています。神様を迎えての宴、神宴をやっていると、他人が多数上がり込んで来て、乱雑、猥雑になるので、禁令を布告するなんてことが、行なわれたこともあります。

民間では古代の段階ですと、月次祭に当たる祭りのことを宅神祭(たくじんさい)ヤケの祭りといいます。12月の月次祭は冬の内ですが、春の耕作開始を前にした予祝の祭り、そして6月の月次祭は、稲が花を咲かせる穂孕(ほばら)み期という大切な時期に、稲の生長がうまくいくようにとお祭りするわけです。これは東南アジア、タイ辺りの稲の祭りと、かなり近似性があるようです。

日本の農村社会の例では、夫婦が夜、田の縁に出かけて行って、セックスを稲に教えるというのがありました。性行為により、うまく結実するよう感染させるわけです。あるいは嫁入りになぞらえる。タイなどでは、穂孕み期になると、田んぼの周辺に嫁入り道具を並べるようなことをしますね。神聖な婚儀に相応(ふさわ)しくなるよう静かにしなければいけない、というタブーがあったりします。

出稼ぎをするエビス大黒

たまたま能登に残っているアエノコトも、原型を保っているというより、かなり改変されていると思います。田の神を迎える主人は裃(かみしも)を着ていて、服装などから見ると室町時代ですから、元々の原型である、万葉集などに出てくるものとは、かなり相違することが確実です。

北陸の場合、中世になると、真宗が入りました。真宗は、キリスト教みたいな一神教的要素が強く、他の信仰を迫害して潰しています。たまたま能登は辺境で、そのためアエノコトが残ったということです。先に福井のアイノコトに触れましたが、福井県や富山湾を挟んで能登の対岸である富山県・黒部などには、祭りがかなりバリエーションとして残っているようです。

黒部にはエビス祭りという特異な祭りがあります。11月20日にエビス神を家に迎え入れ、お風呂に入れ、ご馳走して寝んでいただく。で、1月20日には外へ出て行っていただくという、形態はアエノコトとまったく同じですが、ここでは迎えられるのが田の神じゃなくて、出稼ぎの神なんです。

多分、アエノコトの形態に近いようなことをやっていたのでしょうが、黒部の辺りは明治のころから出稼ぎが始まるんですね。それで人々の生業の変化に伴い、変わってしまうのです。迎えられるのは、エビス神だけじゃなくて、エビスと大黒二神になっています。

ここでは二神、そして二膳を供することが重要なのです。アエノコトも二神、二膳だったでしょ。ここにエビス祭り、エビス講とアエノコトの共通性があり、類似の祭礼と推測することができるのです。

このエビス祭りでは、家の主人がまだ明るいうちに、提灯を持って鉄道の駅に迎えに行くんです。ですからこの日は、提灯を下げてエビス・大黒様を迎えに来る主人が駅にいる。何事かと、結構、驚きますよ。

黒部のエビス祭りはアエノコト同様に奇祭といってよいものですが、黒部ほど丁寧ではありませんが、全国各地の農家でエビス講という形で行なわれてきました。

エビス・大黒の祭りは関西に始まるもので、兵庫県西宮の西宮神社に由来します。この神社は商人に信仰され、エビス講は商人の祭礼として広がりました。

近世になると商品流通が盛んになり、商人が農村へ品物を売り込む、あるいは買い上げる、という行為が展開されるようになります。この経済活動との関連で、エビス信仰、エビス講が農村部に広がったのです。

結局、田の神よりエビス・大黒のほうが有り難いということで、変わっていった。商人資本の力というのは、一般農民には強力なものとして映ったのでしょう。それで経済力を持つ商人連中がやっているお祭りということで、農民たちがエビス祭り、エビス講を取り入れたのです。江戸の大店(おおだな)の商人も大々的にやっています。

エビス講は、大分新しい祭りですね。江戸時代はおろか、僕は案外、明治になってから始まっているところがあるのではないかと思っています。僕の住むこの辺り(埼玉県)でもやっていまして、僕の生家でもやっていましたよ。たいていの家には古ぼけた黒っぽい木でできたエビス・大黒二体があって、対になっている。それを並べまして、必ず供えるものに尾頭(おかしら)付きの魚がありました。

家の祭り

繰り返しますが、元来、お祭りは「あることを祈願する」、次いで「それが成就したらお礼をする」ということなんです。これは我々の社会でも立派に生きているし、今でもよくあるわけです。例えば受験のときに絵馬を買って納めるなんてね、まさにそれだと思いますよ。そして当然のことですが、人々の最重要関心事項は生業絡みということになりますから、歴史社会において農業経営の単位であった家族、家庭により行なわれる祭りがクローズアップされることになります。

ちょっと変わった祭りとして群馬の北の山の中、高山村という所で行なわれているものに、小池祭りというのがあります。そこでは11月の寒い時期の未明に集まって、お祭りをしているんです。オテノコボリといいまして、手の上に赤飯を載せて皆で食べながらお祭りをする。小池一族を構成する家々がそれぞれ神様が宿る小屋というか、小さな神殿をつくって、お供えをします。この神殿には入り口が二つついています。従って二柱の神様を迎えているのですね。これは外でお祭りをしているんですが、小池一族の祭りにして、家々の祭りであることがわかります。これなんかもエビス・大黒の祭りの原型で、遡ればアエノコトにも共通するといってよく、家の祭りなんですね。

稲作というのは生産性が高いですから、経営を維持することを家単位でできる。これは日本文化を規定する、非常に重要な条件じゃないでしょうか。個人という単位では無理ですが、家という単位でなら何とかやっていけるのです。

中国では家を越えた組織として宗族があり、中近東あたりですと、何かというと部族などという組織が出てきまして、人々はそれとの関連で保護、また統制されてきているんですが、日本にはそのような存在はありません。家族でやっていけるということから、突き詰めて言いますと、元来、日本の社会の構成単位は、まずは家族で、共同体というようなものはなかったとみていいと思います。中世になりますと、村落共同体としての性格を有する郷村制が展開するようになりますが、古代においては、そのようなものはありません。

僕は一貫して、日本の祭りには家という単位でやる流れがある、と言ってきましたが、それとは別に、ある時期以降、集団でやる祭りが出てきます。郷村制などの展開と関連するわけですが、現代の祭りには、多分にその集団的な性格を継承しているところがあると思います。ただ僕は古代史家ですから古いほうに関心があるので、古いほうを見ると集団でやる要素は少ないのです。

目に見え感じられる風と水

朝廷にとって三つの祭、11月の新嘗祭と6月、12月の月次祭に準ずる重要な祭りとして、風の神を祀る祭礼と水に関係する祭りがあります。風神を祀る龍田神社、水絡みの廣瀬神社の祭りです。4月と7月に執行される両神社の祭りには、朝廷から勅使が遣わされて事に当たることになっています。

風神祭りが行なわれる龍田神社(奈良県生駒郡斑鳩町)は、JR関西線が通っている峡谷の入り口に鎮座し、大阪平野から奈良盆地へ風が入る通路に沿っています。龍田神社のそばには『古今集』に「唐くれないに水くくるとは」と詠われた龍田川が流れていますが、大和川と合流する地点から少し上流に上がると、佐保川、初瀬川、富雄川をはじめとする奈良盆地を流れる川の水が一所に会して、大和川に合流する廣瀬の河合という地点があり、そこに廣瀬神社が鎮座しています。言うまでもないことですが、大和川は先の峡谷を流れて大阪平野に出、大阪湾に流れ込んでいます。風神祭では、悪風が吹かず稔(みのり)の豊かなることを、廣瀬の祭りでは山から流れ出す谷川の水が甘水(よき水)となり、稲を育て豊作になることを祈願しています。風も水も目に見え感じられますから、古代人はそこに神霊を見出し、祭礼を行なっているのです。

群馬県には榛名山、また長野県との境には浅間山のような、歴史時代に入って噴火している火山があるために、噴火のときの火山灰が村や耕地を埋め、当時の在り方をそのまま残しているような所があります。水田や畑の跡といった、古代社会にかかわる考古学的遺構です。火山噴火で埋まった遺跡には、イタリア・ベスビオ火山によるポンペイが有名ですが、群馬には、日本のポンペイといわれるような遺跡があるんですよ。

このような遺構では、しばしば水田や畑の隅に土師器(はじき)や滑石製(かっせきせい)の勾玉(まがたま)、また小型模造品が並べられていることがあります。土師器や滑石製勾玉・模造品は、古代人がよく使った祭祀用具で、そこで神祭りが行なわれていたことがわかるんですね。

水田の場合ですと、取水口と思(おぼ)しき地点であることが多く、農民が自分の水田に良き灌漑用水が滞りなく入ってくることを願い、祭ったような様子が読み取れるんです。今でも農民が、水田耕作開始時に取水口で神祭りをすることがあり、それを水口(みなぐち)祭りなどといいますが、古代人もそれをやっていたらしい。この祭礼は、朝廷の場合でいえば、廣瀬神社の祭りに通じる性格のものであったと見ることができますね。

畑の隅に並べられた祭器となりますと、灌漑用水の取り入れと異なり、風雨が穏やかに推移し良き収穫が得られることを祈願して祭りをしている、と見ることができそうです。こうなりますと、朝廷の龍田神社の祭りに通うものを確認可能ですね。

これらから、古代人は自分の耕地での稔がうまくいくように、ということで祭祀を行なっていたことが推知されます。耕地の隅で行なわれるこうした祭りも、先に述べた家の祭りの流れの中で把握することができるわけです。

稲作に関していえば、田の神が稲、穀物そのものであるのに対し、用水、風雨となると、稲の外部の存在となり、いわば環境絡みの要素となります。古代農民は、環境の神霊をも斎(いつ)き、祭ることをしていたわけです。

結局、古代人は、まずは目に見え、感じることのできる物を信頼し、そこに神霊を見る。それにお願いし、首尾よくいけば報賽、お礼をする。こうして具体的な場面場面に即し、祭りが生み出されたのだと思います。

アエノコトはこの流れの中で解釈できるものであり、日本人の主生業である稲作にかかわるだけに、それを典型的に示していると解されるのです。


https://blog.goo.ne.jp/kuusounomori/e/0a59211ee21db18da61d8540c4d687f3 【「田の神」と「女面」の系譜 宮崎の春神楽<5>】より

*九州民俗仮面美術館展示品

宮崎の春神楽の「田植え祭り」「田の神舞」などには、「翁と媼(爺と婆)」が一対で登場する演目、若い女面の「嫁女(孕み女)」、「めご面」と呼ばれる籠を背負ったり腰に下げたりした媼(または翁)が出て神主と問答をする演目等がある。

翁と媼はあきらかに祖先神としての田の神であり、滑稽な所作や性的な演技で五穀の豊饒と子孫繁栄を約束する。

嫁女は独立した演目となっている場合が多が、黒い田の神と一対で出て、観客にスミを塗りつける「へぐろ面」と混交している例もみられる。妊娠した女性の様子を演じて神霊にはたらきかけ、万物の誕生と生育を祈願するのである。

「めご面」は宮崎平野を中心とした地域から、米良山系の神楽にまで分布がみられる。米良山系では、「部屋の神」「磐石(ばんぜき)」などと呼ばれ、中年のふくよかな女性、山の神と思われる山姥=黒い女面で現れる場面などがある。いずれも、籠に入れておいた杓子やすりこ木などを取り出し、天地陰陽の法則や子孫繁栄の法を説く。米良山系の「めご面」からは山の神信仰と田の神信仰の混交が読み取れる。

宮崎市清武町船引神楽では、「めご面」は白い翁面をつけた「稲魂命(ウガタマノミコト)」として登場し、神主と問答をする。芸態は米良山系のめご面と同型だが、ここでははっきりと翁(男神)=稲魂命=稲荷神=稲作の神となっていることが、他の地域の「めご面」の性格を読み解く手ががりとなる。

田の神(道化)

*九州民俗仮面美術館展示品

宮崎の春神楽の「女面」の系譜については、女面と芸能史の深部にかかわる情報を秘めていると思われるが、まだ整理が進んでいない。

神楽を実際に訪ねながら考察を進めてゆくこととしよう。

既著「米良山系の神楽」(鉱脈社/2011)の中の「女面の源流を訪ねて」の項に関連項目が多いので引用しておく。

写真左/村所神楽「部屋の神」 写真右/中之又神楽「磐石」

<「女面」の源流を訪ねて>

[米良山系の神楽に分布する「神和(かんなぎ)」]

 米良山系の神楽には、「神和(かんなぎ)」と呼ばれる女面の舞がある。うりざね顔の白い美しい女面をつけて舞う神事舞である。この「神和」は、神楽中盤または岩戸開きの前段で、神楽の場を清める舞として舞われる。天鈿女命(アメノウズメノミコト)の舞または下照姫(シタテルヒメ)の舞、山の神の舞いなどと伝えられる。高千穂神楽のように直接岩戸の前で神懸りの舞を舞うわけではないが、「かんなぎ」という呼称は、宮廷の芸能職「御巫(みかんなぎ)」に対応することから、天鈿女命を祖神とする猿女君(さるめのきみ)系の芸能とみることができる。いずれも女物の衣装を着て、白い女面をつけて舞う。この芸態は、米良山系の神楽から穂北神楽、高鍋神楽などにも分布し、霧島山系の神楽では、「高幣(たかび)」「氏(うじ)」という黒と白との一対の女面の舞としてみられる。いずれも、右手に扇を持ち、御幣を肩に担いで現れ、御神屋を静かに足踏み(反閇(へんばい))を繰り返しながら、右回りに三周、左回りに三周するだけの呪術的な舞である。この舞い振りは、鹿児島神宮に伝わる「隼人舞」とも共通する。これらの事例から、神和が神楽の女面の舞の古風を伝えるものと推測することができる。

[尾八重神楽と中之又神楽の「下照姫」]

 尾八重神楽と中之又神楽の「神和」は、一連の神和と芸態は同一であり、天鈿女命の舞ともなっているが、一方で、「下照姫(したてるひめ)」だとする伝承もある。下照姫とは記紀神話に登場する天若日子(アメノワカヒコ)の妻である。

『天若日子は、天孫降臨に先立ち、葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定するために高天原(たかまがはら)から遣わされて三年も戻らなかった神を迎えに遣わされたが、大国主命の娘下照姫と恋仲になって六年経っても戻らなかった。そこで、天照大神と高御産霊神(タカミムスビノカミ)が雉(キジ)の鳴女(ナキメ)を遣わして戻ってこない理由を尋ねさせると、天若日子は、雉を不吉な鳥と判断して矢で射殺した。その矢は、高天原を出発する時、高御産霊神から与えられたものであった。雉を射抜いた矢は、高天原の高御産霊神の元まで届いた。そこで高御産霊神が「天若日子に邪心があればこの矢に当るように」と誓約(うけひ)をして下界に落とすと、その矢は天若日子の胸に刺さり、天若日子は死んでしまった。下照姫の嘆く声を聞いた天若日子の父が喪屋を立て、八日八夜の歌舞(殯(もがり))を行った。』

以上が、記紀神話の天若日子の段の概略であるが、このエピソードから、下照姫が死を悼むなんらかの呪法または芸能を行ったことがうかがわれる。

尾八重神楽と中之又神楽の「神和=下照姫」は、前述の御神屋を反閇を踏みながら巡る舞いを繰り返し、最後に、両手で印を切って舞い収める。ちなみに、尾八重神社の入口には、天若日子を祀る小さな石塔が立っている。それがどのような由緒で建てられ、どのような祭祀が行われたのかは、不明である。

[小川神楽の磐長姫と山の神信仰]

 小川神楽の「御祭神舞」は「磐長姫命(イワナガヒメノミコト)の舞」であり、宮司が白い女面をつけて舞う。天冠を被り、黒い扇と大幣二本を持って舞う舞い振りは、前述した「神和」と違い、「大王様」「八幡様」「御手洗様」(以上村所)、「宿神」「西之宮大明神」(以上銀鏡)などと同様の主祭神の舞である.。装束は、黒に裾模様のある見事な女装束である。

 米良・西都原を含めた一ツ瀬川流域の伝承によれば、大山祇命(オオヤマヅミノミコト)が邇邇芸命(ニニギノミコト)に献上した木花咲耶媛(コノハナノサクヤヒメ)と磐長姫の姉妹は、木花咲耶媛が祝祷(しゅくとう)の意をこめた花の精、磐長姫が長寿を祈願する磐(いわ)の精であり、先住の神=女性シャーマンであった。木花咲耶媛・磐長姫伝承には、邇邇芸命が醜い磐長姫を受け取らなかったことにより、天皇家の寿命が短くなったのだとする伝承が付随する。磐長姫がその醜い顔貌を鏡に映し、一層嘆いて、投げ捨てた鏡が一ツ瀬川上流の龍房山(りゅうぶさやま)まで届き、日夜光を放ったことが「白見=銀鏡<しろみ>」の地名の起源伝承である。銀鏡神社の御神体は龍房山であり、磐長姫であるともいう。銀鏡神楽には磐長姫と思われる神は出ないが、「宿神三宝荒神」が磐長姫であるとの伝承もある。ちなみに銀鏡地区横平鹿倉神社の御祭神は白い女面で「山の神」と伝えられる。

一方、山を一つ隔てた小川の伝承では、磐長姫はこの小川の地まで一ツ瀬川を遡って住んだが、嘆きは一層深く、ついには「御池」に身を投げて死ぬ。これを村人が憐れみ、手厚く祀ったのが、小川米良神社である。

 

[横野神楽の産土様と村所神楽の御手洗様など]

 小川地区に隣接する横野地区には横野産土神社がある。この横野産土神社の主祭神は「産土様(児安観音)」で、寛永の頃この地を治めていた米良織部卿重直(めらおりべのきょうしげなお)氏が、狩の折、山神を射たことを機縁とし、奥方の難産とそれに続く死去、重直公の死去、後室に生まれた子の死去と不幸が相次いだため、遺された後室が観音を祀ったことを由緒とする。横野産土神楽にはこの奥方と後に合祀された後室とされる女面の神が降臨する。天冠を被った白い女面で、神様降臨の舞を舞う。

 村所神楽の「御手洗様」は米良重鑑(めらしげかね)公の奥方「お勝様」を表す。お勝様も内紛に倒れた重鑑公の後を追って死去した。懐妊中であったお勝様は、土地の女性のお産を助け、守ると言い残して息を引き取った。以後、安産の神として村人の信仰を集め、神楽の場に美しい女面の神となって降臨するのである。奥方様の舞の途中で、猪(獅子舞)が御神屋に現れ、奥方様と舞い遊ぶ。が、奥方様が退場すると猪は暴れ出す。その後、山の神である大山祇命が登場し、猪を取り押さえて舞い収めるのである。この二例は、磐長姫伝承が山の神信仰と混交しながら安産の神として信仰され続け、「女面の舞」として神楽の中に生き続けたものと解釈できる。

 同様の「女神様」の登場は、越野尾神楽の「水神男神」「水神女神」、狭上神楽の狭上稲荷大明神の「奥方様」、上米良神楽の「矢村様」などにみられ、米良山系の神楽に広く分布していることがわかる。米良山系の神楽の磐長姫伝承と山の神信仰の習合、西米良神楽の女神信仰などをみると、そこに古代の先住の女王=女性シャーマンが行った祭祀が「女面の舞」に名残をとどめ、今なお光を放ち続けているように思える。

現代に引き継がれた古代の記憶は、「土地神=先住の女王」としての女性シャーマンの芸風として名残をとどめ、米良山系の神楽の場に顕現するのである。

[黒い女面「磐石」と「室の神」「部屋の神」]

米良山系の神楽の東端に位置する中之又神楽に「磐石(ばんぜき)」という演目がある。中之又に隣接する尾八重神楽の「磐石」もほぼ同様の演目である。中之又と尾八重の磐石は、真っ黒な顔の姥(うば)神(老女神)である。神楽も終盤となった夜明け頃、背に大きな籠を背負って登場する。その籠の中には、杓子(しゃくし)、すりこ木、杓文字(しゃもじ)、もっそうの飯型などが入っている。左手に小幣二本、右手に鈴を持ち、性的な所作をまじえて舞う。

銀鏡神楽ではこの演目は「室(へや)の神」と呼ばれる白い柔和な顔の媼(おうな)面の神である。越野尾神楽でも「室の神」と呼ばれ、白い姥(うば)神である。小川神楽では「部屋の舞」(休止中。面は行方不明)、村所神楽では「部屋の神」と呼ばれる愛嬌のある女面の神である。芸態はいずれも近似しており、賄部屋あるいは台所から舞い出て、参拝者や祝子・社人、神主などと問答をする。問答の途中、杓文字その他を取り出し、イザナギ・イザナミの国産みの物語から始めて陰陽の道の説明を行い、参拝者や祝子・社人、神主と問答をする。室の神・部屋の神は籠を腰に下げている。すりこ木は男根であり、杓子は高く投げ上げられ、落ちてくる間に天地(宇宙)の間を旅して来る、何でもご存知の神様である。演者の当意即妙のアドリブが観客の爆笑を誘う。一連の「磐石」「室の神」「部屋の神」は「田の神」「笠取り(田植え神楽)」などと関連する。小川神楽の部屋の舞は、「田の神祭り」に続く演目であり、古くは二人舞で、男面と女面が出て、契りを交わす場面もあったという。銀鏡神楽の「室の神」は「七鬼神(山の神舞)」「ズリ面」と連続した番付であり、室の神とズリ面とが足を絡め合う、原初的な生殖を思わせる場面がある。

「磐石」「室の神」「部屋の神」とは、万物生成の様子を演じ、国土安穏・五穀豊穣・子孫繁栄を祈願する演目であるが、底流に山の神信仰が流れ、山姥(やまんば)(姥神)信仰や磐長姫信仰なども混交しているように思われる。日本民俗学では、山姥と山の神信仰の関連は早くから指摘されており、米良山に伝わる「西山小猟師文書」にも、山の神である山姥と猟師の交流が語られている。同文書の山姥が「一神(いちじん)の君」と呼ばれ、小川神楽の磐長姫が「市之宮様」と呼ばれていることも注目に値する。

米良山系の神楽に分布する「室の神・部屋の神」と「磐石」をもう少し詳細にみてみよう。ここでは村所神楽の「部屋の神」を記録する。他の神楽も村所の語り・所作などに類似し、当意即妙のアドリブが観客の爆笑を誘う人気番付である。

◇村所神楽の部屋の神

 出番前に賄部屋で御神酒をいただき、ほろ酔い加減で御神屋に舞い込み、神前に進んで一礼をした後、御神屋を舞い巡る。御神屋を一巡すると

――八幡神社の御祭典について、ご苦労めしもそうが――

 と神楽歌を歌う。歌い終わると、拝観者と軽妙な問答をしながら、「杓子」を取り出す。このことから、部屋の神の面を「しゃくし面」と呼ぶ。この杓子は森羅万象に通じ、人生相談や村の出来事、天と地の距離まで、なんでもご存知の杓子である。拝観者の耳にも杓子を当てて、杓子の話を聞かせてもらう。やがて部屋の神は杓子を天に向かって高々と投げ上げる。杓子はすぐに落ちて来るが、この間、杓子は天地の間を往復したのである。杓子はその途中(宇宙)で見聞したことを語る。

――天と地の距離は、十尺十寸ヤジャムジュ、ちてしゃが言うが――

と部屋の神は杓子の頭をなで

――天地イザナギ・イザナミの命とはこれのことなり――

と言ってテゴの中に杓子を納める。

 続いて、テゴの中から「ごき」と「しゃもじ」を取り出し、飯を炊いたり、炊き上がった飯をごきに移したりする。やがて「おこげ」が出来ると、

――八幡神社にほかい奉る――

と神前に捧げ、次に

――社人衆にもほかい奉る――

と言いながら、「おこげ」を社人や拝観者に配る。このおこげをもらって食べると、一年間の無病息災と五穀の豊穣が約束されるのである。この間も、部屋の神と拝観者の愉快な問答が続く。

 最後に、部屋の神は、テゴからさも大切そうな用具(すりこぎ)を取り出し、着物の下に隠し、ちらりと見せたりしながら御神屋を巡り、

――参詣の衆、東・西・南・北を知っておるか、知らんけりゃ教えるぞ――

と言いながら、そのすりこぎを用いて、当山南北を示す。部屋の神の大切なすりこぎとは、男根である。その男根が東を向けば、

――東を向いてヒータカ、ヒータカ、タカタカ――

とセキレイの鳴きまねをして、男根を上下させる。これは、セキレイがイザナギ・イザナミの二神に国産みの方法を教えたという説話に基づく縁起である。

古くは、この後、男面と女面が出て、性交の場面を演じたという。足のかなわない女神が神楽の場にズリ出て(いざり出て)、拝観者と手真似、腰真似で会話する。そこへ男神が酒徳利や盃を持って現れ、女神と向き合い酒を酌み交わす。やがいて酔いつぶれた男神は女神を引き寄せて性交の場面を演じる。銀鏡神楽では、「ずり面」という演目が今でも残っており、ズリ出て来た七体のズリ面「男神」が部屋の神にからむ。ズリ面同士が足を絡め合う、原初的な生殖行為を思わせる場面もある。男神と女神のからみの場面は高千穂神楽の「ご神体」に通じる演目である。

「室の神・部屋の神」「磐石」は、身近な台所から舞い出て、やがて万物生殖の様子を演じ、国土安穏・五穀豊穣・子孫繁栄を祈願する演目である。前述したように、記紀神話には天孫邇邇芸命と木花咲耶媛の出会いの場面に付随する挿話として、磐長姫の伝承が記録されているが、一ツ瀬川流域には、この磐長姫神話が広範囲に分布し、山の神信仰・姥神信仰・女神信仰などと習合しながら、神楽の中に生き続けている。神楽の「室の神=部屋の神=磐石」は、これらの信仰形態と習合しながら、語り継がれてきたものと考えることができる。ちなみに、「日本書紀」神代第九段の第二の一書には、

『時に皇孫、姉は醜しと謂(おまは)して、御(め)さずして罷(ま)けたまふ。妹は有国色(かほよし)として、引(め)して幸(みとあたは)しつ。即ち一夜に有身(はらみ)みぬ。故、磐長姫、大きに慙(は)ぢて詛(とご)ひて曰はく、「仮使(たとひ)天孫、妾を斥(しりぞ)けたまはずして御(め)さましかば、生むめらむ児は寿永くして、磐石(ばんせき)の有如(あまひ)に常存(とはにまたか)らまし。今既に然らずして、唯弟のみを独(ひと)り見御(め)せり。故、其の生めらむ児は、必ず木の花の如(あまひ)に、移落(ちりお)ちなむ」といふ(以下略)』と記されており、「磐石<ばんせき=ばんぜき>」という言葉が見られる。これにより、尾八重神楽・中之又神楽の「磐石」が磐長姫伝承と関連している演目であることがわかる。

 吉田敦彦「縄文の神話」では、縄文時代の土器や土偶にみられる妊娠した女性や女性の生殖器の造型や破壊されて埋められたと思われる土偶の祭祀事例などをあげて、「山の神=女性」「山姥」などが縄文時代の地母神的原初神の系譜に連なるものであることを説いている。そこでは、歪んだ顔の「土面」や「黒」などの関連も示されている。

山口昌男「道化の民俗学」(岩波現代文庫/2007)では、黒い仮面神が、先住民や土地神を表わす事例は、ヨーロッパでは道化「アルルカン」、アフリカのトリックスター(祭りに闖入し撹乱する道化神)、インドの地母神「クリシュナ」、アメリカインディアンの先住神など、世界に分布することを紹介し、さらに日本の「狂言」の太郎冠者とも連環することを指摘している。いずれも「道化」「両性具有」「先住神」「地母神」などの性格が共通する。米良山系の神楽の黒い女面「磐石」と「室の神=部屋の神」をこのような視点でみると、一層興味は深まるのである。

記紀神話の天孫降臨の段で、山幸彦との戦いに敗れた海幸彦は、「隼人の祖」となって北郷町潮嶽(うしおだけ)に住み、生涯を終えた。海幸彦は潮嶽神社の主祭神として今も祀られ、潮嶽神楽には、「海幸彦の舞」が伝わっている。山幸彦・海幸彦伝承、木花咲耶媛・磐長姫伝承には、いずれも、大和王権に服属した先住神と服従を拒み、争いに敗れて土着した先住神という構図が見て取れる。磐長姫は、米良の山の神となり、信仰され続けたのである。