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オネオンデ

2024.08.16 05:50

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%8D%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%87 【オネオンデ】より

オネオンデは、長崎県五島市の旧富江町地域に伝わる念仏踊り。

江戸時代に豊作を願う踊りとして始められた。その後、明治・大正時代までは、藩主のお墓や神社などに踊りを奉納していたが、現在は、初盆のお墓の前で亡くなった人たちのために踊っている。

オネオンデという名は「出ておいで」という意味の「おねよね」からきている。農家の人たちが稲や麦の種をまいたあと早く芽が出るようにと祈って「おねよね」と唄っていたところからこの名前がついたらしい。

昔は山下、岳、山手、丸子、琴石、太田、横ヶ倉、松尾、狩立、黒島の各地区で行われていたが、現在では山下と狩立のみ。狩立地区は小学生が、山下地区は高校生が踊る。蒲の葉の腰蓑を付け、首に掛けた太鼓を歌と鉦に合わせながら踊る。歌は上手(かみて)と下手(しもて)に別れ、上手は鉦を手に持ち歌に合わせて鳴らす。歌と鉦は地元の大人で組織する保存会が受け持つ。

五島市にはオネオンデ以外にも、福江の「チャンココ」、玉之浦町の「カケ」、三井楽町の「オーモンデー」など、同系の念仏踊りが伝わっている。


https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/53000228/  【肥前福江藩五嶋家墓所】


Facebook五島市役所投稿記事

8月5日、東京都新宿区で開催された「全国こども民俗芸能大会」で、富江町の狩立オネオンデ保存会のみなさんが、九州・沖縄ブロック代表として最高の演技を披露しました!狩立オネオンデは、今から352年前、富江初代藩主五島清盛公が農民を励ますために、豊年踊りとして奨励したのがはじまりと言われています。集合写真を見ても、その派手な衣装で存在感を醸し出していますね。全国こども民俗芸能大会のFacebookでは、狩立オネオンデがカバー写真で紹介されていますよ。https://www.facebook.com/events/285577238291599/

五島ZINE

本日8月5日14:00より日本青年館大ホールにて、『第16回全国こども民族芸能大会』が開催され、五島市富江小学校の生徒6人が九州・沖縄ブロックの代表として「狩立オネオンデ」を披露しました。

「チャンココ」とも、「オーモンデ」とも歌もリズムも違うのですが、五島人にとっては聞き覚えのある懐かしいリズムと音。

「狩立のオネオンデ」は寛文2年(1662年)富江初代藩主五島清盛公が農民を励ますために豊年踊りとして奨励したのが始まりで、いつしか念仏踊りとなり、明治、大正時代までは藩主の墓前や神社、仏閣に奉納していたそうです。現在はお盆に五島市役所富江支所前から各寺を巡回し、初盆の墓前で踊ります。お盆に帰省なさるかたは、ぜひ富江のオネオンデも見にでかけてみるのはいかがでしょう?

懐かしい響きの歌声と鉦は稲田孝二さんと田中悟さん。

ピカピカのステージで滑りそうになりながらも、見事なバチさばきと踊りを披露してくれたみじょかこどんたちは、

富江小学校6年生の浜上君、浜口君、大河内君、3年の平野君、古本君、田中君の6人で、昨夜はスカイツリーに行き350mの展望台まで登ったそうです。通常数時間待ちのスカイツリー展望台に、なんと5分待ちで乗れたそう。夜は11時過ぎまで大興奮で寝むれず、今朝は起きれなかったそうですが、とてもかっこ良く踊ってくれました。

全国47都道府県の教育委員会から推薦された43団体のなかから舞台に立てるのは5団体という難関。日本青年館は来年立て替えのため、この大ホールの舞台に立てるのはこれが最後という節目の大会でした。

応援に駆けつけてくれた粋な社長にアイスクリームの差し入れをいただき、今日は東京の夜を満喫してから帰島するそうです。寝坊して、飛行機に乗り遅れんでね〜。

https://blog.canpan.info/jfpaa/archive/214 【「第16回 全国こども民俗芸能大会」ぴかぴか(新しい)(8月5日(火)@日本青年館大ホール)■出演団体感想文2【九州・沖縄ブロック】】より

長崎県五島市 「狩立オネオンデ」狩立オネオンデ保存会

顔1古本達己(小学校3年生)「踊」

 ぼくは、東京であるこどもげいのう大会にでるために東京へいきました。そして、ついてからじかんがあったので、とうきょうスカイツリーをみにいきました。すごく、おおきくて、きれいでした。とうきょうのスカイツリーの、水ぞっかんにいきました。ペンギンがかわいかったです。

 大会の日には、まちじかんがながくて、たいへんでしたが、ほんばんでは、すべりそうでしたが、まちがえないでおどれました。ぼくたちいがいにも、いろんなだしものがありましたが、たいこの人がはくりょくがあって、すごかったです。

 またみたいです。とうきょうにいくのもちゅうじえんになりかけてたいへんだったけど、とてもよいおもいでになりました。またいきたいです。

演技の前に芸能の紹介を致しました。

顔1平野颯太(小学校3年生)「踊」

 ぼくは、8月5日にげいのう大会に出ました。会場は、思ったより、広かったです。人がいっぱいいてきんちょうしました。まちがえたところもありました。でもがんばりました。ほかのも見てすごかったです。とくに神楽の人たちがすごかったです。動きが大きくてすごかったです。田宮ばやしもすごかったです。いろんなたいこのきょくがすごかったです。もうちょっとがんばりたいです。

顔1田中開渡(小学校3年生)「踊」

 東京の大会にいってオネオンデをおどりました。さいしょに練習をしました。まずさいしょに、ちがう人たちがおどりました。その次にオネオンデをおどりました。それからきがえました。

ちょっときんちょうしたけど東京にいけてよかったし、まちがえないでおどれたのでうれしかったです。

 それで次の日にでんしゃにのってひこうきのえきまでいきました。そこでナガサキ2時間ぐらいでつきました。それからふねにのっておおはとにつきました。それでふくえでちょっとあそびました。

 たのしかったし東京ドームシティーにもいったからたのしかったです。あとたいふうがくるのがしんぱいをしたけどだいじょうぶだったからよかったです。

 これからもオネオンデをがんばりたいと思います。

顔1浜上泰人(小学校6年生)「踊」

 ぼくは東京の日本青年館にオネオンデをおどりに行きました。日本青年館でおどった時はきんちょうしたけどみんなの前でまちがえずにおどれたのでよかったです。

 東京スカイツリーと東京ドームシティにも行って東京スカイツリーでは35メートルまでのぼりました。スカイツリーの中はおみやげを買う所がいっぱいありました。東京ドームシティではその日ジェットコースターが運休だったのでちがうものにのったりして楽しかったです。あとバッティングセンターとローラースケート場にも行きました。バッティングセンターでははやい球がとんできたけどうちかえすことができました。ローラースケート場ではさいしょはのれなかったけど最後にのれるようになったのでうれしかったです。東京では電車にたくさんのってきつくてねむかったけどいろいろな場所にいけたので楽しかったです。

オープニングで出演記念の盾を手に今日の意気込みを語る

顔1浜口正徳(小学校6年生)「踊」

 ぼくは8月3日にまず長崎に行きました。8月4日にジェットフォイルがでるとは、保しょうができないと言われたからです。でも、そのおかげで、ゆめサイトに行けました。

 次の日に、空港に行き飛行機で東京に行きました。その日に東京スカイツリーに行きました。ガラス床があったのでその上にのりました。少しこわかったです。

 その次の日は、オネオンデの本番でした。リハーサルの時はきんちょうしてなかったけど順番がまわってきたらきんちょうしてきました。だけどだんだんなれてきました。

 オネオンデが終わった後東京ドームシティに行きました。ワンダードロップというウォータースライダーが一番楽しかったです。

 次の日は、飛行機とバスとジェットフォイルに乗って五島に帰ってきました。東京はとても楽しかったです。また行きたいです。

顔1大河内 柾翔(小学校6年生)「踊」

 ぼくは、オネオンデで、初めて東京に行きました。東京は長崎に比べ、人が多く、大きなビルがたくさんありました。それに、駅や空港がとても広くて、迷子になりそうでした。

 東京の日本青年館のホテルはトイレやお風呂がきれいでした。部屋も広くてきれいだったのでぐっすりねることができました。

 日本青年館の大ホールは、五島の福江文化会館と同じくらいの広さでした。予想していたよりも、たくさん人が来ていたので、びっくりしました。踊る時、きんちょうしてまちがえそうになりました。でもまちがえなくて安心しました。

 東京スカイツリーにも行って、高くて、こわかったです。東京ドームシティにも行っていろんなアトラクションや、バッティングセンターなどに行くことができて五島には、ないのでうれしかったです。

 東京行って、東京の人にオネオンデを知ってもらったと思います。とてもいい経験ができてうれしかったです。ありがとうございました。


http://shinkoukou.blog.fc2.com/blog-entry-423.html 【富江陣屋~五島・福江島の城を巡る~ 】より

こんにちは!

今日から3連休で、そのあとお盆休みと続きます。せっかくの連休ですが、コロナ感染者も右肩上がり、しかも明日・お盆休みの天気は雨の予報。仕方ないですね。

富江陣屋は1662年(寛文2)に五島藩より三千石で分知立藩した富江藩初代藩主・五島盛清により築かれました。

盛清は福江藩二代五島盛利の三男で、兄盛次が三代藩主として盛利の跡を継ぐものの明暦元年江戸で急死。盛次の嫡子・万吉(後の盛勝)はまだ11歳と幼かったため、盛清を後見役とし、五島家を存続させることとなりました。

盛勝の元服後、後見役を解かれた盛清は旗本になる運動を展開し、富江を城下として青方、魚目、北魚目、宇久島の一部、神浦、飯良、椛島、福江島の黒島を領有する富江藩を立藩しました。

七代盛貫は徳川家の一門・津山家出身で十四代将軍・徳川家茂の侍役をつとめました。

また、奥州植田の出身であった八代盛明は、既に徳川の世も終わろうとしていた1868年(慶応4)に京都へ赴き、本領安堵の御朱印を貰ったものの、その後朝廷での審議により富江領3000石を五島藩に合藩することとなりました。

この合藩に端を発し、五島一体を巻き込む富江騒動が起こり、この騒動の収拾のために井上馨が五島に渡ったようです。しかし、復領嘆願むなしく五島盛清以来、八代続いた富江藩は廃藩となります。

富江陣屋は現在の富江中学校の隣にある運動場の辺りに築かれていました。運動場になっているため遺構は無くなっているものの、陣屋北東に残されている石蔵が見どころです。陣屋付近には石積など城下町の名残も残されています。

①富江陣屋は現在富江中学校の北、道を挟んだ隣の運動場に造られていました。校門の脇に説明板があります。

②説明板

※クリックすると拡大します。

③陣屋があった運動場。さすがに運動場では遺構は残ってないでしょう。

④陣屋の北東に米などの保管する石蔵が残されています。石蔵の東側から入ります。

⑤石蔵への道には石塀が残されています。

⑥左側に石蔵が見えてきますが、手前にも石塀が残されています。本来はもっと高さがあったのだと思いますが、邪魔なので壊されてしまったのでしょうか。

⑦石蔵の北隅

⑧北東の壁。ほぼ隙間の無い切込み接ぎですね。

⑨窓が付いています。

⑩南西側に戸が2つあります。

⑪説明板。米の貯蔵庫だったようです。※クリックすると拡大します。

⑫内部の様子。北西側

⑬続いて南東側

⑭出入口

⑮南側からの撮影

⑯陣屋周辺にも往時の雰囲気を残す遺構が所々残されています。陣屋の南東、現在富江小学校や武道館があるあたりにも石塀が残されています。

⑰説明板※クリックすると拡大します。

⑱説明板によるとこのあたりは大手門があったようです。今ではその面影はありません。

⑲大手門前の通り一直線になっており、今でも区画化されていることから家臣の居住区だったのでしょうか。


https://www.komenet.jp/bunkatorekishi/bunkatorekishi02/bunkatorekishi02_6 【2-6 祭りや行事は米づくりが起源】より

2-6 祭りや行事は米づくりが起源

 米は霊的な力をもつと考えられていました。古代の宮廷では、皇太子の天皇即位式にイネの初穂を 神に供え、その霊力により天皇の霊魂の再生と復活を祈願する国家的な大嘗祭(だいじょうさい)の儀式も行われました。米の霊的な力は、あらゆる悪霊を追い 払えると考えられ、そうした観念は神仏の前で米をまいたり、出産の際に女性がこもる産屋に米をまいて清めたりする習慣として今日まで残っています。同様に、餅や節分の豆まきも悪霊ばらいの意味があると思われます。米は神聖であり、特別に霊的な力を持つという信仰が古代からあったのです。

大嘗祭(だいじょうさい)

 毎年、宮中でおこなわれる新嘗祭(にいなめさい)のうち、とくに天皇が即位して以降最初のものをいいます。大嘗祭は、即位の時期が7月前ならば年内に、8月以後ならば翌年におこなわれ、その年にとれた新しい穀物の初穂を皇祖や神がみに供え、天皇御自身も召しあがる共食の祭儀です。

稲作にかかわる祭りとさまざまな儀礼的営み

 干ばつや冷害、秋の台風、異常気象による害虫の大発生といった自然の脅威が、現在に至るまでイネの収穫に重大な影響をおよぼすことはよく知られています。

 こうした収穫の不安定さや自然の脅威をやわらげ、一方では豊作を祈願するために、古くから稲 作にかかわるさまざまな儀礼的な営みや祭りがおこなわれてきました。そのなかで最も中心的な役割を果たしていたのが、田の神やイネの霊にたいする信仰で す。すでに古代から稲霊(いなだま)あるいは穀神に関する信仰があり、イネに宿った精霊は米倉で年をとり人びとのもとを来訪します。この稲霊が人びとの先 祖霊だと考えられていました。稲作の豊饒をもたらす神はふつう田の神として一般に知られ、えびすや大黒とみなす地域もありました。

 水稲耕作は、播種、苗代作り、田植え、除草、虫除け、収穫といった一連の農作業サイク ルからなっており、各々の過程ごとに応じた儀礼や祭りがおこなわれました。たとえば小正月(1月15日)、豊作を占う東北地方の田植踊り(特に青森県、八 戸のえんぶりは有名)、田植えのさいの田植歌(広島の囃子田)、収穫のさいの初穂を供えて豊作を田の神に感謝する収穫祭(全国各地の秋祭り)などです。こ のうち、田植えの時のおはやしや歌が芸能となったのが田楽(でんがく)で、古代から中世にかけては芸能集団として活躍する人びともいました。

 米をお茶碗1杯分つくるのに、水が容量でその3000倍も必要であることからもわかるように、米づくりにとって水を十分に供給することは死活問題でした。そのため、水不足を解消するための雨乞い儀礼が全国各地でおこなわれました。日でりをもたらした悪霊を追放するための念仏踊り、太鼓やカネを鳴らし雷を呼ぶ雨乞い踊りも広くおこなわれ、なかには芸能化したものもあります。また、病虫害をなくすため、虫の霊をワラ人形にうつし、焼いたり川に捨てたりする虫送りの祭りも夏の夜におこなわれました。

 小正月は、稲作儀礼が年中行事化したなかで最も重要なもののひとつです。お粥でその年の豊作を占ったり(かゆうら)、粥をかきまぜた棒を田の神として保存し、苗代にお守りとして使ったり、田植えのまねをすることもありました。このほか、現在でも全国各地でイネの豊作祈願と関連した祭りや民謡、踊りがいろいろおこなわれています。

図2-4 小正月につくられた削り掛け

 こうした稲作の儀礼や祭りは、一般の農民だけに伝承されたものではなく、宮廷や国家の儀礼と も深く結びついていました。すでに述べたように、天皇は天からもたらされたイネの収穫を祝う新嘗祭(にいなめさい)を毎年おこないました。皇太子が天皇に 即位する大嘗祭(だいじょうさい)は、イネの初穂を神に供えそれを共食することにより天からイネがもたらされたとする神話を、この祭式のなかで実践したも のです。

新嘗祭(にいなめさい)

 宮中では古くから11月の下旬の卯(う)の日に、その年とれた穀物を皇室の先祖や神がみに供するための祭りがおこなわれてきました。その年にとれた米や粟のご飯とお粥、白酒、黒酒が神饌として供えられ、そのあとにはなおらいの儀式があり、天皇は神がみとの共食をおこなったのです。新嘗の儀礼は宮中だけでなく、伊勢神宮や出雲大社をはじめとした全国各地の神社においてもおこなわれ、一方、民間では田の神が山に入る日としておこなわれた秋祭り、石川県の「あえのこと神事」にみられるような各地独特の祭りとして残っています。

 また、8世紀にはすでに宮中において、豊作を祈願する目的で相撲が奉納されました。相撲では大地をふむ動作がおこなわれますが、これは害虫や病気などの厄を追い払うとか豊作をもたらす田の神力が田から消えないようにする意味があったと考えられています。

 人びとが神に豊饌を祈ったのは、なにも米に限ったことではありません。すなわちアワ、ヒエ、ムギ、マメなどの穀類にイネを加えた「五穀」が人びとの生活 に重要だったのです。これは、イネだけでなくヒエとかアワなどの作物の起源が、古代神話や全国各地に残っているいい伝えのなかで語られていることからも明 らかです。たとえば、イネやその他の作物が、人間社会あるいは日本にもたらされるきっかけとして、天から地上にもたれされるとか、神さまの死体から作物が 発生したとか、弘法大師とかお稲荷さんが大陸からイネを盗んできたとかいったようにです。作物が天界、死体、あるいは盗みによってもたらされるというモ チーフの起源神話(あるいは説話)は、とくに日本だけではなく中国の南部や東南アジアにも広く残っています。このことは、イネが日本にとってもともと外来 のものであることを示しています。

 米が重要な食料であったことは、米をついて作る餅が神や精霊の宿る神聖な食べものと考えら れ、正月とか節句、誕生、結婚式といった特別の日には、かならずといっていいほど用いられる習慣からして明らかです。正月に祝う年神(としがみ)も田と神 と関係がありますし、いわゆるお年玉ももとは年神が配るモチをさしました。ただし、米のモチではなくイモやソバ、アワなどの畑作物を正月用の供物とすると ころもあり、米と稲作だけで日本のあらゆる祭りや行事を説明できるわけではありません。

 米にコウジを使って醸造した酒は、すでに3世紀の頃から、古代の神事や季節ごとの祭りのなかで集団的に飲まれていました。村でも、祭りの時などはかなら ず酒宴が催され、集団で飲まれる酒は神との交流をはかるための飲み物として考えられていました。米は酒のほか甘酒、酒粕をつくる材料としても重要でした。


https://ameblo.jp/miiraku-gotou/entry-12531434977.html 【パートⅡ】より 曼珠沙華

稲作の田んぼにサヨナラして、下に~下に彼岸花、何でかしら今年は多いような気がすっばい

とくとご覧あれ耕作してた田んぼも今では荒れ放題 イノシシは食料にしないのでヒガンバナだらけ (⦿Д⦿)💦 見た目はいいけど自然界のバランスとしては?

やっと視界が広がってる場所へ到着 ε-(´∀`*)ホッ 市の中心部・戦艦大和の造船所・製鋼所・倉橋島です 人家まえで赤白混合^^ 狭い~生活道路を通過

 びっしゃ咲いてるよっかっオッはこげぇなんが好いちょっとです ♡

振り返れば呉の象徴、灰ヶ峰  あ!痛てぇー 急に左足膝が、どがんしたっやろか(;´Д`)

バスやタクシー道路までまだまだ遠かとに 新しかストレッチ靴にしたせいかいの

足を引きずりながらゆっくりと1・2・3 👣やれんばい

https://organic.co.jp/?p=6226 【五島の田植えの時期】より

五島・福江島では、4月中旬と6月中旬に田植えをします。それぞれ早期と普通期で、早期はコシヒカリ、普通期は、ヒノヒカリ、ニコマルという品種を主に五島では作っています。我が家の田植えが遅いのは、食用米ではなくWCS用稲といって牛が食べる餌として作っているため、時期は少々遅れても大丈夫だからです。稲穂が出ないうちに青い草の状態で刈り取りし、梱包して発酵させ、牛の口に入ります。農薬は使いません。もともとお米をたくさん作っていましたが、国の減反政策で、牧草、大豆、麦などお米以外のものを生産することを推奨しているからです。

苗は、農協から買います。以前は我が家のハウスで育苗していましたのですが、面積が増えた為、難しくなりました。約1ヵ月種から育った苗を軽トラで田んぼまでせっせと運びます。田植え機はけん引のトレーラーに載せて移動します。田植え機を載せたり降ろしたりする作業は主人しかできないのですが、いつ見てもタイヤがすべったりして落ちないかヒヤヒヤします。本人は慣れているので平気だそうです。

田植えはハイテク!?

田植え機をおろすと苗を補充します。プラスチックの板で箱に入った苗をすくい、田植え機の上にセットし、補充用も前の棚に置きます。我が家は8条の田植え機で、横に8列も苗を入れられます。1度に48枚の苗を積むことができるのでとても楽です。何年か前は6条だったのですが、2往復するたびに苗を積まないいけず、女の人は大変です。苗は結構重いです。今は本当に楽になりました。

田植えと同時に散布する、除草剤も容器に補充します。田植えした後にすぐに生えてくる水草をシャットアウトします。もし、機械がうまく作動していなかったら、除草剤の減りが悪いので、ちゃんと減りが進んでいるかチェックします。スライドになっていて、田植えの動きに合わせ、まんべんなく散布してくれる優れものです。これもよくできている仕組みです。

いよいよ田植え!子どもたちも田植え機の運転に挑戦しました!まっすぐ植えるのは難しく、性格が出るのか、センスなのか、意外と娘のほうがとても上手に植えることができ、息子は強制退去させられました(笑)田植え機の凄いところは、進みながら、横ではマーカーで田んぼにラインをひき、次にターンする時はそのラインを中心にして田植えをすれば良いということです。田植え機の先端中心部には棒がついており、その棒とラインを重ねて見るようにして、ハンドルを握ります。結構、集中力がいるかもしれませんが、慣れたら楽しいのです。

ターンは難しい?

ターンで時間をとられるので、面積の小さい、いびつな形の田んぼより、面積の広いまっすぐな長方形の田んぼの方がスムーズにできます。真ん中を直線に田植えした後に、最後ぐるっと一周周りを田植えして最後に田んぼの出口にちょうど来るように計算しないといけません。一度田植えしたところの上にタイヤを走らせると2度手間になります。タイヤの後は土がもりあがってしまいます。水より上に土が出ると、雑草が生える原因になります。なのでT字の道具で土を平たんにならします。正式名称はわからないのですが、五島弁で「えぶっ」って言っています(笑)「整地して」って頼む時、「えぶっでつけ」とよく言います。亡き義父が私のことを「えぶっでつくのがじょしか(上手)ね~」とほめてくれたのを思い出します。その血を息子が受け継いでおります。運転の未熟さをここで挽回していました(笑)

田んぼで食べるおにぎりの味

子どもたちが手伝ってくれたおかげで今日のノルマ5か所の田植えが終わりました。最後に田んぼで食べるおにぎりの味は格別です。子供たちは、学校でもお米作りをしていて、田植えも稲刈りも全部手作業なので、機械と手作業どちらも知っており、他の子たちよりもいい経験をしています。手作業を知っているからこそ、機械の便利さに頭が下がります。もし、田植え体験したい方はご連絡お待ちしています。田植えが大変、きついというイメージが変わりますよ。今年は、まだ涼しいのではかどりますが、6月の田植えは暑いので熱中症対策をしながら頑張って田植えしたいと思います。