2024年6月9日 礼拝
「地の塩、世の光」マタイ福音書5章13~16節
今日の聖書には「地の塩」という言葉があります。私が子どものときは、塩といえば日本専売公社の塩で、20円くらいでした。きょうの聖書の塩はそういう工場で作った塩と違って、イスラエルの死海という湖にごろごろ転がっている塩です。
塩と言っても塩分は1割もなくて、ほとんどがマグネシウムとかカルシウムとかのミネラルで、お風呂に入れると肌がすべすべして、新約聖書の昔から料理はもちろん、肌に塗ったり傷に塗ったり、いろんなことに役に立ちました。
同じように、あなたがたも私の弟子なのだから、世の中の役に立つようになさい。「あなたがたは地の塩である。塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(本日の聖書より)。
イスラエルの死海にころがっている塩を拾うと、塩分よりもマグネシウムやカルシウムがほとんどなので、たいしてしょっぱくありません。なかにはすっかり塩分が抜けているのもあります。塩は塩辛くなければ役に立たないように、クリスチャンはクリスチャンにふさわしく生きなければいけませんよと、イエスさまはおっしゃいます。
この聖書の言葉を聞いたクリスチャンたちは、塩が命をつなぐように、病院や学校を建ててきました。あるいは、塩が食べ物を腐らせないのと同じように腐った政治や文化に物申す、これも教会の役割でした。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(今日の聖書より)。
いかがでしょうか。「私には、とてもそんなことできない」というのが、本音ではないでしょうか。ところが、聖書で大切なのはほかでもない、できないということを自分でちゃんと承知していることです。神さまから離れている自分を認めて、そういうダメな自分を受け入れてはじめて、イエスさまに招かれます。自分を偉いと思っている人は、決して招かれません。
心理学には、こんな言葉があります。「自分自身との出会いは、自分の『影』との出会いとして経験される」。つまり、本当の自分に出会うためには、自分の影の部分をちゃんと見つめなくてはいけない。どうやら私の中には二人の私がいるらしく、一人は光のような自分ですから、そこは自慢できるし、人にも大いに見せたい光の部分です。でも、人には見せられない闇のような私もいます。その闇のような自分もちゃんと認めない限り、本当の私には出会えません。イエスさまの弟子になりたいなら、光の自分も闇の自分も全部引っくるめて私だということを、イエスさまの前でちゃんと言えなくてはなりません。
キリストの十字架の場面を思い出していただきたいのですが、キリストの隣の十字架には二人の罪びとがいて、こう言いました。「イエスよ、あなたがあなたの国に行く時には、わたしを思い出してください」。イエスさまは、十字架の上でお答えになりました。「あなたは今日、わたしと一緒に、私の国に入って行く」。
私たちの心の中でイエスさまの光が輝いていたとしても、すぐ隣りには罪人の自分がいます。光の自分も闇の自分も一緒に十字架にかけられていて、どちらもイエスさまと一緒に天に昇っていきます。
茶道の茶碗はどんなに大切に扱っても、手がすべって割れることがあります。でも、大事な茶碗は割れても捨てません。どうするかというと、割れた破片をつなぎます。金継ぎという技法がありまして、割れた茶碗をウルシでつないでその上に金粉をまぶすと、たいへん風情のある茶碗に生まれ変わります。金粉を使わずに黒いウルシでつないだだけのお茶碗もあって、中でも「筒井筒」という茶碗は国の重要文化財になっています。
筒井筒は500年前に朝鮮で作られた茶碗で、かつて千利休や豊臣秀吉が使った名作です。ある日、秀吉が殿様たちを招いて茶会を開き、筒井筒の茶碗を使いました。ところが、こともあろうに付き人の少年がそれを割ってしまった。今のお金にして何億円も出して買ったお気に入りの筒井筒を割られたものですから、秀吉は少年を手打ちにして殺そうとしました。
そのとき、招かれた殿様の一人がこのような歌を読みました。
筒井筒 五つに割れし 井戸茶碗
罪をば 我に負わせたまえや
「筒井筒」と呼ばれる井戸茶碗が割れて、無惨にも五つの破片になった。秀吉さま、確かに割ったのはこの少年ではあるけれども、どうかその罪をこの私に背負わせてくださいという歌です。 「不足の美」と言いまして、お茶の世界では欠けているもの不足しているものを尊んで、お茶碗の景色と致します。わび、さびの世界です。
私たちも同じではないでしょうか。イエスさまは、私たちの欠けを、ウルシ職人のようにくっつけてくださいます。茶道のわび、さびの「不足の美」ように、欠けがあればこそイエスさまの手が入って、風情がある人に生まれ変わります。「わたしが来たのは、正しい人を、招くためではなく、罪人を招くためである」。
イエスさまは、「あなたは、神さまに愛されている」と、おっしゃって下さいます。私たちの欠けを呪いの闇の底から引き上げて、祝福の光のもとにおいてくださいます。闇の自分が、いつのまにかイエスさまの光に照らされます。光の部分も闇の部分も、全部ひっくるめて偽りのない自分です。偽りのない鏡がイエスさまの光を反射すれば、私たち自身が輝いて見えます。その光で周りを照らす。
決して自分を暗いところに置かない。「また、ともし火をともして升の下に置く者はいない」(今日の聖書より)。自分を、「升の下」に置いてはいけません。自分の闇を、呪いのもとに置いてはいけません。闇のような自分も神さまに愛されている自分の一部であって、イエスさまの手で「金継ぎ」をしてくださったのですから、そういう自分も神さまの祝福のもとに置く。塩がけがれを清めるように、イエスさまの光は私たちの闇を清めます。
体の痛みも心の痛みも、すべて神さまの祝福のもとに置きましょう。すべてをイエスさまに委ねましょう。